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薫る憂鬱

次話です。何でこんなタイトルにしたかまったく覚えてないですが、読んでいただけたら幸いです。

 短い春が終わり、朝の空気にも少しずつ夏の兆しが見えてきた。心なしか、スズメの鳴く声も元気になってきた気がする。それでも季節は春の冷たさを惜しむように冷えた空気が世界を包んでいた。人影はまったく見えない。一度誰かが起きると皆一斉に動き出すくせにどうしてこんなにも静かなんだろう。それはこの町だけだろうか。

 二日ぶりのジョギングで季節の変わり目を感じながら、俺は駅に続く一本道を軽快に走っていた。今日は少しいつもよりペースが早いんだろうか、時間の進み方が遅く感じる。

 時計を見ていた目線を正面に向ける、といつも通り駅の前に小さい人影を捉えた。遠目からでも分かるくらい長い髪を後ろでまとめている。家が目の前にあるからってわざわざ早起きするのも大変だろうに。俺は何も喋らずに西川に接近した。

 西川との距離が縮まっていくうちに西川の様子がいつもと違う事に気づいた。まずいつもはパジャマのような薄手の服に何かを羽織っていたのだが、今日はTシャツにブレーカー、シューズまでもが今俺が履いているようなランニングシューズを履いていて、いかにも「走ります!」 と言わんばかりに俺の悪い予感を後押しするように屈伸やらストレッチをして俺を待ち構えていた。

 ――まさかなぁ

 どうしようもできないまま、俺のすぐ目の前で西川が軽く頭を下げ「おはようございます」 と笑顔で挨拶していた。

 俺はゆっくりとスピードを落としてわずかに息を上げて西川に言った。

「お前……まさか走る気?」

「ハイッ!」

 無邪気に笑いながら西川は元気に言った。

「しかも……ついてくる気?」

「ハイ! あ、迷惑ですか……?」

「あぁ、いやそういう訳じゃなくて」

 やめとけと言うつもりだったのに西川の寂しそうな目を見たらつい許しを与えてしまうような言葉を口にしていた。

「いいんですか? よかったぁ~、もしかしたら断られるんじゃないかと思って冷や冷やしてたんです。よかった~」

「…………」

 おい自分、今ならまだひき返せるぞ。

 …………まぁ、いっか。

 俺はシューズの靴紐を結び直そうとしゃがむと、西川のシューズが目に入った。何年か前に発売したそのシューズはこぎれいで、あまり履かれた跡が見られなかった。いや、そんなことより……。

「靴紐長っ!」

「ハイ?」

 すっとぼけた声が投げかけられた。

 西川の両の足に履かれているシューズの靴紐は蝶々結びで作られて、四つの輪っかと余った紐は恐ろしいほど締め上げられ、そのすべてがアスファルトに触れていた。

「お前、それ痛くないのか?」

 俺は指差して言った。

「もとからサイズが少し大きいのもあるんですけど……ほら、きつく縛ると速く走れるっていうじゃないですか」

 俺は顔を上げず、交互に靴のつま先を上げる動作を見て聞いていた。

「あれ? しかもお前、二重にしてねぇじゃん」

「二重?」

「えぇと……走ってると紐ってのは段々弛んでくるんだよ。だから普通は俺みたいにまず一回結んだ後にもう一回結んで、こうやって靴紐で留めるか靴ん中に入れるんだよ」

 言いながら自分で実践してみせて右の靴を馴れた手つきで結び直し、余った部分を足の甲の上でクロスしている紐に差し込んだ。

「へぇ~」

 西川はしゃがみこんで膝を抱えてじっと俺の行動を観察していた。

「お前もそうしとけ。自分の靴紐でコケたいんなら話しは別だけど」

「……あ、ハイハ~イ」

 言われてやっと自分の靴紐に手をかける。やれやれ。

「出来ました隊長!」

「よし、じゃあ俺はいつものペースで走っから、もしついてこれなかったら無理しないでさっさと戻るんだぞ。分かったか?」

「分かりました! 死ぬ気でついていきます!」

 いや、だから無理はするなって。

「そしたら俺の後ろ勝手についてこい」

 返事を待たずに走り出す。西川は何か言った気がするが、すぐにパタパタと足音がついてきた。

 線路沿いには俺と西川以外誰もいなかった。それなりのペースで走る俺の足音に聞きなれない足音が続いている。走りを開始して約五分、まだ元気があり余ってるのか、息を弾ませながら西川が話しかけてきた。

