彼岸に散る
~彼岸に散る~
一・人の死
人が死ぬってどういうことなんだろう。そんなことを考えるくらいに、私はまだ子供だった。一年前に祖母を亡くしたときでさえ、その事実は、涙は伴っても、実感をもたらしてはくれなかった。身近な人がいなくなった。食卓の席に空白ができた。それは、姉が働くために家から出て行ったことと似てはいるが、決定的に違うことがある。もう、その席は、お客が来るとき以外、用をなさないのだ。
悲しみはあった。それ以上に戸惑いが強かった。
祖母は昨年あたりから認知症を患い、家中を徘徊したり、時には暴れたりと、家族のストレスの素となっていた。迷惑はかけても、しばらくは死にはしないだろう。そんな乱暴な考えさえ、私たちの頭には浮かんでいた。それが今は骨になって、墓の下に眠っている。二度と歩くことも、食べることも、私たちが声をかけることさえできなくなってしまった。
祖母のお骨を拾うとき、感じたのは恐怖だった。私もいつか、こんな風に骨だけになって、やがて忘れ去られてしまう。自分の存在自体、ないものにされてしまうのだ。何かの宗教に入っているわけでもなく、だからこんな風に考えてしまうのかもしれない。人が神を、あの世を信じる理由がわかる気がする。
「静乃らしくないわね」
友達の宮子に、この悟りにも似た考察を語ってみせたら、バッサリとそう言われてしまった。
「いつもバカみたいに笑って、何も考えてなさそうな静乃が、急にそんなに語っちゃうなんて。いったい、どういう風の吹き回し?」
「バカみたいってなによ。これでも考えるときは考えるの」
頬を膨らませて私は言った。
「まあまあ、そんなに怒らなくても」
宮子は思ったことは、とにかくハッキリ言う。歯に着せる衣を無くしてしまったらしい。はじめは私も面食らったが、次第に慣れてしまった。それ以上に、彼女の存在は私にとって大きいものだった。それというのも、
「それより、新作できた? 今度また見せてよ」
新作とは、絵のことだ。私は昔から絵を描くのが好きで、よく外に出かけては、なんでもない風景を写生したりする。写真じゃだめなの? と問われることも多々あって、そのたびに「写真じゃ、自分の個性って言うのかな、そういうのが出せない気がして」と答える。写真に個性の欠片もないなんて、そんなことをいうつもりはない。私にはこっちの(描く)方が性にあっている。ただ、それだけのことだ。
彼女は、そんな私の風景画を見て、何が気に入ったのか、あなたのファンになっても良いと言ってきたのだ。その言いようは、今ではとても宮子らしいと思えるものだった。当時は〈私のファン〉という言葉だけが先行し、心の中で舞い上がっていた。そんなことがあり、彼女にたまに作品を見てもらうことが習慣になった。性格は最悪と専らの評判だが、不思議と長い付き合いであった。
「ほら、先生来るよ」
身を乗り出して迫る彼女を押しのける。
「今度見せてあげるよ」
と、いつものやり取りの終わりを宣言した。
窓から見える空はとても澄んでいた。たまに思い出したように小さな雲が横切るくらいの快晴だ。私も雲になってぷかぷかと漂ってみたいくらい。それくらいに清清しい青だった。季節は秋。だけどここには必ず『暦の上では』という言葉が付いてくる。当然のごとく残暑は厳しい。公立の高校なのでエアコンもついてない。クラスの皆が団扇やら、扇子やら、下敷きで風をつくっていた。シンクロの練習でもしているみたいだ。
こんな暑さでも、皆必死に授業に食らいついているのには訳がある。
「ところでお前らは、彼岸って知っているか?」
先生の授業終了前の雑談を楽しみにしているからだった。
彼の王子様を絵に描いたみたいなイケメン目当ての乙女たちももちろんいた。バカバカしいと取り合わない私を、しばしば友人達は「恋愛経験無しのおこちゃま」と笑った。
一方、宮子はというと、「あいつ妻帯者よ。しかも×二。原因はもちろん浮気」とどこから仕入れてきたのかわからない情報を披露し、「あんな、背景にキラキラの星いっぱい散りばめて、性格までいいやつなんているわけないじゃない」
と、王子ファンの耳にはっきりと聞こえる声で一刀両断した。それでもファンを辞める子はわずかで、乙女心って怖いなと、自らも乙女のはずなのに思ってしまうのだった。
そんな宮子は、授業のノートを取り終えた途端、ぐっすりと眠りについていた。
確かに、先生の顔には興味がないけど、話の内容は、興味深いものであるのも確かだった。彼の話は、有名な政治家を彷彿とさせる熱のこもったものだった。
「彼岸。
我々のいる、いわゆる生者の世を此岸と呼び、彼岸とはその逆。すなわち死者の世だ。此岸が迷いと煩悩で満ちた世であるならば、彼岸は悟りの世界といっていいだろう。
我々が彼岸と呼ぶのは、彼岸会の略であり、春分の日、秋分の日を中日とする7日をいう」
先生は、黒板の数式を消し、それまでとは打って変わった力強い筆跡で〈彼岸〉、〈此岸〉とチョークを叩きつけた。
ここまでは多くのものが聞きかじったことくらいある知識だろう。それでも、彼の放つ熱気に引き込まれたのか、生徒は皆、自分を扇ぐ手を止めていた。
「この時期に、日本人は墓に参る慣わしがある。といっても、そこまでメジャーな習慣ではないな。そもそも、仏教の習慣ですらない。彼岸に墓を参るのは日本人だけだ。
では、なぜこの時期に参るのだろうか」
風が止んだからか、さらに教室中の空気が熱を帯びるように感じた。宮子はいつの間にかハンディクーラを機動させ、寝息を立てていた。次はどんな話が来るのだろうか。生徒達の息を呑む音が聞こえた気がした。
「春分と秋分、共通するのは昼と夜が等しくなること、すなわち、真東から登り、真西へと沈む。さて、東には何がある。此岸だ。そして西には彼岸があるといわれる」
先生は〈彼岸〉と大きく書かれた文字を、バンと大きな音をたて、叩きつけた。その音を聞きつけた隣のクラスの先生が、注意しに扉を開けたが、教室の異様な雰囲気と、話を中断された憤りに目を燃やす生徒達の形相に退散していった。
「話を中断させてすまないね」
彼は、やれやれと首を振り、話を再開させる。
「つまり、彼岸の日に、最も此岸と彼岸が通じやすくなる。故にこの日に先祖を供養するのだよ」
だが、日本人は古き良き習慣を忘れ、この日に供養する者も少なくなっている。残念なことだ、と彼は話に区切りをつけた。
そして話は後半に突入する。
「ところで、きみたちは、秋の彼岸に咲く不思議な花のことを知っているだろうか」
彼岸花。
そのあやしき生態を彼は淡々と語っていった。既に聴衆は落ちた。あとは慣性で魅了すればよいとでも言うかのように。
私は、彼の話に心酔するとまではいかなくとも、興味は抱いた。次の被写体としては、この上ない存在と思えた。
彼は、彼岸花について一通り語って見せた後、
「この花には、不思議な迷信があってね……」
と、おどろおどろしく語り、夏も終わりというのに怪談を語って見せた。
チャイムが鳴り、興奮冷めやらぬ教室の中で、宮子が「竜頭蛇尾」と寝言のように言った。耳に届いたのは、私だけに違いない。
「あんな調べればすぐにわかる話に熱狂するとか、アホじゃないの?」
かの演説紛いの授業に、宮子は開口一番言った。たしかに彼女の言うとおりで、先生が語った話は基本的な知識ばかりだった。いつものことなのだが、やはり聞き入ってしまう。かつてのナチスがヒトラーに扇動されたのも、納得である。あの時代に宮子がいれば、ユダヤ人は救われたのかもしれない。
「でも、彼岸花の話は面白くなかった?」
「また、例の創作魂が疼いてきたようね」
