その壱
あらすじにも明記していますので繰り返しにはなりますが、愚作『マトコウへ行こう!』から削除した部分を単体としてまとめたもので、いわば蛇足です。
本編を読んでいらっしゃらなくても解るように書いたつもりですが、至らぬ点もあるかと思います。
また、上記の理由から本編のネタバレを含んでいます。併せてご了承ください。
桜のつぼみがまだ開かない、十一年前の早春だった。
朝早く、冷たい霧の上がりきらないなか、少年が旅立っていく。
見送りはすくない。
玄関先へ集まったのは種宮会門弟の統括者と、直接に指導をしていた師と、仲のよかった門弟が二人と、凍矢だけだった。
「皆さん今までお世話になりました。」
「本邸に行っても真面目にするように。重要な仕事に、おまえは選ばれたんだからな。」
「はい。」
師匠や統括からの言葉に素直に頷き、友人たちには、目上の人がいる手前小さく手を振り、最後に凍矢に向き直る。
「凍矢さま、これまでの数々のご無礼をお許しください。どうかお元気で。」
深々と頭を下げる。
凍矢はじっと、彼を見つめていた。
少年は無言の視線に耐えかねて、視線を逸らすと全員に顔を向けた。
「さようなら。」
再び頭を下げ、背を向けると、別邸から彼を迎えに来ていた老婆とともに門から出る。
少年の姿が見えなくなり、見送りの彼らは玄関へ戻ろうと踵を返したが、凍矢は逆に門へと駆けて、路地へ頭を覗かせた。
老婆の隣を、緊張しているのだろう、すこし距離を開けて少年は歩いていく。
背中がだんだんと小さくなっていく。
「ひさ!」
凍矢はだしぬけに門から飛び出して、少年を追いかけた。
ただ見つめていることなどできなかった。
『さようなら』の一言だけで終わらせるには、彼らが築きあげた信頼に足りるはずもなかった。それを許すことはできなかった。
「久夏。」
追いついて、体ごと振り返った彼――久夏を、もう一度見つめる。
ふいと、久夏の表情が歪む。
「私は凍矢さまが心配です。」
喉から溢れだした声はか細く、下瞼に水が盛り上がる。
「俺はおまえが心配だ。」
久夏の悲愴を見ると、凍矢は一層辛くなる。
何か言おうと久夏は一度口を開け、息だけ吸って躊躇して閉じた。
凍矢は閉口して、久夏を真っ直ぐに見つめる。
凍矢は、無言を守ることで久夏の応えを待っているのだ。
この幼い主従の二人には、この無言の命令はいつからか暗黙の了解として成立しており、久夏はおずおずと口を開く。
「凍矢さまが一等偉くなられて、そのときにもし、まだ私を必要としてくださるのなら、どうか私をお呼び下さい。すぐに凍矢さまのもとに帰ります。」
「うん。必ずそうする。」
久夏を勇気づけるように、凍矢は力強い声で応える。
「約束だ。」
と、凍矢は小指を差し出す。が、久夏はたじろいだ。
「約束、なんて、そうでなくていいんです。私にはとても、そんな、恐れ多くて、」
とつとつと言葉をこぼす久夏の、握り締められた拳を掴み上げると、無理に開かせた。
「約束だ。」
「約束……」
強く小指を結んで二度振って、それから優しく離す。
凍矢は隣の老婆に向き、頭を下げる。
「どうか久夏のことをよろしく頼みます。」
「お任せください、凍矢さま。」
老婆は優しく微笑んでそう応えた。
ぐいぐいと袖口で目元をぬぐい、顔を上げた久夏に凍矢は言う。
「行ってらっしゃい。」
頷く。
「行ってきます。」
足を一歩引いて、それから踵を返し、家へと歩きだす。
統括が見守っている門に入る前に、ちらと振り返ると、久夏と目があう。
門をくぐるのを見届けるまで、彼はきっと前を向けないだろう。
凍矢は手を振り、家に入った。