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その弐




 夏の始まりの頃だ。

 蝉の喧しい酷暑のなか、山の向こうにどっしりと入道雲を構えるほかは雲のない晴天の下、日光を喰らって生き生きと輝く緑に囲まれて、白く照り返す乾いた土の道を、長い白髪を汗に濡らしながら歩く青年は、種宮凍矢である。

 最寄りのバス停からおよそ十分、彼がたどり着いたのは、種宮家本邸だ。

 凍矢が暮している首都の屋敷は、出版社である“種宮文庫”の経営のために便利だからと彼の祖父である種宮家三代目が建てた別邸であって、この田舎――山三つと集落一つを含むこの土地こそが、書家でありまた妖怪退治の使命を担っている種宮家の本拠である。

 細い竹竿が組まれたものに朝顔が絡まっただけの、申し訳程度の生垣だけで、あとは敷地と外とを隔てるものがない。

 松が作る広い門をくぐってなかに入って、まずは玄関わきの日陰でだれている老犬に麦わら帽子を脱いで挨拶をする。それから小さな菜園へ行き、誰もいないから、裏手の鶏小屋へ回るとひどく怯えてギャアギャア鳴かれた。

「こらポン吉! 鶏を襲うんじゃない!」

 若い男の大声が家のなかから聞こえてくる。

「入ってきなさい! 昨日の残りをあげるから!」

 叱ってはいるが声に怒りはなく、どこか間延びさえしていた。

 凍矢は自分がなにかに勘違いされていることを悟りながら、なんだか可笑しくなってすぐに訂正する気は湧かず、男の声に従って家へ入る。

 鍵がかかっていないのはいつものことだ。

 引き戸をがらりと開けて、スニーカーを脱ぎ、揃えて上がる。

 広く古い邸宅で、廊下はどれだけ折り目正しく歩いてもギシギシと音が鳴った。

「こら『お邪魔します』くらい言えって言ったろぅ!」

 くぐもった声とともに、畳を足早に進む足音が近づいてきて、すぐに襖が開いた。

 台所手前の廊下で、凍矢と彼は鉢合わせする。

 途端、彼は驚いて目を丸くした。

「とうやさま!」

 凍矢はその有様に笑ってしまう。

「やぁ、久夏。」




 汗を吸ったシャツとデニムを脱ぎ、凍矢はのんびりと湯浴みをすると、涼やかな居間で体を冷ましながらくつろぐ。

 そこへ久夏が麦茶を持ってくる。

「連絡をくだされば、準備もできましたのに。」

 川のせせらぎのような口調で、目元に笑みを浮かべながら彼は言う。

 浴衣のことだ。

 風呂に入る前に、凍矢は彼の普段使いを貸すよう命じたのだった。仕舞い込んでいる衣類を出してくるのは、防虫剤の臭いが嫌だからと。

 しかし久夏は背も高ければ肩幅もしっかりとあるから、浴衣は長身の凍矢にもすこし大きい。丈は帯で調節できても、腕のほうはすこし余ってしまう。

「おまえまた背が伸びたのか。」

「いいえ。凍矢さまが縮んだのでしょう。」

 軽口に冗談で返す。

 凍矢は顔をそむけ、口元を隠しながら口角を上げる。

 これは再会のたびに繰り返される彼らだけの符丁のような挨拶で、同時に、凍矢の素性を知った上でこんな物言いができるのは、もう彼くらいしかいない。

 彼――俵谷(たわらや)久夏は書道会である種宮会の門下生である。

 書道会といっても、種宮会はただ書道を学ばせるのではない。こと内弟子として入門した者は、家事から始めて、会の運営に携わる者や、一族の付き人になる者もいる。

 久夏もまた幼少の頃に内弟子として入り、一つ下の凍矢に仕えていたのだが、中学に上がるのを機に本邸の管理を任されて別邸から出されていた。

 しかし交流が完全に途絶えたわけではなく、立春・梅雨明け・晩秋に行われる種宮家特有の年中行事“虫干会”には確実に、あるいは夏休みなどにはこうして顔を合わせている。

 開けられていた襖の陰から、若い娘が一人現れる。

 ドライヤーとタオルの入った籠を傍らに置きながら正座を作り、指をついて頭を下げた。

