表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

僕たちが輝いていたあの時

作者: 星章治


 「本田一幸ほんだかずゆき 様

 寒くなってきました。私の住んでいるところはあなたが住んでいるところより少し海側なので、少し暖かいのかもしれません。最近あなたの夢を見るようになってきました。会ったこともないのに、夢を見るなんておかしいですよね。わたしとあなたは冬の海岸を散歩しています。ふたりで黙って歩いているだけなのです。でもわたしはとっても幸せな気持ちで一杯になるのです。

 中間試験はどうでしたか? 私は全然だめでした。あんなに勉強したのに、全然できませんでした。頭悪いんですね。でもわたしは大学に行くわけじゃないから、勉強なんてできなくてもいいんです。奈緒美からは、黙って旅館の女将になれるなんて羨ましいといわれています。でもわたしは本当は全然旅館の女将なんかに向いていないと思います。奈緒美のほうがよっぽど旅館の女将向き。でもそういうのって不思議ですよね。わたしみたいのが旅館の娘に生まれて、一幸さんが銀行にお勤めのお父さんがいて。親って、わたしたちが選べないですものね。これでわたしからの10回目の手紙です。やっと会えるんですよね。楽しみです。わたしはとってもブスな女の子です。だから、会ったら、一幸さんは、もう二度と会ってくれなくなるかもしれません。でもいいんです。それでもあなたに会いたい。 多恵」


 僕が高校生だった頃は携帯電話もインターネットもなかった。電話はあったけれど、友達同士の電話で長く話していると親に注意された。文通なんてやっているのは少なかった。

 たまたま雑誌で見つけた文通希望の女の子に出してみたら、返事が返ってきた。山村多恵っていう名前がすごく気に入った。

 僕は部活でバレーボールをやっていた。三年生になって、関東大会予選が終わると引退になる。公式戦で一度も勝ったことのないチームだったけれど、その最後の試合でベスト8に入ってしまった。ミラクルである。僕は第2エースといって、二番手のアタッカーだ。一年生の時はセッターをやっていた。二年生になって、三年生が引退してからは、アタッカーに転向した。やっぱりアタッカーの方が格好がいいと思ったのだ。それまでもアタック練習はしていたからさして問題はなかった。

 そして三年生になって、4月29日、その日は天皇誕生日で祝日だった。この日を最後に引退だ。もう練習しなくていい。僕はバレーボールがもちろん嫌いじゃなかったけれど練習はそれほど好きじゃなかった。努力なんていう言葉も好きじゃなかったし、根性なんていう言葉は一番嫌いだった。

 試合当日は、雨になった。僕たちの時代はバレーボールは屋外スポーツだった。雨が降らなければ外で試合がある。雨の場合は体育館で試合が行われる。僕たちのチームは体育館での試合には強かった。でもそれは、外の試合に比べてという程度の話だ。

 しかしミラクルというのは実際にあるのだ。一回戦、二回戦をストレート勝ちした。でもここまでは、有り得る話だ。神奈川県は高校の数も多い。強いチームもたくさんあるけど、弱いチームだってたくさんある。公立高校同士なら、その日の運で勝敗は決まる。

 三回戦が不戦勝だった。二回戦まで勝ち上がったチームが出られない。ここからがミラクルの始まりだった。次の試合に勝つとブロック優勝である。相手はシード校。身長は僕らより10cmも高い。全員坊主頭。そして鉢巻。バレーボール強豪校の定番スタイルだ。

 僕たちは長髪とはいわないが、相手から見たらひ弱に見えたに違いない。誰が予想したって僕らのチームが勝つほうに賭けることはない。対戦する僕自身が、怪我だけはしたくないよな、と思ったのだから。ところが勝ってしまったのだ。それもストレートで。

 僕はこの時、始めてミラクルを体験した。神さまなのかどうかはわからないが、目には見えない何か特別なものの存在がこの世にはあることを実感した。相手のスパイクはことごとく外れる。僕のへなちょこサーブがサービスエースになる。もう見えない意志が僕たちのチームを勝たせようとしているとしか思えなかったのだ。でも僕はここでの勝利などは望んでいなかった。ここでの勝利は関東大会への出場を意味する。

 つまり、後一ヶ月間はまた練習をしなければいけないのだ。勝った瞬間は確かにうれしかった。今まで勝ったことがなかったのだから。それが、一日で3回も勝ってしまったのだ。しかし、帰りの電車の中で、キャプテンが「明日も練習な」と云った時に我に返った。

 結局関東大会では一回戦で負けた。フルセットの熱戦だった。今から思えばいい思い出だ。僕たちが関東大会に出場してから今日まで、僕の母校の男子バレーボール部は関東大会に出場していない。



 「山村多恵やまむらたえ 様

 10回目の手紙ありがとう。多恵さんが僕の夢を見てくれるなんて最高です。僕もこの日を待ちに待っていました。やっと多恵さんに会えるのですから。中間テストは僕も全然だめでした。でも赤点さえ取らなければ卒業できるので、別にいいんです。僕は私立文系ですから、国語と英語と社会、僕は世界史で受けるつもりですけど、さえやっておけばいいんです。推薦で入れるところもありますけど、僕の成績じゃたいした大学には入れません。早稲田、慶応、上智ぐらいに入らないと、とは思ってますけど、たぶん現役では無理ですね。浪人覚悟です。なんか浪人も悪くないなって思い始めました。まだ受験もしていないのに浪人の話ですから、僕の実力もわかるでしょ。

 僕も決して美男子ではありません。僕の方こそ幻滅させてしまうことになるかもしれません。でも僕もそれはそれでいいと思ってます。

 多恵さんの夢のように海岸でデートなんてロマンチックですよね。北鎌倉の駅で待ち合わせ、っていうのはどうですか。あそこは小さい駅だからすぐわかるはずです。でもいつにしましょうか。多恵さんの方が遠いですから、日にちは任せます。僕は日曜日ならいつでも大丈夫です。というより、平日だって僕は平気ですけど、多恵さんは、学校をさぼるなんてしたことないでしょう。僕は時々あります。その話は会った時にしますね。僕は学校をさぼって、友達と何回か鎌倉をうろうろしましたから、鎌倉は結構詳しいんです。11回目の返事をお待ちしています。 一幸」


 関東大会での試合が終わったその夜、バレー部のOBがごちそうしてくれるという。関東大会の試合は僕たちの高校の体育館で行われた。前の年に体育館を新しくしたからなのか、顧問の先生がバレーボール協会のおえらいさんをしていた関係だったのかはわからない。もちろん会場は僕たちの高校の生徒がたくさん見に来てくれた。それも土曜日の午後だったから、文化祭を凌ぐ観衆だった。お袋も観に来ていた。

 僕の通っていた高校は元女子高なので、男女共学になってからも生徒の数では女子の方が圧倒的に多かった。女子には人気の高校だったのだ。そして美人が多かった。僕は好きな子はいたけど、付き合っている子はいなかった。僕は一年生の頃からバンド活動をしていた。一年の頃はドラム、二年からはギターとリードボーカルになった。軽音楽クラブではなくてプライベートバンドだ。 そのバンド仲間もOBがごちそうしてくれる飲み屋に遊びにきた。高校生を飲み屋に誘うOBもOBだが、僕たちもそれほど不思議な気はしなかった。もちろん制服姿で飲んだわけではない。私服に着替えてきたのだ。たらふく飲んで、たらふく食べた。すでにタバコは吸っていたが、その時吸ったかどうかは覚えていない。結構遅くまで飲んでいた。友達がもう帰る電車がないという。僕の家はその飲み屋から歩いて20分ぐらいのところにあった。駅前でちゃりんこをかっぱらって、みんなでちゃりんこで僕の家に向かった。しかし誰もちゃりんこでは僕の家にたどり着かなかった。酔っ払っていると自転車の運転ができないことがわかった。

