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続くかも知れない短編集

砂時計の砂が尽きる時

作者: 笠倉とあ

 

(僕が彼女の名前を呼んで、彼女が僕を振り返る)

(それはまったく、切り取って籠に入れておきたいくらい、)

(なんて愛しい刹那の永遠なのか)



 

※※※


 

 

「リンネさん」


 声をかけると、その少女は半身だけ振り返らせてこちらを見てきた。

 年の頃は十七、八の、蜂蜜色の瞳の少女だ。身体つきは相変わらず華奢だが、前回会った時に比べて、ほんの少しだけ髪が伸びただろうか?(もしもこの場でそれを問うたなら、彼女はお前に関係ない、と素気なく突き放すのだろうが)


 髪染めを使っているのだろう、人工の黒に覆い隠されて、彼女が本来持つ淡色が見えないことを残念に思う。彼女を彩る輝きは、あの優しい日向の色こそ相応しいのに。人の中に溶け込むなんて馬鹿な努力、よくも日常的に我慢できるものだ。(人間嫌いの僕には絶対に真似できない)(まあどんな姿であろうとも、それが彼女であるのなら自分は心から愛しているが)

 

「――奏麻」


 人間の目には見えないように気配を操作してはいるが、彼女は違うことなく己の上に視線を据え、その名をはっきり口にする。(この一瞬が最も好きなのだと、彼女に伝えたことはない)

 

「久し振りですね。……珍しい格好をしている」


 ぽつりぽつりと雲の浮かぶ、よく晴れた空の下。静かな街の中にある、ひとけのない小さな公園。

 彼女が纏っているのは、そんな場所には一種異様な、黒尽くめの装束だった。黒いスーツに黒いネクタイを締め、磨きたてられた黒い革靴を履いている。

 シンプルながら決して安物ではないことが一目で見てとれるその衣装は、どれも綺麗で真新しかった。

 多分、わざわざ仕立てたのだろう。かつての親友(とも)を送るために。


「……何が言いたいの。どこかおかしい?」

「おかしいとは言ってませんよ。珍しいとは言いましたけど」

「滅多に着ないのは当たり前だよ。一応、喪服だしね」

「似合いますよ」


 何の含みもなくするりと素直に滑り出たその言葉が不謹慎と言えるものだったと気付いたのは既に口にしてしまった後で、でもそんなことは自分にとってはどうでもいい。

 重要なのは今目の前にいる彼女が不愉快になったのではないかということだけで、けれど一言も咎めることなく小さな息を吐いた彼女の姿は、僅かに伏せられた物憂げな瞳と相俟ってひどく絵になって見えた。

 ――そう、顔には出さずとも、ほんの一瞬、見惚れてしまう程度には。(まるで明るい日差しの中にぽつりと浮き上がった虚無のよう)(その姿を引き出した感情が自分に対するものではないということが、少しばかり癪に障ったけれど)


「東雲時雨、とか言いましたか」


 口を開いてそう言うと、彼女は無言を以て答えとした。あの男の顔も名前もほとんど覚えてなどいなかったが、間違ってはいなかったらしい。

 中学・高校を通しての級友として彼女と親しくしていたその人間の名は、自分の記憶の片隅にも引っかかっていた。彼女の親友を自称し、彼女もまた、その人間をそういう位置にいる相手として遇していた。

 誰にも言わずに秘めながら、あの男はひっそりと彼女を恋うていた。そして彼女もまた、意味は違えど好意を持っていたのだろう。少なくとも今日、わざわざその人間のために、この街の土を再び踏もうとするくらいには。


 ――もう、七十年も前のことになる。


「これからその少年の――いや、少年と言うのはおかしいですかね。彼のお葬式があるそうですね。享年八十九歳。大往生じゃないですか」


 わざと軽い調子で言うと、睨んでくるかと思った彼女はちらりと無機質な視線を向けてきただけだった。

 彼女の瞳は、よく研磨された琥珀のような光を湛えている。澄んだその目に自分の姿が映っただけで、静かな喜悦が背を震わせた。(今この瞬間あの琥珀が、彼女本来の持つ眩い生命の炎を含んだものであったなら、焼き殺されても文句は言うまい)


「喪主は彼の姪。元世界的ピアニストだっただけあって、葬儀には業界の関係者まで参列するそうですね。友人の出席者も多そうだ。彼は君がいない人生を、それでも幸せに生きたんですよ。でも、君はわざわざ見送りに行くんですね? 七十年前、自分が別れの言葉一つ残さずに置き去りにしたかつての友人を。行ったところで、彼はもうそこにはいないというのに」


 本当のところを言うなら、自分は多分、少しだけ苛立っていたのだと思う。自分と同じ不死者の称号を持ち、人に混じって人界を管理する境界(はざま)の世界に生き続けながら、七十年という月日を経てなお、たかが一人の人間のことを忘れていない彼女に対して。(たとえ心の片隅であれ、自分以外の何かが彼女の中に居座り続けているという事実のなんと腹立たしいことか!)


