第六回 黒田忠之は若き才人を藩政に登用す
元和九年(一六二三年)、福岡藩初代藩主の長政公が病没した。
黒田如水・黒田長政といった歴史に残る英雄である祖父と父の死後、弱冠二十二歳で新藩主となった黒田忠之は、少しでも早く自分の存在を家臣たちに認めさせようと焦った。
その時に引き当ててしまったのが、年下の美貌の近習、倉八長之助(後の倉八十太夫正俊)であった。
忠之は長之助の才能に惚れこみ、彼の進言に従って、博多を平和な時代の経済都市として発展させていく方針を打ち出した。
港湾整備。
造船。
許認可手続の簡便化。
家柄に拘らない実務能力の高い者の登用。
博多商人たちとの親睦。
その急激な改革は、若者たちや身分の低い者たちからの歓迎を受けながらも、既得権益層との対立を生んだ。
たとえば、許認可手続の簡便化について。
全体からみて非効率な複雑な許認可手続でも、それに関与することで賄賂などの副収入を得ていた者たちも多くいたのである。
そんな既得権益を若い忠之や長之助が一方的に壊して回るのだから、大きな政治的反動が生じるのは当然であった。
史実の倉八十太夫は有能であった。
かの有名な寛永九年の黒田騒動が起きるまで、十年近く「あいつは邪智に富んでいるから取り上げるべき不正も失敗を見つけられない」と政敵たちを嘆かせた。
ちょっと人間離れしている。
長之助の追放の原因となった黒田騒動の際の栗山大膳の彼に対する批判は「倉八が藩内の不和を引き起こしている」といった具体的内容のないものだった。
ただ、戦乱の世に戻ることに対する警戒が当時の社会の最大の関心事である。
内戦の危険をもたらす藩内の不和を生じさせたことは、他の多くの改革の成功を帳消しにする致命傷とも言える。
確かに、倉八十太夫の改革は、藩内の不和を生み出し、一歩間違えれば、お家騒動を引き起こしかねない危険を招いた。
倉八十太夫を排除することで栗山大膳が福岡藩を危機から救ったのだという講談『栗山大膳』の評価には相当の理由がある。
とはいえ、彼の改革は博多の発展に貢献しており、明治時代から彼の業績の再評価の動きはある。
なお、幕府の干渉の下に十太夫(長之助)が高野山に追放された後も、忠之は彼に対する個人的な財政援助を行い、老臣たちもそれを黙認したと伝えられる。
もしも、倉八十太夫の改革が黒田如水・黒田長政のような異常なカリスマのある主君の下で行われていれば、藩内の不和は生じなかった可能性はある。
いかんせん、忠之は若すぎた。「目に見える結果を出しているのだから、年寄り連中も主君である俺の言葉に服従するべきだ」と荒れた。教条主義者の謗りは免れない。
また、もしも、長之助が平凡な若者であれば、周囲が敵だらけの状況ですぐ派手な失敗をして、忠之も早々に大人しくなることができたであろう。
幸か不幸かわからない。
長之助には才能があった。
その改革が目に見える成果を上げ続けるがゆえに、忠之は酔いしれるように改革にのめりこんでいってしまった。
寛永元年(一六二四年)に黒田忠之が新藩主の座に就き、若者たちの政治的冒険は始まった。
黒田忠之は、家格の低い者たちとも進んで交流た。
寛永三年には、浪人者の娘と大恋愛を繰り広げて、その娘を正室につけ、その子どもを跡取りにした。
次期藩主の光之はファザコンに育ち、光之の編纂させた福岡藩の公式記録においては、当然に忠之は理想の君主として描かれることになる。