第八回 栗山卜庵は身分に傲らず諸人の声を聴く
年が明けて、年号も変わって、寛永元年の春。
筑前に戻った蔭澤夏之丞は、福岡藩の元筆頭家老である栗山卜庵の隠居屋敷に呼ばれた。
栗山家は一万八千三百石の大身の筆頭家老の家柄。
「よく来たの」
卜庵老人は若い頃に、主君の黒田孝高(黒田官兵衛)が甲賀五十三家の和田伊賀守惟政と親交があった関係から、その命令を受けて甲賀の里で忍者としての修行を積んでいた。
忍者の心得なのか、卜庵は情報に貪欲であった。身分の低い者からも話を色々と聞きだすべく、誰に対しても腰が低かった。
「隠居した年寄りの暇つぶしに若い者の京の土産話を聞かせてくれぬか」
黒田家の藩士の身分が与えられる前の蔭澤家は、栗山家の家来の身分であった。
それゆえ、卜庵老人からすれば、夏之丞はかつての家来の息子である。
呼びつけやすい。
京の都から筑前に戻った夏之丞が卜庵老人の屋敷に呼ばれるまで、半年近くの時間が経過している。
最大の理由は、京における黒田長政の病没だ。
幕府への報告や相続問題など福岡藩の側でやるべきことは多かった。
相続問題のゴタゴタは寛永三年まで続く。
隠居したとはいえ、卜庵老人は、多くの人々から相談を求められて忙しかったのである。
ようやく卜庵老人にも時間の余裕ができた頃に、夏之丞は呼び出された。
* *
「ふむ、青柳春之助。そのような縁者が倉八長之助におるのか?」
夏之丞たちの京都の案内人をつとめた青柳春之助が藩士の倉八長之助の縁者ということから、倉八長之助のことが話題になった。
卜庵老人は問う。
「お前は長之助のことをどう思うかね?」
夏之丞は答えた。
「詳しく存じ上げませんが、伝え聞く話によると、怜悧な方、と」
「怜悧か」
一瞬だけ何かを考えこむ表情を卜庵老人は見せた。
口を開いた
「長之助はわしの目から見ても怜悧。
とはいえ、使うには気をつけねばならないことがある。あれは怜悧すぎて嘘やまやかしをすぐ見破る。だから、嘘やまやかしによる幻の怖さに鈍かろう。
それゆえ、ありもしない幻に狂った愚か者たちが跳ねあがろうとする兆しを長之助の奴は見落としそうじゃ」
「ありもしない幻」
夏之丞も若い。
卜庵老人の懸念がわからない。
「多くの者たちが見る、ありもしない幻は、嘘やまやかしでも馬鹿にできぬもの。
皆の者の心が大きく動くその機を他人よりも先に感じとることが戦争いくさにも政事にも肝要じゃ。
長之助の奴は、まだ青いわ。小賢しい。
こいつはいかん。
若い者の棚卸しをするようでは。
年寄りの僻みと言われてしまう。
いや、わしも長之助のことを認めておるから、足りないところが気にかかる。
あいつも年齢を食えば、おいおい学ぶ。今は足りないところ周囲の大人たちで埋めてやることじゃ」
胸にチクリと痛むものを夏之丞は感じた。
かつて栗山善助、黒田八虎の栗山備後守利安の名で呼ばれていた頃、卜庵老人は、武者としても忍者としても武将としても大功をあげた。
福岡藩の筆頭家老を長くつとめた国家の重鎮。
そんな卜庵老人は、夏之丞のことを【昔の家来の子ども】としか見ないが、長之助のことを【論じるに足る男】として批判する。
同世代の若者たちにとって、倉八長之助の登用は「身分を超えた高望みするべからず」という諦念を揺るがす驚天動地の彗星の出現であった。
青柳春之助の鬱屈が夏之丞も少しわかったような気がした。
ところで、と卜庵老人は話を変えた。
「先ほどにお前の話に出てきた花形の明鏡。思い出した。その鏡の名前を近ごろに聞いたおぼえがあるぞ」
甲賀五十三家の和田氏が織田信長に滅ぼされたとき、多数の甲賀忍者が卜庵老人を頼った。卜庵老人には彼個人の子飼いと言うべき忍者たちがいる。卜庵老人の下には様々な話が集まっていた。
夏之丞は問う。
「何か、卜庵さまは御存じなのでしょうか?」
いやな、と卜庵老人は語った。
「つい先日に早良で大きな山津波(土石流)があって、多くの家が土の中に埋もれ、多くの者が亡くなったじゃろう? 新しい船を増やすため、金山の木を多く伐りすぎて地面が緩んだ。
何をするにしても、年功を重ねた者たちの意見を聞くべし。ろくに見通しも立てられないのに、勢いにまかせて動いてしまうのは、忠之さまの若さ・・・
それさておき、昨年には、木こりたちが金山の木を伐ろうとしたら、大きな化け猫が暴れて邪魔をしていたそうよ。その化け猫を、京から流れてきた陰陽師が鏡を使って退治したらしい。確か、その鏡の名前も、花形の明鏡」
夏之丞は驚愕した。
「京から流れてきた陰陽師? その名は大屯岩太牢ですか?」
「名は聞いておらぬ」
「なれども、ひょっとしたら」
もしや、定村種春を殺してその鏡を奪った陰陽師・大屯岩太牢も筑前に来ているのではあるまいか。
岩太牢を討ち果たして花形の明鏡を取り返すことができれば、夏之丞がまた風見に会うための堂々の理由が生まれるだろう。
従五位下の官職者である定村の血筋を引く風見。
古の都を照らす儚い月光が気まぐれで人の姿の形を結んだかのような美姫。
┅┅もう一度、風見さまとお会いしたい。
その願いは夏之丞の心に静かに深く根を張っていた。