「まあね」
宮子は、珍獣でも見たかのような笑みを浮かべて言った。
「さすが、小学生の頃の作文の夢にあんなことを書いたことはあるわね、たしか、あれは」
「わーーー! 言わないで」
「誰もいないわよ」
「それでも!」
「あら、そう」
彼女は残念そうな顔をして、肩をすくめた。
「まぁ、それにしても、絵の種を提供できるくらいには、あいつの話も価値があるのね。トイレットペーパーからティッシュペーパーくらいに格上げね」
動物にも評価してもらえない、先生を私は少し哀れに思った。
*
彼岸花の群生地はいくつかある。その中で、山の中腹にある墓地の近くを写生の候補として選んだ。場所も場所だから、絵に魂を与えてくれるに違いない。そこは海近くの家から、小さな丘一つ超え、ちょっと急な坂を上った先の山林にあった。9月中旬の空気は、汗を促すくらいに熱かった。
家を出るとき、「そんなとこに何しにいくの」と、母は少し呆れた顔をしながら言った。私の趣味を知っているのだから、答えはばればれだったことだろう。
このときはたまたま話を聞きつけた祖父が、
「おや、今度は山まで写生かい?」
と答えを言ってしまうものだから、私と母は二人して笑った。
祖母がなくなってから、祖父はしばらく放心したように落ち込んでいた。だけど今は、すっかりと元気を取り戻した。祖父は書道教室の先生をしている。そんなわけで、幼い頃は強制的に書かされることが嫌で、いつの間にか習字を毛嫌いするようになっていた。だけど、祖母が死んだのをきっかけに、字を教えてくれるように、頼んだのだ。父はそのことがおじいちゃんの生きがいになったのだと、うれし顔で語った。祖父は、私の絵が元気をくれたのだと言った。その言葉を私は信じている。
――そんな下手っぴな字書いてるんじゃ、まだまだ死ねねえな。
と豪快な笑みに、喜びは感じても、嫌みには決して思えなかった。
空は快晴だった。夏の名残は、林の中にも溶け込んでいるようで、先から汗が止まらない。朝の寒気にたまらず持ってきた上着が、いまやお荷物となっていた。
「だけどその分」
私は深呼吸して、
「木漏れ日が綺麗!」
踊るように、両手を大きく広げ、葉から零れ落ちた光の粒をすべて受け止めようとする。誰もいないからと、くるくる回ったり、口笛を吹いたりした。案の定、通りかかった山登りの人たちにその姿を見られてしまい、恥ずかしさに逃げ出したくなったが……。
はしゃぐのもいい加減にして、スケッチブックを広げては、何枚か簡単な絵を描いた。最近はまった白黒の水彩画で、水は大き目の水筒の中身を紙コップに移して使った。祖父の影響ではじめてみた書き方だった。だけど、それだけだとただの水墨画の真似事。だから一番強調したいところだけに色を塗る。この絵の場合は、木漏れ日……なんだけど、光を絵にするのって難しい。だからこそ面白い。私の目から見える景色は毎日表情を変える。それ以上に、絵というのは描くたびに大きく表情を変えるのだ。
――字だってそうだろう。
祖父にこの話をしたら、豪快に笑いながら言った。
――元は絵だからな。ほれ、見てみろ。お前さんの描いた一枚一枚、似とるが、違った顔をしている。ずっと前に描いたのはあんなにも不細工なのに、今書いたものはお前さんらしく、元気闊達な明るい笑みを浮かべてる。
ついでに、祖父が話の度々に、字を再び習わせようとしたのもいい思い出だ。
たしかこの話をするときは、祖母もいて、
――お前さんらしい絵だよ。
と、まじないのように必ず言ったものだった。ただ、良い絵とは言ってくれなかったのが心残りだった。
今描いている絵は、どうだろう。私らしい絵かな。私はいなくなった祖母に心の中で語りかける。
晩年、祖母は認知症を患い、死ぬ間際は私の名前さえ忘れるほどだった。別れの前に、描いていた絵があった。祖母の似顔絵だ。完成する前に、亡くなってしまい、見せることは出来なかった。もしも本当に、彼岸におばあちゃんに会えるのなら、見てもらいたかった。一番の力作だった。
棺の中には、絵は入れなかった。感想をもらえるのが何十年も先、私が死んでからなんて、待ちきれなかった。そんなことを思うくらいに、そのころの私は死に疎かった。人がいなくなる。その事実を受け入れることが出来なかった。また、いつか会えると、そう信じて疑わなかった。今でも、無理だとわかっていても、心の底では諦めきれていないでいる。
祖母のことを想うと、瞼の底が熱くなる。そのたびに、頬を両手でパンと叩いて、元気を奮い起こす。
――泣いているより、笑いな。そのほうが、ずっとお前さんらしいよ。
祖母の口癖だった。
山道を登って数十分。木々よりこぼれる光の温度が増していく。少しずつ開ける木々の隙間から。やがて赤い花が微かにのぞく。一瞬地面が燃えている光景を見た気がした。それは燃えるように咲く、彼岸花の群生だった。日の光をたっぷりと浴び、前に川辺で見たものよりもさらに鮮やかな赤に見えた。
しばらく見入っていた。赤い炎の中に溶けていってしまう。そんな錯覚に襲われた。
まだ咲いて間もないのか、花は少し小さく、ちらほらと、赤みを帯びたつぼみもあった。それでも見ごろといってよいくらいに、見事な光景だった。
私は気を取り戻すと、スケッチブックを開き、筆を取った。
すこしもしないうちに、白い紙は赤で埋め尽くされていった。いつもはこんなに鮮やかな絵にはならないはずなのに。
凛と空に向かい立つ長い茎。いくつもの花弁は放射線状に開き、自分の身を暖めようとしているのか、内側に反り返っていた。無数のおしべは、空からの光の受け皿をつくるように、天に花糸を向けていた。
間近で見たことがなかったせいか、その姿はより奇特なものに見えた。一目ぼれって、こういうことなのかも。私は見とれるように写生した。
絵を描くとき、私は周囲のすべてを意識のうちから遮断してしまう癖がある。だから、私のほかに誰かがいることに気づいたのは、一枚の絵を完成させた後だった。
はじめは小鳥の声かとも思った。だけど、それは確かに人の声。歌声だった。
川辺にお花が咲いた 空からの贈り物
赤い赤い可愛い花 誰が来るのを待っている
童謡のようだが、はじめて聞く歌詞だった。それでいて、不思議と懐かしい。
声は少しずつ近づいてくる。木立の隙間から、ほっそりとした、白い顔がのぞいた。あわてて、スケッチブック片手に、近くの木の裏に隠れる。私を見つけたら、彼女は歌うのを辞めてしまう。そんな予感がした。
空から舞い降りた妖精が、赤い花びらの上に降り立つ。そんな場面を重ねてしまう。歌声も、その容姿も。彼女は女学生の制服をまとっていた。この近辺では見ない制服だった。歳は私の二つか三つ上ぐらいか。何よりも目立つのが、雪のように白く輝く髪だった。端正な顔立ちに、黒縁の眼鏡の奥よりのぞくつぶらな瞳。知的な令嬢という言葉が、ぴったりな人だった。
片手には文庫本が載せられている。彼女が歌っているのは、おそらく小説の一編と思われた。
いつの間にか、見入っていた。歌はいつの間にか終わっていた。我に返り、反射的に筆を動かしていた。木漏れ日の中、彼岸花の中に咲く、孤独な乙女。写し取らずしては絵描きの名折れとばかりに、描いていった。
「そんなに急がなくてもいいのよ。かわいい絵描きさん」
彼女は私を、しっかりと見つめていた。心臓が壊れてしまうのではないかと不安になるくらいに、動揺した。考えてみれば、隠れているといっても、ここまで目立つ行動はなかった。驚きと恥じらいと……、言い知れぬ感情が渦となって去来し、どうにかなってしまいそうだった。