 この日から僕の楽しい高校生活が始まった。その時はそう思っていた。クラブ活動がないという生活を今までしたことがなかったのだ。しかし授業が終わってもすることがないというのは淋しいものだ。まだ夏休み前だ。受験勉強なんかやる気分じゃない。はなから現役での合格はあきらめている。ベースの西山が懇意にしている喫茶店でうだを巻く。喫茶店といっても楕円のカウンターだけの店で、10人も入るといっぱいになる。ここには、かんちゃんという同じ年の子がアルバイトをしている。午後6時まで店で働いて、その後定時制高校に通っている。定時制は4年で卒業になる。

 僕が多恵さんと文通を始めるようになったのは、夏休みはどこの予備校に通うかがもっぱらの話題になる時期だった。僕は私立文系志望だけれど、すでに心の中では現役での合格はあきらめていた。そりゃあ、二流の大学には入れるかもしれない。でも折角大学に行くなら名前を聞かれて、一応は『すっげえじゃん』て言われるぐらいの大学に入らなければ意味がない。それはどこかと言えば、早稲田、慶応、上智の私立御三家だ。学部は正直どこでもいい。どこでもいいが、経済も法律もピンとこない。たぶん大学を卒業して親父のようにサラリーマンになるんだろうけど、その時は社会の仕組みがよくわかっていなかった。単に本を読むのが好きだったということで、文学部志望になった。

 中学、高校とほとんどの学生が読んでいる雑誌があった。O出版の『時代』とG出版の『コース』というシリーズだ。『時代』だと、高一時代とか、高二時代とかの名前になって、『コース』だと、高一コースとか、高二コースになる。高校三年生になると、もっぱらそれらの雑誌のメインテーマは、大学受験に絞られてくる。そんな中に、読者のページがあって、文通のコーナーがあった。文通希望の男女が自分の紹介をして、こういう子と文通がしたいと書く。 因みに、多恵さんの文章は、

 「将来は、スチュワーデスになっていろいろな国に行ってみたいですけど、背も低いし、スタイルもよくないので、無理みたい。まじめな人で私の悩みを聞いてくれる人。 山村多恵 神奈川県」と書かれていた。

 僕はこのコーナーを読むのが好きだった。どこまで本当の事を書いているのかと思ったし、こんなプライベートなことをよく書けるなとか、まあ、難癖をつけるのが楽しかったのだ。もし、その記載されている人と文通を希望する場合は編集部に「何番の誰々と文通を希望する」と書いて、本人が気に入るような文章を沿えて送る。編集部からは、文通希望のハガキや手紙が書いた本人に郵送されて、その本人は送られてきた人で気に入れば返事を書く、というシステムになっている。

 これまで僕はこのコーナーを毎月楽しみに読んでいたが、応募したことはなかった。それはこちらで書いたものが、編集部に一度見られるというシステムがどうもいやだったのだ。ラブレターを他人に見られる感覚だから。

 しかしその月からシステムが変わった。もちろん編集部に見られることに何の抵抗も感じない人はそれまでと同じでいい。ハガキでの応募も可能だ。しかし、自分の手紙を直接本人に渡して欲しい人は、宛先の文通コーナー係の後に、番号を入れることになった。毎回紹介される文通希望には、番号があって、その時の多恵さんは、18番だった。



 「山村多恵 様

 僕も同じ神奈川県に住む高校三年の受験生です。文通コーナーは毎回楽しみに読んでいたのですが、こうして応募するのは初めてです。文通そのものが全く初めてです。正直に書きますけど、多恵さんという名前が僕、すごく気に入りました。どうしてかはわかりません。知っている人にも多恵という名前があるわけではないので、本当にわからないのですけど、どうしても会ってみないなって思うようになったので、手紙を書きました。それと、今回から、編集部から直接本人に手紙が渡るようになったのも、僕にとってはうれしい変更です。

 きっとたくさんの手紙がそちらに行くでしょうから、僕のことをたくさん書いておかなければいけないとは思うんですけど、そんなに書くようなことがたくさんないんです。正直でしょう? 

 僕は、県立YH高校の三年生で、ずーとバレーボール部にいて、つい最近引退しました。ひとつ自慢話があります。関東大会に出場しました。多恵さんの通っている高校のバレー部の人に聞いてみてください。嘘じゃないですから。そして僕の高校は本当は強い高校じゃないっていうこともわかると思います。僕たちが関東大会に出られたのはミラクルだったんです。ミラクルって本当にあるんです。僕と文通すれば、そのミラクルを知ることができます。

 多恵さんからのお返事お待ちしています。 本間一幸」


 最初はこの文通を一種のゲームのように捉えていた。文通希望欄に載せてくる女なんか碌な女ではないと思っていた。だから、その手紙を編集部宛に送ったら、もうそれで完結してしまった気がしていた。返事が返ってくるなんて思ってもいなかったのだ。

 僕は夏休みに予備校へ通わないことにした。その代わりに、英語学校に行くことにした。それは、NHKの『英語会話』で有名な先生が作った英語学校の大学受験コースだった。もちろん英語の授業しかやらない。しかし『真の英語力をつけて、大学の受験英語に挑戦』というコピーに惹かれた。NHKの英語放送は毎日聞いている。その先生のやることに間違いがあるはずがない。思い込みだけど、その時はこれしかないと思っていた。バレー部の同期のキャプテンも同じ事を考えていた。

 そして明日から夏休みが始まるという7月20日、高校三年生の一学期の終業式の日に多恵さんからの手紙が届いた。山村多恵との文通の始まりである。




 「本間一幸 様

 文通希望のお手紙ありがとうございました。何となく出した文通希望が雑誌に取り上げられて、それだけでびっくりなんですけど、わたしへの文通希望の手紙がもうそれは全国からたくさん寄せられてきました。編集部からまとめて送られてきたのですけど、一回だけじゃなくて、何度も何度もたくさん来ました。本当は全部見なくちゃいけないんでしょうけど、とっても全部見ることができません。それに、何人もの人と文通をするっていうわけにも行きませんから、まずは、何て失礼ですけど、同じ神奈川県の方で『ミラクル』を知りたかったのでお返事書きました。私は神奈川県でも静岡に近い湯河原に住んでいます。県立SS高校に通っています。わたしも今まで文通はしたことがありません。だから、そんなに文通に憧れていたっていうわけでもないんです。でもこんなにたくさん返事がきて、その一つにまた返事を書いているっていうのが何かとても不思議な感じがしています。そんなに頻繁に書いてもらわなくてもいいんですけど、『ミラクル』のことだけは早く教えてください。それから、私の多恵っていう名前を気にいってくれたことがとてもうれしかった。私もこの多恵って名前が気に入っているのです。聞いた訳じゃないんですけど、きっと両親が『たくさん恵があるように』って付けたのだと思うのです。一幸さんもたぶんご両親は、『幸福に育ちますように』って名前を付けたのでしょう。

 これからもよろしくお願いします。お返事お待ちしています。山村多恵」


 まるで宝くじに当たったような気がした。確率でいけば、宝くじとはいわないが、競馬で当てるよりも大変なことのように思われた。今、競馬をやるならハイセイコーを買っておけば間違いがない。僕はそこに書いてある内容よりも、返事がきたことがうれしくてしかたがなかった。こんなすごい話題を独り占めにしておくことができなかった。バンド仲間に早速電話して、このことを伝えたかった。ベースの西山、リードギターの大川、ドラムの澤田と次々に電話を入れたが、誰一人として自宅にいなかった。携帯電話もメールもない時代では、電話で繋がらなければ、それ以外の伝達手段はない。まさか、手紙で書くことでもない。そして僕は早速返信を多恵さんに書いた。



 「山村多恵 様

 本当にびっくりです。まさか、返事をもらえるなんて、それこそ夢にも思っていませんでした。神奈川県て広いですよね。僕は相鉄線のT駅ですから、多恵さんの住んでいる湯河原まで、2時間以上はかかると思います。湯河原って、温泉ですよね。熱海には行ったことがあります。地図で見たら、熱海の手前なんですね。真鶴にも行ったことがあるんですけど、湯河原には行ったことがありません。多恵さんて、旅館の娘さんでしょ。そんな気がするんです。というより、湯河原、温泉、旅館しか発想が浮かばないんです。淋しい発想ですよね。

