二
帝都。
オーベンリスク帝国の首都で人口八十三万人を擁する大陸最大の都市である。
南北二十五キロ、東西二十一キロの若干楕円形の形をしており、周囲を高い城壁で囲っている要塞都市でもあり、建国以来五百年間一度も他国の軍の侵入を許したことがないほど堅牢だ。また大きな川を帝都内に引き入れており、水源は豊富だ。
北側、西側、東側に関門があり、ここから帝都内へ出入りすることができる。南側の出入り口は帝国軍専用となっていて、関係者以外は立ち入り禁止だ。
そして驚くべき事に下水道を完備しており、人口の割りに綺麗な町並みとなっている。
さて、帝都は中央区、北区、南区、西区、東区の五区画に分かれており、それぞれ特徴がある。
中央区の南半分が貴族街の入り口となっていて、そこから先の南区が貴族街だ。そして南区の真ん中当たりに皇帝が居住している城が建てられており、帝都のシンボルとなっている。城は百メートル近い高さを誇っており、帝都外からでも見え帝国の威厳を保っている。
また中央句の残り北半分が重要施設で占められており、警備隊の詰め所や大手商会の本店、冒険者ギルドの帝都本部もここにある。
東区は裕福層の住まいが並んでいる。店も何店舗があり、高級品を買う場合はここへ訪れる。
西区が職人街だ。一般市民向けの道具から魔道具、そして冒険者や騎士向けの武具などが売られている。
北区が一般市民の居住区となっている。中央から外れ北に行くほど貧困層が増えていき、北区の西側の外れにはスラム街と呼ばれる寂れた区画も存在する。また北区の南側が繁華街となっており、休みの日には飲んだくれが千鳥足で出歩いている。
ちなみに道は東西、南北を横断する大通りがあり、交差する箇所に貴族街への入り口がある。更に道は石畳で作られており、昼間なら引っ切りなしに馬車が通っている。
何せ八十万人以上が住む都市だ。物資も大量に必要であり、特に川を引き入れている西区には物資を置く倉庫も建ち並んでいる。
さて、俺が寝泊まりしている宿は北区の東側の外れにあり、大通りから四本ほど奥にいった裏路地にある。三階建てで一階が酒場、二階と三階が宿泊施設となっており、不味いが夕食付き一泊大銅貨二枚と格安で、古くすきま風の絶えない宿にも関わらず駆け出し冒険者がよく利用している。
そんな俺はこの宿にお世話になって既に十年以上が経過している。
しかし俺の外見は二十代後半のやせ形の男で、ダンピールの特徴である片目だけ朱色は魔道具で色を黒に変えているので外見は人族だが、十年以上変わっていないのは不審に思われるだろう。
そこで俺は先祖にエルフの血が流れている、と言っている。エルフの血が少しでも混じっていると、あまり外見に変化が現れないのだ。それに寿命自体も若干伸びるからか、貴族や裕福層などがたまにエルフの血を混ぜている事が多いので珍しくはない。
貴族の血が混じっているのは本当だし、もしかすると祖先にエルフがいたかも知れないからあながち嘘では無いのだ。
ま、そんなことはさておき、いつものように空のグラスを片手に部屋でのんびりしていたんだけど、何となく気分が乗り散歩でもしようと思い立った。
俺は冒険者ギルド帝都本部の専属冒険者とはいえ、年がら年中仕事がある訳では無い。下級や中級冒険者では手に負えない事態が起こらない限り専属は呼ばれないので、むしろ暇なほうが多い。俺が暇ということは平和ということなのだ。
「レモンさん、お出かけですか?」
「ああ、ちょっと散歩に」
一階へ下りるとシッチェが暇そうに椅子に座っていた。今の時間帯は十四時でちょうど忙しい時間帯からずれている。
とは言っても昼間の時間帯でも、大通りから四本もずれた路地裏の宿屋なんて客はあまり来ない。料理だってぶっちゃけ不味いし量もそこまで多くなく、安いだけが取り柄なのだ。
よくこれで生活出来るものだと思うが、シッチェの母親が東区、つまり裕福層向けの服屋で働いていてそれなりの給金を貰っているらしい。こちらはいわゆる趣味で経営しているようなもので、赤字が出なければ問題ないんだってさ。
