第五十三回 黒田二十四騎の黒田美作は考える
栗山大膳。
黒田騒動の立役者の栗山大膳利安は、天正十九年(一五九一年)に生まれた。
寛永元年(一六二四年)であれば、三十代の前半。
寛永年間の筑前の記録とされる『古郷物語』によれば、栗山大膳は、若くして黒田長政の近習になり、長政と側近たちの意見交換会である異見会の見張り番をつとめたという。
異見会中に他から入ってくる報告や来客に対して、若き栗山大膳は急用と彼が判断したものだけを取り次ぎ、それ以外の用向きに対しては「殿の仰せだ」と追い返す。
戦場に一度も出たこともない少年が、武勇自慢の大人たちに口先だけの臆病者と蔑まれつつ、「殿が、殿が」と言いながら、主君の権威だけを頼りに対抗した。
そんな少年期に、大膳の人格は育まれたのであろう。
個人の勇気を尊ばない。
身を守るための武器として、上位者の権威の利用を最優先する。
江戸城で黒田長政の小姓として暮らした頃には、権威ある学者たちや文化人たちに熱心に取り入り、その交際関係が彼の最大の武器となった。
栗山備後の長男に生まれたという一点のみで、栗山大膳は筆頭家老の地位につくことになった。
大膳にとって優しい世界を守ってくれるものは、個人的能力ではなく、目に見える秩序だけだった。
もちろん、大膳自身も矛盾のない思考ができるわけでもなく、実際の秩序の中にも相当の矛盾が存在していた。
問答無用の絶対的なものとして権力をふるう時には、少し考えれば避けられるような理不尽な犠牲が多く伴った。
栗山大膳が武勇に優れていたという話が語られることがある。
しかし、信用に値しない。
一、大膳が自慢好きであったという点は、大膳に好意的な論者も含めて、あらゆる論者の評価が一致していると思われるが、武芸について自慢したという逸話が皆無である。
一、福岡藩の家老として大膳が江戸に詰めた時期に学者や文化人と親しく交流したという逸話は複数に残っているが、武芸に関心を示した逸話が見当たらない。
一、『博多細伝実録』における栗山大膳の野口左助らに対する狂態は、明らかに武の心得の乏しい者の態度である。
一、『細川忠利書状』によれば、黒田騒動時に栗山大膳が水をろくに準備せず多人数で屋敷に立てこもったことを示されているが、栗山大膳は兵法に暗かったと思わざるを得ない。
一、黒田忠之の小姓だった吉田久太夫が書いたという『栗山大膳記』において、大膳の娘婿の父親である井上道柏は、大膳のことを「武萹之儀會而不存」と評している。
一、同じく『栗山大膳記』において、黒田美作は、大膳について「弁舌明にして学問を致し、その身栄にして傲り、琴・三味線・尺八・太鼓に悩みつつ宏才なる者にて、白きを黒きと言をなす」と語るが、大膳の武辺については一切に述べていない。
* *
黒田美作は、黒田二十四騎の生き残りの中では、比較的に年若であった。
元亀二年(一五七一年)生まれ。
寛永元年には、五十代の半ば。
正室として、卜庵老人の娘の吉を迎えている。
栗山大膳の義兄にあたる。
美作は『黒田家臣傳』には「身の長六尺に及び其の力人にすぐれたり。其の人となり寛容にしてせまらず、温柔にしてはげしからず」と記される。
武将としても優秀であったが、武者としても巨体の剛力を活かした戦い方を得意として多くの武功を挙げた(余談であるが、美作は自分と違う戦い方をする男、小太刀の達人の土屋宗俊を久留米藩から引き抜いている)。
同じく巨体の剛力を誇る黒田二十四騎の菅和泉とは、菅和泉の方が十歳以上も年長であるが、世代を超えて親しくなった。
菅和泉の子どもは菅主水。
毛屋武蔵(毛屋主水)から主水の名前を譲ってもらったのである。
個人的に菅和泉と毛屋武蔵が親友。
尊敬する先輩の親友と自分の妻の実弟がもめたとなると、どうにも美作としては困ってしまう。
屋敷の中で妻の吉を相手に美作はぼやく。
「口が悪い、毛屋殿は」
毛屋武蔵はその狷介な戦いぶりに見合った狷介な言動が目立つ。
とはいえ、
「大膳さまも細かいことを気にする」
と言った。
すると、吉は言う。
「大吉(大膳の幼名)は、子どもの頃からいつも礼儀正しく、きちんきちんとしておりました」
美作の妻にして大膳の実姉である吉も、細かいことによく気づく。
心が繊細。
圧力をかけられた場合、もろい心が壊れて、周囲に見境なしに攻撃をはじめる。
美作のような男が近くにいて、危険な目に遭わないように上から管理してやれば、吉は良い妻、良い母親でいることができる。
それでいいと美作は考える。
才とは、欠けていることなのかもしれない。
管理されて初めて人間の世に通用する。
弱い心であるからこそ、強い心が気づかない細かいことに一早く反応することができる。




