第3話 『名』
スーツ姿の男性、鏡を覗き込む女性、参考書を眺める真面目そうな学生
夜の駅のホームに人はまばらで、皆それぞれに時間を潰している。不自然な静寂。
あのスーツ姿の男性は仕事帰りだろうか?あの女性はこれから仕事なのか?あの学生は塾帰りか?
特にやる事の無い俺は、周りの人たちの背景を想像していた。
俺は彼らから見たらどう思われるのだろう?
やはり俺も、あのスーツの男性と同じ様に、『仕事帰りのサラリーマン』と見られているだろう。
スーツを着て、夜間の駅のホームで電車を待っていたら例外なく『仕事帰りのサラリーマン』なのか?
夜に電車を待つ、派手な見た目の女性は皆水商売の人間なのか?学生も夜まで遊んでいたのかもしれない。
そして、スーツを着、鞄片手に向こうのホームを眺めているこの男も、今から記憶を取り戻しに行くかもしれない。
期待してはいない。もちろん。期待どころか、有り得ない事なんだとゆう事は『わかって』いる。
しかし、誰でもいい。スーツ姿でうつむく男性でも、化粧を直し終えた女性でも、参考書を閉じ、携帯電話を操作し始めた学生でも。ただ、「何か困ったことはありませんか?」と気にかけて欲しい。
もし俺が、あのスーツ姿で先ほどから大きくため息を漏らす男性に、化粧が気になってしょうがない女性に、携帯電話と参考書を交互に眺める学生に、そう声をかけたらどうだろう?
「電車ガマイリマス」
もちろんそんな事はしない。それが『普通』であり、『常識』なのを『知って』いるから。
人は人に関わらない。それがルールだ。
訪れた電車に乗り込み、席に着く。俺はもう、彼らに目をやる事は無かった。
「ハチオウジ、ハチオウジデス」
電車を降りる前に、メールを送信する。到着するよりずっと先からメールは作成しておいた。
改札を出るか出ないくらいのタイミングで、手に持った携帯電話が震える。画面には『着信』の文字。
少し緊張しながらも、顔が緩む。
「はい。もしもし」
「つきましたか?」
「ええ、どうしたらいいですか?」
「すぐに行きますので、八階の喫茶店でお願いします」
「わかりました」
「では」
とりあえずは問題ないだろう。普通に会話出来たはずだ。相手は女性で、そんなに年はとっていないだろうといった声の印象を受けた。
改札を出てすぐの場所にいくつかエスカレーターがあり、それぞれ『地上出口』と『駅ビル入り口』の表示。八階と言うのは、この駅ビルの八階の事だろう。
もう少しで自分が誰なのかわかる。しかしその為には、少し計画を立てる必要がある。
駅ビルの中は、殆どの店舗が既に閉店しており、唯一レストランフロアのみが営業している状態だった。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
先ほどのファミレスと同じやり取りを繰り返し、席に着く。
まず第一に、俺が記憶を失っている事をすぐに言うのはまずい。
相手が親しい人間なら問題は無いのだが、あまり親しくない場合、面倒だと思われて帰られたらどうしようもない。そして先ほどの電話の感じからすると、恐らく後者の可能性が高い。
ではどうするか?
いや、そもそも、相手と俺の関係がわからない以上、最悪俺の事を知らない可能性もある。
冷静に考えれば考える程、先ほどまでの甘い考えは消えていった。
今から訪れる人間から、俺の全てを知ることは難しいだろう。しかし、現時点で頼れるのは彼女だけなのは確かだ。なんとか次のヒントにつなげたい。
とにかく、最初は相手の話に合わせ、自然に振舞い、最終手段として、正直に俺の状況を話そう。
とても計画とは呼べないが、今の俺には仕方ない。念の為、万が一に俺の事を知っている人間だった場合の事を考え、喫煙席に着席し、到着を待つ。否定しつつも、『万が一』が起きる事を願いながら。
その女性は、喫茶店に入るなり電話をかけ始め、周りを見回した。
俺の待ち合わせの相手である事はわかっているが、気付かない振りをしながら目線を逸らし、テーブルの上で振動している電話を手に取る。
「はい。もしもし」
「つきましたが、どちらですか?」
「窓際の角の席です」
そう俺が伝えると、彼女と目が合い、電話は切れた。
「お待たせしました」
女性は薄手の黒いロングジャケットの中に白いタンクトップ。破れたジーンズとゆうラフな服装だった。口調とあまりに違う印象を受ける。
「アイスティーを」
店員にそう告げると、彼女は茶色の鞄を机に載せ、「さて」と俺に視線を向けた。
もちろん俺から会話を展開する事は出来ない。相手との関係も、待ち合わせの目的すらもわからないのだから。
「いいですか?」
と、一瞬の沈黙の後、視線を離さずに彼女は続けた。
「鍵?」
「ええ」
俺は鞄からキーケースを出す。この鞄は隅から隅まで見たが、鍵はこのキーケースに付いている物だけだ。
「取っていいですよ」
キーケースごと女性に差し出す。少し強引かと思ったが、どの鍵を欲しているのかわからないのだから仕方ない。
「アイスティーになります」
店員が注文を持ってくる頃には、女性は鍵をキーケースから取り外し終えていた。
「ではこれを」