 約束ですから、『ミラクル』の話をします。僕の通っている高校はご存知かもしれませんけど、元女子高校で、スポーツで強いクラブなんてほとんどないんです。しいて言えば、女子のバスケットとか、女子の卓球とか、女子は結構強いんですけど、男子は生徒も少ないしみんな軟派ですから、バレー部だけじゃなくてどこのクラブも関東大会なんかに出られません。それなのにどうして、僕らのチームだけ、強豪のひしめく神奈川県で関東大会に出られたのか。だから、奇跡、ミラクルなんです。僕らのチームは、僕らの代になって、これまで公式戦で勝ったことがなかったんです。新人戦から始まって、市大会、県大会、国体予選、関東大会予選で引退というのが一年の流れです。その関東大会予選まで、僕らのチームは一勝もしていないのです。一回戦でことごとく負けているんです。そんなチームが急に強くなるはずがありません。見えない力が僕たちを関東大会にやらせたのです。でもそれは、少なくともチームの全員が強い思い、つまり、みんなが関東大会に出たくてしかたがなかったのかといえば、そうではないと思うのです。少なくとも僕は関東大会に出場できるなどとは想像もしたことがありませんでした。言葉を変えれば、誰も想像すらできない出来事だったのです。これはやっぱりミラクルです。この世にはミラクルが起こるということがわかっただけでも僕はすごいことだと思います。この世にはもう想像を越えたことが起こるのです。ひょっとしたら、多恵さんから返事をもらえたこともミラクルかもしれません。これから僕もたくさん書きますけど、多恵さんもいろいろなことを書いてください。それにしても暑いですね。僕のうちはクーラーなんかありませんから、暑くて。昨日から受験対策で、英語学校に通い始めました。渋谷にあるんですけど、そこは、クーラーが利いていて涼しいんです。

 それでは、次の返事をお待ちしています。 本間一幸」


 この年はミュンヘンでオリンピックが行われた年だった。そして日本男子バレーボールは、念願の金メダルを獲得した。オリンピックが始まる前から、アニメと実写の混じった『ミュンヘンへの道』という日本男子バレーボールチームを応援する番組が作られたほど、男子バレーボールは人気があった。もう引退してしまってはいたが、バレーボールをやっているということだけで、何故か誇らしい気持ちがしたものだ。

 20日間の英語学校の授業も終わって、残りの夏休みはぶらぶらして過ごした。一応毎日受験勉強はしていたが、楽しみは多恵さんからの手紙だった。

 もう最近は来たら、翌日には返事を書いた。そして多恵さんからも一週間以内にはその返事が来るようになった。そして僕たちは10回この文通が続いたら、会おうと約束した。そして多恵さんから10回目の手紙が届き、僕たちは北鎌倉で待ち合わせをして会うことになった。



 「本間一幸 様

 鎌倉って私も好きです。といっても中学の時に大仏様を見に行ったぐらいしか記憶がありません。26日の日曜日はどうですか。もし都合が悪ければ電話をしてください。0465-xxx-xxxxです。それから、一幸さんのバンドでやっている『はっぴーえんど』っていうグループのLPを買いました。とってもいい曲もあるんですけど、わたしにはちょっとむずかしい気がするんです。吉田拓郎も好きなんですよね。それと、一幸さんは、天地真理のファンですよね。なんか、『はっぴーえんど』と結びつかないんですけど。でも会って、たくさんお話ができますよね。文通って、やっぱり一方通行だからすごくまどろっこしい気がするんです。早く会いたい。でももうすぐ会えますね。本当に楽しみにしています。そうそう、初めて会うからわからないといけないので、わたしは『はっぴいえんど』のLPを持って行きます。まさか、何人もそんなLPを持って北鎌倉の駅にいないですよね。ちょうどお昼の12時に北鎌倉の駅でお待ちしています。多恵」


 単調な毎日が続いていた。朝は毎日同じ時間に弁当を持って家を出る。6時間授業の時は午後3時には授業が終わる。そのまま帰ることもあるし、寛ちゃんのいる喫茶店に寄って帰る時もある。 ベースの西山が、寛ちゃんの喫茶店でバイトをするようになった。喫茶店のオーナーが寛ちゃん一人だと大変なので、学校が終わってから、寛ちゃんが定時制に行くのに抜ける6時までやるらしい。

 リードギターの大川は、パチンコ好きでしょっちゅうパチンコをしている。それも学生服で。まあ、たばこを只でもらえるから、助かるといえば助かる。 先週は授業をさぼって近くのボーリング場でボーリングをしていた。危うく補導されそうになった。タバコを吸っていなかったのがよかったのだ。やっぱり制服でタバコはまずい。学校の屋上でタバコを吸ってた時も見つかりそうになった。そりゃあ、たばこの臭いは残るから、先生だって気づいているに違いない。

 そんな単調な毎日だけど、多恵さんとの文通だけが楽しみだった。僕が文通をしていることは、みんな知っているけど、あんまり最近は僕も話さなくなったので、話題にもならなくなってきた。聞かれなければ別にこちらから話すこともない。今は誰も僕と多恵さんの文通が続いているとは思っていないかもしれない。



 一学期の中間試験が終わって、ジメジメした梅雨にさいかかる頃、僕とベースの西山、リードギターの大川、そして卓球部の長田と授業をさぼって鎌倉をヒッチハイクで周ったことがあった。あじさい寺がこの季節はいいなどと柄にもないことを言い出したのだ。

 北鎌倉の駅は、駅舎が小さくて、下り線は長いプラットホームの一番前に改札口があった。この鎌倉めぐりは、お金を使わないことを決め事としていた。横浜から最低限の切符を買ったが、ちゃんと改札口から出るわけにはいかない。そして北鎌倉の長いプラットホームの後ろの金網が人一人通れるぐらいの穴があいていた。僕たちは誰も見ていないことを確認してそこから外に出た。


 約束の日、多恵さんと初めて会う日は朝から晴天だった。僕の家から北鎌倉までは、1時間半ぐらいかかる。今日は西山たちとヒッチハイクをした時とは違って、交通費もかかれば食事もしなければならない。食事代は僕が出すのかなあ、なんて心配もした。お袋には友達と会うということで、2000円小遣いの前借をした。何を着ていくかで迷った。着るものがたくさんあって迷ったわけではない。バリエーションなどほとんどない。いつもは学校から帰るとジャージーの上下だ。普段着のスラックスは夏用と冬用の2本しかない。その夏用か冬用かで迷ったのだ。この時期の気候は暑くもなく、寒くもなくで、いい気候といえばそうなんだけど、そのちょうどいい気候の時に着るものがない。今まで何を着ようかなどと迷うべきシチュエーションがなかったのだ。

 中学3年の時に一回、転校してきた女の子とデートしたことがある。あの時はどんな格好をして行ったんだっけ。その彼女は赤地に黒のターターンチェックの膝まであるスカートを履いていた。白いブラウスがすごく清楚だった。でも自分が何を着てたかなんて全然覚えていない。季節は春だったけど。

 とりあえず、天気がいいし、暖かそうなので、ズボンは夏仕様でいくことにした。上は、厚手のウエスタンシャツに薄手のセーターでいい。遅れるわけにはいかないので、待ち合わせ時間の2時間前に家を出た。僕は多恵さんの顔を知らない。しかし手紙のやりとりをしているうちにひとつのイメージが出来てきていた。多恵という名前を目にした時からもうすでにイメージができていたのかもしれない。今ではもう完全に頭の中では一人の完全な女性像が出来上がっていた。でもできるだけそのイメージを捨てるようにしようと思った。どうしたって、イメージの方が美人に決まってる。イメージより実物がいいはずはないのだ。だから、僕は電車の中ではそのイメージを払拭することに専念した。

 電車の中では文庫本を読もうとした。石川達三の「青春の蹉跌」、本当は今、野坂昭如に凝っている。だけど、野坂さんの本はあまり女の子に見せられない。一度読んだけど石川達三を持ってきた。多恵さんのことを考えないようにしようとすると、余計に多恵さんのイメージばかりがふくらんだ。文庫本の字面だけを目が追っていた。