「別に問題にはならないでしょう。葬儀に立ち会うくらいならって、上司もいいって言ってくれたもの」


 まさか、未だに中学生か、精々高校生くらいにしか見えない容姿の自分が、葬送(おく)られる当人の元同級生だなどとばれることもあるまい。そう反論する彼女に、そうじゃない、と言いたくなるが、口を噤んで自制する。

 残念ながら、真っ向嫉妬する権利など、今の自分は持っていなかった。彼女が未だ己のものでないのであれば尚のこと(そもそも彼女は、これが嫉妬だということにさえ気付いてくれないのであろうが)


 溜息一つで不満を殺し、代わりに呆れた顔で大仰に肩を竦めてみせると、それを揶揄と取ったらしい彼女は眉を顰め、話は打ち切りだというように踵を返した。

 葬儀の時間が近付いていた。

 

「ねえリンネさん。君はあと何回、こうして見送りに行くつもりなんですか?」


 細い背中に言葉を投げると、彼女はまた足を止めた。けれど、きっと彼女に動揺はないのだろう。(だってこれはもう、幾度となく繰り返されてきた、)


 自分は知っている。東雲時雨。真浅郁子。神原要。他にも、何人も、何人も、何人も。彼女が出会った、この地で出逢ってきた人間たちは、これでもう、一人もいなくなってしまった。

 歳を取らない彼女は、一つ処には留まれない。彼女を追ってきた者もいた。彼女を待ち続けた者もいた。けれど彼女はそのうちの誰一人として、再び会おうとはしなかった。


 まるでその代わりとでも言うかのように、その一人一人のもとに、彼女は必ず見送りに訪れた。

 ある時は死者の親族と一緒に通夜の席に並び、ある時は火葬の様子を遠くから見守り、ある時は、全てが終わったその後に、ただ墓前に花だけを手向けて。

 そしてそれを繰り返すたび、彼女はひどく哀しむのだ。相手が親しかった者であればあるほど。胸を抉る痛みを黙って堪えているような雰囲気で、しかし決して涙を浮かべることはなく。

 ――彼女の顔に浮かぶのは、いつも静謐なまでの無表情で。(それが死者を悼む故ではないことに気づいたのは一体いつの事だったか)


 ――――だって。

 

「ねえ、奏麻――」


 こちらを振り向いてはくれないまま彼女がぽつりと呟いた。


「あたしは、あと何回見送れば諦められるんでしょうね……」 


 ――――だって、君が何よりも辛いのは、彼らの死が悲しくないことなんだろう?


 奏麻は知っている。彼女が現在住んでいる街にも、彼女の友人や知人と呼べる人間が何人も存在していることを。

 とても強がりで、けれど本当はとても寂しがり屋の彼女は、一人で立ち続けることなんてできない。新しい土地に行けば新しい友人ができることはむしろ必然で、それは古い友人と別れた彼の寂しさを癒し、しかし同時に抱いていた思い出を薄れさせてしまう。記憶はどんどん摩耗し、そこに確かにあったはずの想いはただ記録としてのみ残り、もはや感情を揺らすことはない。

 そして気がつけば、楽しかったはずの、大切だったはずの日々は、もう取り返しがつかないほど遠く。(それは僕にとって非常に喜ばしいことではあるのだけれど)


 ――そうして彼女は絶望するのだ。

 生きている間は接触が許されなかった、かつての知り人たち。彼らが死んだ後、彼女は彼らのもとへと赴き、己を試す。

 もしや涙が出はしないかと。再び彼らへの想いが蘇り、彼らの死を哀しむことができるのではないかと。(なのにその期待は、いつだって無残に打ち砕かれて)


 別れる端から、彼女は失っていく。その苦しさを忘れるために作った新たな友人のことも、いずれは失うと分かっている。

 砂時計の砂が落ちるように、絶望を蓄積することにしかならないと知りながら、それでも止めることはできない。なんて長い長い、永遠に連なる螺旋。


 ――彼女はとても強いから。(そう簡単には狂えないくらいに)


 ――彼女はとても弱いから。(独りの恐怖に耐えられないほどに)

  


 奏麻が沈黙したまま視線を向け続ける先で、もう立ち止まることはなく、彼女は歩き去ってゆく。

 彼女が向かうその先で、これから彼女のかつての親友の葬儀が行われるのだろう。

 そして、彼女はまた絶望するのだ。また一つ、自分が失っていたことを再確認して。

 彼女は今度も、きっと涙を流せない。何を悲しめばいいのかも分からないまま、ただ茫然と、親友が煙となって昇りゆく空を見るのだろう。(虚ろを孕んだ硝子玉のような瞳も美しいのだろうなどと考えている自分も、やっぱり相当病んでいる)


 ――ああ、けれど。

 いつの日か、君は気づくだろうか。決して君より先には逝かない存在に。

 失くし続ける君の傍に、ひっそりと在り続けた僕の姿に。無くならなかったこの存在に。


 ならば、それまで喪い続ければいい。

 そうすれば、独りに耐えられない君は、いつか僕を見るだろうか。






(待っているのは砂時計の砂が尽きる時、螺旋の道が途切れる瞬間)


(だからそれまで、孤独に泣いて、愛しいひと)


(死ぬほど苦しんで、擦り減って)


(疲れ切って縋ってきたら、僕が抱き締めてあげるから)


(いつかその日が来たならば、誰よりも優しくしてあげる)

・リンネ

「境界管理機構」所属、千年以上は生きてる不死者の少女。仕事では有能だが、長年人と関わり過ぎて、記憶と感情の剥離に悩んでいるらしい。



・奏麻

 リンネとは別の勢力に所属する不死者。執着系じわじわ外堀埋めるヤンデレ。基本的には仕事以外に執着の薄い、冷たい印象の美形だが、一旦その気になるとやり口が非常に怖い。

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