第八十六回 矢田主馬は身分や家格を重んず
この夏に、蔭澤夏之丞に対して刀を抜いた廉で、入牢していた矢田主馬は、秋に入って放免された。
矢野主馬の父親は蔭澤夏之丞の父親の上役である。
夏之丞は、主馬放免の祝いの席に呼ばれた。
主馬とのいざこざがあった後、夏之丞は阿修羅丸一家の小頭である間津田の連九郎を捕らえる手柄を立てた。
評判のあがった夏之丞と主馬が不仲であると人々から言われるのは、主馬の再出発にとってよくない。
矢野田家の側には、そんな計算があった。
* *
酒席で酔っぱらった主馬は口走る。
「勘解由さまも萬吉さまも、早く、長政さまのご遺言どおり、早く秋月や鞍手にご自身の国をお持ちになられたらよいのだ」
今の藩の政治状況を考えれば、すこぶる危険な発言。
主馬という男は軽率なところがある。
夏之丞は注意する。
「いや、主馬さま、壁に耳あり障子に目ありと申しますぞ。おのれの身を危うくするようなご発言はお控えなさった方がよろしいか、と」
かまうものか、と主馬は言う。
「秋月や鞍手に勘解由さまと萬吉さまの国ができれば、その相手をするためのお役目が増えようぞ」
「何を考えておられるのかと思えば」
少し夏之丞は呆れた。
大組の家に生まれた主馬からすれば、お役目の配分に目を向けるのは当然である。
はあ、と主馬は溜め息をつく。
「家格で、俺も長政さまの近習から選抜されて黒母衣衆にどうにか潜り込めたが、忠之さまの代になると勝手が違う。
忠之さまは、家格などよりも、すぐに役に立つかとうかをとうかばかりをおっしゃられる。倉八長之助のような賤しい無足組の出の者を重用なさる、
黒母衣衆も新たに組みなおされるそうだ。
それで、あの夜には、俺も、帯刀も、源左衛門も苛ついて酒を飲んでしまったよ。
ああ、本当に源左衛門は可哀そうなことになった。あいつも短気を起こしてしまった。城からの使者に斬りかかったのなら、その場で斬られてもやむなし」
友人の死に号泣。
あの夜の主馬たちの乱行にもそれなりの背景があったらしい。
「そうですか」
家柄を言うのならば、夏之丞も無足組である。
四百石の知行の鉄砲頭の倉八家が賤しいと言うのならば、二十石の切扶持の蔭澤家など主馬の感覚からすれば話にならないだろう。
あれは、と主馬は言った。
「運が悪かった。
あの夜に俺たちのことを止めに入った白縫さまが従五位下の貴族のお孫さまということで、俺は処罰された。そいつは俺も納得するよ。家格は本当に大切だ」
「はい」
「最近に鷲羽屋の老夫婦を斬り殺し、仇討ちと言い張って、百両を褒賞に頂いた安川三之丞のことを思うてみよ。
ほしい掛け軸が鷲羽屋にあるけれども家の者に反対されて買い損ねたというだけで、安川太兵衛がいきなり切腹。
城の中で安川家のお取り潰しの話が持ち上がり、あわてて三之丞と半助が鷲羽屋の夫婦を斬り殺して仇討ちの形つくった」
「きっと鷲羽屋の夫婦からすれば、思いもよらぬことだったでしょう」
「上の者の身分を守るために下の者たちが上の者の都合に合わせるのは普通のことよ。そうしなければ、泰平の世は保たれない。
だから、泰平の世においては、まず、何よりも先に身分を手に入れなければならん。いかなる手を尽くしてもな」
「いかなる手を尽くしても」
「暗い手で上の者を蹴落としても、その結果として、自分が守られるべき上の者になれば、下の者は何も言わない」
「おっしゃるとおり」
夏之丞はみじめな思いを感じた。
上下関係を重んじる社会は、下の者を無条件にモノのように扱ってもよいとする怪物を次から次へと生み出していく可能性がある。
そういう怪物たちの徘徊する社会の闇が広がれば、戦後平和主義よりも軍国主義の方がまだましだという感覚が生じることは別におかしくはない。