彼女は微笑みを浮かべながら、こちらに近づいてくる。走って逃げ出すという選択肢へと、天秤が傾こうとしたときには、私の手はつかまれており、彼女と相対する他なくなってしまった。
「どうして隠れたの?」「私の場所を奪おうというの?」「隠れて人の絵を描くなんて、とんだ破廉恥な変態さんなのね」と詰問され、罵倒される状況を一瞬思い浮かべたが、穏やかな表情の彼女から発せられた言葉は、もちろんそんな類ではなく、
「私の絵を描いてくれないかしら」
二・白髪〈はくはつ〉の歌姫
人が逃げるのはどんなとき? 悪いことをしたと思ったときだ。逃げれば、その場から自分という存在を抹消することができる。それが解決に繋がらなくとも、人は時に悪魔の選択肢に手を伸ばす。
私が頼めば、逃げる必要はなくなるでしょう。彼女は、どこかいたずらめいた口調で言った。歌っているときとはまた違った、耳に心地よい声音だった。
私は、さっきと同じように彼岸花の絵を描いている。違うのは、そこに被写体であり話し相手でもある彼女がいたことだった。
彼女の名は秋葉といった。よくここで本を読み歩いているのだという。
「実は私、病気でね、この町に療養に来ているの。それで、こんな髪」
私の故郷なんだ、と彼女は言った。どこか懐かしげでもあり、寂しさもにじんでいたような気がした。
長く白い髪が風に揺れる。日の光を受け、宝石のように輝いた。スケッチブックの新たなページに、秋葉さんの姿が少しずつ描かれていく。そのたびに、綺麗だなと、口に出さず思った。
絵を描きながら、いろいろな話をした。ほとんど、彼女からの質問だった。
家族のこと、絵を描くのが趣味なこと……。人は自分のことを知ってもらうことに幸福を感じるものだ、ってたしか先生が語っていた。だれかの受け売りだそうけど、そのとおりだと思う。自分を理解してもらうと心がほぐれていくような感覚になる。だけど、すこしだけ物足りない。秋葉さんのことも知りたくなる。
「できました」
絵が完成すると、彼女は子供がはしゃぐように興奮しながら、私の元に駆け寄った。
「そんなにあせらなくても、絵は消えたりしませんよ」
「なに言ってるのよ。何だって出来立てが一番いいの」
パンじゃないんだから、と私が言うと、笑い声が二つ咲いた。
スケッチブックから切り離した絵を受け取ると、秋葉さんは無言で、じっと鑑賞を始めた。眼鏡の奥の瞳は、真剣そのものだった。穴が開いてしまうのでは、と心配になる。
時間にして十分くらいか。私にとっては、数時間にも思えた。彼女は目を絵から私に転じ、
「大好き……」
と言った。その言葉の意味が一瞬理解できなかった。言葉の一文字一文字がゲシュタルト崩壊を起こし、単なる音にしか聞こえなかった。
「え、今なんて……?」
聞き返すと、彼女は満面の笑みを浮かべ、その目にはうっすらと涙さえたたえて、こういった。
「愛してる!」
突然、妖精のごとく素敵な人に、面と向かってそのような言葉を告げられて、動揺しないわけがない。心の準備などできていようはずがない。そもそも私たちは女の子同士で……、でも、こんな人と一緒に慣れたら……、ああ、でも結婚は海外に住まなくちゃ……、とあらゆる思考が脳内で閃光となって弾け飛び交った。
「あの……、私も……」と、あらゆる勇気を圧縮して、口に出そうとする。
「すごいわ!」
秋葉さんが突如声を大にしていったのに、私は間抜けな顔をして「はぇっ?」と生返事ともつかない声を出す。
「とても繊細な筆遣い。一色でも、こんな表情がだせるんだ。もしかして、習字やってた?」
私は夢から覚めた直後のねぼすけ状態で「はひ」とうなずいていた。
「それに、このひとつだけ色をつけるっていうのも、あなたが考えたの?」
そうだっけ、と自分を見失いそうになりながらも、こくりと首を振る。
「一色だけでも、すごい表現のできる人もいるけど、二色だとそれぞれの色に、別々の表情が浮かんでいるようで、それをみるのも楽しいわね。この彼岸花、とてもよく描けているわ」
私はさっき何を言おうとした! 思い出し、とてつもない恥ずかしさが胸の中で湧き上がる。
「どうしたの? 顔が赤いわよ」
彼女の品評は続く。穴があったら入りたいという言葉が、こうもぴったりな状況があるのだろうか。
「優しい絵を描くのね」
「そんなこと……、ないです」
大洪水のごとくあふれた羞恥心が、そう簡単に引いてくれるわけはなく、私は少しうつむき加減で答えた。
「でも、私こんなに綺麗かしら。この絵だと、まるで妖精さんみたい」
「わーーーー!!! もう、返してください。家に帰って燃やします!」
絵を取り戻そうと手を伸ばすが、彼女は意地悪く手をバンザイするようにかかげ、身長差ゆえに、届かないところまで上げてしまった。
「この絵、私の宝物にするわ」
頑として返す気はないらしい。
「ねえ、また描いてくれるわよね」
手を合わし、キラキラとした目を浮かべ秋葉さんは言った。
「秋葉さんは意地悪です……」
「だめなの?」
そんな悲しそうな顔されたら、断れるはずがない。
「彼岸の日にまた来ます」
彼女は心から嬉しそうな顔を浮かべた。
私の心臓は、なぜかドクドクと大きな脈を打っていた。今まで感じたことのない感覚に、私は大いに戸惑った。
*
「それは恋ね」
宮子は断言した。
屋上での食事の席。空は秋晴れだったが、空気は夏の気配をふんだんに含んでいた。
「そ、そうかな……でも」
「ああ、それ以上言わないで。あたし、陳腐な言葉は聞きたくないの。女の子同士だから、とか言ったら、ここから突き落とすからね」
宮子だったらやりかねない。まさに、今言おうとしていた言葉だったため、私は口を噤んだ。
「その人のこと、好きなんでしょ」
「う……うん……」
宮子の言う好きが、どの段階を言っているのかわからないけど、否定したら偽りになってしまう。
「その人といて、ドキドキしたんでしょ」
途端、あの日のことが脳裏に浮かんで、また胸の奥がキュッと締められるような感覚になる。
「ふふ、答えなくていいわよ。顔見ればわかるから」
くつくつと笑みを浮かべ、「うぶなやつじゃのう」
知らぬ間に赤面していたらしい。恥ずかしさを隠すため、私は顔をそむけた。
「で、どうすんの?」
「どうするって?」
「告白するの、しないの?」
私は口の中に入れた出し巻き卵を噴出しそうになる。
「こ、コクハク!?」
「まさか、言葉がわからないってことはないわよね。とにかく、好きになったら何するかなんて決まってるでしょう。さっさと押し倒しちゃいなさい」
「いろいろと段階飛んでるよ」
「押し倒して、唇を塞いだら、あとは流れでなんとかなるわよ」
「バカにしてるでしょ」
「もちろん。シズの反応みて遊ぶのって、楽しいんだもの」
友人の言いに、不機嫌な顔をしてみせる。でも、心の底では彼女の言葉を心強くも感じていた。自分の気持ちを認めてもらえる。多分、人にとって最も嬉しいことを、彼女は何食わぬ顔でやってのける。
「その女が気に入らなくなったら、私の元へ来てもいいのよ。手取り足取り、いろんなことを教えてあげるから」
その冗談ともとれない言葉に、私は苦笑した。
「とにかく、あたしの目の前でのろけ話をしたんだから、それなりの代償は覚悟してるのでしょうね」
というと、宮子は私の弁当箱から、とっておきの鳥のから揚げをひょいと奪い取ってしまった。
「あぁ……」
か細い悲鳴もむなしく、お母さんお手製の、特製からあげの最後の一つは、彼女の口の中に消えていってしまった。
「あらら、相談料込みのつもりだったのだけど」
「高すぎるよ……」
今度から、彼女に相談するときは余分にから揚げを作ってもらおう。そう、心に決めた。