基本的にシッチェとチュニアで宿を運営していて、宿のもうけが彼女たちのお小遣い兼将来の嫁入り費になるらしく、特にチュニアは頑張って稼ごうとしている。でもシッチェは吸血鬼になったから嫁入りすることもないし、このまま宿をずっと運営していきたいそうだ。
ちなみに不味い夕食を作っているのは父親のバッケル。正直シッチェと交代したほうがよっぽど良いと思うが、シッチェもチュニアも看板娘だから表に出る方が売り上げが伸びるそうで。
「いってらっしゃいませ。もし帰りにチュニアと会いましたら送ってきて貰えませんか?」
「分かった」
今チュニアは平民学校へ行っている時間だ。一時間ほど散歩すればちょうど帰宅時間になるだろうし、帰り際学校近くに寄るか。
軽くシッチェに手を振って宿を出る。細い裏路地であり、時間も相まって殆ど人気は無い。
この辺は古い石造りの五階建てアパートが多く、洗濯物など向かい合ってるアパート同士で紐を繋げて、そこにぶら下げている事が多い。バルコニーなんてしゃれた物はないし、洗濯物を干す場所もないから仕方ないけど、風の強い日にはたまに服が飛んでくるんだよな。
路地裏を東区側へと歩いて行く。歩いて行くうちに徐々に回りの家屋が変わっていく。
石造りの家は変わらないものの、窓枠にガラスが使われるようになったり、一軒家が立ち並ぶようになったり、また外構も小洒落たものが目に付くようになる。
ただし人通りは相変わらず寂しく治安に問題があるんだよな。
「……ん?」
ふと路地裏の先に白を基調とした可愛らしいデザインの服を着ているチュニアとそう変わらない年代の少女がうろうろとしていた。しかも鞄一つもっていない。
あの服はどう見ても北区に住む一般市民が着るようなものではない。おそらく東区の裕福層から迷い込んできたのだろう。鞄を持っていないのも、普段は従者が全ての荷物を持つからだ。
この辺りは北区の中では比較的治安の良い場所だが、それでもあんな無防備な少女が迷い込んできたら良いカモだろう。
本来なら迷子の対応なんて警備隊か、憲兵、もしくは衛兵の仕事なのだが、生憎とこの辺にそんなものは居ないし、詰め所も東区まで行かないと無い。
はぁ……一応仮にも俺は冒険者ギルド専属だ。
冒険者ギルドは帝国からも運営費を貰っているし、こういった仕事は専門外だが道案内くらいは出来るだろう。
「やあ、そこのお嬢さん。もしかして道に迷っています?」
「……ひっ!?」
出来るだけフレンドリーに話しかけたつもりなのに、何故か青色の目を大きく開かれ、驚かれた。少し恐怖も混じっているような気がする。
金色の長い髪のてっぺんに生えているくせっ毛がぴょこん、と跳ねた。
ま、まあ無精髭はやしたおっさんが声をかけたら怖がるのは普通だろう。
「え、えっと、一応俺、冒険者なんだよ。もしかして道に迷ってたら案内するけど?」
さっと首元にぶら下げている冒険者カードを取り出して少女に見せた。
このカードは身分証明にもなっていて、氏名とランクが書かれている。
「冒険者……レモングルド……さん? ランクD?」
俺はSランクで専属なのだが、一応これは秘密になっている。専属は裏仕事を行う事もあるので、なるべく身元を隠しておくようギルドから言われているのだ。
このカードもダミーであり(とは言ってもギルドが正式発行しているものだが)普段はランクDと偽っている。
そしてランクDは中級であり、そこそこの信頼はある。
冒険者は帝都で二万人近くいる。年齢制限や健康、身体能力などの制限はあるものの誰でもなれるので下級のランクだと殆ど信用はないが、中級以上であれば巨大な冒険者ギルドからランクを上げても問題ないと認定された者、と言うことになるのだ。ここで言う認定、とは依頼された内容を的確にこなし続け、一定以上の強さとモラルを持つ信用出来ると思われる者、である。
「冒険者の方でしたのね。父が護衛によく冒険者を雇っておられますので」
