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旧作品群

彼女のカマイタチ、 僕の衝動

 1


 彼女は肌を晒すことを嫌う。たとえば水泳の授業であっても、日焼け対策などと適当な理由を付けて手首足首まである水着を着用するほどである。そのうえ足ヒレまでつけているものだから、露出しているのは手先と口元だけだ。

 変な奴、と、形容する生徒もいる。僕もそう思う。同じ病院で一日違いで産声を上げ、以来幼稚園小学校中学校高校と、十八年間ずっと一緒にいる僕でさえだ。

 彼女は髪が長い。夜空のような真っ黒い髪を、伸びるに任せて放っているものだから、水泳の授業後は大抵床に水溜りができていたりする。無頓着だ。幼馴染としてはもう少し気にしてほしい。毎回僕が髪を乾かす羽目になるのだから。彼女は僕に感謝すべきだ。女子が水泳の授業の時、大体男子はグラウンドでサッカーをやっているというのに、僕はわざわざ彼女のために、家からバスタオルを持参するのである。

「知らない。頼んでない。私は知らない」

 彼女は言う。

「髪くらい自分で拭けるだろ。もう十八なんだから」

 僕は返す。

 そう言いつつも、彼女の髪を乾かす手は止めない。夜空のような髪は、窓から差し込む光を反射して輝きを放っているように錯覚させる。星の煌き――本当に夜空のようだ。なんだかんだ言いつつも、僕はこの、彼女の髪が好きである。文句を言いつつも、彼女の髪を乾かすのだって嫌いじゃない。

「海行く」

 彼女は肌を晒すのを嫌う。

「へー」

 それこそ、十八年間ほとんど一緒にいる僕ですら、いっしょに川だとか海だとかで遊んだ記憶に乏しいくらいに。小学校くらいまで、まだ彼女の髪が短かったころは、夏休みは毎日学校のプールに通っていたはずなのに。

 中学校。水泳の授業は全部体調不良と日光アレルギーだかなんだかでサボる。僕は彼女が日光アレルギーではないことを知っていたが、学校の先生たちは、彼女が少し青白い顔をしてみせると、その話を信じてしまったようだった。そういえば、彼女はそのころから髪を伸ばし始めていた気がする。

「で? どこに行くって?」

「海」

「海……って、どんな?」

 肌の露出を嫌う。極端に、病的なほどに。

 肌はミルクの様に真白いが、別に日焼けが怖いわけではないだろう。

 しかし、これまで海や川への誘いに頑として首を縦に振らなかった彼女が、あろうことか、海に行くという。水泳の授業以外に水着など着ないと言い張り、スクール水着(僕の手により長袖に改造されている)しか持っていない彼女がである。

「塩辛い水。白い砂。青い空。海だー」

「あ、こら、暴れんな」

 バスタオルで挟み、叩くように水分を取る作業中、突然「海だー」と叫んで両腕を突き出した彼女。髪が引っ張られ、バスタオルからこぼれた幾本かがさらさらと流れる。微量に含まれた水滴がキラキラと光を反射。ちなみに「海だー」は限りなく抑揚の死んだ棒読みであった。

「誰と?」

「ともだち」

「ともだち?」

 お前に友達なんていたのか。

 けしていじめられているわけではないが、彼女はいわゆる「お近づきになりたくない奴」である。まず、表情に乏しい。そしてふわふわと地に足のついていない態度に、奇行。水泳の授業時に足ヒレを持参したりなど、まだ可愛い方だ。

 だから、まあ、挨拶程度はかわしても、休み時間になる度に連れだってトイレに行ったりするような、いわゆる「友人」とでも呼べる人間はいないわけで。

「お前」

 こちらを見もせずに、背後の僕を指差す。

「僕か」

「ともだち」

「一応聞くけど、いつ行くんだ?」

「明日」

「金曜日だぞ」

「学校はサボる」

「させるか」

 僕は男なので、風呂上りなど、髪の水分を取るときはタオルで適当にやってしまう。しかし彼女はこれでも女子であるのでそうもいかず、丁寧かつ慎重なドライが求められる。

 ぶっちゃけた話、十八年という歳月で見ると彼女の髪を乾かした累計時間はきっと彼女の両親に次いで僕がランクインするに違いない。もしかしたら勝ち越しているかも。それならこの髪は僕が育てたことになる。自分のものではないが自慢の髪だ。もちろん彼女自身はランキング外。

 ミルクの肌と、夜空の髪。白と黒の完璧な対比。ぽけっと空いた少しだらしない唇は薄い桜色。

 彼女に人が寄ってこない理由に一役買うのがこの容姿だ。少し小柄であることもあいまってか、人間であるよりも陶磁人形(ビスクドール)に見えるのである。人間的ではないのだ。もし誰かが近づいて来ても、あまり友好的ともいえない性格とジコチューな思考から来る我が儘のせいでどんどん人は離れていく。

「じゃあ土曜日に行く」

「何しに」

「泳ぎに」

「まだ寒いぞ」

 六月である。海で泳ぐには少し早い。しかし彼女はそんなことお構いなしだった。

「平気」

「風邪引くぞ」

「そしたらお前が甘やかしてくれる」

「人類誰が見ても、これ以上僕がお前を甘やかすことはできないというと思うぜ。限界を振り切るレベルで僕はお前を甘やかしてる」

 彼女は鼻を鳴らした。というか鼻で笑った。小馬鹿にされた気分だ。腹が立ったので、丁寧に乾かした黒髪を、耳の後ろ辺りで二つのお団子にしてやった。馴れたものだ。彼女が抵抗する前に作業は終わる。

「こ、れ、これ、やめ、やめて」

 白いうなじが見えている。微妙に取りきってしまうことのできない水に濡れた後れ毛が、どことなく色気を立ち上らせた。

 彼女は肌を晒すことが嫌いである。


 2


 結局学校が終わるまで、彼女の髪型はお団子のままであった。僕は可愛いと思うのだが、彼女は気に入らないらしい。五時限目と六時限目、ホームルームの間中、不機嫌そうに口元をへの字にしていたが、嫌なら解けばいいのに。彼女はお団子の解き方を知らない。無頓着すぎる。無頓着が過ぎる。

「解け」

 命令形だ。表情の乏しい、っていうのは彼女のことをよく知らない奴らが勝手に貼ったレッテルなのだ。実際には彼女は表情豊かである。今は怒りと羞恥がないまぜになったような表情を浮かべていた。

 彼女の命令は絶対だ。別にそんな血筋であるとか、身分が違うとか、全然そんなことは無いし、そもそもここは現代日本だが、彼女はお姫様で、僕は従者なのだ。我が儘なお姫様と、ちょっといじわるな従者。命令されたら断る事ができない。

「後ろ向きで座れ」

「うん」

 彼女が僕の膝に腰を下ろす。そういうつもりで言ったんじゃないんだけど。というか近すぎて作業が出来ないし、できれば別の椅子に座ってほしいな――とは思えど口に出さない。わざわざ彼女のために引いた椅子を、足で蹴って机の下に戻す。

 クラスメイトは今更僕たちに何かを言うことはしない。入学から丸二年と二か月が経過して、校内に我が儘なお姫様の存在を知らない者はいないのだ。僕は不本意だがそのお姫様の従者あるいはお世話係という扱いになっている。らしい。せめて保護者だろと言ったところ、確かにお兄ちゃんみたいだと言われたが、妹ってこんな感じなのだろうか。

「早く」

「ああ、うん」

 ちょっと触ると簡単にお団子は解ける。せっかくなのでゆるく三つ編みにしてみようかとも思ったが、一つか二つかにするかを決めかね、結局面倒になってやめた。夜空が頬をくすぐる。

「海。行く。決定事項」

「泳ぐのか?」

「泳がない。埋める」

「埋める? 何を」

 彼女は僕の膝から腰を上げると、両手を広げて二、三歩を踏み出した。

 夜空が揺れて広がった。

「カマイタチ。――今夜、殺すの」

 へえ、と、話半分に聞き流す。

「危ないことはするなよ」

 一応注意はすれど、きっと家に帰るころには忘れているに違いない。

「殺す。今日こそ」

 彼女は、肌を晒すのを嫌う。

 その理由は。

 肌を晒していると、カマイタチに斬り付けられるからだ。

 ――と、信じているからだ。

 彼女の左手首には真白い包帯が巻かれている。


 3


 彼女が何部にも入らないので、僕も何部にも入らない。帰宅部。彼女は帰宅したくない。

「今日は猫」

「を?」

「見に行く」

「ペットショップか」

 僕は彼女に逆らう事ができない。

 彼女が帰りたくなければ、僕は帰宅することすらできないのだ。だから放課後は、彼女が疲れて帰りたくなるまで、いろんなところに行ったりする。

「さようなら」

 まるで空気であるかのように、ごく自然に他人を無視してずんずん歩いていく彼女のかわりに先生に挨拶をし、それが当然であるかのように押し付けられた通学鞄を抱えて僕達は校門を潜った。

 彼女の鞄には何も入っていない。筆箱すら。みんなが持ってきているからなんとなく鞄を持っては来るが、彼女には筆箱や教科書の類を持ち歩こうという意思はないのである。要領が良いのか元が良いのか、彼女は予習復習などしなくとも勉強ができるようで、すべての教科書、ノートの類と筆箱は学校のロッカーに放り込んだままだ。多すぎて、その教科書類の半分は僕のロッカーにしまわれている。残念なことに僕は予習復習をしないと勉強についていけないので、いわゆる「置き勉」というものをしない。だから特に問題は無かった。

「あっ。猫」

 彼女は気まぐれであり、また、適当である。

 猫を見に行くと言ったが、それは猫と戯れたいとか愛でたいとか、そういう意味ではなく、言葉通り、「猫を見に行く」なのであって、こうして道路の隅で寝ている野良猫を「見られた」から、もう、それだけで満足する。適当なのだ。

 行動原理はよくわからない。でも僕は、この適当さ加減が嫌いじゃない。

「ペットショップは?」

「いい。猫、見たし」

 僕は彼女に振り回されるのが嫌いじゃない。

 結局この後、ペットショップには行った。見たのはウーパールーパーだった。彼女は「美味しそう」とだけ言った。


 4


「海だー……」

「水着は持ってきたのか?」

 土曜日。

 六月の半ば、梅雨真っ盛りであるが、その日は雲一つない快晴であった。彼女を自転車の荷台に乗せて三十分の場所。地元の海である。汗ばむどころか結構がっつり汗をかくような、そんな気候だ。今週の頭から一昨日にかけては、まだ少し肌寒いような日が続いていたというのに。

