第七十一回 毛利左近が後に罰された理由を考察す
寛永の福岡藩の分封問題については、この男のことを語っておかなければならない。
毛利左近。
その父親は、黒田二十四騎の一人である母里太兵衛である。
生涯に七十六の首級をとったという母里太兵衛は、十四歳の時に黒田家に出仕してきた頃から、人並外れて豪勇であった。
当時の黒田家の当主であった黒田官兵衛は、母里太兵衛の将来を見込んで、二十歳ながら冷静さに定評のあった栗山備後と義兄弟になるように誓わせた。
栗山備後のことは母里太兵衛も尊敬し、栗山備後には母里太兵衛も素直によく従った。
しかし、栗山備後も黒田二十四騎の一人となる将器であり、各地で戦わなければならず、母里太兵衛の面倒ばかり見てはいられなかった。
栗山備後が近くにいないと、血の気が多い母里太兵衛は大暴れして、周囲も困り果てる事件もちょくちょく起きた。
母里太兵衛の息子であった毛利左近は大人になると、母里太兵衛が荒れた時の止め役になることを周囲から自然に期待された。
青少年時代の栗山大膳が周囲の大人たちから口先だけの腰抜け小僧と嫌われていた頃、毛利左近は大膳のことをかばっていた。
黒田如水が書き残した『家中間善悪之帖』において、栗山大膳の名は毛利左近にとっては仲良き衆と記載されている。
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福岡城内において左近は大膳と密談する。
大膳は語る。
「まず、勘解由さまの独立を止める。長政さまの御遺言は何から何まで守らねばならないというものではないことを示すのじゃ。
長政さまのご遺言どおり、萬吉さまに四万石を与えるとしても、左近の鞍手の知行地はそのままにしておいて、萬吉さまの足りなくなった分は芦屋や若松の飛び地で補えばよかろう」
原則として、すべての知行地が秋月藩や東蓮寺潘の領内とされる予定の地域にある者は、秋月藩・東蓮寺藩が成立した場合、秋月藩士・東蓮寺藩士になる。
もしも秋月藩・東蓮寺藩が成立しなかった場合には、彼らはみんな福岡藩士の資格を失って陪臣にされてしまう。
この時期の毛利左近の立場は微妙である。
七千石の知行地を東蓮寺藩の領土になる鞍手に有しながら、他に一万石の知行地が大隈にあるため、東蓮寺藩が成立しても毛利左近は福岡藩士として福岡藩に残る。
陪臣にされてしまう危険のある者たちからすれば、自分の鞍手の飛び地の知行地を自分の本拠地の大隈から離れた芦屋や若松に移されないためだけに、毛利左近が秋月藩・東蓮寺藩が成立を阻止しようとしているように見えた。
大膳は言う。
「せっかく戦乱の世が終わって泰平の世になったのだ。今ある色々なことをなるべく変えないことよ」
しかし、と左近は悩む。
「長政さまのご遺言を無視してよいのか?」
大膳は理屈をこねた。
「ご遺言の中で長政さまは国を保つことも望んでおられた。
今この時期に勘解由さまや萬吉さまが、長政さまのご遺言どおり、それぞれの国をお持ちになるとすれば、人心が乱れて国が滅ぶ恐れなしとも言えず。
遺言が二つあり、その言が互いに食い違っているという時には、そのどちらが守るかは、生きている者が決めるべし」
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寛永の福岡藩の分封問題で一番に貧乏クジを引かされたのは毛利左近であった。
一万七千石の家禄が一万石まで減封された。
以前にも述べたように、分封問題の起こりは、家老たちに対する仕事の振りすぎだったように思う。
忠之への代替わりと勘解由と萬吉への分国。
いずれも家老たちに経験のないことである。
一度に両方やって、肝心の忠之への代替わりが失敗するようなことがあっては目もあてられない。
分国は断念するべし。
寛永元年の四月には、忠之の代替わりが済んでいたのだから、それ以降は分国の願い出に努力すればよかったのではないか?
そういう疑問も湧くだろう。
人間は機械ではない。
初めての事業に連続で挑戦しろというのは要求が高すぎる。
子どもたち(勘解由と萬吉)を大人しくさせた方が楽だという大膳たちの発想はわかる。
しかし、勘解由の母親が徳川家康の姪だったり、忠之の奥方が秀忠の徳川秀忠の養女だったりしたため、やってみたら秋月藩と東蓮寺藩は独立できてしまった。
そうなると、藩主の弟君である勘解由少年からの問い合わせを放置し、果てには、勘解由少年がわずか数名の供まわりで丸木舟で夜の海を押し渡るような無茶をする状況に追い込んだことについて、誰かが責任を取らなければならなくなった。
誰が勘解由少年に対する分国を邪魔したのか?
責任を取らされたのが、栗山大膳と毛利左近だったのである。
例の寛永三年の諫諍書の【罪疑惟軽】の項目は、「それほど悪意はありませんでした」という栗山大膳の弁明として読むべきである(罪という言葉を大膳が使って罪があったこと自体を認めているのだ!)。
栗山大膳と毛利左近の罪は、分封問題に絡んでいたものと私は以下のような理由で考える。
一、黒田忠之は黒田長政の死後に素早く秋月藩の知行目録を勘解由に渡し、また、勘解由付きの家老として菅主水を任命している。菅主水の采地は志摩の漁港に近く、志摩から勘解由を脱出させる意図が忠之にあったのではないかと推測される。
一、栗山大膳は寛永元年(一六二三年)に勘解由側に送りつけた諫書にあるように明快な分国反対派である。
一、毛利左近は栗山大膳と友好関係があったことは、黒田如水による『家中間善悪之帖』の記録にある。また、黒田騒動時において毛利左近が栗山大膳とともに兵を起こす可能性を隣藩の細川忠利は予測している。
一、分国によって毛利左近の七千石の鞍手の領土は東蓮寺藩に移ることは当初から予定されていた。
一、毛利左近の知行の召し上げは、代替地が与えられなかったことである(三宅忠兵衛が知行していた若松や芦屋に与えられる予定だったと推測する)。
一、分国反対が黒田忠之の命令であれば、栗山大膳が寛永三年(一六二六年)の諫諍書において、罪の存在を認めて【罪疑惟軽】などと書くはずがない。勘解由の筑前脱出を助けた者たちは処罰されていない。
一、寛永二年(一六二五年)の黒田忠之の帰国後すぐに反大膳派の野口左助が五百石、萬吉付きの家老になる吉田壱岐が二千石の加増をそれぞれ受けている。
一、吉田久太夫『栗山大膳記』によれば、やんちゃな子ども時代の黒田忠之のことを、栗山大膳は「お行儀が悪い」と廃嫡するような黒田長政に訴え、黒田二十四騎の堀平右衛門と吉田壱岐は忠之かばっていた。黒田忠之から信頼を受けていた者たち、堀平右衛門と吉田壱岐は秋月潘と東蓮寺潘の初代の筆頭家老であり、明確な分国賛成派である。
若い頃の黒田忠之が意味不明の行動を繰り返していたと強弁する従来の多数説よりも、最初から黒田忠之が分国賛成派だったと考える方が納得できる。




