忘れモノ
人は死んだら天国に行くという。けれど、それは本当なんだろうか。もしそうだとたら、どうして目の前の人達はこの世からいなくならないのだろう。
夕暮れ時、いつも茜に染まっているはずの空は分厚く灰色の雲に覆われていて、そのせいで辺りはいつもよりも暗く感じた。そんな空から落ちる冷たい雨が傘を叩く音を聞きながら、隣を歩く存在にそんなようなことを言ってみた。
「分かる訳ないじゃないですか」
即答だった。しかも、さも当然だろうという調子で答えてきたため、俺は短く息を吐き、手をひらひらさせてそれ以上は聞かないことを示した。少しでもまともな答えを期待した俺がバカだった。
俺は再び傘の間から灰色の空を見上げた。そこには、俺の隣を歩く存在のお仲間であり、一般的に幽霊と呼ばれる奴らがふよふよと半透明の体を漂わせていた。俺は思わず顔をしかめる。本当に、どうしてこいつらは死んだというのに、未だこの世にいるのか。そして、どうして俺に迷惑しかかけないのか。そう思いながら俺は溜息を吐いた。
今日は秋の彼岸だ。けど、だからと言って学校が休みになるでもなく、俺はいつも通りの学校生活を過ごし、放課後を迎えていた。家路の途中にある水田に囲まれた踏切は、黄色と黒に染まる一方で、雨と風に曝され赤黒い錆がついている。そしてそれは、周りに緑しかない空間ではとても異質なものだった。少なくとも、俺にはそう見えた。好きになれないな、なんて思いながらそこを過ぎようとした時、鋭い音を響かせて遮断機が下りてきたので立ち止まった。ふと、目を向けると花束が置いてあることに気付いた。そう言えば、五年以上前にここで事故があったような……。そんな曖昧な記憶を思い出しながら待っていると、ほぼ畦道に近いそこの土手に赤色があることに気付いた。なんとなくそちらへ視線をやると、真っ赤に色づいた彼岸花が絨毯を広げたように群生して咲いていた。ここまで多くの彼岸花が咲いているのは初めて見ただとか、これだけ多く咲いていると不気味だ、なんて思いながらその風景を見つめていると、その中に人がいることに気付いた。小学年くらいの少女が、楽しそうに花と戯れていた。けど、よく見ればその体は半ば透き通っており、幽霊と言うことが分かった。
このときの俺は、あの歳で死んだのか哀れだな、程度にしか思わなかった。けど、少しでも同情してしまったのがいけなかったらしい。直後、俺は少女とバッチリ目が合った。合ってしまった。通り過ぎて行く電車の音がやけに大きく聞こえた。それに俺は我に返り、前を向いた。そして、遮断機が上がった瞬間、俺は全力でその場を去った。幽霊と目線が合うと必ずと言っていいほど俺を追いかけてくるということを今までの経験で分かっていたからだ。案の定、様子を見るため振り返れば、少女の幽霊は俺を追いかけて来ていた。
その後、雨に濡れることも構わず逃げたが、幽霊との追いかけっこで生身の人間が勝てるはずもなく、俺は無条件降伏を宣言し、一方の少女は得意げな笑みを浮かべながら問うてきた。
「お兄さん、私のこと、視えるんでしょ」
俺は確認するまでもないだろうと思いながらもああ、と答えた。すると、より一層笑みを深くして驚くべきことを言い放った。
「それじゃ、私の忘れものを探してくれませんか?」
青空の似合いそうな笑みを湛え、幽霊少女が言った言葉を理解するのに、俺にはしばしの時間が必要だった。そうしてようやく意味を理解した直後、拒否権を発動した俺だったが、年下にも関わらず有無を言わせぬ圧力を受けて半ば強制的に『忘れもの』とやらを探す羽目になった。それがつい三十分ほど前の出来事である。
「けど、忘れ物って何なんだよ。教えてくれなきゃ探しようもないんだけど」
こいつは出会って以来ずっと『忘れもの』とやらが何なのか教えてくれない。唯一、それをどこに忘れたのかくらいは覚えているようで少女が指で示す方に従って俺は歩いていた。けど、そろそろ何を探しているのか教えてほしくて言ってみるが、少女に答える気はないようで、適当に鼻歌を歌っている。俺はその態度に頭を荒く掻いた。
「あのさ、いい加減に……」
「あ、彼岸花」
声をかけるが、少女は近くに咲いていた彼岸花へと駆けて行ってしまった。俺は深く溜め息を吐く。ああ、早く帰りたい。そう思うも、楽しそうに彼岸花を見る少女を見ていると怒る気にはならないのが不思議だ。