 海の水がまだ冷たくとも、これだけ暑いと丁度良いくらいかもしれない。朝五時に我が家に訪れた彼女に急かされて、午前六時に家を出たものだからまだ六時半。当然遊泳中の人はいない。

「持ってきた」

 自信満々に言って、彼女が通学鞄から取り出したのは水着である。確かに水着だ。

「お前それ、何処から持ってきたんだ」

「お父さんの。借りてきた」

 男物の短パンタイプの水着である。僕が穿いて丁度膝頭が隠れるくらいのサイズだろう。

「……自分用の水着は?」

 聞くと彼女は、不思議そうな顔をした。

「これ」

 指差すのは男物の水着。

 肌を晒すのを嫌うという設定は何処に。もしや本当に設定だったのでは? ウチのお姫様が露出狂への道を歩もうとしています……。

「それは僕が着る。お前はこれを着るんだ」

 僕は鞄から女物の水着を取りだした。肌を晒すのを嫌う彼女のために普段学校で使わせている水着を持ってこようかと思ったのだが、思い直して買って来たのは、胸と下腹部を覆う布が分かれていないワンピースタイプの水着。黄色地に白の斑点が浮かんでいる。手足は露出するが、それでも市販の水着の中ではこれが布面積最大である。

「わかった」

「一人で着替えられるか?」

「無理」

 さすがにこれは一人で着替えてもらわないと困る。お互い十八だ。渋る彼女を女子更衣室のところまで連れて行く。

「一緒に」

「行けるか馬鹿」

 女児用(そう、女児用である)水着を押し付け、年中開放されている更衣室に押し込む。僕もその隙に彼女から取り上げた男物の水着に着替えることにした。


 5


「帰る」

 彼女は言った。破けそうなほど水着を握り締め、彼女は絞り出すような声で言った。

「帰る」

 繰り返す彼女。

 僕は彼女の左手首の包帯が外れかかっているのに気が付いた。

「カマイタチ」

 まるで刃物で切り裂かれたような切り傷がそこにはあった。彼女のミルク色の肌に走る、一本の赤い線。彼女の目には涙が浮かんでいる。僕は彼女から水着を受け取ると自分の鞄にしまい、代わりにガーゼと包帯を取りだした。綺麗な傷口だ。適切に処置を施せば、きっと傷は残らない。

「カマイタチ、に、やられた、の」

「カマイタチなんていない」

「やられたの」

 カマイタチなんていない。夜の闇が照らされ、あらゆる現象に科学のメスが入る現代である。カマイタチなんて怪異――存在するはずがない。ありえない。可能性が無い。僕は強く否定する。これは彼女が自分につけた傷だ。飛び出た釘か何かで引っ掻いてしまったとか、そんなことに違いない。

 彼女には決定的に注意力が足りないのだ。素肌を出していようものなら、大抵は何かに引っ掻かれたり擦り付けたりして傷を創る。それを彼女は、カマイタチにやられたと思い込んでいるのだ。

「いいか、カマイタチなんていないんだ」

「いたのッ! カマイタチが! 私の、私の手をッ!」

 落ち着け、と、彼女を抱きしめる。腕の中で彼女は滅茶苦茶に暴れ、振り回された腕が顎や目に当たったが意識しまいと努める。彼女が切り傷を見ただけで錯乱してしまうようになったのには原因があるのだ。それも、彼女はもちろん、僕としても、あまり知られたくない理由だ。

「大丈夫、大丈夫だから」

 そして、僕と彼女以外に、知る人のいない理由だ。

「僕が。僕がいるから」


 6


 明けて月曜日。

 朝から校内が変だった。いつも朝は眠たそうにしている彼女でさえ、教室に入るときにしっかりと目を見開いたほどである。いつもは僕が手を引いて机まで先導するというのに。

 ざわざわ、というかなんというか。そう、ざわめいている。

「なあ――」

 席に着くのとほとんど同時、僕の左側の席に座っている生徒が僕の名前を呼んだ。

「なんだ?」

「ニュース見たか?」

「ニュース?」

 残念なことに朝にテレビをつけている暇などないのだ。起床後朝の用意を済ませた後、隣に住んでいるお姫様を起こしに行き、ほとんど目の開いていない彼女に朝ごはんを食べさせる。僕が春先にツバメに親近感を覚えるのは、きっとこの時にヒナに餌をやる親鳥の気分を味わっているからに違いなかった。

 放っておけば制服に着替える事すらしない彼女に制服を押し付け、着替えを命じた隙に食器の類を洗ってしまう。お互い、両親は仕事の関係で朝が早い。ゆえに、僕が箸を使えるようになったころくらいから、朝は二人で食べるのが習慣となっている。ちなみに彼女は箸を使うのが苦手だ。

「見てないな」

「見てねえの? じゃあ俺様が教えてやるよ」

 得意そうな表情を浮かべる笹川。去年も同じクラスで、わりとよく話す。何の因果か席替えの度に近くの席になる彼の特技は、皆が知っているようなことを、ごく少数の知らない者に吹聴して回ることだ。何かわからないことがあればこいつに聞いておけばとりあえず間違いはない。と、少なくとも僕は思っている。

 まあ付き合い方を間違えなければ便利な奴だ。用法容量を守って、って奴。僕は内心で、笹川のことを「薬」と呼んでいる。

「ちょうど六年前だから――なんだ、俺たちが小学校、えっと、六年の時か。六年の時に、『(かま)(いたち)』っていう通り魔が現れた事件、覚えてるか?」

 視界の隅、彼女のかすかな反応が目に入る。僅かに肩が強張ったのだ。おそらく誰もそのことには気づいていないだろう。クラスメイト達は、彼女が日々、「カマイタチ」の恐怖に怯えていることを知らない。

「覚えてる。登下校中の小中学生、幼稚園児に、刃物で切り裂かれたような傷。犯人の目撃情報が無く、被害児童、生徒も、明らかに人為的な傷痕であるにもかかわらず、気付いたら切られていたと証言したので、捕まらない犯人はいつからか、『鎌鼬』と呼ばれるようになった」

「そ、そう! よく覚えてるじゃねえか」

 右手を彼女の左手に重ねる。まるで小動物のようだ。小刻みに震えている。彼女の前で「カマイタチ」というワードは厳禁なのだ。通り魔の呼び名である「鎌鼬」だって、マスメディアは漢字で表記したが音にしてしまえば「かまいたち」で、彼女の怯える怪異としての「カマイタチ」と全く同じなのである。

 僕は「薬」に言った。百八十センチある僕は、立つと大抵の人間は見下ろすことになる。

「僕たちが小学校六年生の時の四月、突如この町に現れた通り魔は、現れた時と同じように、その年の夏休みが終わるか終らないかといった頃くらいに同じように突如姿を消した」

 笹川は僕を見上げている。

「人を傷つけることをやめたってことは……『鎌鼬』も、きっと、気付いたんじゃないかな。自分のしたことに」

「いや、さすがに小学生の時の話だったから裏付けなんてまったくないが、犯人が交通事故に遭ったとか聞いたぞ……? ま、えっと、細かいことはいいんだ。聞いてくれ。その通り魔『鎌鼬』がな、また現れたらしいんだよ」

 僕の右手の下で、彼女の左手はすっかり血の気が引いてしまい、冷たくなっていた。陶磁器の様にすべすべの肌に、冷えた手先。人形の手を握っていると錯覚してしまいそうだ。

「詳しく聞かせろ」

 僕は笹川に向かって身を乗り出した。


 7


「あ、ちょっと待って」

 少し溜め、きっと長口上を述べるつもりだろう、大きく息を吸った「薬」を、空いている方の左手で制し、スラックスのポケットから、プラスチックのケースに入った黄色のスポンジを取りだした。百円均一で売っていた耳栓である。こんなこともあろうかと、買ってポケットに忍ばせておいたのが役に立ちそうだ。

 僕は耳栓をケースから取り出すと、自慢の夜空をかきわけて、美術品の様に完成された可愛らしい左右の耳に、耳栓を挿入した。百均程度のクオリティでは、完全に音を遮断することはできない上に、繰り返し使うとほとんど音を遮断しなくなるのだが、これは初使用の新品である。僕にされるがままになっている彼女の耳に、「都合の悪い」言葉が入ることは無くなったのだ。

 彼女を僕の背に隠す様に彼女の机にもたれかかり、笹川を見やる。

「どうぞ」

「お、おう」

 右手は体の後ろに回し、彼女の左手を握る。少し汗ばんでいるようだ。ひんやりとしている。

「土曜日の早朝、隣の学校の女生徒と、市の反対側にある小学校の男子児童が二人、気付いたら刃物で切り付けられていた。日曜日の午後、砂浜で遊んでいた男子児童が、親が一瞬目を離した隙に右肩に切り傷を負った。それとこれはまだテレビでも報道されたりはしてないが――」

 ポケットから取り出した手帳に視線を落としながら話していた笹川がその手帳を閉じ、僕の方に体を倒してきた。そうして声を潜め、続ける。

「隣のクラスの広瀬も、今朝、被害に遭ったらしいぜ」

「広瀬さんが?」

 今は隣のクラスだが、高校に入ってから一年二年と同じクラスだった女子生徒だ。ピアニスト志望で、綺麗な指だったのを思い出す。

「左手の親指以外に包帯巻いてたな。畜生『鎌鼬』、マジで許せねえ……」

 ちなみに笹川は広瀬さんに気があるらしい。告白すれば良いのに、とは常々思っているし、実際に勧めてもいるのだが、どうにも煮え切らない。将来はジャーナリスト志望で、あらゆる事件の真相を白日の下に晒すことを掲げる笹川は、夢に向かって一直線。まっすぐな点で、広瀬さんとお似合いだと思うのだが。

