第1話 『鍵』
プロローグからお読み下さい
俺の記憶が正しければ・・・
いや、この俺がそんな事は言えまい。なんと言うか、『俺の頭の中にある常識が、世間でもまだ常識なら』駅から出るには切符が必要なはずだ。
人の流れが淀んでいる改札口、そこで俺は一人群れから離れ、改札を眺めていた。
何かがおかしい。改札機に切符を入れる人があまりおらず、財布を改札機に当てて出て行く人が多いのだ。
切符でも改札は出れる事はわかったのだが、それが出来ればここで眺めていない。
俺は切符を持っていなかった。
駅員にそう伝え、現金で支払えば出る事は出来るだろう。幸い財布には10万円近く現金が入っていた。
しかし・・・
今の自分の状態を他人にあまり知られたくない。
頭のおかしい人間と扱われても仕方ないし、病院に収容される可能性もある。
俺は自分を知りたい。そして出来るなら、その生活に戻りたいのだ。
俺は一度改札から離れ、一番無難に駅から脱出する方法を模索する。
そこで辿りついたのは、と言うかそれしか無かったと言うのが正しいが、駅員に「切符を無くした」と伝え、料金を支払って出る方法。
おそらく駅員に「どちらから乗りましたか」と聞かれるであろうから、あらかじめ駅構内にある路線図をチェックしておく。
ここはどうやら新宿からそう遠くない場所らしい。
キセルになるとまずいので、始発駅である新宿駅から乗ったと伝える事にした。
改札を出ると、バスやタクシーへの乗車場があり、帰宅するであろう人々の列が出来ていた。
目的地を探そう。今の状態ではどこに行けばいいのかもわからない。
一瞬、警察署も考えたが、自分の素性がわからないのに行っても、良くて施設や病院を紹介してくれるだけだろう。
とりあえず歩き始めたものの、目的地を探すにも外では寒すぎる。どこか店に入って計画を立てたい。
途中、ポケットの中に煙草とライターを見つけたが、特に吸いたいとは思わない。俺は煙草を吸っていた様だ。
しばらく歩くとファミリーレストランを見つけ、入る事にした。
この店にしたのは、24時間営業とゆう点と、『俺が知っていたから』
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
入店すると、にこやかなウェイトレスが出迎えた。
禁煙席に案内されたが、すぐ後ろの席では若者が煙草を吸っている。これじゃ意味ないだろ、なんて思いながらも席につく。
コーヒーを飲みながら、鞄の物をテーブルに並べ、どうするか考える。
財布の中身は、現金96020円、クレジットカードが3枚、銀行のキャッシュカードが4枚、後は良くわからないカードが3枚。
免許証や身分証明書は無い。クレジットカードとキャッシュカードの名義は全てバラバラ。中には女性名義の物もある。
キーケースには6本の鍵。同じようなシンプルな物が3本。少し小さく、王冠のマークがついた物が1本。鍵の形が明らかに他と違い、なんとなく古そうと感じさせる物が1本。そして俺が知っているマークのついた鍵が1本。車メーカー、メルセデスベンツのマークだ。
全く持って目的地へのヒントが見つからない。
まあ、わざわざ自宅への地図を書いて持っている人間はいないだろうし、『私はどこどこの何某です』なんて書いて持っている人間も稀だろうから、当たり前と言えば当たり前かもしれないが。
しかし不思議な話である。クレジットカードやキャッシュカードの他人名義と思われる物をいくつも持ち歩き、車の鍵はあるのに、免許証が無い。
残るは、ハンカチ、ボールペン、携帯電話。
ハンカチはブランドの物だが、いたって普通。ボールペンは1本は赤と黒の出るプラスチック製の物、もう1本は蓋がついていて、黒光りしている。重量があり、どこかのブランド品なのかもしれない。
携帯は操作方法がわからず、いろいろなボタンを押してみるが、『データーがありません』『履歴はありません』ばかり出てくる。
天井を仰いで、大きくため息をもらした。
人は生きてきて、ここまで自分の事を残さないものなのか。
店内のディスプレイでは、誰だかわからない女性が歌っている。彼女なら俺と同じ様になっても、誰かが自分が誰だか教えてくれるのだろうか。
俺は誰なんだろう。
頭に浮かぶのはネガティブな考えばかりで、結局何をしたらいいのかもわからなかった。
どれくらい時間が経ったのか。放心状態の俺は視線だけはディスプレイを眺めていたが、内容は1つも覚えていない。
その時、テーブルの上で何かが唸る様な音を上げた。
テーブルの上にある、携帯の小さなランプが点滅している。
嬉しくて涙が出そうだった。俺にも俺が誰なのか教えてくれる人間がいるのだ。
顔がニヤけている事に気づき、すっかり冷めたコーヒーを飲みながら、携帯を開いた。
『新着メール 1件』
手紙のマークのついたボタンを押し、受信メールに合わせて決定ボタンを押す。
タイトルは空欄、そこでもう一度決定を押すと本文が表示された。
『今日鍵を渡してもらう約束ですけど、今どこですか?』
当たり前だが意味はわからない。しかし自分を知っている人間と連絡が取れた事が嬉しくて、会いたくて堪らなかった。
返信の方法がわからずに苦労し、更にメールの書き方がわからずに苦労し、20分後、返信メールを送信した。
「セイセキサクラガオカです。どこに行けばいいですか?」
店員にコーヒーのおかわりを頼む。
やっと自分が誰なのかわかる。あと数時間以内には。
待ち遠しくて、携帯の画面から目が離せない。
5分後、メールが届く。
『八王子の約束です。ついたら連絡下さい』
ウェイトレスが持ってきたコーヒーに手をつける事無く、俺はファミレスを後にする。
先ほど駅で見た路線図によると、八王子はそう遠くない。新宿駅発の、八王子駅終点の路線なのでよく覚えている。
足取りが軽い。人通りが多いため、走りたい気持ちを抑え、早足で駅に向かった。