三・彼岸
約束の日が来た。
彼岸の中日。秋分の日に、私は家族と共に墓参りに行くことになっていた。
以前、秋葉さんと会った日、思ったよりも帰りが遅くなってしまい、母にこってりと怒られてしまった。本当は、すぐにでも、また彼岸花の群生地に赴きたかったのだけど、今度遅くなったら、身の安全を保障しきれない。だから、秋分日に、何とか墓参りという口実をつけ、再びかの地に向うことが叶ったのである。
途中でこっそり抜け出す気満々であった。
普段は彼岸に墓参りはしないのだが、祖母の命日から間もないということもあり、反対する者は誰もいなかった。
「孫がこんなありがてぇこと言うようになって。きっとあいつも喜ぶに違いねぇ」
と、祖父は号泣した。下心たっぷりの私は、少し申し訳ない気分になる。もちろん、弔いはしっかりとするつもりだった。
空は夜の闇をぬぐい切れなかったみたいに、暗くよどんでいた。予報は曇りだったが、折り畳み傘を用意すべきと判断するには十分だった。
墓地へ向う車中、祖父は、祖父の昔話を懐かしそうに紡いでいった。
「たしかあいつと会ったのも、こんな日のことだったけなぁ。あのときは雨も降っていて大変だった」
祖父は、戦争の時代の人だ。特攻隊に志願し、戦地に向う直前に戦争が終わり、こうして生きている。
「どこで出会ったの?」
普段、こういった話をすることがないので、興味を抱いて尋ねてみた。父、母は話を知っているのか、懐かしそうな顔をするだけで、口は挟まなかった。
「あれは、A町の川沿いでな」祖父は、戦争の頃の疎開先の名をあげた。戦後、しばらくはその地で過ごしながら、地元の復興に貢献したのだと誇らしげに語っていたことがあった。
祖父は、いつもは見せない穏やかな表情で続ける。
「ちょうど、彼岸花の見ごろだった。川辺一面を赤い花が埋め尽くしていたな」
「彼岸花……」
私は思わず繰り返していた。秋葉さんと会ったのも彼岸花咲く頃。思わぬ偶然だった。
「ああ、まるで死者を弔うための、天からの献花と思ったくらいさ」
川は、あの世とこの世の境といわれている。
あまりにも出来すぎた話だったが、人の人生は偶然の産物、とあのキザな教師も語っていた。今の私たちはまだ若いから、偶然をありえないものに思えてしまうらしい。経験が少ないということだ。そもそも、祖父と祖母が出会い、恋に落ちなければ私もここにはいない。戦争が長引かねば、言わずもがな。今なら、先生の言葉も少し納得できる気がした。
「今日は、あいつに会える大切な日だからな。しっかりと弔ってやらんと」
力強い口調で言った。
祖父は、認知性になった祖母を最後まで看護した。知り合いの薬局のおばさんにが言うには、看護と呼べるものでないひどいものだった。言って聞かなけりゃ怒鳴るし、たまに手を出すことさえあった。施設に預けるしかない。父も母も、揃って説得した。しかし、施設の空きができるまで数年は待たなければいけないという。そもそも、祖父が頑なに拒んでいた。相当なストレスであっただろう。祖父が腎臓の病で入院するのを期に、祖母も施設に行く予定だった。祖母が死んだのは、そんなときだった。祖父の手を離れる前に祖母は亡くなった。
寺の駐車場で車から降り、細い山道を歩きながら私は考える。祖母は果たして幸せなまま逝ったのだろうか。魂となって、私のことを思い出してくれただろうか。
墓の前で手を合わせれば、かつての優しい声が聞こえてくるかも、とも思った。でも、何もわからなかった。
祖父は、祖母の入った墓を念入りに洗ってやった。声をかけることはなかった。昔から、言葉より、行動で示せという人だった。心の中できっと語りかけているのだろう。
母が語った話では、祖母が亡くなったときの祖父の落ち込みようは相当のもので、信じられないことに、ぼろぼろと泣いていたのだという。かっこ悪い姿を孫には見せられない、ということらしい。
車へ戻るとき、先頭は祖父だった。顔を見せることなく歩き、乗り込もうというとき、祖父は振り返ることなく、
「シズ、お前、スケッチブック持ってきとるな」
「う……うん」
「何か用があるんか?」
的を得ているだけに、一瞬答えに窮す。とても抜け出す雰囲気ではなかった、とはいえない。
「行ってこい」
「えっ?」
「描きたいもんがあるんだろう」
「ちょっと、おじいちゃん」
遮ろうとする母を、父が手で制した。
「そうなのかい?」
優しく尋ねる父に、こくりとうなずいた。
母は、ため息をつく。
「バス代はあるわよね。6時までに帰らなかったら、捜索願いだすから」
私の頑固さは、おじいちゃん譲りだ。
祖父は、「持ってけ」と、後部座席に隠しておいたはずの画材道具を取り出して、渡した。やはり顔は隠したままだった。
スケッチブックの端がほんのすこしにじんでいた。きっと、ささやかな通り雨のせいだろう。
*
空は一層影を濃くし、遠くで雷の音がかすかに聞こえた。ぐずり始めた子供のように思えた。雨が近いのだろう。私は急ぐ。一応折り畳み傘は持ってきてはいたが、濡れるのは嫌だった。それ以上に、秋葉さんと早く会いたいという思いが強かった。
紅葉もまだな木々の間を抜けていく。もしかしたら、彼女はもう帰ってしまったかもしれない。そんな不安がよぎる。もしかしたら夢だったのかも……。
たまらず立ち止まり、スケッチブックを開く。彼岸花の中に立つ、白髪の歌姫は、確かにそこに存在した。
歩き始めると、風と葉の心地よい協奏に混じってかすかに人の声が聞こえた。抑揚をつけ、ゆったりとしたテンポで、森と調和したような、歌声にも似た詩の朗読。
私は歩調を緩め、しばらくその歌声に聞き入った。
木々の隙間から、彼岸花の群生が臨む。赤いステージに一輪だけ、一際綺麗な花が咲いているように見えた。
詩歌の書かれた本に、優しい視線を注ぎ、その歌に魂をこめる、まるで妖精のよう……。と、思ってから突然恥ずかしくなる。
歌はやがて一区切りつく。はじめから、くるとわかっていたように、秋葉さんの目は私を捉えていた。
そして純粋な喜びで満ちた微笑みを、彼女は見せた。なぜだか、胸の奥がキュッとつままれた感じがする。心臓の鼓動も一段と早くなる。走ってきたせいかもしれない。でも、たいした距離じゃなかったし、やっぱり宮子の言ってたように……。
思考が空回りして、何を話せば良いのかわからなかった。そんな私を見て、
「静乃さんって、いろんな顔をするのね」
と、彼女は魅惑的な笑みで言うのだった。
彼岸花の絵を描く。あの日と同じように、その中心に秋葉さんがいる。あいにく今日は曇りで、その分、花はすこしだけ暗い表情を浮かべているように見えた。
私たちは、話し合った。今日は祖母の供養のために来たこと、親友の宮子のこと、学校のキザ先生のこと。話すたびに、秋葉さんは心から楽しげに話を促し、私は幸せな気分で口を動かし、筆を走らせた。
自分のことを知ってもらうのはうれしいこと。でも、気づいてみると、私の話ばかりしている。私は、秋葉さんのことをほとんど知らないのだった。
「私、秋葉さんのことも、もっと知りたいです」
一枚の絵を描き終え、言った。
すると、彼女は気のせいかすこしだけ表情を曇らせた。
「それよりも、早くあなたの絵が見たいわ」
やはり意図的に自分の話をしなかったのだ、と彼女の言葉から察せられた。いつの間にか私は彼女に甘えていたのだ。
「自己嫌悪です。ごめんなさい」
「誤ることなんてないわよ。私があなたを知りたかっただけ」
彼女は絵をのぞこうとする。私はパタンとスケッチブックを閉じた。
「教えてくれるまで、見せません」