「一応聞くが笹川、その『鎌鼬』、六年前の犯人がもし怪異や都市伝説の類じゃなくて実在したとすると、今回の犯人はそいつと同一人物なのか?」

「凶器は刃物で犯人は目撃されていない。六年前と完全に同じだ」

 再び手帳を開き、幾項か確認した笹川は、そう断言した。現在時刻、八時一五分。充分だ。

「犯人は同一人物――果たして本当にそうなのか?」

「は? 模倣犯だって言いたいのか?」

「だって、被害者が違うじゃないか。六年前の鎌鼬は、小中学生と幼稚園児がターゲットだった。被害に遭ったのは女子中学生が二人、小学生男児が三人、女児が八人、幼稚園児が一人だ。でも今回の事件、現時点では女子高校生が二人と男児が三人、被害者の年齢層が変わってるんだよ」

 笹川は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに表情を消してしまうと、ノートに何事か書き足した。

 僕は、彼女の左手を握る右手に、無意識のうちに入っていた力を抜く。唇を軽く湿してから小さく息を吸い、再び言葉を放つ。

「本当に、再び現れた『鎌鼬』は六年前の奴と同一人物なのか?」

 それは、と、笹川は言った。

「それは――、わからん。わからんが……何か、関係があるか? お前に。復活した『鎌鼬』が、本物なのか、偽物なのか」

「……いや。別に」

 僕はそう言うと、ここで会話は打ち切りだと言わんばかりに自分の席に腰を下ろした。椅子の足と床が擦れ、耳障りな音を立てる。

 ふと右を見ると、いつの間にか彼女は寝ていたようだった。半開きの口から規則正しい寝息が漏れ出している。

 先程まで僕が握っていた左手は、軽く握りしめた状態だ。

 今朝は気付かなかったのだが――彼女の目の下には、くっきりとクマが出来ている。

 笹川との会話中に予鈴は鳴り終わってしまっているので、おそらくあと二、三分といったところで本鈴が鳴るだろう。一瞬迷ったが、彼女の目の下のクマを見て、僕は彼女を無理に起こすことをやめた。


 8


 彼女は、突然、思い出したように、「カマイタチを殺す」と口にする。

 これには理由がある。どうにも不注意で、手先指先に切り傷擦り傷がよくできるのを、つむじ風に乗って現れ、鋭い刃物で斬り付ける怪異、カマイタチのせいにしているものだから、カマイタチを殺してしまえば、彼女は傷を得ることが無くなると、そう信じているのだ。

 これをいつから言い出したのかというと、ちょうど小学校五年生の時だ。冬休み、宿題を全部僕に押し付け、僕が二人分の宿題をやらされる羽目になったのだが、では押し付けた張本人が有意義な時間を過ごしていたのかと言えばそうでも無く。算数や国語のドリルを二冊ずつ並べる僕の隣でこたつに入り――いや、入り込み、ごろごろだらだらしていただけの彼女は、あろうことか、「暇だ」と言ってのけたのだ。さすがの僕もこれにはカチンときた。今ほどぼんやりしていなかったものの、我が儘さ加減においては今の比ではなく、逆らおうものなら僕が泣くまで悪口を言うような女(小学五年生)に、がつんと言ってやったのだ。そう、「本でも読めば」と。我ながら情けない限り……。

「このとき清少納言は――」

 一時限目は古典の授業だ。

 お世辞にも得意とは言えない古典の授業なので、授業を真面目に受けねばならないとは思えども、学校の授業というものは大体、授業に関係ないことを考えている時の方が眠たくならないものなのである。僕が真面目に授業を聞こうとすると、五分で机を枕にすることになってしまうのだ。

 横目で彼女の方を見やると、なにやら板書をノートに写しているように見える。見えるが見えるだけで、実際は落書きに違いない。

 一度勉強のできる奴のノートを見せてもらおうと思い、覗き込んだことがあるのだが、彼女が一生懸命ノートに書き込んでいたのは、創作お菓子のレシピであった。僕に作らせる用の。毎回いつそんなもん用意してんだと思ってはいたが、まさか授業中だとは思いもしなかった。ちなみに指示はアバウトで、「ピリッとして甘い」だとか「辛さのある甘味」だとか、ふんわりかつ理解に苦しむものが多い。彼女の適当なレシピでは当然まともなものが出来るわけがないのだが、毎回それを「おいしい」と言って食す彼女は甘ければ何でも良いんじゃなかろうかと思わせる。

 今日は「生クリームが食べたい」ってもはやレシピですらない……。

 帰りに買って帰らねばと脳内にメモ。

「これ公任の宰相殿の、を、えっと、今日は六月八日だから……八番、笹川、訳してみろ――」

 左隣。笹川が立ち上がる。

 そういえば何を考えていたのだったか。彼女がどうしてカマイタチを殺そうとするようになったのかだ。


 9


 小五の冬休み、暇を持て余し過ぎていた彼女は、たまたま僕が図書館から借りて来ていた本を読み始め、あるページを開いたところで手を止めた。

「これ。なんて読むの?」

「どれ」

 国語のドリルとのにらめっこにいそしんでいた僕は、顔も上げずに彼女に問い返した。

「これ」

「だからどれって」

「これ」

「どれ」

「これ」

「どれ」

「これ」

「どれって」

「これ」

「……どれ?」

「これ」

「ちょっと今手が離せないから、どうにかして伝えて」

 意地の張り合いで負けたのは僕。こういうので勝てた試しがない。

「かねかねるネズミよし」

「呪文?」

 ずい、と、僕の視線と大問四の間に、小学生が読むには小さい文字の本が差し込まれた。国語ドリルの問題文よりも小さい文字。そうだ、怪談のたくさん並んでいる本棚の中から適当に選んだうちの一冊だったはずだ、これは。もちろん当たり前の様な顔をして、きまぐれについてきた彼女が、読みもしないのに僕に借りさせた本である。何の気まぐれか、この時は読んでいたのだが。

 適当に借りたものだから、本の難しさは明らかに小学生のレベルを逸脱していた。「鎌鼬」を、結局僕も読めず、この数時間後に帰宅した僕の母親に聞いたのだった。

「かっこいい」

「何が」

 両親が帰宅してのち、夕食を済ませた後も、我が家より両親の帰りが遅い彼女は、僕の家の、居間の、僕の隣で、こたつの同じ「辺」のところに潜り込んでいた。うつ伏せの姿勢で上半身をこたつから出したこたつむりな彼女は、ずっと飽きもせずに、かまいたちのページを眺めていたらしい。

「これ」

「どれ」

「かっこいい」

「へえ」

 振り返ると本を指し示しているようだが、絶妙に彼女のツインテールが本を隠していた。ちなみに彼女の髪型はこの時からすでに僕がセットしていたように思う。

「あとちょっとで国語のドリルが終わるから、ちょっと静かにしてくれ」

「わかった」

 直後だった。

 右脇腹。彼女が寝転がっている方に違和感を感じ、鉛筆を握っていない方、左手を持っていく。

「濡れてる……?」

 生暖かい。手を離すと指先が赤くなっていた。血だった。

「は?」

 なんで? と、続きかけた言葉は行方を失い、消えた。

 その時来ていたティーシャツの右脇腹の辺りが薄く裂けている。右側。丁度、彼女が手を伸ばせば届くか届かないかの距離。その微妙なリーチを、彼女の小さな右手に握られているものが埋めていた。

「お前、それ、なにやってんの……?」

「つむじ風と共に現れ。刃物で切り裂く。カマイタチ」

「は、はあ? お前、はあ?」

 自分でも何を言っているのかが、何を言おうとしているのかが、分からなくなってしまっている。

「かっこいい」

 彼女の右手には、カッターナイフが握られていた。


 10


 その後彼女は、現場を見つけた僕の母さんに怒られたあと、真顔で「ごめんなさい」とだけ言いに来た。

 彼女のカマイタチへの好奇心は、実際に何かを切り付けてみるという形で発露したのだ。適当に放り出してあった僕の筆箱からカッターナイフを取り出し、手ごろな場所に居た僕に切り付ける。なんの躊躇いも無かったようで、その点やはり、彼女は「違う」。

 一度謝ったから彼女の中では良しということになったようで、直後僕に平気で絵画コンクールの宿題を押し付けてくるあたり、彼女はやはり神経が図太かった。

 僕は脇腹を切られてから既に一、二時間は経過しようというのに心臓のドキドキが止まらなくて、その日は結局眠れなかった。思えば僕は、小学校五年生にしてもう、初めての徹夜を経験していたらしい。ちなみに彼女は、八時過ぎにはこたつの中で体を丸めて寝息を立てていた。

 眠れなかったおかげで、彼女に押し付けられた分を含めた宿題は、その日のうちに全部終わったのだが、翌日彼女が忘れてたと言って書初め用の半紙を持ってきたときは、墨汁で顔に落書きしてやろうかと思ったがやめた。

 でもやっぱり思い直して羽子板をやろうと提案すると、コテンパンに負けて顔面を真っ黒にされた。落書きとかそんなレベルじゃなくて、隅々までまんべんなく、真っ黒だ。

 悔しかったので、テーマが将来の夢だった書初め、彼女の半紙には「うんこ」と書いておいた。殴られた。結構本気のグーパンで。多分最後の乳歯だった右の奥歯がその時に抜けたので、相当な威力だったと思う。

 まあそれはさておき、昨日の出来事がまるでなかったかのように、ごくごくいつも通り振る舞う彼女に、僕も事件があったことをすっかり忘れ、三学期が始まる。

 ちなみに書初めの宿題だが、彼女が適当に書いたミミズみたいな文字が何かの書道コンクールで金賞を取ったらしく、僕はまた一つ、世の理不尽というものを知ったのであった。

 そして三学期もつつがなく終わり、春休み、一学期と続いて、夏休み――


 11


 校内がざわついていた。彼女はあまり変わらなかった。

 たまに無い日もあるが、ほぼ毎日、通り魔事件が起き続けているのである。彼女はすっかり耳栓のヘビーユーザーだった。授業前の世間話に先生まで「鎌鼬」を口にするものだから、しまいにはすっかり授業中まで耳栓をするようになってしまい、僕は微妙な気分を覚える。

「カッター持ってねぇか?」

 英語の時間。不意の問いかけは左側、笹川からのもの。

「何に使うんだ?」

「プリント溜めすぎてさあ、ハサミで切るにはちょーっと面倒だなあ、ってな」

 確かに、「ちょっと」と形容するのはちょっとだけ無理がある量のプリントが、笹川の机の上に山を作っている。ノートに張り付けるのには微妙に大きなサイズなので、切って貼り付けようとしたが、手持ちのハサミだと一息に裁断することは叶わないらしい。