 横浜から北鎌倉までは約30分。このまま行ったら早過ぎてしまう。ふたつぐらい後の電車で十分だ。僕は見慣れない時刻表で湯河原がどこにあるのか確かめていた。神奈川県のはずれに位置するけれど、北鎌倉までなら僕の家からと所要時間はそう変わらないかもしれない。

僕は約束の時間より15分ぐらい前に北鎌倉に着く電車に乗った。北鎌倉の駅の改札が前の方にあるのは知っていたけど、一番後ろの車両に乗った。プラットホームの一番後ろの金網にまだ穴があいているのかを確かめたかったからだ。

 もう僕は文庫本を読むのは止めた。どうせ読んでなんかいないのだから。心臓の鼓動が激しくなってきた。どうしてなのかはわからない。今までにない緊張感だ。正直、こんな風になるなんて想像もしていなかった。もう周りは何も見えてこない。

 横浜から大船の次が北鎌倉だ。一瞬、大船で多恵さんが乗ってくるのではないかと考えた。湯河原からだと、東海道本線で、大船まで来て、そこから横須賀線に乗り換える。日曜日の午後だからものすごく人の乗り降りが多い。そして僕は多恵さんの顔を知らない。僕の乗っている一番後ろの車両には僕がイメージした多恵さんは乗ってこなかった。

 大船から北鎌倉までは、たったの3分しかかからない。何だかこの緊張感から逃げ出したくなった。会いたい気持ちとこのどうしようもない緊張感の狭間で僕は頭が真っ白になった。

 北鎌倉で降りないでそのまま乗り続ける、という考えが頭をぎった。でも過ぎっただけで、僕は夢遊病者のように北鎌倉のプラットホームに降りた。

 お金を使わない鎌倉巡りの日に外に出た、あの金網の穴はまだ修理されていない。それは僕たちが穴を抜けたのを見られなかったからだと思った。そんなことを考えていたら少しずつ冷静になってきた。

 僕は電車から降りた客の一番後ろから誰も抜かさないでゆっくり改札に歩いていった。そしてまだ改札まではだいぶあるのに改札の向こうで光り輝いている女の子を見つけた。それは、視覚で見たのではなくて僕の別な器官が感じたのだと思う。だって最近は目が悪くなってきて眼鏡を作ったばかりなのだ。普段は眼鏡をかけないが、黒板の字を見るのには必要だった。そして映画も眼鏡が必要になってきていた。

 どんどん改札に近づいて、その光り輝いている女の子の手に『はっぴいえんど』のLPがあるのを確認した。僕は大声を上げそうになった。また、ミラクルが起こったのだ。

 僕の持っているイメージが何て貧困だったのかと思った。美人が多い僕の通っている高校にもこんなきれいな子はいない。

 多恵さんは『はっぴいえんど』のLPをまるで共同募金の募金箱を持つような格好で持っていた。そして僕が改札を抜ける時には僕が一幸だということを確信しているようだった。

 僕は改札を出て真っ直ぐ多恵さんの前に歩いていった。そして僕が声を発する前に、多恵さんが口を開いた。

 「一幸さん?やっぱりそうだ」

 多恵さんはそう言って、とってもうれしそうな顔をした。

 「本田一幸です。多恵さんですよね」

 僕は自然に口から言葉が出た。

 「山村多恵です。わたし、すごく後ろの方からもうあなたが一幸さんだってわかりました。だって、あなたはわたしが考えていた通りの人なんですもん」

 「僕もわかりましたよ。だって、多恵さん、輝いているんだから。そう、本当に光っているんです」


 僕たちは並んで歩いた。僕はバレーボール選手としては決して大きい方ではなかったけれど、174cmあった。そして多恵さんもちびではなかった。たぶん女の子としては大きい方ではないのかと思う。160cmぐらいだろうか。

 僕は得意の絶頂にあった。こんなきれいな子を連れて歩いている。みんな僕を羨んでいるに違いない。多恵さんは僕の彼女なんだ。

 「多恵さん、全然ちびじゃないですよ。スチュワーデスになれるじゃないですか」

 「最近、身長伸びてきたの。夏休みぐらいから。でも父も母も私がスチュワーデスの試験を受けることには反対なんです。早く旅館の女将になる修行をしろって」

 「旅館の女将の修行ってどんなことをするんですか?」

 「母は、茶道と華道と踊りをやれって言ってます。高校までは好きにさせてきたのだからって」

 「でも、多恵さんはスチュワーデスになりたいんでしょ」

 「昔からずーとスチュワーデスになりたかったの。でも身長制限があって、160cm以上じゃないと試験も受けられないの」


 僕たちはどこに行くというよりも人の流れに乗って歩いているだけだった。隣に多恵さんがいて、話をしているだけで幸せだった。その、人の流れは円覚寺に向かっていた。

 「一幸さんが前にお友達と鎌倉に来た時はどこを見て周ったの?」

 「学校をさぼって鎌倉見物なんてすごいでしょ。それもお金をかけないで。ずるもしたんですよ。さっきの北鎌倉の駅では改札を通らないで外に出ちゃいましたから」

 「えーえ。見つからなかったんですか?」

 「今日はたくさん乗り降りがあるけど、平日の10時頃はがらがらなんです。それにプラットホームがすごく長くて、改札が前だから、駅員さんには見えないんだ」

 「あの時も円覚寺に最初に行ったんだけど、何か山の中から入ったんだよね。この道は通らなかった」

 僕は学校をさぼって鎌倉をヒッチハイクして周った話をちょっとオーバーにまるで冒険談のように多恵さんに話した。

 「男の人っていいわよね。こんなこと絶対に出来ない。まず学校をさぼることがわたしできないんです」

 「それが当たり前なんだよ。僕らが不良なんだ。僕の高校だって、学校をサボる奴は本当に一部の人間だよ」

 僕は自分が不良なんだっていうところを強調した。まじめな高校生なんて格好悪いと思っていたから。

 「一幸さんはタバコも吸うんですか?」

 「そんなにたくさんは吸わないけど、高校二年の時から吸ってる。校舎の屋上が喫煙所になっている。それとラグビー部の部室」

 「今日もタバコを持っているんですか?」

 「今日は持ってない。外ではあまり吸わないんだ。学校で仲間と吸うのが楽しいんだ。でも最近家でも、勉強していて、いらいらすると吸うようになった」

 前は、家では吸わなかった。でも最近は家に買い置きがある。親父もタバコを吸うけど、親父の「しんせい」は両切りでとっても吸えたもんじゃない。セブンスターかチェリーがいい。ショートホープが格好いいけど、強過ぎる。