強情かもしれない。でもこのままだと、きっと後悔してしまう。
秋葉さんは困った顔をした。すこしだけ考える仕草をして、
「そうね、わかったわ。何が聞きたいの」
彼女が自分のことを隠すのは、何かわけがあるのかもしれない。でも、ならばなおさら知りたかった。それに、このままでは、いつの間にか彼女が消えてしまいそうな、そんな予感がしたのだ。
私は当たり障りのない質問を選んで聞いた。
「おいくつですか」
「ふふ、女性に歳を聞くなんて。いくつに見える?」
「私の二歳くらい上、……かな」
「正解」
「趣味はなんですか?」
「見てわからない?」
「読書と、歌を歌うこと……?」
「ご明察」
と、やはりどこか意地悪な答えだった。だけどそのことすら、彼女の神秘的な魅力を引き立たせると思ってしまうのも事実だった。
「学校はどちらなんですか」
「多分、言ってもわからないところよ」
「……何か、夢はあるんですか?」
きいてから、まるでお見合いの席の質問みたいで恥ずかしさがこみ上げてくる。
「どんな職業が向いていると思う?」
「……先生みたいだなって思います」
すると、なぜか彼女はまた一層、顔の影を暗くした。
「どうして、……そう思うの?」
「とても優しくて」少し意地悪だけどと、心の中で添えて、「話していると楽しくて、それに……」
「それに?」
「童謡を歌うときの秋葉さんが、まるで子供たちに語り聞かせているみたいって、思えたからです」
秋葉さんは、否定も肯定もしなかった。
「私は……教師には向いていないわ」
その言い方には含むところがあるように感じた。
「昔、目指していたんですか?」
「そうね……、そうよ。目指していたわ。でも、諦めちゃった」
秋葉さんらしくもないと思った。まだであって数日しか経ってないけど……、だけど、そんな簡単に夢を捨ててしまう人だなんて、信じたくなかった。
「理由があるんですよね?」
「理由……。理由ならたくさんあるわ。ありすぎて忘れちゃうくらい」
秋葉さんは、何もかも諦めた顔をしていた。私はそんな彼女の顔なんで見たくなかった。
「もう……、会うのは止めましょう」
雨粒が、赤い花の上にポツリと落ちた。まるで涙の粒のようだった。
「どうして……ですか」
声は震えていた。彼女の言葉が信じられなかった。嘘よ、とあの素敵な笑顔で言ってほしい。
「私ね、今週末、引っ越しちゃうの。だから……」
雨足が次第に強くなる。木々の葉から抜け出してきた水滴が、地面に吸い込まれていく。
眼鏡の奥の瞳は、私を見てはいなかった。直感的に、それは嘘であると悟った。
「まだ、時間はあるじゃないですか。それに、どこに引っ越したって、私、会いに行きます」
秋葉さんは、ささやかな笑みを浮かべた。その目には、光るものがあった。
「別れるのはつらいこと。今ならまだ、耐えられる気がするの」
胸の奥から、何かがこみ上げてくる。
雨が冷たい。手が、足が、すこし震える。
このままでは、二度と会えなくなる。そんな予感が私の中で湧き上がった。
私は、手をのばす。
スケッチブックを放り投げ、秋葉さんを抱きしめようとする。
その温もりを受け取り、分け与えるために……。
手は、宙をつかんでいた。
彼女と姿が重なったかと思うと、秋葉さんの身体は背後にあった。
バランスを崩し、地面に手をついた。地面は死んでいるかのように冷たかった。
「だから、無理なのよ」
雨は一層勢いを増していく。
「スケッチブックが濡れちゃうわ」
雨が止んだと思ったのは、秋葉さんが傘をさしてくれたからだった。スケッチブックも取ってきてくれた。とても大事な絵があったことに気づいて、「ありがとうございます」と搾り出すように言った。
「人の身体だけに触れられないみたいなの」と、彼女は寂しそうに笑った。
彼女の顔がすぐ近くにある。白くて綺麗な。
目の端に、彼岸花に隠れた小さな墓が見えた。
「無縁仏……」
呟くと、秋葉さんはうなずいた。
「きっと、知らないほうが良いと思ったから」
でも、もう知ってしまったわね、と彼女は微笑んだ。
「教えてください」
秋葉さんのことをもっと知りたい。その手には、肌には触れられないけど。このまま別れたら、彼女のことを忘れてしまうかもしれない。
そんな確信にも似た予感がした。
雨は止まらぬ涙のように降り注ぐ。
濡れた花が、さみしげに揺れていた。
四・花と炎
戦争も終わりの頃。私は師範学校の付属校に、教員となるため研修に来ていた。
少しの間だけど、初めて受け持つ生徒は皆、明るい未来を夢見た純粋な目をしていた。彼らを見たとき、私たち大人は、なんと殺気めいた顔をしているのだろうと、愕然した。これでは子供をおびえさせるだけではないか。そう考えるようになってからは、努めて明るく振舞った。笑い絶えぬ学級にしようと奮闘した。それが、私を指導する先輩教師の目にはよく映らなかったらしく、「日本軍人たるべきは、常に厳粛でなければならん」と、目を見張り、鬼のような形相で言われた。
「勝利を信じ、日本国軍の奮闘に、明るくならないはずがありません」
言い返すと、「ま、まぁ、そうだな」と言葉に詰まった。
父によれば、日本の劣勢は明らかだという。しかし、連日の新聞には、日本軍の華々しい勝利で一面が飾られていた。それが嘘であることは、誰もが薄々理解していた。本土爆撃が行われるようになり、空は既に私たちのものではなくなっていた。いずれ、ここにも攻撃がくるかもしれない。
子供達は日本の勝利を信じて疑わなかった。いずれ軍人になって、米兵の戦闘機から空を守るんだ、と男の子らは息巻いていた。従軍看護婦になって、勝利に貢献したいと夢見る女の子も多かった。
その夢を否定することは出来ない。でも、戦争が終わったら、別の夢を追いかけてほしい。今の私に出来ることは、この子達を守ることだった。
B29 の羽音は、ついに私たちの町にも訪れた。空襲警報のたび、少し近くの川近くにある小さな防空壕に逃げ込んだ。私は常に最後尾で、壕に入れないこともよくあった。そんな中、逃げるのが送れた私の近くで爆撃があった。衝撃に投げ出された。顔を打ちつけ、眼球が傷ついたのか、視界は霞んでいた。そのときから、眼鏡をかけはじめた。
私が生きていたことに、子供達は涙をたたえ喜んだ。何人かは私に抱きついてきて、すこし苦しかった。
彼らをなくしてはいけない。この身体がいくら傷ついたって、構わない。そう、決意した。
あの日、空は嘘みたいに青く澄んでいた。夏の太陽は私たちを焼いて調理しようとしているのかと思うくらい、強かった。
静かだった。黒板を叩くチョークの音がうるさく聞こえるくらいに。窓を開けても、町は死んだように閑散としている。市場の喧騒は、ここまで届かないくらいに鳴りを潜めていた。
今日は何も起こらないだろう。連日の攻撃に、一日の休みくらいほしいもの。皆、表面上は平気を装っても、やはり辟易していた。
長い日が、ようやく傾き始め、授業も終わりに差し掛かっていたときだった。町にけたたましい警報が鳴り響いたのだ。
「あ、飛行機だ!」
一人の生徒が窓の向こうを指差した。
私は唖然とした。こんなに早く来るはずがない。そして、察した。警報が遅れたのだ。
怒声が聞こえる。他の先生が非難を促していた。
「早く!!」
声を張り上げる。切迫した様子が伝わったのか、子供達の顔は、恐怖に染められていく。
散散に逃げる子供達の中、足を震わせて動けない女の子がいた。私は彼女を背負い、「大丈夫だから。おちついて」と我を忘れた彼らに大声を張り上げる。
落ち着いてどうなるのか。もう爆撃の音は間近に迫っていた。
「秋葉先生も早く逃げてください!」