 別に渋る必要もない。減るもんでもないし。僕は筆箱から大振りなカッターを取りだすと、笹川に手渡した。そういえば、彼女が僕を刺したカッターもあのカッターだ。さすがに刃は何回か変えてあるが、本体はずっと同じものなので、テセウスのパラドックスが主張されることもない。

「切れ味が良すぎるから、気を付けて」

「ん? おう。ありがとう」

 ――そんな会話があったところまでは覚えている。気付いたら机とメイク・ラブしていたので曖昧な記憶。七時間目、英語の授業が終わる五分前になってようやく目が覚めたころには、僕の机の上にカッターナイフが帰ってきていた。起こしてくれれば良かったのに。

 今日は七時間目終了後、たまたま終礼が無かったので、授業が終わり次第帰宅することができる。僕は教科書、筆記用具の類をすべて鞄に詰め込むと、彼女の方を向いた。

「今日も」

「用事か?」

「うん。先に帰ってて」

 今日も、だ。ここ二週間程、天気の良い日はどこかへ寄り道するのが彼女のブームらしく、雨の日以外はふらっとどこかへ行ってしまう。正直通り魔「鎌鼬」も出没していることだし心配なのだが、彼女は着いて来るなというし、尾行しても、男子としては恥ずかしいことに彼女に足の速さで勝てないので、あっさり撒かれてしまう。出来ることはと言えば、先に帰宅して、彼女が食べたいと言ったスイーツをどうにか形にしておくことくらいか。ちなみに今日の指示は「ぱちぱちしたい」だ。もはやレシピですらない、口頭のリクエスト。

 ぱちぱちしたいってなんだ。

 彼女はよく、炭酸ジュースのことを「ぱちぱちしたやつ」と表現するが、もしや炭酸飲料をご所望なのだろうか。ということは今日はフルーツポンチか? サイダーと果物の缶詰を買って帰れば良いか……。

 ちなみに彼女がどこかへ走り去る際に捕まえる事ができれば、力尽くで家まで引きずって帰ることもできるのだろうが、生憎彼女はボーっとしているようでもすばしっこいので、引きずる前に捕まえることが出来た試しがなかった。手を伸ばしても、彼女はさっと身を翻し、次の瞬間には駆け出しているのである。


 12


 通り魔「鎌鼬」に出会わないか心配しながら、徒歩で帰宅。通っている高校の最大の良かったところは、歩いて通えるところだ。全力で走れば七、八分で通う事ができる。情けないことに、彼女はもっと早く行くだろうが。

 通学路を一本ずれると、国道沿いにスーパーがある。僕はそこでサイダー、桃とパインの缶詰を買った。僕の財布の中から支払われるお金は、大抵彼女のためのものである。彼女は彼女で自分の分のお小遣いをもらっているのだが、それは「将来使う用」とか何とか言ってずっと貯金し続けているらしい。彼女の両親はともに重要なポストで働いているので、月の小遣いはかなりの額をもらっているはずだが……それが一円でも僕のために使われるというようなことは無い。

 エコバッグにペットボトルと缶詰を放り込み、包みごとリュックにしまう。

 ちょうどスーパーを出た時であった。

「ん。あれ?」

「あー、ちょっと待って下さい今思い出すので」

 僕と同じ高校の制服を着た女生徒に声をかけられたのは。咄嗟に名前を思い出せなかったので、左手を広げて「ちょっと待て」のポーズ。

 僕は三年生なので、先輩である可能性はありえない。県内五指……とはいかずとも、十指くらいには入る進学校であるうちの高校では、他の学校に比べて、留年した生徒もごくまれの例外を除きほとんどいない。はずだ。とりあえず敬語は必要ない。

「今ココまで来てる。ココまで来てるから」

「どっから出す気……?」

 僕は(ココ)から手を離した。

「えっと、その」

「羽生。羽が生きるって書いて羽生。一応クラスメイトなんだけどな」

 羽生……言われてみれば、なんとなく教室で見たことがあるような気がしないこともなくはない。名前も何となく聞き覚えがあるようなないような。

「人間の顔ってどれも似てるし、あんまり覚えらんないんだよな」

 ふと僕が漏らすと、羽生は心からおかしいというような笑い声をあげた。

「――あははは! 面白いね、君。うん、ナイス冗談だよ!」

 僕としては冗談じゃないんだけど……。

 第一に、同じクラスになっただけの人間のことを、たったの二か月で覚えられるわけがないのだ。一年二年と同じクラスにいればさすがに覚えるが。

「家、こっちなんだね。どの辺?」

 僕は左手の方を指差した。

「あの辺。消防署の角を曲がって坂道を登ったとこにある集合住宅」

「え、じゃあまさかのご近所さん? あたしの家もその辺なんだよね」

 羽生がはにかんだように笑うと、可愛らしい八重歯が覗いた。そうだ、委員長だ。僕のクラスの委員長、それが彼女だ。今更ながら、どうにか思い出した。

「もしかしてヒメ中?」

「うーん、あたしは高校進学と同時にここに引っ越してきたから、中学校は違うよ。あたしの記憶が確かなら、クラスメイトであるところの君と話すのも初めてかな」

 羽生が会話の途中で歩き出したのについていかずにいると、「一緒に帰ろうよ」と催促。仕方なく、僕は彼女の隣に並んだ。クラスメイトとは言えど、僕からしたらほとんど初対面みたいなものなのでなんとなく気が引ける。

「ねえ君、ずっとしーちゃんといるでしょ? 付き合ってるの?」

 今度は悪戯気な笑み。やはり覗く八重歯が悪戯っぽさを強調する。

「しーちゃん……?」

 しーちゃんという名前に聞き覚えがない僕。

「君の彼女ね、皆そう呼んでるよ。不思議ちゃん。『ふしぎ』の『し』を取ってしーちゃん。ふーちゃんはもういるから、繰り上がったんだね」

「彼女じゃないよ」

 僕が羽生の言葉が途切れるのを待ってそう言うと、彼女は目をぱちくりさせる。

「え? 付き合ってないの?」


 13


「付き合ってないよ」

 僕が素っ気なくそう言うと、羽生は「ふーん」と、字面ではまるで興味のなさそうな、しかしニュアンスとしては興味津々な音を作った。

「髪乾かしてあげたり、毎日お弁当食べさせてあげたり、手握ったり――とかしてるのに、それでも付き合ってないとおっしゃる?」

「おっしゃる。断固。僕と彼女は、そういう関係じゃない」

 あと毎日食べさせているわけでもない。週に二、三回くらいだ。彼女の気まぐれが、箸を持ちたい日と、そうでない日に分かれているからである。

「というか実際、クラスメイトのみんなは付き合ってるって言うけど、あたしは違うと思うんだよね」

 横を見ない。視界の隅で、歩幅を僕と完璧に合わせた羽生が覗きこんで来ている。その顔には、先程のような笑みは浮かんでいなかった。

 僕は返事をしないで歩調を速めたが、羽生はそのままの姿勢でついてきた。

「ねえ。君はどう考えても、従者だよね。我が儘なお姫様の命令に逆らえない、哀れな従者。さっきのスーパーで買ってたものが何かは知らないけれど、どうせしーちゃんに命令されたものなんでしょ? 君のお姫様に」

「もしも」

 消防署を曲がって坂に差し掛かった辺り。僕が足を止めると、羽生は少し行き過ぎてから立ち止まり、進行方向に背中を向けて立ち止まった。上り坂の途中なので、僕は彼女を見上げる形になる。彼女も女子にしてはかなり背が高い部類に入るだろう。百七十はあるだろうか。

「もしもだ。もしもお前が言う通りだったとしたら、なんだ? どうだって言うんだ?」

 彼女は答えの代わりにか、笑みだけを寄越してきた。吹きおろしの風が彼女の短い髪を揺らす。ここからだと、少しだけウェーブしたその髪が日光を受けて茶髪っぽく見えた。

「いや、ほら。いくら幼馴染とは言っても、まるで、そうだね、それこそ奴隷の様に、男の子が女の子に仕えているっていうのは、なんだか変じゃないかな、って思って。あ、もちろん男女逆でも変だよ?」 

「パンツ丸見えだぞ」

「何色?」

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、会話が面白くない方に行ってしまったので、僕は会話を逸らそうと思い、ウィットに富んだジョークを……捻りだせなかった。セクハラ紛いどころか、紛うことなきセクハラであるが、羽生に幻滅されてでも、僕は羽生が言うところの「お姫様」との関係の秘密を他人に隠さなければならないのである。

 ゆえにこそ、彼女の返しは予想外のもので、僕は一瞬何を問われたのかが理解できなかった。

 呆気にとられて言葉を失ったうちに、彼女は再び話題の舵を戻す。

「あたしが言いたいのは、一人の人間が、一人の人間に対して、まるで奴隷の様に尽くしているなんて、一体君はしーちゃんに、どんな弱味を、秘密を握られているのかな、って」