 「父もタバコを吸ってたんですけど、最近体調が悪いみたいで吸わなくなりました。お酒もあんまり飲まなくなったし」

 「お父さんいくつ?」

 「43か44ぐらいかな。厄年だとかって去年言ってた気がします」

 「若いんだね。うちの親父はもう55ぐらいだから、定年も近いね」

 「私の家は旅館で、父は養子なんです。母が一人っ子で父を養子にもらって、私も一人っ子だから養子をもらわなければならないんです」

 「僕、多恵さんといっしょになれるなら養子でもいいな」

 僕の口から自然にそんな言葉が出た。自分でも信じられないくらい自然に。

 「でも一幸さんは、長男でしょ」

 「確かに長男だけど、親父はサラリーマンだから、別に継ぐような家じゃない。そんなに由緒がある家系じゃないけど、姉貴がいるから姉貴が養子を取ればいい」

 僕は本当に多恵さんと結婚することを考えた。初めて会ったけど、多恵さんみたいな人にこれから会えるなんて考えられなかった。


 僕たちは円覚寺の後、建長寺を通って、鶴岡八幡宮まで歩くことにした。もっともポピュラーな鎌倉めぐりだった。

 「おなかすいちゃったね。何食べる?」

 僕は多恵さんに聞いた。まだ会ってから2時間も経っていないのに僕たちはまるで恋人同士のような気がしていた。

 「何でもいいわ。一幸さんの食べたいもので」

 「そうだなあ、スパゲッティーにしようか。鎌倉って、僕には洋食っていう感じがするんだ」

 「わたしも同感。洋食のお店とか、喫茶店がすごくこの街に合ってる気がする」

 僕たちは八幡宮から鎌倉駅に向かう道に並ぶお店の中にある洋食屋さんに入ることにした。

 「何時までに帰らなきゃいけないの?」

 僕はもうそのことが気に掛かっていた。ずーと多恵さんと居ることはできないのは、もちろん考えればわかるけど、できればもっと長く多恵さんといっしょにいたかった。

 「わたしのうちは、湯河原の駅からバスでいかなきゃならないの。日曜日はバスが7時で終わっちゃうから、そのバスに乗るとすると5時にはこの辺をでないとならないわ」

 「えっ、もう後3時間もないじゃん。もっと早く待ち合わせればよかったね」

 「バスがなくなったら、番頭さんに駅まで迎えに来てもらう。わたしももっと一幸さんといっしょにいたい」


 本当にこんなに幸せな気持ちになったのは初めてだった。僕は多恵さんにこの場で抱きつきたかった。もうこの時間が長く続いてくれと祈るしかなかった。

 僕たちはそこで、スパゲティーのナポリタンとコーヒーを飲んで、食べながらもたくさん話しをした。僕は多恵さんの全てを知りたかった。多恵さんも僕のことをたくさん質問した。そんなに居るつもりじゃなかったけど、その洋食屋に1時間もいた。多恵さんは9時ぐらいまでに帰ればいいと言ってくれた。だから8時ぐらいまではいっしょにいられる。後5時間。僕にはそれでもものすごく短い時間に感じられた。


 僕たちは江ノ電に乗って大仏を見に行くことにした。本当は何でもよかったのだ、いっしょにいられれば。僕たちは途中から自然に手を繋ぎ出した。多恵さんの手は柔らかかった。街の中を走る江ノ電に多恵さんはキャッキャと言って喜んだ。その時、多恵さんは僕の左腕に抱きついてきた。すごく自然に。多恵さんの胸の感触が僕の脳幹を刺激した。僕は多恵さんのおっぱいを想像した。想像したけど、イメージできなかった。『平凡パンチ』のグラビアでしか女の裸を見たことがなかったのだ。

 長谷で降りて、大仏のある高徳院というお寺まで歩いた。僕は「中学三年の修学旅行で見た奈良の大仏に比べるとここの大仏はすごく小さい」なんてことを言ったら、多恵さんもうれしそうに「わたしもそう思う」と言ってくれた。

 大仏の帰りに長谷寺に寄った。ここは見晴台から相模湾が展望できる。日暮れ前の太陽はどこか淋しそうだった。僕も多恵さんも黙って、夕陽にきらめく海をしばらく眺めていた。

 「多恵さんの夢のように海岸を歩こうよ。もうすぐ日が暮れる」

 「本当に夢みたい。うんん、これって夢じゃないのよね」

 僕もまるで夢を見ているようだった。もし夢なら醒めないで欲しい。

 僕たちは急いで、来た道を戻った。江ノ電の長谷駅を越えてもっと歩くと海岸沿いを走る国道に突き当たる。その国道の先はもう海岸で、国道から階段で降りることができる。僕たちは信号もない国道を走って突っ切った。太陽は今にも隠れる寸前で、海は赤く輝いていた。砂浜には今まで遊んでいた子供たちや親子連れが帰っていくところだった。そして残っているのは、何組かのアベックだけになった。

 僕と多恵さんは砂浜を駆けて水際に出た。穏やかな波が寄せたり引いたりしていた。その波の音がその他の全ての音を消した。僕と多恵さんは子供のようにその寄せたり引いたりする波にあわせてはしゃぎまわった。そしてこの幸せが続くことを祈った。

 海の色が急激に赤から黒へ変わっていった。そして気が付くと月明かりが僕らを照らしていた。僕たちは寄り添うようにして浜辺をゆっくり歩いた。多恵さんが10回目の手紙に書いてきたように黙って歩いた。多恵さんの鼓動と温もりが感じられた。僕は多恵さんを抱きしめたかった。もう我慢ができなかったのだ。

 僕は止まると寄り添う多恵さんの顔を見つめた。多恵さんの目も潤んでいるように見えた。そして多恵さんは目を瞑った。そして僕は生まれて初めてキスをした。そして僕の頭は真っ白になった。

 僕と多恵さんはテトラポットの上に座って、抱き合ってキスをした。僕は始めてのキスで始めての抱擁だったけど、多恵さんは初めてではなかったと思う。多恵さんのキスはとってもじょうずだった。僕の口の中に多恵さんの舌が入ってきた。僕はそんなキスの方法を知らなかったのだ。

 時間は意地悪だった。何度も何度もキスをして僕たちは言葉の代わりにまたキスをした。そして気がついた時には時計の針は午後7時を廻っていた。

 大急ぎで砂浜を走った。手を繋ぎながら。そして僕らは転げた。砂まみれになった。そして笑った。でも僕たちは手を離さなかった。とっても楽しかった。とっても幸せだった。

 江ノ電はなかなか来なかった。無人駅に客は誰もいなかった。僕と多恵さんだけがベンチに腰掛けていた。

 「『はっぴいえんど』のLPが砂だらけになっちゃった」

 多恵さんは言った。

 「ねえ、こんどいつ会えるかなあ」

 僕は言った。

 「一幸さんは、これから受験勉強でしょ」

 「来年受験はするけど、たぶん浪人だよ。旅館の主人でもやっぱり大学出てたほうがいいだろう?それもちょっと有名な大学を」

 僕は少しおどけて言った。

 「一幸さんといっしょなら、旅館の女将でもいいかな」

 「どうせ旅館を継ぐなら、まだおとうさんもお母さんも丈夫なうちは、スチュワーデスをやらせてもらえばいいじゃないか。きっと、スチュワーデス上がりの旅館の女将なんて格好いいと思うな」

 僕は多恵さんがスチュワーデスの制服を着て飛行機に乗る姿を想像した。僕も目が悪くなくて、もっと頭がよければパイロットに憧れていたかもしれない。やっぱり空を飛んでみたいというのは、男も女も同じなのだ。

 「一幸さんにそう言われて、何だか勇気が出てきた。親を説得してみる」


 僕たちは鎌倉駅から横須賀線で大船まで出た。僕は多恵さんを湯河原駅まで送っていくことにした。僕は別に門限があるわけじゃない。湯河原駅の改札をでなければ、運賃を取られることはない。多恵さんは大変だからいい、と言ったが、僕はどうしてもここで別れたくなかった。何故かわからないけれど、ここで別れたらもう二度と会えないような気がしたのだ。

 東海道本線で大船から湯河原までは約1時間かかる。小田原までは十分間隔ぐらいで出ている電車も湯河原までいくのは、30分に一本ぐらいだ。そして日曜日の今日はその本数も少ないように思えた。

 車内は、空いていた。4人掛けの椅子に並んで座った。車内は暖房が効いていて、お尻が焼けそうに熱かった。僕は言った。

 「クリスマスは何してるの」

 「旅館が忙しくなって、お手伝いしなければいけないの。一月の成人の日までは、たぶん出られないわ」

 「せめていっしょに初詣には行きたいね。また鎌倉に」

 「わたしも一幸さんに毎日でも会いたい。今、わたしはとっても後悔しているの。もっと後に会えばよかったって。だって、一幸さんも受験があるし、あたしもひょっとしたら、スチュアーデスの試験を受けるかもしれない。そうしたら、それが終わるまで会えないのはわかってたんだもん」

 「でも僕たちは会っちゃったんだよ。会えば別れなければならない。僕、多恵さんに会わないのに我慢できるかなあ」

 「わたしも同じ。でもまた手紙を出し合いましょうよ。来年になって、受験が終われば何回でも会えるから」

 人を好きになるというのは理屈ではない。僕は今、多恵さんといっしょにいたいんだ。そして離れたくない。今はそれ以外何もいらない。多恵さんさえ傍にいてくれればいい。

 小田原に着いた。もうこの車両には僕と多恵さんしか乗っていなかった。僕は多恵さんの肩を抱いた。そしてまた抱きしめたくなった。別れの時が近づいていた。僕たちは湯河原駅に着くまで抱き合ってキスをした。