「先生~、どこまで行くんですかぁ?」

「海まで」

 振り返らないで俺は短く答えた。

「海までって、どれくらい、あるんですか?」

 途切れ途切れに聞いてくる。

「三キロくらいかな」

「…………」

「無理すんなよ」

「い、いえっ! 大丈夫です」

「そう」

 心なしか後ろの足音が更に激しくなった気がしたが、俺は特に考えずいつものペースで走り続けた。

 そんな会話から約五分経過。

「……」

「ハァ……ハァ……」

 西川の呼吸音がはっきりと聞こえた。足音も一定のリズムを刻んでいた。

 更に五分経過、遠くに海が見えてきた。

「…………」

「……」

 いつのまにか後ろから聞こえてきていた足音がぱったりと止んでいた。どうしたのかと思い走りながら振り返ると、随分遠くに足を引きずって歩いている西川がいた。何百メートル離れているだろう、何分も前から歩いているようだった。

「……はぁ」

 しかたなくゆっくりとUターンをして来た道を戻る。西川は両手を腰に当てて顔も完全に地面を見ていて走り出そうともしない。まるで昔の俺を見ているようだった。

「つらかったら無理すんなって言ったろ」

 垂れている頭に向かって俺は言ってやった。よろめきながらも前に進む足は何とも危なっかしかった。

「ハハ……いけるかなぁ~って思っちゃいまして」

「その足でか」

 西川の足を見るとかすかに膝が笑っていた。

「お前、高校ん時何か部活やってたか?」

「恥ずかしながら帰宅部です……」

 だろうな。

「戻るぞ」

「え、でも……」

「うるさい。ここでお前放っておいて帰り道戻ってきてお前が倒れてたら寝覚めが悪い」

 強引に押し切って一人でもと来た道を歩き出す。

「どうしたんだよ」

 振り返りその場で立ち尽くしている西川に声をかけた。

「い、いえ、すぐ行きます」

 言いながら走るでもなく、かといって歩くでもなくそんな微妙な足取りで俺の横に追いついた。


「陽一さんは高校で陸上やってたんですか?」

 しばらく歩いているうちに大分元気になったのか、西川は足取りもしっかりして、いつものように俺に質問を浴びせ続けた。

「まぁな。最終的にはパッとしない成績で引退したんだけどそれなりに楽しかったな。そういやお前みたいなあつかましい後輩が居たな」

「……あたしってそんなにあつかましく見えます?」

「見える、すごく見える、どっからどう見てもそう」

「……うぅ」

「あぁ冗談冗談……半分な」

「駄目じゃないですかぁ」

 段々こいつのあしらい方が分かってきて俺も本来の自分を取り戻しつつあった。

「俺の友達でお前に会いたいって奴いるんだけどさ。そいつ、悟とも仲いいんだけど」

 俺は何となしに話をもちかけた。

「その人ってどんな人ですか? やっぱり面白い人なんですか?」

「面白いっていうか……特定の人物をどつく傾向があるな。それ以外はいたって普通の女だ」

「え? 女の人なんですか?」

「ん? あぁ、言ってなかったか。一応女だよ、生物学的に言えば」

「でも人殴ったりするんですよね?」

「それは悟が全部悪いからしゃあない」

「しかも悟さんがやられてるんですか!」

「何なら見てみるか? あいつら、会ったら一方的に殴られるから」

 まぁどちらがどっちなのかは言わずもがなだが。

「なんか……かわいそうですね」

「いや、相手が相手だから何とも。お前も見てたら慣れるよ」

 西川は「本当ですか?」 と首を傾げながらも納得し、俺達はいったん別れた。



 相も変わらず人の塊が右へ左へとうごめく札幌駅。休みの日までご苦労様、と言った所だろうか。

「……遅いですね、白石さん」

 西川は首をキョロキョロと回して人の波を見た。こいつは顔も知らない相手をどうやって見つけるというのだろう。