「おかえりなさいませ、凍矢さま。」

「あぁ、頭を上げなさい。」

 勝気そうな顔つきを今は緊張させて、助けを求めるように彼女は久夏に目配せする。

「食事の準備はどんな塩梅だい?」

「アキヨさんがそうめんを茹でております。巴頼(ともより)は野菜をもぎに行きました。」

「そう。なら、沙央莉(さおり)は凍矢さまの髪を結うて差し上げて。私はアキヨさんを手伝いに行くから。」

「久夏。」

 沙央莉と呼ばれた彼女が応えるより早く、凍矢は久夏に呼びかけて、立ち上がろうとする彼の眼を見つめた。それきり何も言わなくとも、久夏は凍矢の意向を察して腰を下ろす。

「沙央莉がアキヨさんの手伝いに行ってくれる?」

「もちろんです。」

 素早く立ち上がった彼女に、凍矢は微笑みかけ、ひときわ優しく声をかける。

「こいつに話しがあってね。昼食の準備はゆっくり進めてくれていい。私の髪が渇くのにも、時間がかかるだろうから。」

 凍矢の髪は腰に届くほど長い。

「はい。」

 頬をポッと染めた彼女は、ぺこりと頭を下げると、半ば逃げるようにその場をあとにした。

 久夏は静かに立ち上がると、彼女の置いていった籠を手に取り、凍矢の背後に回る。

 体は大きく逞しいが、下がり気味のまなじりやよく微笑む幅広の口が、彼を温厚な好青年に見せている。おっとりとした口調や、指先まで気が払われた丁寧な所作もまた、威圧感を薄め、優しく頼りがいのある印象を持たせていた。

 彼は繊細な手つきで凍矢の髪を梳く。

 その度、凍矢の匂いが漏れ拡がる。

 髪を傷つけないように、タオルで挿むようにして湿り気をとっていき、あらかた済んだところでドライヤーの電源を入れる。熱風をかけて、根元から乾かしていく。艶やかな髪は絡まずになびく。

 凍矢はそのあいだ目をつぶっている。

 頭皮や耳たぶや首筋をしばしば掠める久夏の指を感じる。

 大きく器用な手――重い荷物を抱え、また、解れた継ぎ目を糸で縫い合わせる手だ。

 ドライヤーが熱風から冷風に代わり、やがて止まる。

「きつく。三つ編みにしてくれ。」

 背後にある大きく暖かな雰囲気は、直に体を接していなくても安眠椅子にもたれるように心地よく、睡魔に襲われていた凍矢の声はシャボン玉のようにふわと浮かんだ。

 視界を覆うように手が現れて、長い前髪をかき上げてから、うなじあたりでまとめられていく。頭に櫛が通り、整っていく。久夏の指が、頭皮から毛先へと遠ざかっていく。

「日に中てられて、お疲れになったでしょう。車で迎えに行きましたのに。」

「歩きたくてね。」

 彼らはのんびりと会話する。

「食事も、質素なものしか用意できませんし。」

「庭の野菜をもいでくれるんだろう? 上等だ。」

「鶏を一羽、絞めましょうか。」

 凍矢は喉で笑う。

「いらない。私は狸じゃないからね。」

 先ほど凍矢が勘違いされたのは、名前からしてきっと狸であろうと思って冗談を言った。

「まさかそんなつもりは。ただ肉と言うと、これから用意するには鶏くらいしかないもので。」

 久夏は真剣だが、凍矢が気になっているのは別のことだった。

「そんなことより久夏、狸に『お邪魔します』って言うよう教育しているのか?」

「え? …えぇ……。」

 凍矢はその様子を想像してみて、肩を揺らせて笑う。

「化けて出るんですよ、人間に。」

 彼らの暮らす小国――魔都では、妖怪の存在が公に認められている。化け猫などは都市部でも多く市民権を得ているが、狸や狐は絶滅の危機に瀕している。分けても人に化けるのにはそうそうお目にかかれない。

「ではどうして狸とわかったんだ? 尻尾が出ていたとか?」

「鶏を盗みに入ったところを捕まえると、『腹が減った』と言うものですから、たらふく喰わせてやると眠ってしまって。タオルケットをかけてやったんですが、次にめくったとき中にいたのは狸でした。」

