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その参




 本邸が建つ山の地中には、書庫が有る。

 総面積は国立図書館と肩を並べるほど広く、書物の数は劣るが所蔵品の希少価値は格段に勝っている。

 この山が地中に孕むのは書物ばかりではない。

 例えば“神”だ。

 魔都の創始者は神に祈るよりも金を回すのが好きな人だった。だから自由経済を熱烈に実践するこの国で、宗教は法的に紛れもなく、商業の一種である。

 そんな背景があるから神も仏も教祖も経典も、宗教は人々に都合よく生み出され、都合よく殺された。

 しかし、神は信じていなくても祟りは怖いもので、仏像やら神体やら偶像は要らなくとも無碍にはできない。それらのニライカナイがこの山なのだ。

 この山には最初に本が、それから呪術に用いられたという道具や満月の夜に泣くらしい幽霊画、はたまた河童のミイラなど怪異にまつわる物品が収拾され、それらの状態を良好に保つための設備が充実していった。大企業『種宮』の資金力がそれを可能にしたのだ。

 そしていつからか、人々に忘れられ、虚しく残った信仰対象がこの山――この快適な墓場に持ち込まれるようになった。

 だからこの山は俗に、『神捨て山』と呼ばれている。




 遅めの昼食を終えたあと、凍矢が書庫へ行ってから数時間が過ぎていた。

 六時には夕飯にするから戻るようにお願いしていたのだったが、まだ戻らないので久夏は迎えに行くことにした。

 書庫へ足を踏み入れるとセンサーが反応して、頭上の電灯だけが光る。

 その程度の明かりでは廊下の果てが見えないほど、ここは広い。

 書庫には黒い真四角の小部屋が前後左右等間隔に幾つも並んでいて、同じ景色が延々続いているのだが、彼の足は迷わず、詩編の収められた部屋へ進んだ。

 その一部屋だけ、壁が透明になっている。

 中に人が入り、明かりが点いて空調が動いているあいだに限って壁が黒から透明に変わる仕様なのだ。人を閉じ込めないためである。

 凍矢は部屋の中央、久夏に背を向けて椅子に座り、本を読んでいる。

 長い三つ編みが背中に垂れている。

 昼に凍矢が入浴し髪をきつく結わせたのは、皮膚片や毛髪を極力落とさないためだった。

 マスクをし、手袋をして、古紙を丁寧にめくっている。

 久夏はガラスを叩こうとゆるく拳を握って持ち上げて、しかし、中途半端な格好で止まった。

 時間を忘れて集中する背中をそぞろ眺めた。

 この背中には、永遠に手が届かないのだろうと、そう思った。




 小学校の夏休み、子供らしい遊びをと凍矢と二人で山に入ったことがある。

 わいわいと煩いが正体の見えない蝉を探して、懸命に幹を見上げていて、ふと顔を戻すと、凍矢の姿がなかった。凍矢の名を叫び、周囲を見回し、ただの一歩も踏み出せなかった。