去り際の先生の声も耳に入らなかった。
町は赤く染まっていた。夕刻の太陽のせいではない。家々が燃えているのだ。
風が強かった。家々の風鈴の音が幻のように聞こえたかと思うと、人々の阿鼻叫喚にかき消されていった。火をまとってもだえ、川を目指す者もいた。もう助からないだろう。
その光景は、地獄絵図をそのまま写したようなものだった。
空から殺意をもった雨が降ってくる。いつ、私にも火の粉が降りかかるかわからなかった。かまうまい。子供達を救うためならば。
「もうすぐだからね」
背中の子供に声をかける。震えているのか、返事はなかった。
何度も近くで爆撃があった。炎は近く、その熱気だけでも、耐えられるのが不思議なくらいだった。
私は走った。やがて防空壕が見えてくる。
ほっと息を吐く。だが、安堵は一瞬だった。
気づけば、力なくへたりこんでいた。
壕の中は黒煙と、その源たる紅色の炎に包まれていた。
人のこげる匂いがした。
煙が目にしみて痛かった。
私は這うように近づいていく。子供達を助けなければ。
泣き叫ぶ声すら既に聞こえなかった。助かる見込みがないことは明らかだった。
「何をやっとるんだ。死に急ぐな!!」
指導教員の先生の声だった。すんでのとこで、身体を抑えられていた。振りほどこうともがく力もなく、私はただ、炎の中を見つめるしかなかった。
「もう、やつらは去ったよ」
空を這う羽音は、いつの間にか止んでいた。
夕焼けはとても綺麗な橙色に燃えていた。
すこしずつ、暗い雲が覆っていくのが見えた。
私が動く気配を見せないとわかると、彼は、
「風が強いな。直に雨が降る。早く親の元に行ってあげなさい」
去ろうとすると、ふと声を上げた。
「おい! その背中の子は……」
「え……」
彼は、子供を奪い取る。その小さな身体は、力なく、目は堅く閉じられていた。あちこちに火傷のあとが見えた。
「くそっ! なんだってこんな……」
子供を地面に降ろすと、彼は憎憎しげに空を睨んだ。何が起こったのかわからなかった。頬を叩いても起きる気配はなかった。
足音が遠ざかっていく。やがて、私ひとりだけになってしまった。
空は、風が運んできた黒雲で埋められていた。冷たい雨粒が身体を打つまで間もなかった。
必死の消火活動の声も、次第に引いていく。町を雨音のみが響く。
壕の中の火も治まっていた。その中は、折り重なった人であふれていた。どれも、小さな身体をしていた。皮膚は焼けただれ、人であるとすぐにわからないほどだった。
きっと生き残ってる子がいるに違いない。半ば狂うように子供達を抱いては、外へ出してやった。
「つらかったろう。熱かったろう。今だしてあげるから」
ひどく焼かれたものの手を取ると、崩れていく。ほとんど骨だけの子もいた。
ひどい匂いで、嗅覚は麻痺していた。残る熱気に、子供達の叫び声の幻聴が混じっているように思えた。
胸が引きちぎれそうなくらい痛かった。何度も戻しそうになったが、こらえた。
目からは、涙があふれ出ていた。こらえようがなかった。
声にならない嘆きと共に、ぽつぽつと、悲壮に歪んだ死体の顔を雫が濡らしていった。
彼らを並べては、手を合わせ、それを何度も何度も繰り返した。
空も、一緒に泣いてくれているようだった。
「何をしとるんだ!!」
見回りに来た人に見つからなければ、そのまま死ぬまでそうしていたかわからない。
そこから、どうやって家に戻ったのかも、親になんて言葉をかけられたかも、わからなかった。
落ち着くまでたいそう時間がかかった。それでも、たまに思い出しては嗚咽がこみ上げる。何の気力も湧かなかった。
新たに生える髪は、すべて白に染められていた。町を歩くと、よく化け物みたいだと、子供にからかわれた。
見かねた父は、私にお見合いの相手を都合した。戦争から生き延びて帰ってきたとか、かつて教師をしていたとか、様々な情報が耳に入っては通り抜けていった。
彼はといえば、最初は、白く染まっていく髪を見て驚いたものも、縁談には乗り気のようだった。教師ゆえの気概だろうと父は笑った。
私は彼に聞いた。どうして子供達は死ななければならなかったのか。どうして、こんなにもむごたらしい結末にならねばならなかったのか。
答えは、期待したものとは程遠かった。
「国を守るためには、仕方がなかった。軍が暴走していたのは確かだ。だけど、彼らがいなければ、日本は既にないだろう。もう、こんな悲劇を起こしてはならない。そのために、これから僕らができることをしないとね」
彼は、落ち込む私をなぐさめようと手をのばす。私はその手をさける。胸の奥底に熱いものがこみ上げてくる。これは、おそらくは怒り。
「守る? 何を言っているの? これだけ人が死んでいるのを知って、そんなことがいえるの?」
「違うよ、そういうことでは……」
彼の声は耳に入らなかった。翻り、走り去る私を止める声はなかった。
足は自然と、あの防空壕のあった河原へと向いていた。
子供達の亡骸のあった場所には、花が手向けられていた。それ以上に目を引いたのが、川岸の一面を埋める、赤い花だった。空に向けて祈るように咲く彼岸花は、いつにも増して鮮やかだった。
もう、そんな季節になっていたのか。戦争が終わり、まだ数日しか経っていないように思える。
私は、しばらくあたりを散策する。別名、曼珠沙華、天界の花は、そこかしこで、楽しそうに揺れていた。あの日の悲劇が嘘だったように。
他の花はほとんどなかった。夏は土の中に隠れ、守られていたのかもしれない。
鮮やかな赤い花畑を、夢心地で見渡した。
自然と童謡が口よりこぼれる。
「川辺にお花が咲いた 空からの贈りもの……」
すると、川の向こうから、別の声が重なった。
「赤い赤い可愛いお花 誰が来るのを待っている」
それは子供達の声だった。信じられなかった。幻聴に違いない。
「先生!」「ここにいたんだ」
向こう岸に、小さな影がいくつも見えた。おぼろげな姿は、徐々に鮮明になり、懐かしい子供達の姿が確かにそこにあった。
「僕ら、ずっと待ってたんだよ」「ねえ、こっちにおいでよ」「また遊んで!」
私は夢中で、彼岸花をかきわけ、川へ向った。
流れは速く、底も深い川だった。人の足で渡りきれるはずがなかった。
「先生、ごめんね」
急に声は遠ざかる。子供達の姿も、米粒のようになって、見えなくなった。
身体が激流に飲まれていく。
「さようなら」
最後の幻聴が聞こえたときには、意識を失っていた。
* * *
雨はさらに勢いを増す。傘に守られているとはいえ、足元は、冷たく濡れていた。
「父と母は、私を弔うことなく出奔したわ。対面を気にしてのことらしいけど、薄情よね」
自嘲するように秋葉さんは言った。
過去を語る彼女は、淡々としていた。やはりその面に浮かぶんでいたのは、諦めだった。しかし、その瞳の奥に、あふれる悲しみと苦しみを垣間見た。隠そうとしても隠し切れるものではない。それがなおさら切なくて、今にもその身体を抱きしめてあげたかった。それができないことが、なおさら私の胸を圧迫した。
「私は、この世にいてはいけない存在なの。それに、もう長くはないわ」
縁ができてしまったから、と彼女は言った。
彼岸花の花言葉は、諦め。
すべてを諦めてしまった秋葉さんの顔を、見るのが辛かった。目をそらすと、「こっちを見て」と、囁いた。
秋葉さんの姿は、すこしかすれて見えた。
赤い花に落ちる光の粒は、彼女のものだろうか。
「私ね、あなたのこと、はじめは生徒のように思っていたの。でも……」と、彼女は微笑む。
「今は、それ以上の存在」
それってどういうこと……、と口を開く前に、