テーブルに載せた鞄をこちら側に押し、ガムシロップをアイスティーに注ぐ。
当然の様な素振りでそれを受け取り、膝の上に乗せて鞄を開ける・・・俺とこの女性はなんらかの取引の為に待ち合わせしていた事を把握するには十分なヒントである。恐らく100万程度はあるだろう現金が無造作に入っていた。
鞄を閉める俺に、彼女は「数えないんですか?」とストローを口に当てたまま聞くが、俺が今興味あるのは、金ではない。少しでも俺に関する事を知っていてくれればいいのだが。
「大丈夫です」
と笑顔で返したが、決して作った訳ではなく、人と会話する事が楽しかった。いや、相手が自分を認識してくれる事が嬉しかった。
しかしそんな気持ちには関係なく「そうですか。では、また何かありましたら」と女性はコップを置き、伝票に手を伸ばす。
「あの!」
無意識に声が出た。まだ帰すわけにはいかない。俺の身勝手と言われればそれまでだが、もう少し会話をしなければ何も進展しない。いや、もしくは単純に会話したいだけかもしれないが。
「はい?」
「あの、失礼ですが、取引したのは今回が初めてですよね?」
攻めるしかない。このまま相手からの情報を待っていても、あまり期待出来ないのだ。ボロが出たとしてもやむを得ない。このまま別れるよりはいくらかマシであろう。
「取引?そうですね。今回が初めてです」
わかっていた事だ。恐らく初対面であろう事は、店に入って俺を探す前に電話をした時点でなんとなく気付いていた。つまり、俺の外見を知らなかった。かまわない、女性は席に座り直しアイスティーに再び口を付けた。それで十分だ。
「君はもうこの仕事は長いんですか?」
「え?どうなんでしょうか。まだ2年くらいですが、入れ替わりの早い業界じゃないですか?」
「そう・・・変な質問してもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
「俺の事知ってます?」
なんだか恥ずかしい気持ちになる。いっその事、全てを言いたい。「助けて下さい」と伝えたい。そう正直に言えずに、少しでも誤魔化し、取り繕う俺は臆病なのか。
「え?」
「いえ。すみません」
「あはは!いえ、すみません。なんだかおかしな質問ですね」
それはそうだ。初対面の人間に「俺の事知ってるか」なんて聞かれたら普通は意味がわからないだろう。
「まあ、聞いた事はありましたよ」
「え?」
一気に鼓動が早まった。思いがけない返答。
「あまり他のグループと関わらない世界ですから、もちろん詳しい事は知りませんが、今日取引だと上の人間に伝えたら、『あいつは気をつけろよ』と言われました」
笑いながらそう話す彼女。俺も顔が緩む。内容も気になるが、それよりも俺を知っている人間がいるとゆう事。その人間に会えば少なからず俺の事がわかるはずだ。
「その上の人、他には何か言ってました?」
「ん?いえ、それだけですが」
「そうですか。・・・無理なお願いだとはわかっているのですが、その方にお会い出来ませんか?」
「いや、無理だと思います」
彼女は笑顔だが、明らかに俺を警戒し始めている。先ほどから何度も座り直しているし、早く帰りたいのだろう。
「では、これでどうですか?」
彼女がどう思おうが最早関係無い。今優先すべきは、その『上の人』だ。俺は先ほど彼女から受け取った鞄をテーブルに載せた。
彼女から笑顔が消え、「少し待って下さい」と電話を手に、喫茶店から出て行った。
蛍の光が流れ、喫茶店の中には俺だけになった頃、彼女は戻ってきた。
「残念ですが」
「そんな・・・」
これだけの現金と引き換えでも、俺とは会えない。相手が大物なのか、もしくは俺がそんなに危険な人物なのか。どちらにせよ、希望は絶たれた。
「ただし、私を通しての会話なら可能です。もちろん鞄は頂きます。あなたが会って何をするつもりだったかは知りませんが、目的が会話ならそれでも十分なはずです」
どうやら後者だったようだ。相手は俺を警戒している。俺をそれなりに知っているから警戒するわけだ。十分だ。と言うより、答えは最初から一つしかない。
「お願いします」
俺と彼女は喫茶店を後にし、近くに止めてあると言う彼女の車に向かう。
車の中で、俺は相手に聞きたい事を彼女に伝え、彼女はそれを相手にメールで送り、相手は返信する。そのメールを俺に伝えるといった形らしい。
何故そこまでするのか。相手は俺に声すら聞かせたくないのだろう。俺はどうゆう人間なのだろうか?少し知るのが怖い気もするが、当然止めるつもりはない。
駅ビルから出ると、街はすっかり静かで、タクシーが客待ちをし、若いカップルが外の階段に座り、寄添っている。
俺には恋人はいたのか?友人は?自分を知った所で、孤独な人間だったら今と何が変わるのだろうか。
俺は、誰かと関わっていたい。
「どうぞ」
女性には少し不釣合いに感じる大きな車。車の名前は詳しくないが、どちらかと言うとアウトドアチックな車だ。
大きなタイヤに足をかけ、助手席に乗り込むと、ココナッツの香りが鼻をつく。
長い黒髪を後ろで束ねながら、女性が思い出したかのように口を開く
「そうそう、私の事はレイと呼んで下さい」
俺にはまだ名乗る名は無かった。