 

 湯河原駅に着くと、こんどは、多恵さんが僕を上りの電車が来るまで待って、見送ると言い出した。僕はそれはやめてくれといって、改札口で見送った。そんなことをしたら、僕は泣き出してしまいそうだったから。多恵さんは振り返らずに歩き出した。背中の震えで泣いているのがわかった。二度と会えないわけじゃないのに、僕もとても悲しかった。離れ離れになることが悲しかった。そして辛かった。その時は本当にこれっきり会えないとは思っていなかったのだ。

 乗り込んだ電車は東京行きの最終だった。そしてがらがらだった。もっと混んでてくれればいいのにと思った。



 「本田一幸 様

 先週の日曜日、とっても楽しかった。本当にありがとうございました。初めて会って、こんなに好きになるなんて今でも信じられません。でも、一幸さんは文通しながら、いだいていたイメージ通りの人だったので、最初に見た時は目を疑いました。こんなことあるのって。だから、別れる時はものすごく辛かった。あの後、しばらくは涙が止まりませんでした。

 父が入院しました。ずっと体調がすぐれなかったんですけど、一度よく調べた方がいいだろうということになって。でも近くの厚生年金病院なので、毎日見舞いにいけます。旅館の方は今までも母が女将で仕切ってますから心配は入りません。

 スチュワーデスの件を母には話ました。そしたら、後10年は自分が女将でやっていけるからそれまでは自由にしていいと言われました。条件は10年後には養子を取ることです。一幸さんに言われなければ話さなかったかもしれません。一幸さんの言葉で勇気が出たのです。

 これからの10年間、私は自由です。これからスチュワーデス試験の勉強をしなくっちゃ。試験は一月の末にあるんです。一幸さんの受験よりよっぽど早いんです。これから猛勉強です。でも大晦日の日は鎌倉で初日の出をいっしょに見れそうです。

 一幸さんも受験がんばってください。また手紙書きます。 多恵 」


 僕はあの日以来勉強が手につかなかった。勉強だけじゃなく、何もする気が起きなかった。多恵さんのことだけ考えていた。多恵さんを抱きしめた感覚がまだ残っていた。


 「山村多恵 様

 お父さんの病気、早く良くなるといいですね。それからスチュワーデスの件、多恵さんなら絶対に合格間違いなしです。でも今僕は多恵さんにスチュワーデスになることを勧めたことをとても後悔しています。だって、多恵さんは絶対にスチュワーデス試験に合格してしまいます。でも僕はどこにも合格しません。ということは、僕は浪人生で、多恵さんはスチュワーデスです。スチュワーデスと浪人生では釣り合いません。多恵さんはきっと格好いいパイロットを好きになります。ああ、何て僕って女々しいんだろう。多恵さんと会えないことがとても淋しいのです。今からでも会いに行きたいくらいです。でもいっしょに正月の日の出が見れるのは唯一の楽しみかもしれません。それだけを楽しみにしています。 一幸」



 12月10日に衆議院選挙が行われた。僕はまだ選挙権は持っていなかったけれど、親父が以前銀行連合組合に出向していたこともあって、社会党びいきだった。選挙は自民党の圧勝で、田中角栄が再選されて総理大臣になった。石原慎太郎が自民党から立候補して当選した。石原裕次郎の兄貴なら、当選しても当然だと思った。 多恵さんからの手紙は会った後にもらった手紙を最後に来なくなった。でもその時はきっと忙しいのだと思っていた。もちろん会いたい気持ちは強いけれど、時間が経つと会わなかった頃の日常に戻っていた。そして二学期の期末試験も終わり冬休みが近づいた時、多恵さんからの手紙が届いた。


 「本田一幸 様

 お手紙を書こうとしていてもなかなか書く時間がなくて、やっと書きました。父の容態があまりよくなくて、入院して検査をしたのですが、よくわからないのです。こんど東京の病院で検査をするそうです。母は旅館が忙しいのでほとんどわたしが毎日病院に行きます。父は調子がいい時と悪い時では全然違うのです。怒りっぽくなったり、独り言を言ったり、以前では考えられないような行動も起します。変な病気にかかってしまったのでしょうか。

 だから、最近はスチュワーデスの試験勉強にも身が入りません。このままだと、大晦日に一幸さんに会うことはできそうもありません。私も一幸さんに会うことだけを楽しみにしていたのですけど。クリスマスカードを同封します。また、手紙書きます。 多恵」


 「山村多恵 様

 大変そうですね。おとうさんの容態が本当に良くなることを祈ってます。

僕たちは来年になれば、いやっていうほど会えるようになります。僕はたぶん浪人するから、別に試験が終わらなくても多恵さんさえ良ければいつでも会えるから。それより心配なのは、この前も書いたけど、多恵さんがスチュワーデス試験に合格しちゃって、僕なんかに目もくれなくなってしまうことです。だから、最近僕は、多恵さんがスチュワーデス試験に不合格になればいいなんて思うようになりました。ごめんなさい。僕、自分勝手ですよね。

 すごくきれいなクリスマスカードありがとう。僕はクリスマスカードは、送りませんけど、僕も多恵さんからのクリスマスカードに書いてあった言葉を書きます。

 僕も、多恵さんを本当に、心から愛してます。早く抱きしめたい。

 メリー・クリスマス 一幸」


 Ⅹ

 

 クリスマスパーティーは、ベースの西山の家で今年も盛大に行われた。高校生のクリスマスパーティーとしては盛大な部類に入るに違いない。バンドメンバーを中心に、その友達や彼女が来ている。西山も大川も僕も一応大学受験はするけど、現役で合格するなんて思っていなかった。特に西山は、理工系の志望だから、万に一つも合格の可能性はない。僕と大川は私立文系なので、まぐれで合格することはある。でも僕は上智と慶応と早稲田しか受けないから、これも合格の可能性はほとんどない。

 大川に誘われて、冬休みは横浜の予備校の受験講座に通うことにした。年末までの一週間だけだけど、行かないよりはましだろうということになった。そして大晦日は同じ仲間で今年は鎌倉の由比ガ浜に行こうということになった。本当は多恵さんとふたりで日の出を見るはずだったのに。

 僕はバンドの連中には多恵さんと会ったことを話していなかった。話す機会を逸してしまったのだ。そして新しい年が明けた。


 多恵さんからは、あれから、手紙は来なかった。年賀状は届いた。でも年賀状には『謹賀新年』と書かれているだけだった。きっと、スチュワーデス試験とおとうさんの看病で忙しいに違いない。僕はあえて手紙を書かなかった。

 僕の受験は2月中旬から始まった。上智の外国語学部、文学部、慶応、早稲田と続く。そして僕のミラクルは続いていた。上智の文学部に受かってしまったのだ。九分九厘諦めていた今年の受験で現役合格してしまったのだ。

 そして僕は多恵さんに手紙を書いた。


 「山村多恵 様

 おとうさんの具合はいかがですか。そしてスチュワーデス試験はどうなりましたか。僕は、全部落っこちて浪人する覚悟はできていたのですが、またミラクルが起こって、上智の文学部ドイツ文学科に合格してしまいました。僕はもう自由に多恵さんに会えるのです。これからでも湯河原に行きたいぐらいです。多恵さんといっしょなら、旅館の手伝いでもおとうさんの看病の手伝いでもしますから、言ってください。電話をしようかとも思いましたけど、やっぱり手紙にしました。返事をお待ちしています。 一幸」