「秘密なんてないよ。僕が好きでやってることだから」

「でもしーちゃんのことを好きなわけじゃないんでしょ?」

「そうは言ってない。ただ、僕のこの好きは家族愛と同じ意味で――」

「奴隷! ――だってさ」

 僕のセリフを遮って、羽生が声を上げた。


 14


 僕は彼女の言葉に危険を感じ、身構える。

「体育の授業中、しーちゃんに、君のことをどう思ってるか聞いてみたの。そしたら、彼女、こう答えたんだよ。奴隷――って」

「白だ」

「えっ、あ、ハズレ。正解は『穿いてない』でした」

「嘘だ!」

「もちろん冗談だけれど、あたしの興味を他に惹こうとしても無駄だよ。ちなみに白じゃないのは本当」

 誰も聞いていない。

 今のところは羽生が上手だが、僕が絶対に口を割らなければ彼女が羽生に秘密を漏らすこともないはずである。僕が守らなければならないのだ、彼女を。

「つまり何が言いたいんだ」

「いやあ――一人の人間を奴隷にしてしまうような秘密なんて、一体君は、どんな弱味を握られてるんだろうな、って」

 羽生が髪を掻き上げた。

 僕は汗が湧くのを感じたが、気にせず、努めて意識しないようにし、平静を声に乗せた。

「あー、できるだけ人に言いたくは無かったんだけど、言わないと家に帰してくれないんだよな」

「そう、そのつもりだよ」

 考える。

 この場において、何を言うことが一番正しいのかを。

「部屋に隠してたエロ本を見つけられたんだけど、それが世間一般ではかなりアブノーマルで倒錯的な奴で」

「へぇ。で? ホントは?」

 僕の嘘が嘘であることを疑わない羽生に、僕はあくまで事実を言っているんだと主張する。

「で、そんなエロ本を持っていることをバラされたくなかったら奴隷になれって。そう言われたんだよ」

「あそこまで傅くレベルの性倒錯って、一体どんなジャンルなのかな」

「それを答えたら、僕はお前にも仕えなければならなくなってしまう」

 真顔。

 ずっと真顔だった羽生は、そこで急に相好を崩した。

「あっはっは、そうだよね。うん、気分を害したのなら謝るね。ちょっと、ちょっとだけ、気になったっていうかさ――」

 帰ろっか、と言って彼女は、こちらに背を向けた。再び「ほら、早く」と急かされたので、警戒は解かずに羽生の隣に並ぶ。

 先程まで羽生が纏っていた、肌を焦がすような空気はもう感じられない。豹変、そう豹変だった。脇の下と背筋に嫌な汗が溜まっているのを感じる。

「アブノーマルなエロ本が見つかったから、君はしーちゃんの言うことを聞いている。そうだね、君がそう言うのなら、そういうことにしておこうか」

 繰り返されるともっとましな文言はなかったのかと恥ずかしくなったが、それはさておき。

 僕は家を特定されないように、羽生がもう近くだから良いよと言ったあたりまで送り届けてから帰宅した。


 15


 無差別連続傷害事件、通り魔「鎌鼬」はまだ捕まらないし、彼女はまだ「カマイタチ」を殺せずにいた。

 羽生に詰問された翌日、昼休み。

「俺様は、お前の彼女が『鎌鼬』じゃねーかと思う」

 僕は笹川に、屋上に呼び出された。

「えっと、もっと順を追って説明してくれないか」

 四時間目が体育で、更衣室に行って授業を受けて、帰ってくるまでの間が、互いがトイレに行くとき以外だと唯一離れ離れとなる時間帯だ。その隙に僕は笹川に拉致された。あれは呼び出しではなくて拉致だった。どう考えても。

「今お茶の間を騒がせている連続傷害事件。今の所被害者が分かっているだけでも、この市だけで二四件だ。対して、この市の外での事件は、四つの市と二つの郡を合わせてわずかに七件。警察の見解では、犯人はこの市に拠点を構えていることになっている。被害者が気付かないうちに犯行を終え、また、その傷口が切り傷であることから、犯人は怪異になぞらえて『鎌鼬』と呼ばれている」

 笹川は手帳に視線を落としている。ときおりページを繰って行ったり来たりするのは、それだけ膨大な情報量なのだろう。僕は手持ち無沙汰な右手をポケットに突っ込んだ。左手は体操服の入ったカバンを持っている。

 手帳を手にした笹川は、転落防止のフェンスを背にしていた。そこから数メートルの距離を取って僕。

 僕は言葉を作ること無く、笹川の次の言葉を待った。

「で、えっと、こっからがまだ公になっていない情報なんだけどな」

「どうしてお前が公になっていない情報を持っているのかは聞いた方が良いのか? 信憑性は?」

「まあ、被害者から直接聞いた話だからな」

 へえ、と、僕は相槌を打つ。

「ウチのクラスの委員長の羽生、わかるよな。あいつが被害に遭った。昨日だ」

 僕は鞄を右手に持ちかえると、今度は左手をポケットに突っ込む。

「羽生が?」

 挙動を怪しまれないように、大袈裟な返答。笹川は手帳に視線を落としているので、僕の挙動はばれていないようだ。僕は左ポケットの中にある「あるもの」を取りだすと、笹川に言う。

「なあ笹川、ちょっとだけ時間をくれないか」

「おっと、そうはいかねえんだよな。今はお前と、お前の愛しのお姫様に通話させるわけにはいかねえんだ」

「話が長くなりそうだから、先に弁当を食べておいてくれって言うつもりだったんだけどな」

 僕が携帯電話を左ポケットの中にしまうと、笹川は「悪ィな」と言った。

 両手を上げる。――否、自発的に上げたのではない。持ち上げられたのだ。

「どうすればいい?」

「昼休みが終わるまで、ここにいてくれたらいい。悪いようにはしねえよ」

 どうも屋上には、僕と笹川以外に人がいたらしかった。

 僕は囲まれている。背後に何人かいる気配はあるが、両手を上に吊り上げられてしまったので振り向く事ができない。僕はこれでも百八〇センチメートルはあるので、相当の巨漢か、あるいは脚立でも置いてあるのか。

 僕の手首に触れる手のひらは四つ、おそらく両手が二対。ビニールテープのようなもので縛られたらしい。背後には想像通り脚立があった。

「教室では何が行われているんだ? サプライズパーティかな」

「羽生がな、見たんだよ。犯人を。姿の見えない『鎌鼬』の、その姿を」

 笹川の言葉を聞いて――僕は軽口を叩くのをやめた。


 16


「その『鎌鼬』は、六年前のそれと同一犯だったのか?」

「それはわかんねえな。羽生も、被害に遭った時にそいつを見たってだけで」

「そいつってのは?」

 屋上。僕だけが呼び出された。彼女への連絡は禁止。昼休みの間だけでいいから屋上で拘束――。

 それらのキーワードが導く答えは、どう考えても一つだ。

「まあ、なんだ。そんなにがっつくなよ。順を追って、俺の立てた仮説を話してやる」

 まずは六年前だよな、と、笹川は人差し指を立てた。

「犯人はその時、小学校高学年だった。で、動機はわからないが、俺たちが知っている通り魔事件を起こした。被害者が子供、とりわけ小学生ばかりだったのは、犯人が小学生であることの証拠の一ピースとなり得るだろう」

「中学生と幼稚園児も襲われてるらしいぞ」

「幼稚園児と小学校低学年の区別がつくもんか。被害者の中学生の女の子も、どちらも一年生で、しかも小柄だったんだよ。小学生と見間違えても無理はねえ」

 相槌を打つ。とりあえず、笹川の言う仮説とやらを最後まで聞こうと決める。余計な口を挟んだ方が、おそらく話は長くなってしまうのだろうから。

「で、最近復活した『鎌鼬』だが、お前が言ったよな、被害者の年齢層が変わっていると。当時小学校六年生、一二歳だとすれば今はもう一八歳、高校三年生だ。同じ高校生を襲うくらい、造作もないだろう」

「犯人が見えないトリックはどう説明するつもりだ」

「まず六年前だが、犯行時刻はすべて小学生の下校時間が終わった直後くらいの時間帯だった。これは大体日没間際か日没後になるわけだが、そのときに夜闇に紛れれば、薄皮一枚切り付けられたってすぐには気付かない」

 視線だけで話の続きを促す。

「翻って最近の『鎌鼬』だ。この市は、駅前をちょっとでも外れると、真っ暗なところがごくわずかでもないという場所はかなり少ない。黒い服でも来てれば簡単に紛れられるんだよ。カッターナイフでも持って闇の中に潜んでおけば、犯行後はともかく、獲物が近づいている時は気付けないだろうな」

「広瀬さんは指をかなり怪我していたみたいだったけど、さすがにあんな怪我をするくらい強く切り付けられたら気付くんじゃないか? その場で」

「細い路地が入り組んでいるところもある。暗闇で、しかも犯行後すぐに走って入り込んだら犯人の顔なんざわかんねーだろ」

 恐らく背後にいるのは広瀬さんだ。名前を出した時、わずかに僕の左手を握っている方の手が強張った。もう一人も、うちの生徒で被害者の奴に違いない。

 長袖のカッターシャツを着て来たことがあだとなってしまった。もしも広瀬さんが僕を捕まえているのなら、僕の左手に触れている感触ですぐに本人かどうかを判別できるのに。包帯が巻いてあればほぼ確実にそうだ。

「で? 一応聞くけど、その『鎌鼬』さんは、一体誰だって言いたいんだ? お前は」

「だからな。お前の大事な大事なお姫様だよ。六年前に小学校高学年であるという条件も満たしているし、同じ小学校だったやつに聞いたら、当時も小柄だったらしいな。その上で、昨日、羽生が襲われたときに、走って逃げる姿を見たっていうんだから――間違いない」

「あいつはそんとき、黒色の服を着ていたのか?」

 僕は彼女のクローゼットの中身を脳裏に思い浮かべた。洗濯自体は彼女のお母さんが仕事から帰ったあとにしてくれているが、それを畳むということを、下着だろうが何だろうがお構いなくすべて僕に押し付けてくるもんだから、むしろ彼女よりも僕の方が彼女のクローゼットの中身を把握しているくらいである。

 僕の記憶だと、黒やそれに似た色の服は一着も持っていなかったはずだ。彼女が自分から服を買うとも考えられないので、当日黒い服を着ていたのならば明らかに間違いだろう。

「羽生から聞いた話によると、着ていたらしいな」

 笹川がそう答えてくれたので、これで彼女が犯人である疑いは晴れた――。

「彼女は黒い服を一枚も持っていないぞ」

「あれだけの髪だ、遠目だと黒い服を着ているのと同じだろう。充分闇に紛れる」

 ――しかしそうもいかなかった。笹川はどうしたって彼女を犯人に仕立て上げたいらしい。彼女が「鎌鼬」でないことは、本人よりも僕が一番知っているのでなんとも歯がゆい気持ちをかみしめた。


 17


「なあ、広瀬さん」

 背後にいるであろう、広瀬さんに呼びかけた。左手を持つ方の手がびくんと跳ねる。やはりこっちの方は広瀬さんだ。

「ちょっと包帯を取って傷口を見せてくれないか」

「広瀬さんはここにいないぞ」

「笹川には言ってない。僕は今、僕の左手を拘束しているつもりの間抜けな広瀬さんに言ったんだ」

 言うと同時、僕は手首を拘束していた紐から手首を抜いた。切れた半透明のビニールテープが屋上を吹く風に巻き上げられ、姿を消す。いくら足が遅くとも、力は百八〇センチの男子高校生だ、女子相手に負けるほどではない。というか彼女以外にだって、足の速さでは負けたことが無い。恐るべきは彼女の野生動物じみた運動能力である。

