第七十五回 音頭ヶ瀬戸の浪五郎は浜辺の警護を偵察す
根津甚八の配下には、元は紀州海賊だったものが多くいた。
その中でも博多で名前が人々から噂されるようになった男が一人いる。
音頭ヶ瀬戸の浪五郎。
名人芸の櫂さばきを見せて小舟で夜の荒れた海を漕ぎ渡ることができる。
今回の勘解由の脱出行にあたり、根津甚八からの指名を受け、浪五郎は火平太とともに境川の東の備前領から釣り船を出して偵察に向かった。
* *
当時の洞海湾の入り口の東側にあったのが名古屋岬である。
名古屋岬から筑前と豊前の国境にあたる境川まで 一里ほどの浜辺があった。
この浜辺から船を出せれば、本州に渡るのは難しくない。
細川忠利はこの浜辺に勘解由に来てもらって、十隻以上の船を迎えに出すという提案をしていた。
それを断ったのが堀平右衛門。
┅┅越中守殿(細川忠利)の申し出はかたじけないが、先代(黒田長政)の頃から細川家とは不通であり、兄弟の忠之さまに内証で受けることができない。
二度も細川家から使者がきた。
それが、福岡城に知られた。どういう経路かわからない。
これには、平右衛門も釈明する。
「越中守(細川忠利)はこういうことを言ってきたが、長政さまの頃からの因縁があるから、わしはきっぱり断ってやったわい」
やむをえまい。
おかげで、名古屋岬から境川までの 一里ほどの浜辺には、勘解由の脱国を防ぐべく、常時に井上家の番兵が配置されていた。
* *
このあたりは、仮想敵国である豊前小倉藩との最前線であり、黒田二十四騎の井上之房(道柏老人)の孫である友信の采地であった。
小倉藩との国境に置かれた井上の家の側からすれば、小倉藩と戦争になったときのことを考えると、すぐ背後の鞍手には、後詰めとして、萬吉よりも毛利左近が控えていた方が心強い。
しかし、だ。
━━江戸幕府の一国一城令(一六一五年)に福岡藩も従った時点で、国境で敵軍の侵入を阻止するという一国一城令以前の福岡藩の防衛計画には大幅の見直しが必要ではないのか?━━
そのようなことを想像して口すれば、福岡藩と小倉藩の国境近くで大禄を与えられていた井上家や毛利家や栗山家の存在意義に関わる議論が生まれたであろう。
色々と考えていくと、秋月藩と東蓮寺藩の設置は、うまくいけば福岡藩に相当の利益を与えるものと思われる。
故に、「分国は勘解由・萬吉の可愛さのために長政が精神的な錯乱したことによるもの」という多数説の単純な見解は支持しえない。
寛永の福岡藩の分封問題について、どこまでのことを、道柏老人が、気がついていたのか、考えていたのか、わからない。
とりあえず言えることは、道柏老人も隠居の身ながら、分国反対の立場で、寛永元年の四月における勘解由の独立の阻止のための諫書の差出人の一人として名を連ねている。
* *
境川近くの夜の海上において、浪五郎が少し浜辺に船を近づけようとした。
ドン。
浜辺から井上家の番兵たちが威嚇のために鉄砲を撃ちかけてくる。
警護は厳重。
浪五郎は引き返すしかない。
「こいつは無理だな。あんな数の銃眼の前に出て行けるかよ」
同船していた火平太もうなずいた。
「ああ、無理だ」
浪五郎は目先の問題に考えを引き戻す。
「越中守さま(細川忠利)の御加勢を拒まねばならぬとなれば、境川よりも東に行くことはできぬ。洞海湾より東から船を出すということは無理だな」
火平太は問う。
「それならば、洞海湾の西から船を出せるか?」
さあ、と浪五郎は首をひねった。
「どこから船を出すにしても、船を出すとしたら、地元の協力がいるぜ、こいつは」




