モンスターがいる世界の平和な食卓
剥き出しの牙が、赤黒い歯茎に囲まれててらてらと白く光っている。
その隙間から漏れる低い唸り。
狼に似た、獣型のモンスターだ。
逞しい後脚は、今にも目の前の獲物にとびかからんと、限界まで突っ張られている。
一瞬の膠着。風が砂塵を吹き上げる。
やがて、動く。
砲丸のように重く、勢い良くモンスターが飛びかかる。
一筋。
銀色の輝きが走った。
次の瞬間には、モンスターは地に伏せている。もはや生命の存在は感じられない。ただ、毛皮に包まれた意志を持たない肉が地面にくたりと横たわっており、鮮やかな血の色が音もなく地面に広がっていく。
モンスターに背を向け、立ち去る者があった。
それは、眉目麗しい若い男だった。
焦茶色のブーツは軽やかに地面を蹴っている。胴当てのみの鎧は薄い金属で出来ていて、男の筋骨隆々としたラインを隠さない。短く刈り込まれた黒髪は、彼の自信に満ちた表情を裏付けるかのように、さっぱりと整っている。血管の浮き出た腕に握られたのは、宝石のついた大ぶりの剣だ。
華やかなファンファーレが鳴る。
男は一瞬眩しそうに斜め上を見上げ、ゆっくりと剣を肩に担いだ。
『君の勇気が世界を救う。勇者、募集中。詳しくはホームページへ!』
ぷちっ。
いきなり画面が真っ暗になったので、僕は驚いてあたりを見回した。
「ただいま」
振り向くと、お母さんがリモコンを握って立っていた。
……うん、テレビの画面に釘付けで、全然気がつかなかったね。
そう、あれは勇者を募集する政府CM。あんまり格好良いもんだから、つい見蕩れちゃったみたいだ。
それにしても、
「あれ? 早くない?」
確か、今日は遅くなるって聞いてたと思うんだけど。
「予定してた新商品の会議がね、中止になったの」
お母さんは僕のきょとん顔に答えを返しながら、リモコンをテーブルの上に置く。そして、さっと腕まくりをして、腰に手をあてながら微笑んだ。
「晩ご飯、作るわね」
「もう出来てるよん」
そう言って僕はお母さんに対抗して腕まくりをしてみせる。
よん、とあえて軽く言ってみせたのだけれど、あんまり上手くいかなかったみたいでお母さんはぱっと目を見開いた。
「あらあら、まあまあ」
「むしろ、帰る前に電話くれてたらあっためておいたのに〜、って、感じ? 今日のメニューはね、自信作です! なぁんと、枝豆のポタージュに、茸の和風パスタ! まぁ、パスタはもちろん、今から茹でるんだけどね。下ごしらえはしてるから、すぐ出来るよ」
「……ありがとう」
「いいからいいから、お風呂入ってきちゃいなよ。どうせ今日も湯船にはつからないんでしょ? それなら先にパスタ茹で始めちゃうからね!」
「うん、本当に……」
「はやーく! お風呂入ってきて!」
そんな申し訳なさそうな顔、しないでさ。
家族なんだからさ、助け合うのは当然でしょ?
お母さんをお風呂に追い立てた後、僕は宣言した通り、ご飯の支度をする。
枝豆のポタージュはあっためるだけ。サラダは冷蔵庫から出すだけ。
となると、優先させるのはやっぱりパスタを茹でること。
小柄な僕には、ちょっと手に余るくらい大きなお鍋に、ぐらぐらとたっぷりのお湯を沸かして、このときばかりはケチらずお塩を投入する。しこしこに締まった麺が茹で上がったらさ、同時進行であっためておいた茸の炒め物に麺を投入。ちょっとだけ茹で汁も加えて馴染ませる。茸はちょいお醤油の味が濃いめなのでこれでいい感じ。カリカリベーコンと、シャキシャキの水菜は後のせサクサク!