 僕は右手のカッターナイフを構え、屋上の中心から移動した。背中をフェンスに預け、制止する。カッターは右ポケットに入れてあった。ずっと袖の中に隠してあったものを、拘束されたときに少しずつ操りテープを切ったのである。

「いるじゃないか、広瀬さん。包帯とってよ」

「これは……」

「取らなくていい」

 いつの間にか移動していた笹川が広瀬さんの包帯の辺りを抑えた。

「いいのか? こっちはカッターナイフを持っているんだぞ。僕は、彼女の為なら何でもする。お前たちに切り付けるかもしれないぞ」

 広瀬さんと笹川。ちょっと離れたところで女子生徒がもう一人。顔も見たことないような生徒だ。

「さあ、さっさと包帯を外すんだ、広瀬さん」

 彼我の距離、走って五歩。少しずつ、彼らとの距離を詰めていく。

「外さなくていい」

 笹川が言う。

「外さなくて? なあ、笹川。もしかして、外せないの間違いじゃないのか? 広瀬さんの指は、本当は怪我なんてしていないんだ」

 笹川にそう言って、広瀬さんにカッターナイフを突きつける。笹川まで、あと三歩の距離。

「動くな」

 声の主。

 今度動きを止めることになったのは、僕の番だった。

 笹川がポケットから取り出したのが、日本人の手には少し持て余すようなサイズの拳銃であったからである。

「もちろんモデルガンだ。当たっても死にはしないが、改造して威力を上げてある。当たったら死ぬほど痛いぞ」

「わざわざ自分から名乗ってくれるなんて――これはこれはご丁寧にどうも。『鎌鼬』さん」

 お返しにと僕のカウンター。笹川は「へえ」と、気の抜けた返事を寄越した。僕の口撃は有効打を与えられなかったみたいだ。

「俺が『鎌鼬』? そんなわけないだろ」

 対峙。睨みあう。

「笹川と広瀬さん、それとそこの女生徒。それから……多分羽生も。共犯者は何人だ?」

 僕は笹川への疑問に答える代わりに、反対に疑問を返した。

「共犯? 待て待て、俺が『鎌鼬』であることが前提で話が進んでいるじゃないか」

「そうだよ、笹川君は、被害に遭った私たちのために犯人探しをしてくれてて……。だから、そのガスガンも、自衛のための武器なんでしょ?」

 広瀬さんが言った。

 笹川は手帳を閉じると、ガスガンの銃口を僕に向ける。

「お前の可愛いお姫様が第一容疑者だ。証拠は揃っているんだ、一連の『鎌鼬』事件は、容疑者の自白を持って終結する――」

「お前、僕を教室に行かせたくないって……彼女になにをしてるんだ! 答え――」

 踏み込んだ足元を撃たれる。爪先数センチに着弾。

「次は当てるぞ」

 笹川が言い、僕は――


 18


「羽生ぅぅぅう!」

 昼休みは長い。ゆえに、他の休み時間よりも騒いでいる生徒の割合が多いように感じる。

 三年生の教室が並んでいる南館二階も、ちょうどそんな感じであった。そう、いつも通り。

 いつもと違うことはと言えば、三年三組の廊下に面する窓とドアがすべて閉められていたことくらいなものだ。そしてそれが、最大の違和を放っていた。

 僕は自教室のドアを蹴破り、中に入る。鍵は当然のようにかかっていた。手段を選んでいる暇は無かった。

「ん? もう奴隷くんの到着かー。笹川君からどうやって逃げ出して来たのかな?」

 僕が蹴破ったのは教室後ろの扉。

 対し羽生が、大勢の名も知らぬクラスメイトが、そして彼女がいたのは、教室の前半分であった。彼女と羽生を囲むようにして輪っかが出来ている。

「まどろっこしいのは嫌いだから簡潔に答えろ。羽生、お前は『鎌鼬』の正体を知ってるのか」

「しーちゃんでしょ。笹川君が言ってたよ。あとは容疑者の自白だけだって」

「それは濡れ衣だ」

 クラスメイトの輪の中に入る。

 通り魔「鎌鼬」は、彼ら彼女らの身近な人も傷付け続けてきた。不安や恐怖、怒りもあるに違いない。彼女が「鎌鼬」かもしれない、犯人が捕まるかもしれないと思えば、こんな風なリアクションも当然だと言えるのかもしれなかった。人垣が僕の侵入を拒む。

「おい、こいつカッター持ってんぞ!」

 男子生徒が叫んだ。

「刃に……血、血が……ついてる」

 付随して誰かが呟くように言った。教室内の喧騒がなくなった。僕はすかさず人垣に手を突っ込み、身体をねじ込ませる。

「どいて」

 輪っかの中央、床に直接座らされていた彼女の乱れた衣服を整えると、僕は彼女を抱きかかえて教卓に座った。カッターナイフを構えながら。

「おい羽生。委員長だったよな。全員着席させろ。僕が本当の『鎌鼬』が誰かを説明してやる」

 僕の腕の中で、彼女は放心したように宙を見つめていた。カッターを握っていない方の手で目尻の涙を拭う。その間に、クラスメイト達は席に着いたようだった。議長の僕がカッターナイフを握っていなければ、完全にホームルームである。スティーブン・キングの「ハイスクールパニック」みたいだ。拳銃じゃなくてカッターだけど。笹川からついでに奪ってくれば良かった。

「僕も『鎌鼬』に襲われたんだ、ついさっき――」

 カッターナイフを握った方、右手を突き出す。みんなに見える様に。

「この傷口を見てくれ」

 一番前の席に座っている羽生に傷口を見せ、僕は、これが何に見えるかと問うた。


 19


「なにって、切り傷……じゃ、ないのかな……?」

「違う。銃創だ」

 僕が真実を告げると、思わず、といった調子で羽生が笑みをこぼした。

「あは、それは面白い冗談……じゃ、ないよね」

「普段からジャーナリストになる夢を掲げて、少々危ないネタなんかを体を張って掴みに行ってる奴が、このクラスにはいるよな」

「……笹川だ」誰かの呟きを起点にして、どんどん言葉が波及していく「えっ、あっ、そういやあいつ、自衛の武器とか言ってスタンガン持ち歩いてたよな?」「そういや二週間くらい前、笹川の誕生日だっただろ?」「あっ、知ってる! 知り合いのお兄さんに改造ガスガン貰ったんでしょ!」「そうそう。そっからはスタンガンとガスガン、両方持ち歩いてたんだよ」

 そろそろ情報の共有は大丈夫かな? と思った辺りで、僕は刃をしまったカッターナイフを、いきおいよく教卓に突き刺した。鈍い音がして、また教室が静かになる。

「さっき笹川に、屋上に呼び出された。どうしても教室に返さないというから暴れたら、ガスガンで撃たれたんだ」

 今度はみんなに見える様に、右腕を掲げる。

 垂れた血が教卓に落ちた。

「羽生が言ったように、切り傷みたいに見えないか?」

 実は腹や足にも二、三発ずつくらいもらっていたが、それらは正面からの直撃で痣になっているだけだ。

「暗闇でいきなり撃たれたら、切り付けられたと、そう勘違いしてもおかしくない」

「でも、被害者は全員刃物で切られたと言い張ってるんだよね? あたしは詳しくは知らないけれど、ガスガンの弾なんかが直撃したら、もっと痣みたいになるんじゃないかな」

 羽生が手を上げて言った。

 僕は教卓に突き立てたカッターを逆手に持ち帰ると、引き抜きながら口を開く。

「僕も縁日の屋台で当てた奴とか、いくつかエアガンは持っているけれど、アレ、自分の思い通りに飛ばして直撃させるのって、実は難しいんだ」

 だからこんな風に、と、右腕の銃創を指差し、

「的の表面を掠って傷を作ったり、そもそも当たらなかったりする。ガスガンも威力はあっても同じはずだから、訓練された兵士でもない一介の高校生が持ったところで、思い通りに着弾させるのは難しいんだ。もしかしたら、狙われて撃たれたけど、着弾しなくて未遂になった事件とかも含めたらもっと事件数は増えるかもしれない」

 それに、ここは『鎌鼬』のいた町だから、と続けて、

「犯人が見えない点、傷口が切り傷に見える点、この二点で、被害者は、自分は『鎌鼬』に刃物で切り付けられたと勘違いしたんだ」

 つまり、

「凶器は刃物。まず、この時点でみんなは間違えていたんだ。凶器はガスガン――間違いないな?」

 そういうことだ。

 僕が問うと、彼女は、

「うん」

 と頷きを返した。もう目に涙は浮かんでいない。一体何を考えているのか全く分からない、いつもどおりの表情だ。


 20


「雨の日は『鎌鼬』は出没しない。ガスガンの弾がまっすぐ飛ばない上に、中のパーツが傷むから」

「やっぱりお前も調査してたのか」

 「鎌鼬」が出没し始めてから、放課後になると彼女が姿を消していたのは、やはりそういうことであったらしい。何となくそんな気はしていた。

「じゃあ、あたしが昨日しーちゃんを見たのって……」

 自前の短い髪ではぎりぎり隠れない羽生の首元には、大きなガーゼが貼られている。

「そう。『鎌鼬』を調査してた」

「で? 『鎌鼬』の顔は見たのか?」

 彼女は(かぶり)を振った。

「正体までは分からなかった。でも多分男。肩幅」

「もしかして眠い?」

「こいつらのせいで疲れた」

 こいつら……クラスメイトのことか。

「あはは……まだあたしはしーちゃんと笹川君のどっちが犯人なのかは判断を付けられないけれど、もしも濡れ衣を着せてあんなに強く詰問したんだったら、あとで謝らせて」

「おい羽生、いいのかそんなことを言って。うちの姫様は我が儘だぞ、多分裸踊りじゃ済まないぜ」

「軽口は笹川君が犯人であることが確定してからにしてくれないかな」

 この場の流れなら、笹川が犯人である説を皆が支持してくれそうだ。

 動機や決定的な証拠が足りないのだが、僕も『鎌鼬』の正体は笹川で間違いないと思う。

「一旦整理してみようか。容疑者笹川は、誕生日に知人から改造ガスガンをもらった。ガスガンやエアガンは決して他人に向けて撃ってはならないシロモノだが、笹川はその禁を破り、最初の事件を起こした」

