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【黒田騒動】新・白縫物語【栗山大膳】  作者: 足音P
第二部 勘解由脱出行
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第六十一回 分封問題についての事実を整理す

 遅まきながら、寛永の福岡藩の分封問題について、事実の経過を整理しておきたい。


 元和九年閏八月四日(一六二三年八月二十九日)に黒田長政が京都の二条城で食道癌で死亡した。

 だいたい三週間後の元和九年閏八月二十三日の日付で忠之は、勘解由の秋月藩の成立を認め、領地と人員を細かく指定する知行高目録を渡している。

 秋月藩側の記録『長興公御代始記』にその全文は収録されている。

 長政の遺骸は領国に運ばれて博多の箱崎松原で荼毘に付された。

 この年の十月に遺言に従って分知されたと、これも秋月藩側の公式記録である『長興公御代之記(始記ではない)』に記されている。

 暮れから、忠之は正式に福岡藩の藩主になるために将軍に朱印状をもらうべく、江戸に出府する。

 そして、翌年の寛永二年の六月になるまで忠之は江戸にいた。

 この期間に寛永の福岡藩の分封問題は起きている。


 おそらく、元和九年の十一月頃に、忠之から書付をもらって京都から筑前に戻ってきた勘解由少年十五歳は、筆頭家老である栗山大膳に、

「父上の遺言もあるし、兄上からの書付に従って分国してくれ」

 とやった。

 これに対して、数え三十三歳の若さの筆頭家老である栗山大膳が、

「知らんぞ」

 と思ったとしても無理はない。

 この点では、栗山大膳に同情したい。

 福岡藩の二代目藩主になった忠之が、将軍から本領安堵の朱印状をもらうという話だけでも面倒なことである。

 代替わりは黒田家にとって初めてであり、先例の記録が黒田家に残されていない。

 いきおい他家の先例について情報収集をしてまわることになる。

 それに加えて、分国を将軍に認めさせるという他家にも先例の乏しい仕事までしろとか言われても、どこから手をつければいいのかわからない。

 

 寛永元年(一六二四年)の四月九日に、井上道柏・栗山卜庵・栗山大膳・小河内蔵允の名前で、

 ━━独立をあきらめてくれ━━

 と勘解由を説得しようとする諌書が送られた。

 その諫書には、寛永元年三月十九日に、勘解由の【昵懇】の者から、

 ━━早く分国してくれないと、将軍に訴えるぞ━━

 と手紙が出されていたことが記されている。

 どうやら、勘解由の【昵懇】の者は、江戸の桜田屋敷の忠之にも苦情の手紙を出していたらしい。

 忠之が国元の家老たちに注意したのではないか?

 寛永元年四月、国元の家老たち(栗山大膳・小河内蔵允・黒田美作)は、

 ━━忠之さまに対して毛頭の逆意はありません。長政さまの遺言どおり、三人で兄弟同然に仕事いたします━━

 という起請文を忠之に差し出している。

 以上の諫書・起請文は栗山大膳を誠忠の士として称揚する記録である『磐井物語』で全文を確認できる。

 忠之からの注意を受けて、あわてて起請文を作成し、前月の十九日に届いていたのに無視していた勘解由サイドからの手紙に栗山大膳たちは諌書で応答した。

 そう考えるのがしっくりくる。


 寛永元年七月の前に、忠之の求めによって、勘解由付きの家老の田代外記が逼塞の措置を取られる。

 この年には、黒田二十四騎の菅武蔵の子供である菅主水が、忠之の命を受け、怡土郡の三千石持参で勘解由付きの家老になっている。


 寛永元年七月に勘解由は秋月に入った(正月から家臣は秋月に移っていった)。

 それから筆頭家老の栗山大膳によって、秋月の勘解由は出国を禁じられ、監視下に置かれた。

 黒崎の『三艘船由来記録候事』によれば、寛永元年の暮れに、満十五歳の勘解由少年が、わずか四名の供を連れて、洞海湾から下関まで夜の海を丸木舟で漕ぎ渡った。

 下関で十二名の供と合流し、勘解由は忠之のいる江戸の桜田屋敷に駆け込んだ。

 寛永三年(一六二六年)の一月二十日、勘解由が将軍に拝謁して秋月藩は成立する。


 福岡に戻った黒田忠之は、栗山大膳と毛利左近の知行を召し上げた。

 これは分封問題にからむ措置であろう。

 講談『栗山大膳』の中には、鳳凰丸事件に絡むものとするものも多いが、『栗山大膳記』において鳳凰丸事件は寛永五年(一六二八年)に起きた事件であることが記されている(なお、『栗山大膳記』は、寛永九年(一六三二年)の黒田騒動時に忠之の小姓であった福岡藩士の吉田久太夫が延宝八年(一六八〇年)に福岡藩の求めに応じて記したものであり、黒田騒動の研究にあたって基礎資料とされる。黒田騒動件の五十年後に書かれたことから吉田久太夫の記憶違いの可能性を疑う声もあるが、『栗山大膳記』の内容は、近年に東京大学史料編纂所がインターネット上に公開している細川忠利の『細川忠利書状』において語られる黒田騒動についての内容とも相当の一致点が見られる)。

 代替わりと分封問題だけで手一杯の寛永元年の福岡藩に、前例のない大きな船をつくっている余裕はあるまい。


 寛永の福岡藩の分封問題の事実経過を私は以上のように把握している。


   *  *


 史料を調べている間に、寛永の福岡藩の分封問題において、大膳は(少なくとも当初は)さしたる悪意を持っていなかったのではないかと思うようになった。

 最初の時点で黒田長政と忠之が家老たちに振った仕事が厳しい。

 藩全体の命運に関係する未経験の新規の仕事が二つ。

 関連資料は一から自分たちで探せという。

 何を考えている?

 嫌な上司である。

 仕事を押しつけられた部下たちからすれば堪ったものではあるまい。

 家老たちは、勘解由少年(後の初代秋月藩主・黒田長興。満ならば十三歳か十四歳)と萬吉坊や(後の初代東蓮寺藩主・黒田高政。満ならば十歳か十一歳)を言いくるめて、単純に自分たちの仕事量を減らしたかっただけではないのか?

 もちろん、命じられた分国の仕事を一切にしないで主家の子どもたちを言いくるめることだけを考えた大膳たちにも非はある。

 しかし、逆意とまで非難したのならば言葉が過ぎる。寛永元年の黒田忠之は満二十三歳、数えで二十一歳、二十二歳。とにかく若い(その軍師役と言うべき倉八長之介は更に年下)。

 下に命じた仕事を自分でやってみることを上が一切に想像していない。

 普段に高禄の報酬を与えているから当然という思考。

 筆者はもやっとする。

 寛永の福岡藩の分封問題において、大膳たちに仕事放棄の非があるとしても、仕事を振った忠之の側にも非があったように思われる。

 実際にやってみれば、勘解由の母親が家康の姪だったり、忠之の妻が秀忠の養女だったりしたおかげで、何とか分国できてしまった。

 それは結果論。

 先例の乏しい新規事業に、やる前から「無理」と心が折れた大膳たちの気持ちはわかる。


 寛永元年七月に勘解由が秋月に入ってから、勘解由の江戸への出国や連絡を防ぐ措置が取られている。

 大膳にも多少の悪意はあったはず。

 ┅┅勘解由さまと萬吉さまが黙ってくれたら困難な仕事が消える。

 そうでなければ、栗山大膳を悪役にして、この講談とも小説ともつかない物語を書き進めている私が困る。

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