出来上がったパスタと南瓜のサラダとポタージュを、ナチュラルウッドのトレイに並べる頃、計算通りにお母さんがお風呂から出てきた。
「ナイスタイミング! 僕って天才!」
僕は大げさに自分の才能を褒め称えながら、お母さんを出迎える。
なぜなら、ほら。
今みたいにお母さんがちょっとでも笑ってくれたら、と思ってるから。
「美味しそう」
シャワーを浴びてさっぱりしたのか、お母さんの表情も、なんだか少し明るくなっている。
「美味しそう、じゃなくて美味しいんだよー。今日は南瓜のサラダにクルミを入れてみたし、パスタも上出来の予感なのです。さ、ご飯にしよう」
そう言って、僕はご飯の載ったトレイを食卓へ……運ぶのではなく、一旦素通りして、僕とお母さんの住む家の、一番良い部屋であるリビングまでトレイを持って行く。
そこには、小さな祭壇があるのだ。
そして小さな写真が飾ってある。
僕と良く似た瞳の、僕とそっくりに小柄な男性の写真。
お父さんの、写真。
その前に、トレイをお供えして、僕は手を合わせる。
―――――お父さん。
―――――今日のご飯も、美味しく出来ましたよ。
振り返らなくたって分かる。
僕の後ろにいるお母さんも、同じことをしている。
そして、10秒くらいかな? 祈りを捧げた後に、僕はぱっと振り向いて叫ぶ。
「さあ、早く食べないと冷めちゃう!」
「……そうね」
お母さんが弱々しく微笑む。
いつもいつも、ご飯の前に、どんなに明るく振る舞っていても、この瞬間はやっぱりしんみりしてしまう。
……そうしてはじまるご飯の時間は、やっぱり少し、ぎこちない。
会話がないわけではないのだ。
「そういえば、パブリックショップの情報が更新されてたよー。消耗品はいつものようにこっちで選んでおくけど、お母さんも自分で必要なものがあったら申請しておいてね」
「ああ……もうそんな時期だったわね。トイレットペーパーの買い置きがもう少ないんだったかしら?」
「もう頼んだよー」
「洗濯用洗剤は?」
「もうある!」
「小麦粉は……」
「それは先月買ったばっかりで、在庫過多。お母さんは、そういうのは気にしなくていいから」
と言っても、雑談と言うより、生活のための情報交換(というかほぼ報告?)がメインだったりもするけれど。
僕のしっかりきっちりな対応! に、お母さんは、今日何度目になるか分からない、申し訳なさそうな顔をする。
「いつも悪いわね。ひろくんも、欲しいものがあればもっと好きに買って良いのよ。ひろくんのアカウントにデジマネ入れておいても、ろくに使ってないでしょう?」
「えー、買ってるよ? 今回もレンズ豆でしょ、ひまわり油でしょ? あと、ドライミントも申し込んでみた!」
「食べ物ばっかりじゃない」
「料理が趣味だからこれでいいのさー」
「お母さんはとっても助かってるけど、漫画とか、ゲームとかも買って良いんだからね。内容もいちいち確認したりしないから」
「あはは、まあ、思春期ですからね〜」
「……そうね」
……お母さんのちょっと困ったような肯定で、会話が途切れてしまった。
もー、お母さーん。
「そういえば、ひろ君も、そろそろ3年生になるわね」
思いついたようにお母さんが呟いたのは、食事が終わって、二人でデザートの苺を食べているときだった。
「うん」
確かに、今は中学2年生の3月。
僕達の住む小さな村でも、進路選択というものを意識し始める時期だ。
「何か? やりたいことはあるの?」
「うーん、まだ、はっきり決めてないかな」
料理は趣味だけれど、一生の仕事にしたいかっていうと微妙なところ。
14歳の進路に対する感覚なんて、そんなものだ。
「ひろくんは、お父さんみたいに冒険者になりたいなんて言い出さないから、お母さんは安心だわ」
お母さんの、ちょっと悲しげな笑みを見て、僕の心が少し疼いた。
ご飯が終わって、食器洗いだけでもするってお母さんが言ったん無理矢理仕事を奪い取って、僕は一人で台所に立っていた。
さぁさぁと蛇口から出る水が手に当たって、少し冷た過ぎる気もするけれど、これはこれで心地よい。
お母さんの言葉を、僕は考えていた。
僕のお父さんは冒険者だった。
なかなかに腕が良かったと聞いているけれど、それでも、冒険者家業というのは、危険と隣り合わせだ。
僕が生まれてすぐくらいのときに、お父さんは死んだそうだ。
モンスターに殺されて。
それからずっと、お母さんは、毎日のお供えとお祈りをかかさない。
僕がご飯を作るようになってからは、僕もその習慣をかかしていない。
というか、物心ついたときから当たり前の習慣過ぎて、なんとも思っていなかったけれど、普通の人は、お母さんみたいには、長く悲しみを、抱き続けられないそうだ。
お母さんはお父さんを殺したモンスターを、少しでも多く倒すため。
でも自分では戦えないから、モンスターを倒すための武器の研究をするようになった。
成果が認められて、今やお母さんは、こんな小さな村の、という但し書きはつくけれど、モンスター用の武具を製造するヒューマンエンカレッジカンパニーの、支部所長をつとめるまでになっている。
それくらい。そんなに必死になってしまうくらい、お母さんにとっては、お父さんは大切だったのだと思う。
そんな大切なお父さんの子どもだから、お母さんは当然、僕のこともとっても大切にしてくれて。
こうして、この年まで育ってきた訳だけれど。
時々、お母さんから、怯えの気配のような物を感じる事がある。
―――――この子まで失ってしまったら、私は。
だから、僕は、お母さんのためにも、安全に生きていける仕事を選んで。
お母さんを早く楽にしてあげられるように、一生懸命働いてお金を稼いで。
親子二人で、楽しく暮らしていかなきゃいけない。
だから、戯れに、何の考えもなく、ふと、口をついて出た言葉に、僕は自分でもどきっとした。
「……冒険者かぁ。なってみたいなぁ、なんて」
お母さんには聞こえっこないくらいの小声ではあったけれど、水音しかしない小さな台所に、僕の声はやけに響いたように感じられた。