少女は冒険者カードを見て、安心したように微笑んだ。くせっ毛も左右に動いている。
裕福層や商人などなら別の町へ移動するとき冒険者ギルドに護衛の依頼を行う事はよくあるので、格段珍しくはない。
むしろ裕福層のほうが冒険者との繋がりは強いだろう。
「この辺は東区に比べ治安が悪い、あまり奥へ入らない方がいいよ。良ければ東区の警備隊詰め所に案内するけど」
「実は蒸しパンを売っているお店に行きたいのです。でも警備隊は少々……」
語尾を言い淀む少女、それでピンときた。
学校帰りにこっそり買い食いしたかったのか。でも見つかると連れ戻されるから警備隊にはいきたくない、と。
「最近有名な蒸しパンか。ここからだと歩いて二十分くらいだけど、一個大銅貨二枚もするぞ? 金足りるか?」
「大丈夫です、お金ならお小遣い貰いましたので」
そう言って彼女は笑顔で握りしめた白金貨を一枚俺に見せ…………。
「ちょっ!? 白金貨!?」
硬貨の種類は、鉄貨、銅貨、大銅貨、銀貨、大銀貨、金貨、大金貨、白金貨となっている。北区で見ることが出来る硬貨はせいぜい銀貨くらいまでで、大銀貨や金貨は東区の裕福層でないとそうそう使わない。
また大金貨や白金貨なんて巨大な取引を行うような大商人や、国家予算を取り扱うような時くらいしか使う場面はない。俺も過去一度だけ冒険者ギルドで見たことがあるだけだ。
ちなみに白金貨一枚あれば平民四人家族が数十年は遊んで暮らせる額になる。
だが彼女は貨幣価値を全く知らないのだろう、俺が驚いたことに不思議そうに首を傾げる。
「これでは足りませんか?」
「逆! いいからそれ絶対他人に見せちゃダメだ!!」
よく分かっていない顔で、再び白金貨を握りしめる。
あぶねぇ、白金貨を持ち歩く護衛もいない少女なんて、カモどころの話しじゃねぇよ。殺してでも奪い取るような連中に見つかったらやばすぎるだろう。
しかしお小遣いで白金貨を一枚ぽんと渡すような親? どこの大富豪だよ。
でもこれは……少々まずいなぁ。
相当な大富豪の娘だと思うし、下手に連れていくより、詰め所に預けた方がいい気がしてきた。
「レモングルドさん、蒸しパンのお店まで案内して頂けませんか?」
やはり詰め所へ、と言いかけると、にっこりと邪気の無い笑みが俺を見上げている。期待しているのか、くせっ毛もひょこひょこ動いている。
うう、純粋で曇りのない笑顔ってこんなに破壊力があるのかよ、断りづらい。
さっさと案内して蒸しパン買ってさっくり詰め所まで案内しよう。繁華街までいくなら、貴族街入口の詰め所に案内したほうが近いし。
「分かったよ。ここからだと歩いて二十分くらいかかるからな」
「はい、分かりました」
♪ ♪ ♪
「あれは何ですか!?」
「あれは時計台。ここの時間で帝都は回っている」
「そうなのですか、ではこのレンガの建物は?」
「それはワイン倉庫。その隣が老舗のワイン屋だ」
「ワインはわたくし飲んだことありませんけど、美味しいのでしょうか」
「安ければまずいし、高ければそれなりに美味しい。十五歳になれば嫌でも飲むようになるさ」
「ではこの大きなお店は……」
繁華街へ入った途端、少女の目にきらきらと輝きが降臨した。今まで一度も見た事のないような反応で、まるでお上りさんだ。東区在住のお嬢様は一般市民向けの繁華街には足を運ばないのだろう。
しかしそれでも時計台くらいは普通知っているはずなんだけどな。従者が完全に時間管理を行っていて、その時間になると呼びに行くなんていう生活でもしているのかな。
彼女はくるくると回るようにして周囲を見渡している。
「あまりはしゃぐと転ぶ……」
「きゃっ」
言ってる側から転びそうになったので、手首を咄嗟に掴んで引き寄せた。
思った以上に軽くて抱き寄せるような格好になってしまったが、転ばなかっただけ良いだろう。っつか、手首も細いし体重も軽いし、もっと食って体力付けないとダメなんじゃない?
少なくともチュニアはこの子より重……あ、なんかどこからか殺気が飛んできた気がしたけど気のせいか?
