第四十三回 阿修羅丸は父に捨てられし日に師を得たり
吉十郎から奪った花形の明鏡が隠れ里に届けられた。
花形の明鏡を鼻先でかっさらってやったことで、亀屋に対する意趣返しとしては十分だ。
亀屋に気づく間を与えることなく全てを終わらせた。
根津甚八の完勝だった。
「盗賊としては、大したものだ」
朝廷の陰陽師たちが千両はらっても取り戻したいという重器を、部下たちの誰一人の血も流すことなく、策によって横取りしてやった。
策。
旧主である真田幸村のことを想い出した。
幸村の策を豊臣家が採用していれば、豊臣家は徳川幕府の下で大名として生き残ることができた可能性は十分にあった。
おのれの策を具現化する機会に恵まれるということは、ありがたいこと。
「左衛門佐さま」
根津甚八は旧主の名前を呟いた。
幸村の声が聞こえたような気がした。幻聴。
┅┅甚八よ、まだこの世に未練があるのか? まだ生きたいのか?
わからない。
しかし、生きている限り、まだ、やらなければいけないことがあった。
根津甚八は鏡の入った箱を両手でもちあげた。
溜め息。
「さて、こいつを、どうするか、だな」
亀屋にいる白縫大尽のところに阿修羅丸一家の者が鏡を持っていって謝礼の千両を貰いに行くというのは、馬鹿げている。
疑われて捕まえられるだけだろう。
その時、
「マエストロ根津」
と背後から声が響いた。
そんなふうに根津甚八のことを呼ぶ者は、隠れ里に一人しかいない。
阿修羅丸。
イスバニヤ人の父を持つ青い目をした若者である。
筋骨逞しい巨体は威風堂々で押し出しがよい。
一家の表の頭目である。
「その鏡の使い方については、俺まかせてくれないか? 一つ策がある」
策。
根津甚八は笑った。
「どんな策でしょうかね? 是非とも拝聴させていだきたく」
阿修羅丸は赤面した。
「よしてくれ、マエストロ根津。そんな大したものじゃないさ」
この二人が初めて出会ったのは七年前の夏のことであった。
* *
元和元年(一六一五年)の大坂夏の陣に敗れた後、真田十勇士の一人、根津甚八は船で西国一の港町である博多にまぎれこんだ。
根津甚八は根津五郎と名を変え、毒も薬も遣う元根来忍者たちと町医者となった。
鉄砲造りの技術まで身につけている元根来衆たちは鍛冶屋を営み、元海賊たちは小舟で荷物運びを行った。
「まあ、食っていけなくもないな」
堕ちたものだ、と根津甚八は自嘲した。
大坂で死に損ねた。
根津甚八を乱戦の中から救出するために死んだ部下たちがいる。彼のことを慕って博多まで一緒についてきた部下たちがいる。
奴らのために俺が何をしてやればよいのだろうか?
部下たちは言う。
「俺らにとっての大将は、左衛門佐さま(真田信繁、真田幸村)ではなく、根津さまなわけで」
「紀州からもう十年以上のおつきあいですし」
「根津さまがいなければ、どうにも」
止まっていた時計の針が動き出したのは、それから二年後の元和三年(一六一七年)の夏のことであった。
元海賊の部下が駆け込んできた。
「港でとんでもない小僧が暴れています。化け物みたいな強さ。こいつは根津さまにお頼みするしか」
大げさな。
根津甚八は苦笑した。
「小僧の一人ぐらい何とかならないのか?」
「刃物や飛び道具まで使ってよいのというならば、何とかしますがね。いろいろ黒田の役人たちに首を突っ込まれると後が面倒なわけで」
役人たちに来てほしくない過去の持ち主も港には多い。
辛い。
根津甚八もその一人だ。
「わかった。少しは退屈しのぎになるだろうよ」
彼の前身は、真田十勇士の一人、根津甚八である。素手の戦いであっても生半可な者に遅れをとることはない。
「あいつです」
「根津さま、お願いします」
港にやってきた根津甚八は、相手を見て驚愕した。
阿修羅丸。
顔立ちは幼いが、身の丈は六尺を超えていた。
阿修羅丸はいきなり間合いを詰めて、右手を振り上げて殴ってきた。
間合いを詰める速さが異常だった。
速さに驚いて動きが止まっていれば、大振りの拳でも喰らっていただろう。
驚きはしても棒立ちにはならなかった。
根津甚八は左腕で受けた。
おそるべき腕力で押し込んでくる。
根津甚八であれば、あわせることができた。
受けながら吸い込んで、相手の力を尽きたところを押し返してやる。
阿修羅丸は興奮していた。根津甚八の仕掛けに気づかなかった。右腕がまともに戻せない。
がら空きになった右脇に飛び込んで、胸をあわせて押し込んだ。
体勢を崩した阿修羅丸は左の片足だけで踏ん張った。
戦場に戻った気がした。根津甚八は阿修羅丸の左ひざの横に右の踵を叩き込んだ。折るつもりだった。折れなかった。
「ギャッ」
阿修羅丸は悲鳴をあげただけだった。
根津甚八は自分の左足を阿修羅丸の左足に合わせた。阿修羅は右膝の痛みに気を取られて、左足への柔らかい足払いを感じることができなかった。振り回されて倒れた。
むきだしになった腹に踵を落としてやる。根津甚八は左の踵を地面に下ろさず阿修羅丸の胃袋に落とした。
三回。
少し離れて待つ。
立ち上がろうとしたところを顔面に右膝をねじ込んでやった。
終わりかと思った。
違った。
阿修羅丸は鼻血を流しながら根津甚八の腰にしがみついてきた。
「こいつ!」
少しあわてながら根津甚八は半身を切って、相手の腕の位置を整え、その右耳を左手で引っ掴んで投げようとした。
しかし、根津甚八は、思わず攻撃をやめた。
気づいた。
阿修羅丸は泣いている。
「父ちゃん、母ちゃーん! うわああああん」
根津甚八は話を聞いてみることにした。
「どうしたよ?」
阿修羅丸の父親はイスバニヤ商人、母親は日本人の女で、共にキリスト教徒だった。
徳川幕府のキリスト教の禁止が豊臣家が滅んで大坂にまで及ぶことになった。
そこで、阿修羅丸の父親は日本でできた家族を連れてイスバニヤに戻ることを決め、大坂から博多に移動した。
泣き続ける阿修羅丸の話。
「この国はもう神の教えが禁止されたからイスバニヤに帰ることを父ちゃんは決めた。
博多から西班牙まで向かう船、家族みんなで乗るには金が足りないって、父ちゃんは言った。母ちゃんも妹二人も女で、俺だけ男。俺は一人だけで博多で生きていけって、父ちゃんも母ちゃんも言った。
さっき、俺だけ残して、家族みんなで、船に乗って港から出て行ってしまった。父ちゃんも母ちゃんも、妹たちも、俺のことなんてどうでもいいんだ」
「そいつは」
暴れたくもなるな、と根津甚八は思った。
この時代にありふれた不幸だった、いちいち同情していてはきりがない。
しかし、気まぐれを起こした。
何かの縁だ、と。
「要するに、お前は博多に一人で親から放り出されて、行くあてがないんだな? ついてこい。しばらく俺が面倒を見てやる」