 凍矢からの命令がなければ、久夏は動けなかった。

 久夏は凍矢より一つ年上で、その年頃の子供にとって重大な意味をもつ一年間の差は、しかし彼らには関係がなかった。久夏は凍矢の目付役でもあったのだが、名ばかりだった。

 あくまで凍矢は主人であり、久夏は従者であった。

 進むときにはいつも眼前に凍矢の白い頭があった。それを追いかけてばかりいたから、それなしには、もう歩き出せなくなっていた。

 幼い彼は突然に降りかかった孤独に恐怖する。

 鼓動が早まり、合ったはずの焦点はすぐにぶれ、一つの考えに集中できず、呼吸の調子を忘れてしまった。

 しかしこの思い出は久夏にとってトラウマではない。

 すぐに凍矢が現れたのだ。

「久夏。」

 身を震わせてすぐさま振り返ると、凍矢がなんでもない顔をして立っている。

「こっちに来い。」

 凍矢は踵を返すと、横に引かれた二本のロープの隙間を軽々とくぐった。

 ロープは転々と地面に刺さった杭に結びつけられており、そう離れていない場所に立ち入り禁止の看板が下がっているのを久夏は見つけてしまった。

 彼らが登ってきたのは細道だが時折横木の敷かれたような、登山のための緩やかな山道だったが、ロープの向こうには杣道も獣道さえない。

 ありのままの森だった。

 久夏は不安になる。

 凍矢を無事に家に帰さなければならないが、これでは二人とも迷子になってしまうのではないか。

 躊躇で歩みの遅くなった久夏を、凍矢は足を止めて振り返り、久夏の彷徨っていた視線を捕まえる。

 立ち止まったままじっと見つめ合ったあと、久夏の足が先に動いた。

 凍矢を追いかけた。

 久夏の体感では非常に長い時間だったが、しかし実際には数十メートルも進んでいないところで前方の木々が薄くなり、空間が開けた。

 どこまでも開けた。

 竦むような断崖絶壁だった。

 久夏はあまりの高さに目が眩んで、息を呑み、及び腰になる。

「すごいだろう!」

 凍矢が、珍しく子供らしい興奮した声を上げ、久夏は顔を上げる。

 緑から青のグラデーションで稜線は連なり、麓、種宮の本邸、田園、駅と更にその向こうの山までがはっきりと見渡せた。

 人も、車も、家も、電車も、それらへ燦々と降り注ぐ夏の白光と生まれる陰影に染まり、つまり人間の生活の全てが、ミニチュアのように小さく見えた。

 凍矢は足元ではなく、世界を見ていた。

 絶景に目を奪われた凍矢はふらふらと前に進んでいく。

「凍矢さま!」

 久夏はぎょっとして叫ぶ。

 驚いて振り返った凍矢は、動揺して表情の作れない久夏に微笑む。

「美しい。」

 と、凍矢は言った。

 彼もそう思った。

 次の瞬間に、崖の突端が砕け、凍矢は滑り落ちた。




 別邸の地下に妖怪を収監しているため、種宮の直系は別邸から長く離れるわけにいかないから、虫干会に帰省したとしても、本邸には長くても一泊、だいたいがその日のうちに別邸に帰るというのが、通例になっていた。

 だから凍矢が大学生になって最初の立春の虫干会のあと、彼が一週間も本邸に留まり、山に入り浸ったのは珍事であった。

 凍矢は種宮家二代目当主冷矢(さや)の手記や、彼女が蒐集し編纂した民間伝承を中心に読み込んでいた。

 その動機を、彼の家族も、凍矢の当時の付き人も、久夏も、誰も知らない。

 凍矢はそれから、虫干会でなくても時折別邸にやってきて、山に入った。

 再会すれば変わらぬ笑顔を見せてはくれるものの、彼の姿は変わっていった。

 種宮家の象徴である白髪が、伸びていくばかりだった。

 相貌には陰が深まっていくばかりだった。

 凍矢がなにか秘密を抱えているのは解っていた。

 そしてそれを明かしてくれないのだろうということも、解っていた。

 彼はいまきっと、自分の決して視ることのできない、美しいものを視ているのではないだろうか。――久夏はそう思う。

 足元を見る自分には見えないもの。

 遠く世界を見る凍矢にしか見えないもの。

 泥臭い生活に浴する自分には視えないもの。

 思索を積み上げ高みを目指す凍矢にしか視えないもの。

 年を重ねるごとに、背中が遠ざかっていくのを感じる。

 だんだんと遠く離れていく。

 かつて二人で断崖絶壁に立ったときのように、隣に呼んでくれることはもうないのだろう。

 思索の断崖絶壁に一人で立っているにせよ、自分ではないほかの誰かと一緒でいるにせよ、

――願わくは、凍矢さまがもう落っこちませんように。




 凍矢が頁を閉じて一息ついたのを見計らって、久夏は凍矢の正面に回る。

 背筋を正し長く細い足を組む姿、切れ長の目に細い顎、均整のとれた彫像のような風采で、それを照らすのは紙の劣化を防ぐために、波長を制限された特殊な光線である。

 その有様は生物というより寧ろ、コレクションの一つのようだった。

 外からガラスをノックする。

 ふと顔を上げた凍矢の顔色がさあっと青ざめ、焦点が移って、久夏の姿を見なすと安堵したように息を吐いた。

「夕食の準備ができております。すぐに召し上がられますか?」

 凍矢の様子に違和感があろうが、久夏はまるで変わらない穏やかな口調で問う。

 凍矢は無言で頷いた。

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