「あ、あの……申し訳ありません……手を……」
「あ、ごめん」
殺気を感じたせいか、反射的に少女を守るようにして周囲を確かめてしまった。
ぱっと手を放すと真っ赤になりながら、ぺこぺこと頭を下げてくる。くせっ毛もお辞儀するように上下へ動く。
なぜそんなに赤くなるんだろう、と不思議に思ったけど、異性に慣れていないのか。顔が赤いけど大丈夫か病院いくぞちなみに俺自称医師免許持ってるから触診してもいいぞ、と小粋なジョークでも言おうとしたけど、ここまで真っ赤にされると罪悪感を感じてしまう。
からかうならやはりチュニアくらいの反応が一番良い。彼女なら引き寄せた時点で、足を躊躇いなく踏んでくるだろう。北区に住む年頃の女性は強いのだよ。
先ほどまでのはしゃぎようとは打って変わって大人しくなった少女。まだ顔が赤い。
うーん、ここまで恥ずかしがる事はないと思うんだけど、よっぽど箱入り娘なのだろう。
「ここが蒸しパン屋だ」
互いに黙ったまま、目的地に着いてしまった。
蒸しパンは朝早く、昼前、夕方前の三回販売される。しかも大銅貨二枚と強気の値段設定にも関わらずそれなりの人数が並んでいた。
「……ここが夢にまで見た蒸しパン屋さんですか」
さっきの真っ赤な顔はどこへやら、再びきらきらと輝く瞳。しかも余程感動したのか目に少し涙まで浮かべている。
そしてふと気がつく、彼女は白金貨しか持っていない事に。
さすがに繁華街のパン屋に蒸しパン一つ下さい、といって白金貨一枚だして、お釣りの大金貨九枚金貨九枚大銀貨九枚銀貨九枚大銅貨八枚をぽんと出せるわけが無い。そんな金すら無いだろう。
更に白金貨なんてものを出せば下手すりゃ偽造を疑われる。
……仕方ないか。
「俺がおごってやるからお嬢さんは黙って後ろに居てくれ」
「え? そんな悪いですよ。ここまで道案内して頂いた上に、蒸しパンを頂くなんて」
いやいや、白金貨なんて出したらそれこそ売り子がひっくり返る。
だがそんな俺の思いは彼女には通じなかった。
「ここは案内して頂いたお礼も兼ねて、わたくしがレモングルドさんに蒸しパンを奢ります!」
「あー、えっと……それは財布事情的にも非常に嬉しいんだけど、お嬢さんの持ってる金は少し大きすぎてこんな店では使えないんだよ」
「そ、そうだったのですか? そんな……」
かなりショックだったのか、目を大きく開いて更に口を開け、そしてしまった、という顔をしてから慌てて手で口を押さえた。くせっ毛もぴんと立つ。
なんだろう、このくせっ毛は? 感情と連動しているのだろうか?
その行動が子供っぽくて思わず笑ってしまうと、彼女は頬を膨らませる。そして数秒、思案顔をしていたが、何か思いついたのか真面目な顔をして俺を見上げた。
「レモングルドさんは冒険者ですよね。このお金で依頼いたします。蒸しパンを二個買ってきて下さい、残ったお金は依頼料として差し上げます」
実に良い案でしょ、と言わんばかりの自慢げな顔と、ふらふら揺れるくせっ毛。
でも正直ものすごく惹かれた。
だって大金貨十枚近くだぜ? 俺がギルドから固定月給として貰っている額の二百倍くらいだぜ? 当分遊んで暮らせる額だぜ?
白金貨を崩すだけなら冒険者ギルドへ行けば良いだろう。どうやって手に入れた、とか聞かれるだろうけど、ここ百年間頑張って稼いだ虎の子のお金です、って言えば多分通る。
通るんだけど…………こんな道案内なんて貰ってもせいぜい大銅貨一枚から二枚だ。俺は専属冒険者であり、冒険者ギルドの看板を背負っているんだ。こんな誘惑なんかに負けられない。
それにきっと彼女の親から白金貨返せって言われるに違いないだろうし。
「レディーのお嬢さんにプレゼントさせてくれよ、男の顔ってものもあるしさ」
「……分かりました。確かに社交……あ、な、何でもありません。その代わり次、会いましたらわたくしがプレゼントいたします」
うん、多分会うことはないと思うけどな。
何せ帝都は八十万人以上が住む大都市であり、偶然街中で遭遇することはまず無いし、そもそも路地裏の宿で寝泊まりする俺と裕福層のお嬢さんでは行動範囲も異なる。更に言えば俺は専属冒険者であり、よほどギルドの上層部に強く俺を指名しない限り依頼は普通の冒険者から選ばれる。
そしてギルドの上層部は貴族だ。いくら裕福層とはいえ平民、貴族に対して強く言うことはできない。仮にこの少女が親に頼んだとしても俺をギルドから雇う事はギルドに取って多大な利益が見込まれない限り不可能である。
十分ほど待って蒸しパンを二個買い、彼女に一つ手渡した。
俺は特にいらなかったけど先日結局食べ損ねたし、一昨日やっとギルドの固定月給が入ってきたので若干懐に余裕もあったから、話題のためと思い自分のも買ったのだ。
さてお味は……と蒸しパンに齧りつこうとした時、彼女がくいっと袖を引っ張ってきた。
「これはどこで食せばよろしいのでしょうか」
「……ここで立って食うもんだよ」
「ええっ!? そんなはしたない」
「ほら、周り見てみな。そのまま齧りついてる人もいるだろ?」
「本当ですね……わたくし、このような外で立ったまま食事をするのは初めてです」
妙に嬉しそうに、それでいて口は小さく開けて、かじり付いた。途端美味しかったのか顔がほころぶ。ちなみにくせっ毛はくるくると回っている。喜びの舞?