「好き」
と、秋葉さんはそれだけ言った。
絵に対してではない。私に向けられて言葉だった。
「あなたといると、胸の奥が熱くなるの。きっと、あの絵の中にこめられたあなたの想いを感じたからかもね」
「それは、……私も……」
口に出すのが怖かった。だけど、ここで言わなければずっと後悔してしまう。
「私も、秋葉さんのことが好きだから。だから……」
同じ想いを抱いていた。何よりも嬉しいことのはずだった。なのに、心は霧がかかったままだった。
「このまま、別れるなんて、嫌です……。ずるいです」
「そうね、ずるいわね」
秋葉さんは、寂しそうな顔を浮かべる。少しだけ身をかがめると、一輪の彼岸花を摘み取った。
「これを、私だと思って」
と、渡した。
秋葉さんの身体がほんのりと、赤く染まったように見えた。よく見ると、身体が透けているのだった。
「さあ、もうお別れ」
「また、会えますよね」
無理とわかっていても、尋ねずにいられなかった。
「会えるわよ。きっと」
雨に濡れた森を惜しむように、下っていく。
後ろでかすかに声が聞こえた。
――ごめんね。
*
雨は小降りになっていた。なんとか、スケッチブックは濡れずにすみそうだった。
家までの道のりが、とてつもなく長いものに感じられた。バスの窓から見える景色は、色あせていて、現実ではないみたい。夢の中でさ迷っていたのでは、と疑ってしまう。でも、カバンの中に隠れる赤い花は、鮮やかな色で私を見つめている。触れれば、その柔らかい感触が、これは現実であることを教えてくれる。
帰った後、服をぬらした私を見て、母が散散怒鳴ったところまでは覚えている。その内容がどのようなものだったかはわからないが。
今日は、一段と冷えた。昨日まで、夏がずっと居座り続けるのではないかと危惧していたのをあざ笑うかのような寒さだった。
風邪をひいてはいけないと、母は今年初めての暖房を使うことを許可してくれた。
眠りはあっというまに訪れてきた。何かに誘われるように、私は目を閉じた。
赤い花が見えた。彼岸花だ。あたり一面を鮮やかな炎のような赤で染め上げていた。
やがて、それらは意志を持っているかのように、一斉に揺れた。ゆらゆらと踊っているみたいだった。
花が刻々と熱を帯びているのに気づいたときには、赤い花弁は炎へと変わっていた。
圧倒的な勢いで広がった炎は、私を飲み込んでいく。
煙の匂いがする。肺が詰まったような感覚を覚える。
少しの間だけ、目を開くことが出来た。ストーブの周りを、殺意を持った火がなめているのが見えた。
意識の底で、前に先生の語っていた話思い出す。
――彼岸花にはとある迷信があってね、この花を家に持って帰ると火事になってしまうのさ。その名前の通り、彼岸へと連れて行かれるってわけだ。
視界は徐々に薄れていき、やがて深い闇に飲まれていった。
飛行機の羽が、空を切る音がする。空を走る何機もの鉄の鳥が、一直線の雲を描いていく。それらはやがて、小さな何かをばらまいていく。
場面は突如切り替わる。
見知らぬ町。木造の古い民家が並んでいる。そのどれもが、炎に包まれ、苦しそうにパチパチと音をたてていた。人々が、叫び声をあげ、逃げている。しばらくすると、町はもぬけの殻となり、私一人が取り残された。爆撃の音が迫りくるのがわかった。
これは、秋葉さんの語った過去の光景だ。理解するのに時間はかからなかった。
私の足は、導かれるように川のある方向へと向っていた。しつこく身体にまとわりつこうとする炎の熱は、本物だった。逃げても、逃げても、炎は意志を持ったように追いかけてきた。
これは夢だ。だけど、いつまでたっても覚めてくれない。
降り注ぐ火の粉の中を、狂ったように駆け抜ける。
その先に、かすかに光を帯びた防空壕が見えた。迷わず私は飛びこんだ。背後で、扉が閉まる音がする。炎が舌なめずりする気配が向こうからした。それもやがて消えていく。
また、真っ暗闇に戻ってしまった。でも、身体を焼かれるような熱さは、嘘のように消えていた。
どこへ向っているのかもわからず、とぼとぼと歩く。すると、足元で揺れる赤い花が目に入った。
ぽつぽつと、彼岸花が、道を作るように咲き始める。その凛とした茎を伸ばし、赤い花弁を開かせて。
花は密度を増していった。その先には、まぶしいくらいに輝く光の扉が、手招きするように待っていた。
誰かが呼んでいる。そんな予感がした。
自然と早足になる。
扉の向こうに人の影が見えた。
たまらず走り出す。ここがどこであるかなどという疑問は吹き飛んでいた。
光の扉を抜けると、一面の赤い花畑が迎え入れた。その中に咲く、一輪の白い花のような姿は……、
「秋葉さん!!」
そのすらりとした、身体を正面から抱きしめる。
幻ではない。
優しく包み返してくれる、秋葉さんの手は、人の熱をを帯びていた。まるで母親に抱かれる子供に戻ったように、心地よかった。
「本当に、秋葉さんだ……」
確かめるように、彼女の名を呼ぶ。赤い花に、ポツリと涙が一滴落ちた。
「温かい……」
触れられることが、こんなにも愛おしいことなんて。
ずっと、こうして彼女の懐に抱かれていたかった。
秋葉さんは、少し困ったような笑みを浮かべる。
「そんなに、強くしないでも、いなくなったりしないから」
言われてから、あわてて手を離す。その様子を見て、彼女は心からの笑みを浮かべた。胸の奥が、つままれたようになる。
私たちは、手を繋ぎ、赤い花の海をしばらく漂った。
心の臓は、早鐘を打っていた。恥ずかしさと嬉しさが相まって、どうにかなってしまいそうだった。
歩くごとに、霧が晴れたように、景色がはっきりと見えてくる。ここは、どこかの川の岸辺だった。川は大きく、向こう岸が見渡せない。しばらくいくと、緩やかな弧を描く、大きな橋が見えてきた。今の時代とは思えないほど古びた木造のものだった。
人一人いない、閑静な橋へ、彼女は導いていく。
心の奥底で、行ってはいけない、と声がする。
少し歩みを遅らすと、「どうしたの?」と、彼女は私をつかむ手を、すこし強くした。
「どこへ、行くんですか」
「誰にも邪魔されない場所」
「それは、……いいですね」
一言一言話すたび、橋を渡ることへの疑いは消えていった。
長い橋だった。橋の向こうは、厚い霧で覆われて、何も見えなかった。きっと渡り終えたら、もう帰ってこれない。そんな予感がした。それも、今では構わないと思っていた。
木造の橋は、足を踏みしめるたびに、キィと音をたてた。
川は、底が見えるくらいに澄んでいた。きっと触れれば、凍るくらいに冷たいのだろう。冷気が、ここまで浸透していた。
繋ぐ手から伝わるぬくもりが、大丈夫といっている気がした。
秋葉さんと、一緒なら……
――シズ……
橋の向こうから、かすかに声が聞こえた気がした。あたりを見回すが、誰もいない。幻聴だろう。そう思っていると、
「シズ!!」
今度は、はっきりと届いた。秋葉さんの足が止まる。彼女の目は橋の向こうを見つめている。いつの間にか、向こう岸の近くまで来ていたのだ。
霧が少しだけ薄くなる。
そこには、懐かしい姿があった。
「おばあ……ちゃん……」
私は幻でも見るような心地で呟いた。
「シズ……。久しぶりだね」
優しい声。元気だった頃の祖母の声だった。
隣を見ると、秋葉さんの怒りとも悲しみともとれない顔があった。手が、少し震えていた。
「どうしたんだい、こんなところまで来て。お前さんも、そんなに大きくなったんだ。ここがどこかくらい理解できるだろう。こっちには来てはいけない。早くお帰り」