 これほど僕は多恵さんからの返信を心待ちにしたことはなかった。それは会いたい一心だった。早く会いたい。早く多恵さんの温もりを感じたい、それだけだった。

 しかし待てど暮らせど多恵さんからの手紙は届かなかった。


 3月1日、僕は高校を卒業した。西山のところで今までで一番大きなパーティーをやろうということになった。面子は今までとあまり変わらないが僕たちは堂々と酒も飲んでタバコも吸った。でもよく考えてみたら、酒もタバコもまだ法律では禁じられていた。でも高校の先生でさえ、高校を卒業したらタバコは吸ってもいいと思っているようだ。僕が上智に合格して学校に報告に行った日、バレー部の顧問の先生が僕にタバコを勧めてくれた。ハイライトだったから断ったけれど。

 僕は多恵さんのことが気になってしかたがなかった。もう二ヶ月以上も手紙が来ていない。思い切って電話をかけてみることにした。多恵さんに電話するのは初めてだ。

 「天雲閣てんうんかくでございます。」

 多恵さんが教えてくれた電話番号は旅館の電話番号だったのだ。

 「本間一幸と申しますけれど、山村多恵さんはいらっしゃいますか」

 僕は多恵さんの苗字も付けて尋ねた。

 「はい、、、、少々お待ちください。」

 番頭さんかもしれない。多恵さんは近くにいるのだろうか。少し待たされた。

 「もしもし、わたくし、多恵の母親でございます。本間一幸様でいらっしゃいますね。多恵から聞いております。もし、ご面倒でなければ、一度こちらに来ていただけませんでしょうか。お渡ししたいものがあります」

 「あの、多恵さんはいらっしゃらないのですか」

 「実は、つい先だって、多恵は亡くなりました」

 僕はこの言葉を聞いて、頭が真っ白になった。亡くなった。どうして。事故?病気?次の言葉が見つからなかった。こんな言葉を聞くとは思ってもみなかったのだ。

 「もしもし、いつでも結構でございます。湯河原の駅につきましたら、公衆電話からお電話をいただければ、お迎えに伺います」

 「何で、多恵さんは亡くなったんですか?」

 僕は興奮してそう聞いた。多恵さんのお母さんが何を言ったのかは覚えていない。

 「電話ではなんですから、こちらにお見えになった時にお話します。それに多恵から預かっているものもありますので、それをお渡ししなければなりません」

 「わかりました。明日伺います。湯河原の駅から電話を入れます」

 「気を付けてお越しください。お待ちしております」

 電話は切れた。僕は信じられなかった。どうして多恵さんが死ななければならなかったのか。僕には皆目見当もつかなかった。僕のミラクルは大学に受かったことで終わってしまったのだ。バレーの試合も大学に合格することも僕は望みはしなかった。僕は多恵さんに会いたかったのだ。僕は多恵さんといっしょにいたかったのだ。結局僕と多恵さんは鎌倉ではじめて会って、たった9時間だけしか会えなかったのだ。


 エピローグ


 僕は翌日、湯河原に向かった。まだ3月に入っても寒い日が続いていた。昨日は一睡もできなかった。僕と多恵さんのことは、僕の家族は誰も知らない。僕の友達も知らないことだ。僕と多恵さんの思い出は僕と多恵さんしか知らない。そしてその多恵さんはもうこの世にいない。

 今日から、横浜ダイヤモンド地下街のコーヒー屋でアルバイトをすることになっていた。初日から休むというのも気が引けたが学校の用事ということでうそを言って、翌日からにしてもらった。母親にはアルバイトに行くといって出てきた。

 横浜駅から東海道本線に乗った。多恵さんがいる湯河原に行くのならきっとうきうきしていたに違いない。しかしこれから訪ねる湯河原にはもう多恵さんはいない。多恵さんと過ごした鎌倉での一日が走馬灯のように頭に浮かんできた。今でも多恵さんの話した言葉、声が思い出される。多恵さんの身体の温もりが僕の身体全体に残っていた。

 小田原を過ぎたあたりから雨が降ってきた。今日雨が降るかどうかなんて気にもとめていなかった。そういえば、お袋が出るときに何か言っていたような気がする。きっと傘を持って行けと言っていたのだ。

 湯河原駅の改札を出てすぐにあった公衆電話で天雲閣に電話を入れた。この前出た番頭さんらしき人がまた出て、僕の名前を言うと、ロータリーに車で迎えに行くから、駅の待合室で待っててくれという。車には天雲閣と大きく書かれているからすぐわかると。そのライトバンは15分ぐらいで駅のロータリーにやってきた。雨は本降りになっていた。

 運転してきた番頭さんが傘をさしてこちらにやってきた。僕はそのおじさんに向かってあいさつをした。その番頭さんは、「ようこそいらっしゃいました」とお客さんに対するあいさつをした。僕が傘を持っていないことを知ると僕に傘をさしかけて自分はずぶ濡れになっていた。

 僕はそのライトバンの助手席に座った。雨足は強くなって、ワイパーも利かないぐらいの豪雨だった。番頭さんは「この辺は特に雨は強く振るんですよ」そう言って、車を出した。僕はまだ免許を持っていなかったけれど、前も見えないのによく運転できるなと感心した。

 どこをどう走ったのか覚えていない。15分ぐらい走って着いた所は大きな旅館の玄関だった。玄関の前は屋根があって、その下に車が入ると雨に濡れずにその旅館に入れた。きっと由緒のある旅館に違いない。僕は番頭さんの案内で天雲閣の中に入った。

 そこには、女性が一人立って待っていてくれた。それが多恵さんのおかあさんであることは人目でわかった。そっくりだった。

 「ようこそおいでくださいました。雨の中を」

 「本間一幸です」

 名前をいうのが精一杯だった。おかあさんの顔を見て、僕はまた多恵さんを思い出してしまった。

 「どうぞ、こちらにお越しください。暖かいものでもお持ちしましょう」

 僕はフロントの裏にある小部屋に案内された。そこは、ストーブががんがんに炊かれていた。客はいないのだろうか。

 おかあさんが、大き目の封筒を持って入ってきた。僕が突っ立っていると、応接セットの椅子に座るようにと言った。仲居さんだろうか、お茶を持ってきてくれた。おかあさんが、「君枝きみえさんありがとう」と言うと、僕の顔を見て何故か涙ぐんで出て行った。

 「本当に、遠いところをご足労いただきました。多恵が亡くなったのは10日前になります。多恵が死ぬ前に残していった手紙であなた様のことを知りました。そして一幸さんにこれを渡すようにと書かれていました。きっとあの子はこの封筒の手紙の中に全てを書いていると思います。私の口からいろいろ申し上げるよりも多恵からの手紙を読んでもらうのが一番いいと思います」

 そう言って、封のされた分厚い封筒を僕に渡した。封筒には多恵さんの字で、「一幸さんへ」と書かれていた。


 「本間一幸 様

 大学合格おめでとうございます。一幸さん、やっぱり頭がいいんだ。現役で上智の文学部だなんて。それも独文ですものね。わたしもヘッセ大好きです。私の分もいっしょに勉強してくださいね。

 わたしはたくさん考えました。でもやっぱり死ぬしか道がありませんでした。もちろん死にたくなんかないし、一幸さんに会うことを本当に楽しみにしていました。今でも鎌倉でのことは忘れられない思い出です。

 実は、文通欄に応募したのは、失恋したからなんです。二年生の時から付き合っていた人がいて、その人にふられちゃったんです。それで、なんとなく文通のコーナーに出したら載っちゃって、それでたくさんの手紙がきて。

 一幸さんに返信したのは、一番最初の手紙に書いた通りです。ミラクルっていう言葉に惹かれたんです。結局わたしのところにはミラクルは起こりませんでした。ミラクルなんか欲しくなくて、普通の幸せが欲しかった。普通の幸せが。