ふわっとした笑顔で俺に「レモングルドさんも早く食べて下さい、おいしいです、美味しいですよ!」と伝え、更にもう一口、今度はさっきより大きくかじり付いた。
俺も彼女より倍は大きく口を開けて齧りついた。
普通のパンに比べやけに柔らかく、所々小さな穴が空いている。
そして何より甘い。なるほど、この甘さは砂糖かそれに近い甘味料を使っているのだろう。
甘味料は塩よりも高価だ。だからこそ一つ大銅貨二枚などという価格になっているのか。むしろこれだけ甘さがあるのに大銅貨二枚なら格安ではないだろうか。甘味料を使った菓子類など下手すれば銀貨を出さなければ買えないのだからな。
俺は四口くらいで食べ終わったけど、まだ彼女は少しずつ、少しずつ味わうように小さくかじり付いていた。
これがきっと菓子類を食べる時のマナーなんだろうね、知らないけど。
貴族出身の俺だけど母親の血しか貰ってなかったし、家にいる侍女や執事は俺を見て見ぬ振りしてたしな。
「……どうかいたしましたか? 難しい顔をして。美味しくなかったですか?」
「あ、うん、いや、美味かったよ。久々に甘いもの食べたから舌に記憶してたんだ。次いつ食べられるか分からないからな」
ちょっと嫌なことを思い出してたのが顔に出たのだろう、少し心配そうに顔をのぞき込んできた。
まあ三百年近くも昔の事だ。母親も侍女も執事も全員とっくの昔に死んでいる。
「そうですか。甘いもの苦手なのですか?」
「うーん、苦手というより食べる機会がないからな。何せ普段はくっそまずい夕食しか食ってないから」
バッケルが作る夕食の不味さは一級品だ。どうやったらあそこまで不味くできるのか不思議に思う。
調味料を間違っている訳でもないし、分量が違っている訳でもなく、そして素材が悪い訳でもないのになぜかくそ不味い。
今度一日張り付いて研究しようか、と思うくらいだ。
「そ、そうなのですか」
くそ不味い夕飯を思い出して俺の顔がさっきとは異なる険しさになったようで、若干彼女が引いた。くせっ毛も後ろへぱたん、と倒れる。
と、いつの間にか彼女が蒸しパンを食べ終わっているのに気がつく。
「お、食い終わったか。美味かったか?」
「はい! とても美味しかったです!」
「んじゃ、帰るか。家は東区だよな?」
裕福層でしかも白金貨を小遣いに渡すような大富豪だ。おそらく東区の大通り沿いにあるだろう。
東門の近くだとすると少々遠いが一時間弱も歩けば十分たどり着くし、東区と中央区の境目近くなら十分程度だ。
しかし家の場所を尋ねると、慌てて首を横に振った。
「あ……いえ、えっと、この近くに詰め所はありますか?」
自分の家は秘密にしておきたいようだ。
まあ買い食いを助けた共犯者だし、娘が見知らぬ男と一緒に帰宅など親からすると一大事だろう。最悪俺が詰め所で一泊なんて事になるかもしれない。
「んー、ここからなら貴族街入り口の詰め所が一番近いかな」
「ではそこまでで良いですよ」
納得した俺に安堵したのか、ほっとため息をついた。
そういえば彼女の名前を聞いてなかったけど……まあいいか。秘密にしておきたいようだし、聞かない方がいいだろう。
こうして俺は貴族街入り口の詰め所手前まで彼女を送って、宿に戻った。
もちろん戻ったときには真っ暗でチュニアはとっくに帰宅しており、後でシッチェに叱られました。
眷属に叱られる親ってのも情けない。
しかし散歩で大銅貨四枚も出費するとは思わなかったけど、ま、見知らぬ少女との買い食いデート代と思えば良いか。