どうすればよいのか、わからなかった。秋葉さんは、その目から涙をこぼしていた。橋板にこぼれては、にじんでいった。どうして、そんな顔をするのだろう。
「ダメよ。聞いてはダメ……。あなたは私と一緒にいるの。
嫌よ。ずっと一人だったの。何年もずっと、ひとりぼっちだった。誰も見つけてくれなかったわ。ここにいるよと、歌っても、私の声を聞いてくれる人はいなかった……。静乃以外にはいなかったの」
「だから、こっちにつれてこようとしたってのかい」
秋葉さんは、「私を……、一人にしないで……」と、絞りだすように言った。
祖母は、悲壮に歪む彼女の傍に、音をたてて歩み寄り、
「バカモノッ!!」
と、橋中を轟かせるような声を張り上げた。
その激昂に、私はビクっとする。
「それで、あんたの心は満足するのかい。子供に見捨てられ、命を失い。シズをあんたのあいた心を埋めるためだけに奪うっていうのかい」
「私は!」
「あんたを待ってる者がおる。シズ、お前さんもだ」
力強い声で、祖母は言った。辛いとき、何度も励まされた声だった。
霧が晴れていく。祖母は、案内するように向こう岸に向かう。仁王立ちする彼女のまわりは彼岸花で埋められていた。
赤く、燃えるようなその群生の向こうには、たくさんの子供達の姿があった。顔を上げれば見えるはずだった。しかし、秋葉さんは、目を背け、私の手を握り離さなかった。
祖母は何も言わなかった。
後ろから、違う声が聞こえた。たくさんの私の名前を呼ぶ声だった。シズ、シズ! と愛おしい声が、波のように届いた。心の天秤は傾いでいく。
「秋葉さん……」
胸が張り裂けそうな思いで、私は言う。
「私、秋葉さんと一緒にいたい。でも、それじゃいけないの」
そっと、彼女の手をほどいていく。迷いはなかった。
「待っていてくれる人がいる。あなたと、同じくらいに好きな人が、私にはたくさんいるの。それを失ってしまうなんて、きっと耐えられない」
こらえようとしても、目から熱いものがこみ上げてくる。
「約束があるの……」
秋葉さんの目を見つめ言った。彼女の目も私を見ていた。うっすらと光る雫が、とても綺麗だった。
それは、幼い頃、小学生の作文の授業で描いた夢。
――私、みんなを喜ばす絵を描くの。
――お父さんが疲れたとき、癒して上げられるような、
――お母さんが、今より少しでも優しくなれるような、
――おじいちゃんが、死にそうになったとき、一発で元気になるような、
――見た人、みんなの心を、元気にするような、
――おばあちゃんに認めてもらえるような、そんな絵が描きたい。
まだまだ、やるべきことはたくさんあった。ここで諦めたら、自分を裏切ることことになる。おじいちゃん譲りの、頑固な私に。
「お前さんも、いい顔をするようになったね。それに、あの絵、とってもお前さんらしい、いい絵だったよ」
祖母が、いい絵とほめるのははじめてのことだった。
手は自然と離れていく。すこしずつ、彼女のぬくもりが、消えていく。それが、たまらなく心細かった。
「ごめんなさい。こんなところまでつれてきてしまって」
「謝らないでください。それに……、そんな悲しい顔をしないでください。笑ってない秋葉さんなんて、秋葉さんじゃありません。私の大好きな秋葉さんは、もっと、明るくて、優しくて、だから……」
必死で涙をこらえる私に、彼女は優しく微笑んだ。
「本当に、面白い子ね」
祖母に導かれ、秋葉さんの背は遠ざかっていった。
子供達に囲まれ、笑顔を浮かべる彼女が遠くに見えた。
それを最後に、景色はまた霧で覆われてしまった。
「帰らなきゃ」
来た道を、惜しむように歩いた。
一歩、歩くたびに、聞こえる声は大きくなっていった。
――さっさと目を開けんかい!! わしより先に死んだら許さんぞ!!
おじいちゃんの声だった。
「うん、そうだね」
私は、涙をぬぐい、橋を渡る足を速める。
赤い花の群生は、光を帯びる。光は、徐々に手を伸ばすように広がり、私を迎え入れた。
エピローグ
目を開くと、そこには、私を待っていてくれる人がいる。
何でそんなに悲しそうな目で、泣いているの? と不思議に思う。みんな目元が赤くなっていた。私が起きるのを見て、彼らの顔が一様に驚きから喜びへと輝くのも、どこか現実味のない絵空事のように思えた。
「あんた、もうすこしで死ぬところだったんだよ!」
母の抱擁は痛いくらいに強かった。
「おじいちゃんが、助けてくれたんだ。感謝しなさい」
父は、冷静を振舞い言ったが、その声はすこし震えていた。
当のおじいちゃんは、といえば、姿が見えない。すると、突然病室の扉が爆発するように開き。
「おお、シズ! 元気そうじゃないか」
ニカっっと祖父が笑ったかと思うと、「あいたぁっっっ!!」と腰を押さえて苦い顔をする看護婦さんにつれられて、そそくさと退散してしまった。
その嵐のようなやり取りに、私は笑いを隠しきれなかった。同時に、涙がこぼれてくる。
「火事の中、一人で飛びこんでいって、シズを抱いて、窓を飛び降りたんだよ。そのときに腰を打ってね」
父も、笑いを隠せない様子だった。
「あなたが生きていてくれて、本当に良かった」
母の声は、優しく、包む手はとても温かかった。
傍らにはスケッチブックがあった。祖父がこれだけは、と持ち出してきたという。許可を取って開けてみる。すると、数ページ分だけが、焼けてなくなっていた。祖母の絵と、秋葉さんを描いた彼岸花の絵だった。
私はスケッチブックをそっと閉じた。涙で濡れてしまわないように。
*
「それで、愛しの人とはお別れ。しかも、はじめからいなかったなんて。さらに、あなたから振ったなんて」
宮子は、随分と誇張して話を聞いてくれた。というより、彼女の圧力に負け、すべてを語ったというのが正解だ。
退院してから、すぐの昼休み、空は秋葉さんと会ったあの日のように、綺麗に澄み渡っていた。
「それにしても、どうしてそのまま行かなかったの? 愛とは、すべてを凌駕するものじゃなくて」
「たしかに、そうすれば、良かったのかも、って今でも思うこと、あるよ。簡単で、それでいて幸せな選択。だけど、そのことで失うことを思うと途端に怖くなるの。大切のものは、他にもたくさんありすぎて……」
「その大切な、の中に私も入ってるのかしら」
「言わなくてもわかるでしょう」
「確認よ。確認」
宮子の態度に訝しがる。そんなことを聞くのは、はじめてだった。彼女らしくない。
考えても詮無いことなので、私は目的のものをカバンから取り出す。焼け残ったスケッチブックだ。
「あらまあ、不思議な焼け方をしていること」
死の際で会った秋葉さんと祖母が持っていったのかもしれない。そんな誰もが夢だと一蹴するに違いない話を、彼女は「ちゃんと渡せてよかったじゃない」と、何でもないことのように受け入れた。
「嘘だとは思わないの?」
「私にだって、少しくらいの宗教観はあるのよ」
「そんなの初めて聞いた」
彼岸まで透けて見えそうなくらい澄んだ空に、二人の笑い声が響いた。
「でも、その秋葉って人の気持ちもわかるわ。一人って気楽で良いんだけど、たまに物足りなくなるのよね」
意外だった。常に一匹狼。自分の世界しか持たない彼女が。
「……宮子とは、ずっと友達でいるつもりよ」
「あら、うれしいこと言ってくれるのね」
「宮子といるの、楽しいから……」
私は、手のひらを軽く彼女の手の甲に乗せる。やれやれと、宮子は私の手をそっと包み、空いた手で頭をそっとなでてくれた。
*
彼岸も過ぎ、夏の空気も少しずつ薄れていく。ある日私は、あの彼岸花畑へと赴いていった。相変わらずの鮮やかな赤の中、一つだけ違う色がある。
一輪だけ咲いた白い彼岸花。歌うように風に揺れていた。