「最初の事件が起こった、六月の第一土曜日。笹川の誕生日の丁度翌日」

「の、早朝だ。まだ人の少ない時間帯に、笹川は男子児童を撃った。多分小動物なんかを撃ったりしているうちに人間も撃ってみたくなったとか、そんな感じだろうな」

 そして、

「その翌日に広瀬さんを撃ち、また次の日に……ってなっていって、マスメディアが『鎌鼬』の再来とか言うようになってから、笹川は自分の犯行をよりそれっぽく、鎌鼬っぽくなるように変えた」

 広瀬さんの指には、恐らく切り傷じゃなくて痣が出来ているはずだ。だから笹川は、先程僕が広瀬さんに包帯を外すよう強要した時、あんなに抵抗したのである。僕の調べた限りでは、他の被害者はみな切り傷を訴えているみたいなのでこの推測が間違いである可能性は低いだろう。

「羽生。お前を撃った時、笹川は、私に顔を見られたと思った。お前、今朝、笹川になんて聞かれた?」

「現場で……黒の長髪あるいは服を着た、小柄な人影を見なかったか――? って」

「で、お前はこう答えたわけだ。僕の推測だけど、『言われてみれば……見たような。ちょうど、しーちゃんみたいな……』」

 あくまで僕の推測だが、きっと似たようなことを答えたはずだ。はたして羽生は、頷きを返してみせた。肯定。

「すごい。ほとんど同じだよ。……で、あたしの言葉を聞いて、笹川君は『やっぱりな』と言ったの。『そいつは、しーちゃんだ』って。被害に遭って気が動転してて、ちっとも疑わずに信じちゃって……自分が情けないや」

 その時、教室前方のドアが蹴破られた。

「やあ、『鎌鼬』。遅かったな」

 入ってきた笹川が何か言う前に、先んじて言葉を放つ。

「参った、俺の負けだ。そうだよ、俺が『鎌鼬』だ」


 21


「ジャーナリストを目指すうちにな、一回危ない目に遭ったんだ。本気で死にかけた。コンクリートで膝まで固められたんだ、実際に。東京湾に沈められるっての、あれ、漫画やドラマの中の話だけじゃあないんだな。

 それから俺は、護身に気を遣うようになった。手始めにスタンガンだな。定番中の定番。本当はガスガンが良かったが、一八歳になってないからまだ買えなかった。

 で、今年の一八の誕生日だ。従兄にあらかじめ頼んどいた改造ガスガンをもらったんだ。試し撃ちは公園でやった。木を狙ったけど思ったより難しくて、ほとんど命中しなかった。

 そうこうしていうるうちに幼稚園くらいの男の子が親を連れて公園に入ってきたから、俺は帰ろうと思った――――でも、ふと、俺の中で魔が差したんだ。護身用だったら、撃つのは人間じゃないか、と。気付いたら男の子は泣いてて、細い足から血が出てて、俺は逃げ出してた。

 一人撃ったくらいでこのザマだったら、大勢に囲まれた時にどうする? 俺は考えた。人を撃つことに慣れた方が良い。今思えば、本当にどうかしてる。でも、その時はそう思ったんだよ。だから、登下校中とかに、人ごみに紛れて撃った。雨の日はどうせ当たらないし大人しく家に帰ったよ。

 気付けばガスガンで人を傷付けることに楽しみを見出している自分がいて、世間で『鎌鼬』だのなんだの騒がれてるのは俺なんだ、って思うとなんだかすごいことをしている気分になって、俺はますます人を撃つようになった。

 でも昨日、お前のお姫様に犯行現場を見られた。だから一計を案じたのが――まあ失敗に終わったわけだが、しーちゃんを『鎌鼬』にしてしまうことだった。

 いやまさか、お前に、いやお前らに、こうまで事件の真相を見抜かれるとは思わなかったよ。去年も同じクラスだったけど、正直見くびってた。お前ら、ホント探偵みたいだぜ、マジで。

 羽生、首、ごめんな。あと、皆も。謝って許されることじゃないのはわかってるけど、でも、謝らないことで得する誰かもいないんだ。

 本当にごめん」


 22


 笹川がどうなったのかは知らないし、興味もない。わかるのは、あのあと教室に来た先生に連れていかれたことと、グラウンドまで入ってきたパトカーに乗せられていったこと。

 もう、この市を騒がせた「鎌鼬」はいないのだ。

「おい、お前、すげーな!」

 僕は彼女と一緒に、クラスメイトから小突かれたり囃されたりすることが増えた。笹川を自白に追い詰めるまでの流れが、探偵みたいでウケたらしい。

 ガスガンを持った笹川と対峙して、無我夢中で手に切り付けたから、指の一本や二本使い物にならなくしてしまっている可能性もあり、そのことに負い目を感じているからできれば褒めないでほしい。囃さないでほしい。でもそんなことは言わない。

 あの日、ガスガンを持った笹川を相手に、僕は死に物狂いで立ち向かった。何回も撃たれ、そのうちの五発くらいは直撃を受けた。一週間は経つというのに、いまだ痣が消えてくれない。

 笹川(どうきゅうせい)が逮捕された――この話題はしばらくは学校を賑わせたが、世間の「鎌鼬逮捕」の報道が終息するよりも幾分早く、生徒たちの関心は別のことに移ったようである。僕の痣は消えないのに、笹川がこの学校にいた事実はすでに消え去ろうとしていたし、誰よりも真実を暴き、それを人に伝えることを生き甲斐としていた男は、誰の口にもされなくなって、簡単に忘れられてゆく。

「おい、大変だ!」

 教室のドアが勢いよく開け放たれ、男子生徒が走り込んできた。クラスメイトだ。

「そんなに慌てて、どうしたのかな?」

 羽生が言う。

「事件なら――そこの二人の探偵さんが、なんでも解決してくれるよ。ね?」

「任せろ」

「おおい」

 そういうの、迷惑なんだけどな――と、僕が返答に窮している間に、隣の彼女が鷹揚に頷きを返していた。右手のサムズアップ付き。なんだってこの子はやる気満々なんだ。つい先日までぼーっとしていただけだったのに。

 でも僕は騙されない。

 この場において彼女はやる気に満ち溢れているが、どうせ引き受けた事件を解決するのは八割がた僕なのだ。彼女は、本当に自分の興味があることしか調べてくれないだろうから。

 でも僕は知っている。

 彼女が肌を晒すことを嫌い、適当かつ大雑把で、何も考えていないようでもやっぱり何も考えていなくて、ビスクドールの様に愛らしくて、ぞんざいな喋り方の割には筆箱やメモ帳なんかは可愛いデザインで、傍若無人な我が儘姫で、僕のことを奴隷だと思っていて、甘いものが好きで、青色が好きで、数字だと一が好きで、最近はモンブランがブームで、でも食べ過ぎて二キロ太って内心焦ってて、でもモンブランをやめられなくて、晩御飯を食べる量をちょっと減らしてて、そして。

 そして、六年前の「鎌鼬」が僕だということを知っていることを。

 僕は、知っている。


 23


 「鎌鼬」は笹川だ。しかし六年前、この市に現れた「鎌鼬」とは別のものである。別の者である。

 これに限っては、誰が何と言おうと断言する事ができる。だって僕が「鎌鼬」だから。

 初めは虫。続いて川で釣った魚。野良猫。切り付ける対象は、どんどん大きくなっていった。単純な興味だったのだ。こいつらの中身はどうなっているんだろう、と。

 そりゃあ僕は、当時小学校五年生だったわけだし、動物は血と肉と骨と筋肉でできていることは理科の授業で習ってはいた。習ってはいたが、実感が湧かなかったのだ。だから校庭隅に生えている葉っぱについていた、なにかの幼虫を切り刻んでみた。虫だと小さすぎてよくわからなかったので、今度は教科書に載っている魚を解剖してみることにした。

 魚の中身は教科書に載っている通りだった。

 だから僕は、ほんの自由研究のつもりでその辺にいた野良犬や野良猫を解剖してみようと思ったのだ。丁度その年は、秋の連休で時間はあったし、校区の隅の方の新興住宅街に住んでいたため仲の良い友達となかなか遊べなかったのも幸いした。この場合不幸いしたというべきかもしれないが、そんな日本語は聞いたことが無い。ちなみに彼女は今よりもインドア派であったため、僕がいくら誘っても、家の敷地から出ようとはしなかった。

 とにかく僕は、近所に野良犬がいなかったので、野良猫を捕まえ、切り付けてみたのだ。めちゃくちゃにひっかれた。赤くなったカッターナイフの刃は、猫の血で染まっていた。何となく興奮した。猫はひっかいて痛いから、もっと大人しい奴を狙おうと思ったら、たまたま目の前に僕より年下の子供がいた。背後から足音を殺して駆け寄り、腕や足なんかを切り付けて、素早く路地裏に逃げ込む。黒っぽい服を着て、踵を付けないようにして走れば僕は気付かれなかった。今でこそ百八〇センチもある僕だが、当時は低学年と間違われるレベルのチビだったのである。彼女にすら負けていたほどだ。もっとも、彼女はその時から一ミリたりとも身長が伸びていないわけだが。

 まあそんなこんなで、二、三学期の間は小動物を斬りつけることで満足していた僕は、段々行為がエスカレートしていき、春休みが終わるころには同い年くらいに見える子供を切るようになっていた。血を見るのが楽しかったのだ。テレビでは僕のことを「鎌鼬」だなんだと放送するし、自分が偉くなったような気がしていたのである。

 しかし。そう、しかし冬休みだ。

 彼女は、僕が「実験」に使うカッターナイフで僕の脇腹を刺し、それと前後して「鎌鼬、格好いい」と言った。彼女は、僕が小動物を切り付けるのに飽き、人間を切り付け始めたのに気付いていたのではないだろうか。今となってはもうわからない。もしかしたら動物的第六勘が僕の興奮を嗅ぎ取っていただけかもしれないが。