 父の具合が悪かったのは知っていますよね。こっちの病院で調べても原因がわからなかったんです。それで、東京の病院で調べてもらうことになって、それが12月の始めのことです。東京での検査の結果が出たのは、年を越してからです。年末も年を越しても父の容態は良くなりませんでした。わたしは毎日病院に行って父の世話をしていたのですが、一月の中旬、成人の日が終わってから、病院の担当の先生に母が呼ばれました。東京での検査の結果が出たのです。私もいっしょに聞けるのかと思ったら、わたしは来ないでくれといわれました。どうせ、後で母から聞けると思っていましたから、その時は気にしませんでした。スチュワーデス試験が迫ってましたから、父の世話と勉強でもう頭も身体も一杯一杯でした。でも一幸さんに会うことだけが楽しみで、頑張っていたのです。母からはその後何もわたしには父の検査の結果は話してくれませんでした。でも、それは、わたしのスチュワーデス試験があるので、あまり心配をかけさせたくないからだろうと思っていました。父が、何だかわからないけれども悪い病気に罹っているのは薄々感じていましたから。

 スチュワーデス試験の前日、たまたま母が親戚のおばさんと電話しているのが聞こえてきました。私の父は『ハンチントン病』なのだそうです。欧米だと10万人に4人から8人だけど、日本ではもっと少なくて100万人に一人から7人の割合の病気だそうです。わたしはその『ハンチントン病』などという病名を聞いたことがありませんでした。そしてその病気は原因もわからなければ治療の仕方もわからない、難病指定されている病気だというのです。私は驚きました。父はその難病に冒されているのです。治し方がわからないということは、このままでは父は死を待つしかありません。わたしは、明日のスチュワーデス試験を受験しないことにしました。父が死ぬまで世話をしてあげたいと思ったからです。

 私は翌日母に言いました。昨日、叔母との電話を聞く気はなかったけど聞いてしまって、おとうさんが『ハンチントン病』であることを知ったと。だから、スチュワーデス試験は受けないで、おとうさんの世話をするからって。

 母はそれを聞いて驚いていました。母はそして「『ハンチントン病』ってどんな病気か知っているのか」と聞きました。私は昨日、これも叔母さんと話しているのを聞いたから知っている、と答えました。母はどこかほっとしたようなそぶりをみせました。でもその時はあまり気にしていませんでした。

 父の容態は悪くなったり、良くなったりでしたが、すごく怒りっぽくなってました。病気になる前はすごくやさしい父親でした。どちらかといえば、わたしには甘い親だったと思います。でもこの病気になってから性格が変わってきてしまったのかもしれません。ひょっとしたら父は自分の病気が不治の病だということを知っているのかもしれないと思うようになりました。そしてわたしは『ハンチントン病』を調べてみることにしました。

 二月に入ってからは三年生は自主登校です。一幸さんも同じ県立ですからわかるでしょう。基本的には学校に行く必要はありません。わたしもほとんど父の世話で病院にいました。でも学校の図書館で勉強している生徒もいるし、町の図書館で勉強している人もいました。わたしは病院を脱け出して町の図書館に行って、『ハンチントン病』を調べました。医学辞典に載っていました。

 『ハンチントン病とは舞踏運動、精神症状、行動異常、痴呆などを臨床像の特徴とする常染色体優性遺伝型式をとる神経変性疾患です。これらの症状はいつのまにか始まり、緩徐ながら進行します。その原因は、脳の特定の部分(大脳基底核や前頭葉)が萎縮してしまうためです。大脳基底核の特に尾状核が萎縮するために舞踏運動が現れます。前頭葉の萎縮によっては、痴呆症状、てんかんなどを引き起こします。これらの脳の局部的な萎縮は神経細胞の変性脱落が原因です。最近、ある遺伝子に異常が起こることが発症に関係することが突き止められています。』

 この説明で父の症状に当てはまることがわかりました。説明は続きます。

 『欧米では、人口10万人あたり4~8人の患者さんがいると報告されていますが、本邦では0.1~0.7人と欧米の1/10です。黒人にも少ないといわれていましたが、最近の疫学調査では白人との間に大きな差はないとされています。発症頻度・症状の出方が人種によりやや異なる傾向があるようです。」

 母が叔母と話していたことです。

 『男女差はほとんどありません。30~60歳くらいでの発症が多いのですが、10代、70代での発症という報告もあります。優性遺伝病なので両親の何れかが発症していることが多いのですが、一般的に子の方が若年齢で発症する傾向があり(表現促進現象、Anticipation)、特に男親が発症者の場合に表現促進現象が著明に見られます。 』

 私はこれを読んでもまだピンときませんでした。ただ優性遺伝病というのが気にかかりました。

 『この病気は遺伝します。原因遺伝子が第4染色体短腕にあり、常染色体優性遺伝の形式をとります。

 常染色体優性遺伝 : ある個体の染色体は父親からのものと母親からのものの2組ずつあります。ヒトでは染色体が23対46本あり、そのうち性を決定する性染色体の2本(XXまたはXY)を除いた22対を常染色体と言います。優性遺伝疾患とは両親の何れか由来の遺伝子に異常があれば他方の親からの遺伝子が正常であっても発症するものをいいます。片親が発症者であった場合子どもが発症する確率は50%です。通常両親の何れかが発症者ですが、稀には、両親とも非発症者で、本人が遺伝子に突然変異を起こしたことにより発症することがあります。』


 わたしは何度も何度も読み返しました。『ハンチントン病』は遺伝するのです。つまり、父が『ハンチントン病』であるということは、子供である私も50%の確率で『ハンチントン病』になるということです。私は大変なショックを受けました。わたしもまた、年を取れば、父のように『ハンチントン病』という不治の病に冒される。たとえ、わたしが発病しなくてももしわたしが結婚して子供ができたならばその子供もまた『ハンチントン病』になる確立が50%あることになるのです。わたしは父を恨みました。何故、子供を作ったのか。わたしを生んだのか。でもよく考えてみたら、父は早くに両親を亡くしています。父の母か父、わたしの祖父母は、『ハンチントン病』が発病する前に亡くなっていたのです。だから、父は自分が『ハンチントン病』に罹るとは思っていなかったのです。『ハンチントン病』などという病気があることも知らなかったと思います。日本人に何人『ハンチントン病』発症者がいるのでしょうか。

 わたしはここで調べたことを誰にもいわないでおこうと思いました。これは、父とわたしの問題です。父は知らなかった。『ハンチントン病』なる病気の存在もその病気に自分が罹っている事も。でもわたしは知ってしまった。わたしの父親が『ハンチントン病』で、その子供に遺伝する確率が50%あることを。そしてわたしがもし結婚して子供をもうけたらその子供も50%の確率で発症する。

 わたしはどこかでこの負の連鎖を止めなければいけないと思いました。それは、わたしが結婚しないで子供を産まなければいいのです。しかしもうひとつ問題があります。わたしがこれから先『ハンチントン病』になるかもしれない恐怖に打ち勝っていけるかどうか。わたしはひとりでこの恐怖に打ち勝つことはできないでしょう。きっと一幸さんに助けを求めてしまいます。それは、一幸さんもわたしの恐怖をいっしょに味わせることになってしまうのです。

 すごく身勝手かもしれません。わたしひとりが背負っていければいいのでしょうけれども、どう考えてもひとりで背負っていく自信がないのです。それであるなら、ここでわたしがいなくなってしまったほうが誰も巻き込まずに済む。

 わたしは一幸さんと鎌倉を廻った思い出を誰にも話していません。二人だけしか知らないのです。とっても幸せでした。この幸せがもっと続くと思っていました。あなたにすごく会いたい。

 わたしは一幸さんが大学に合格したことで決心がつきました。一幸さんには未来があります。そしてミラクルがあります。もう一度会ってから死のうと思ったのですが、もし会ってしまったら、わたしは一幸さんにすがりついてしまいそうです。きっとわたしが死んだら一幸さんは悲しむことでしょう。でもそれは一時です。忘れてください。でも鎌倉の思い出はずっと胸の奥にしまっておいてください。やっぱりわたしは身勝手ですね。

 さようなら。  多恵」


 僕は最後の方は涙で字がよく読めなかった。そして読み終わって、僕は大声を出して泣いた。僕の涙が便箋に染みを作った。便箋には僕の涙の前に多恵さんの涙の染みもついていた。僕が一番欲しかったミラクルは起こらなかったのだ。

 外ではまだ雨が降り続いていた。


引用

『ハンチントン病』の記述に関しましては

難病情報センターホームページから引用させていただきました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