少女は真っ赤な花弁に触れるようにそっと指を伸ばした。けど、物体を持たない少女の指は何も触れることなく空を切った。拠り所なくしたそれは軽く握りしめられたが、再び広げられ、花を包むように添えられた。俺は傘で顔を隠し、小さく息を吐いた。
「行くぞ。俺は早く家に帰りたんだ」
そう言うと、少女は拗ねたような表情を向けてきて、もう一度花を名残惜しそうに見ると俺の横に立った。
「本当、好きだな」
「そうですね。だって綺麗じゃないですか」
形も独特ですし、なんて楽しそうに笑う。
――私、彼岸花が好きなんだ。
一瞬だけ、その笑顔が何かと被った気がした。けど、それは気のせいだったのか、すぐに何と被って見えたのか分からなくなった。まあいいか、と考えを保留する。
「お兄さんは彼岸花の花言葉って分かりますか?」
しばらく歩いていると、少女がそう尋ねてきた。
「いや。知らないな」
そう答えると、少女は少しトーンを下げて「そうですか」と言った。何かを期待していたのだろうか。でもすぐに笑顔で続ける。
「彼岸花の花言葉って結構あるんですよ。情熱や再会、あきらめとか」
「へー、色々あるんだな」
「はい。でも、今言ったもの以上に好きなものがあるんです」
どんな言葉なんだ? と聞こうと口を開くがこっちです、と言った少女の言葉と被る。そうして辿りついたのは古びた寺だった。
「ここ……」
そう呟いた途端、強い風が吹き、冷たい雨が頬を叩いた。
「どうしました?」
「ここになんかいんの?」
俺の言葉に少女が目を見張った。俺はそんな少女の様子を見て内心でやっぱり、と呟く。
「行くぞ」
「え?」
俺は戸惑う少女などお構いなしに歩き出した。
どうして思い出せなかった? どうして忘れていた? どうして気付けなかった?
こいつは、何も変わっていないというのに。
俺が小学生の頃、捨て猫を見つけた。すぐにでも持って帰りたかったが、無理だということは分かっていた。だから、隠れながら世話をすることにした。それからしばらく経って、俺がいつも場所に訪れると先客がいた。それは、同じクラスの女子だった。あまり話すような仲じゃなかったけど、猫を通じて仲良くなった。二人で猫の世話をしながら色んな事を話した。詳しいことは覚えていないが、とても鮮明に思い出せるのは、その女子は彼岸花がとても好きだったということだ。でもそんな楽しい日々は突然終わった。女子が事故に遭って死んだのだ。電車に轢かれて、だという。
「なあ、どうして幽霊っているんだろうな」
目的の場所へ向かう途中、いつの間にか雨は上がっており、傘を畳みながら俺は少し後ろを歩く少女に尋ねた。
「分かる訳ないじゃないですか」
そう答える少女がどんな表情をしていたのか俺には分からなかった。俺はただ、だよな、とだけ呟いた。
そうして目的の場所に辿り着く。
「ここは……?」
「俺の家。ここで待ってろ」
少女にそう言うと俺は家の中に入り、目的のものを抱いて少女のところに戻った。
「その子……」
「俺らが世話していた猫だ。お前が死んだ後、俺が親に頼みこんで飼うことにしたんだ」
俺は抱えていた猫を降ろしながらそう言うと、少女はそう、とだけ呟いた。動物は幽霊が見えるというが、本当のところよく分からない。けど、少女の足元まで行くとしっかり少女の方を見て一声鳴いた。それに少女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかい笑顔を見せた。
すると、少女の体が淡い光で包まれた。
「お迎えってやつだね」
少女はそう言って笑った。その表情は嬉しそうな、泣きそうなものだった。
「最後に、質問いいかな?」
「ああ」
「私の好きな彼岸花の花言葉、分かる?」
光の中、少女が淡く笑う。俺はそれにしっかりと、ああ、と答える。それに嬉しそうに少女は笑った。
「それじゃあ、またね」
「ああ。またどこかで」
「「〝また会える日を楽しみに〟してる」」
ふわりと笑った笑顔が夏の空に溶けて行った。俺たちを通り過ぎて行った風は、いつもよりも柔らかい温もりで俺の頬を撫でた。そして、近くに咲いていた彼岸花をかすかに揺らしてどこかへ去って行った。