 そして春休みを経て、夏休み。

 僕の「鎌鼬」に終止符を打つ事件は、唐突に起こった。

 実験を終えてある日家に帰ってみると、左手に包帯を巻いた、涙目の彼女が、僕の帰りを待っていたのだ。

「どうしたの?」幼き日の僕は聞いた。

「痛いよ」幼い彼女は言った。

「怪我したの?」

「んーん、切られたの」

「誰に?」


「お前に」


 全身の血が冷えたように感じたのを、今でも忘れられない。僕は今でも、時々あの時の感覚を夢に見て夜中に目を覚ますことがある。僕は人を切り付けるのをやめた。もちろん小動物も。その日を境に、いたずらに切り付けることはやめたのだ。

 彼女はその日以降、僕を名前で呼ばない。


 24


 僕は生まれて初めて土下座というものをした。親に言いつけられたくなかったとか、そんな安っぽい理由ではなく、本当に、心の底から、彼女を傷つけてしまったことを申し訳なく感じたのだ。他の人を傷つけまくっておいて、自分の身内を傷つけてしまったら初めて罪悪感を覚えたとか、なんと傲慢なことだろう。あまつさえ僕は、少なくとも当時の僕は、彼女以外に申し訳なさを感じていたと言えば嘘になるのだから。

 彼女は僕を責めなかったが、その代わり、僕を許しもしなかった。そう、その日からだ。僕は彼女の奴隷になったのだ。かといって彼女は、僕のことを誰かに告げ口したりもしなかったので、僕は社会的に何のお咎めもナシにこうして暮らしている。

 彼女はなんとなく気まぐれで、外に遊びに行った僕について来ようとした。でも道に迷った。当然僕は彼女が来ていることを知らないから、そのことには気付かないで、たまたま見つけた彼女をカッターで切り付けてしまった。彼女は迷路のように同じ見た目の建物が並ぶ住宅街で迷子になり、心細くて一人で泣いていたのだ。その時、僕を見つけ、駆け寄ろうとした。でも僕は、彼女であることに気付かず切り付けた、切り付けてしまった――。

 もしもタイムマシーンがあったなら、過去に戻って虫を解剖し始めた辺りの僕を諭して生物学者への道を歩ませてやりたい。それか生命倫理の授業を百日くらい延々と説き続けてやる。それが無理なら殺してしまっても良い。後悔はいつだってしている。

 僕は彼女に決して逆らわないし、逆らう事ができない。

 彼女は手足に傷ができることに恐怖を覚えるようになった。だから、不注意で擦り傷や切り傷ができると取り乱してしまう。全部僕のせいだ。

 僕のせいだ。

 のしかかる罪悪感に負けて、自殺という手段を考えたこともある。でも彼女が、僕に「死ぬな。お前が死んだら私も死ぬ。思いつく限り一番しんどい死に方で死ぬ」と言うので断念した。

 自首も似たような理由で禁止された。「お前が逮捕されたら、私は思いつく限り一番つらい死に方で死ぬ」と。

 彼女は卑怯だ。

「今日はどこに寄る?」

 放課後、何時もの通り、僕は彼女に問う。

「今日は魚」

「を?」

「見る」

「ペットショップか」

 僕が言うと、彼女は「んーん」と、首を横に振った。

「どこ?」

 問う。

「川」

 彼女は一言だけ、そう言った。

 僕は彼女の何も入っていない鞄を受け取る。

「あっ」

 教室を出ようとした彼女が、急に目の前で立ち止まった。

「そう」

「えっ何?」

 ドア枠をまたいで止まっていた彼女は振り返る。そして僕と目を合わせてきた。小学校のときは僕が見上げていたのに、今では僕が見下ろしている。その差、きっかり三〇センチ。不服らしく、腹を小突かれたので、中腰になって目線を合わせた。

「お前は私を助けてくれた」

「えっと……、この前の話?」

 問うと、彼女は頷いた。笹川が連行された日のことだ。彼女がクラスメイトの輪っかに囲まれ、羽生を筆頭に皆から自白を強要された、あの日のこと。

「格好よかった」

 対して頬を赤らめもせずに、それだけ言って彼女は踵を返す。

 わざわざ背を合わせたのだから、キスくらいはしてもらえるものだと思っていたせいで拍子抜けしてしまった。僕は慌てて、駆け出した彼女の後を追う。これだけの身長差があるのにぐんぐん差は広がっていくばかりで、一体どんな運動神経してんだ、と彼女の背中に向けて呪いを吐いた。


 25


 家に帰るときに、ほんの少し回り道をすればそれなりに大きな川に寄ることができる。隣の県から流れる一級河川である。水質はアメリカザリガニが暮らせない程度には綺麗。

 近所の子供たちだろうか、ズボンの裾を捲りあげた二人組が、虫取り網で水中をつつき回している。

 川の左右は堤防になっていて、数メートルほどの盛り上がりがある。僕と彼女は今、その堤防の上の舗装された道を歩いていた。僕たちの高校の野球部が反対側の堤防を走っている。ほかにもおじさんやおばさんが歩いていたりジョギングしていたり。犬の散歩をしている人もいるし、反対側の河川敷では少年サッカーの練習が始まろうとしているところだった。進行方向、遠くの方に対岸に渡る橋がある。

 隣を歩いていた彼女が、いきなり姿を消したので焦った。ほとんど下草で隠れてしまっているような階段を目聡くも見つけたらしく、僕が声を掛けた時にはすでに半分ほどを下っていた。

「おい、走ると危ないぞ!」

 言って、僕もすぐに彼女を追う。

 僕は彼女が転ぶことを危惧したが、それはどうやら杞憂で済んだらしい。彼女は無事に平らな河川敷まで辿り着く。

 川の流れが運んできたのか、それともずっとここにあるのか、腰掛けるのにちょうど良い大きさの岩があったので鞄を乗せ、僕は靴を脱ぎ、川に足を付けた。

 粘土質の川底が足指の間を跳ねる。

 振り向くと彼女は、何も考えていないような顔で川岸の水面を眺めていた。

 僕はダメ元で彼女に声を掛けてみることにする。

「おい、お前もこっちに来てみろよ。冷たくて気持ち良――待てこら! 靴は脱げ! そう。――そう……?」

 肌を晒すことを嫌う彼女が、革靴と、膝の真上まである長い靴下を脱ぎ捨てていた。信じがたい光景に目をこする。

 彼女はまるで何事もないかのように、惜しげもなく日光にさらされた真っ白い足を川に差し入れた。

「ん、冷たい」

 そして薄く笑みを浮かべてみせた。

 僕は唖然とした。

「お前……一体、どういう心変わり……」

「うん。わかんない」

「……あっそう」

 かろうじて僕は、それだけを返す。

 ざぶざぶと水を蹴って、彼女は僕の方に近付いてきた。僕は彼女の方に体ごと向き直る。そして巻き込まれた。彼女の転倒に。

「あっ、馬鹿、携帯が濡れ――!」

 着水。川の中にしりもちをついた。空中で抱き留めた彼女は、僕が転んだ拍子に跳ねた水飛沫にわずかに濡れるのみである。

「……お前、携帯電話は?」

 僕の腕の中でぼんやりしている彼女に、確認。

「鞄の中……?」

「どっせーい!」

 投げた。

 携帯電話以外に濡らして困るものは身に着けていないだろう。幸い川は家のすぐ近くだし、もう夏と言って差し支えのないこの季節である、風邪をひきもしないだろう。だからこその凶行だった。

 僕は彼女を投げた。水中に。派手な水柱が上がる。

「お前この、携帯が浸水しただろうが!」


 26


「し、知らないし!」

 肩まで川に浸かった彼女が抗議の声を寄越す。

 僕は立ち上がって左のポケットに手を突っ込み、中の状況を確認した。

 携帯電話の電源ボタンを押してみる。画面は真っ暗なまま。充電が切れるほど酷使もしていないので、これはもう完全にダメだ。故障してしまっている。

 僕はざばざばと水を蹴立てて岸辺に上がり、携帯を鞄の近くに放り出すと、再び川に足を踏み入れた。

 彼女が僕に水をかけてくる。遠慮や容赦のない、えげつない量の水の塊である。

「ちょ、お前それ、卑怯だろ!」

「落ちてた」

 彼女はバケツを手にしていた。一度に飛ばすことのできる水の量が、明らかに違う。手杓じゃとてもじゃないが太刀打ちできない。

「タイム!」

「認める」

 僕は彼女にタイムを宣告すると、再び岸辺に上がった。この川の河川敷に不法投棄のゴミが置かれているのは見たことが無いが、誰かが忘れて帰ったおもちゃのバケツくらいは無いだろうかと思った次第である。

 草むらをかき分ける為にしゃがむと、右のポケットから何かが落ちた。見やるとカッターナイフ。

 笹川が捕まって――六年前の「鎌鼬」も捕まったことになった。本人は六年前のことについては罪を否定しているらしいが、このままだと六年前の件についてはうやむやのうちに迷宮入りしそうである。笹川が僕の模倣犯なんて演じてくれて、本当に良かったと思った。なにせ、傷害罪に対する時効は十年で成立する。就職が決まるころにはとっくに時効が決まっている計算だ。笹川のおかげで、世間の「鎌鼬」への批判は、興味は薄れていく。

 一度血の味を知った獣は、一生その味を忘れられないというが――僕には、首枷(かのじょ)がついている。彼女がいる限り、僕は決して、二度と罪を犯すようなことはしない。何日もかかった警察での事情聴取だって、特に怪しまれることなく正当防衛が成立したし、今のところ警察に疑われている様子もない。

 僕は一生、自分の中に「切り付け衝動(カマイタチ)」を飼いながら生きていく。

 こればかりはもう、どうしようもない。彼女のおかげで衝動が暴れだすこともない。だったらもう、それでいい。

 僕はカッターを拾うと、丁寧に水気を拭ってから、自分の鞄に入れた。

 そして、彼女の待つ川の中へと戻る。

「バケツは見つからなかったけど――こんなものを見つけたぜ!」

「え、な、なにそれ、ひ、卑怯!」

「先に道具を使ったのはお前だろー!」

 僕は誰が忘れて行ったのか、草むらの中に放置されていた水鉄砲に水を入れる。その隙に彼女に頭から水を掛けられたが、今は彼女のターンなんだと我慢。なぜなら、このあとは、僕のターンだから。







 彼女は、肌を晒すことを嫌う。

 でも、今年の夏休みは、一緒に海くらいなら行ってくれそうだった。


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