 子供に童話を読み聞かせるように、久夏は話す。

「狸が人間の言葉を話したの? それとも、おまえが狸語を?」

 凍矢が半ば本気で尋ねる。

「狸は人より賢いようですね。教えるほどにどんどん上手くなります。」

 振り返らなくても、久夏が微笑んでいるのはわかる。

 しばらくのあいだ静寂をそのままにしていたが、やがて久夏が口火を切った。

「凍矢さま、私にお話しというのは、『狸じゃない』、ということですか?」

「あぁ、私は化け狸ではない。本物だ。」

 すぐさまふざけて返す。

「かしこまりました。」

 久夏が笑う。

 笑気が空気に溶けていく。

 部屋の外は明るく、蝉が黙り込むほどに熱く、しかしガラスを隔てたこちら側は涼しく仄暗い。不自然に快適は調節されている。

 凍矢の視線はいつからか、ガラスの外へ向いていた。

 凍矢がここにやって来たのは、心を濯ぐためだった。




 種宮家は代々、ある妖怪を退治しつづけている。

 この妖怪は≪想い≫を喰う。

 ≪想い≫の表現形式は選ばず、文字であれ絵であれ、墨汁であれデータであれ構わず喰う。かつて大蛇の姿であったときには、人を丸ごと喰らっていた。

 その危険性のために、現在、凍矢の義理の弟のなかに封じ込められていてもなお、妖怪は義弟ともども別邸の地下に閉じ込められている。

 義弟を助け、また同時に、出版社である“種宮文庫”の不正に終止符を打つために妖怪を利用するべく、妖怪を殺すためではなく、活かすための術を、凍矢は完成させようとしていた。

 新たな術を完成させるためには、彼の心――正直な告白が必要であり、彼はそれを詩として紡いでいたのだが、しかし、詩が完成するまであと一歩のところで、推敲の手が止まってしまった。

 止まったまま、徒に数日が過ぎてしまった。

 筆がとまって動かない。

 脳が動かない。

 指先は震えた。

 無理に筆を動かしたところで、書けば書くほど、自分の卑しさ、愚かさが溢れ出てくる。

 凍矢は幼い頃から誰に言われるでもなく、自分のはっきりした意図もなく詩を書いてはいたが、ほかに相応しい名前がないからとりあえず『詩』と呼んでいただけで、寧ろ、心象に偏った日記であるとか、精神病患者の愁訴とかいったものに近かった。

 これはほかならない、人間社会との摩擦から生まれている。

 どれだけ他人が疎ましいか、世間が煩わしいかというところに端を発しているのだ。

 将来の雇い主に対してゴマを擦っておけば安泰だろうと安っぽい美辞麗句を並べる他人や、上っ面に張りつけた薄っぺらな善良やそれなりの器量に騙されて、性根の傲岸不遜を見抜けない他人に対して、愚かで浅はかで厚顔無恥で無知蒙昧としか思えない。

 (つばき)のように吐き出される感傷が、凍矢にとっては“詩”であり、自らの深奥から生まれる正直な告白であった。

 言葉にして紙に書いてしまって、それを読み直して、他人事のようにこの作者に思うことは一つ。

――(おれ)は悪人だ。

 悪人が社会に唾を吐いて人を救おうとしている。

 矛盾している。

 種宮一族の存続のために、つまりは他人を守り救うために書いているはずが、書けば書くほど、他者を救う気を失ってしまう。

 甚だ可笑しくなる。

 性向として人そのものがそう好きでないのに、人のために尽力するなど土台無理な話だったのだ。

 しかし自分には、たしかに覚悟があったはずだ。

 動機があったはずだ。

 自己を消し去ったって構わないと思わせたような衝撃的な、他者への献身を切望させるような想いがあったはずだ。

 悪人である“俺”を捨てて、社会に尽くす“私”になることを望ませた感覚を、他者から享受したことがあるはずだ。

 そしてその想いは、この場所から生まれたはずだ。

 だから、彼はこの場所に戻ってきた。




「冗談だ。文庫を読みに来た。“山”を開けてくれ。」

 凍矢の声は冷えて、快適な雰囲気を掻き消した。

 久夏の指がほんの一瞬だけ止まり、何事もなかったかのようにまた動きはじめる。

「かしこまりました。」

 最前とは違う声で応えた。従者の声だった。

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