「電話してみっか」

 言いながら携帯を取りだし、電話帳の『暴力女』 (これを一生涯本人に見られない事を強く希望する) を表示させて発信ボタンを押す。数回のコールの後、

『はいもしもし、どしたの?』

 いつもの強気な口調でそいつはのうのうと電話に出た。

「どしたのじゃないだろ、遅刻常習犯。早く来い。今回は悟がいないから言い逃れは出来ないぞ」

『いやぁ、行こうと思えばすぐ行けるんだけどさ……』

「は? 何、どういう事?」

 全く意味が分からない。まだ来てないくせに行こうと思えばすぐ来れる?

『後ろ見てみ』

「?」

 言われた通りに振り返ってみた。人の波の脇に並んでいるベンチで冴子が手を振っている。俺はその姿を見るや否や即、電話を切った。むこうも携帯をしまったが、一向にこちらに来る気配がないなので、仕方なくこちらから歩み寄った。

「キサマ、何様のつもりだ」

「ハハハ~、ゴメン」

 そんな明るい笑顔で言われても誠意ってもんが伝わらないんですが……。

「いつからそこにいた?」

 そのくつろいでる様子だと随分前からいたと見える。

「ん~、十分くらい前」

「ほほぉ……で? 何してた?」

「陽一の隣の女の子見てた。遠目から見てたけど可愛いね」

「何で見てたの?」

「陽一を任せられる子かどうか観察」

 …………うん?

「日本語を喋ってください」

「ハハハ、冗談冗談。そんなに焦らなくていいって」

 何が面白いのか冴子はケタケタと笑う。つぐみと違って豪快に笑う奴だ。

「別に焦ってなんかないわ。アホか」

「出た、『アホか』」

「何?」

「本当に焦った時、陽一がよく使う言葉。覚えときな」

「……」

 知らなかった。俺って焦るとそんな事言うんだ。

「そういうわけだから、陽一がアホって言ったら焦ってる証拠だからね、葵ちゃん」

「え?」

 冴子は嬉しそうに、いつのまにか俺の肩越しにいた西川を見て言った。

「ハイ、分かりました、充分注意させていただきます。貴重な情報ありがとうございます白石さん」

 いつもの会心の笑顔で礼を述べる西川。本当、誰にでも礼儀正しい上にこんな人懐っこい笑い方するんだな……

「どうしたの陽一? 可愛い可愛い葵ちゃんの笑顔に見とれちゃって」

 ……悟みたいな事言い出すんだな。

「別に。違う事考えてた」

「あれ、焦ってない」

「そう簡単に使ってたまるか。それじゃあとりあえずご対面は終わったな。…………どうしましょうか?」

「え? 陽一何も決めてないの?」

「うん」

「うんって、アンタ……」

 この上なく呆れる冴子。

「いや、冴子が何とかしてくれるかなぁ~と思って」

「あたしがそんな積極的な女に見える?」

「アナタ今何テオッシャッタンデスカ?」

「ん?」

「いや、何でもないです」

 これ以上ないほどの攻撃的なキャラに見えるのは俺だけでしょうか……。

「そしたら葵ちゃんどっか行きたいトコある? お姉さんがどこへでも連れてっちゃうよ~」

「いえ、あたしは特に行きたい所は……悟さんといつも一緒に行動してるんですか?」

「まぁ、あたしは基本的に用事ってのは少ないからバイトの日以外は大抵悟とかと一緒だね。時々陽一がいたりいなかったりだけど」

「へぇ~、いつも悟さんと一緒……」

「あ、間違われるのもアレだから先に言っとくけどあたしと悟とはな~んにも無いからね。本当に何もないからね。皆いっつも勘違いして困るんだけど」

 必要以上に誇張を繰り返す冴子。実際に、そういう風に見ているやつらは多いが、そう見えてもしょうがないほどこいつと悟は一緒にいる。かく言う俺はと言えば一番二人を近くで見ているのでよく分かってるつもりだ。

「……あ」

「ん? 何?」

「噂をすれば……悟がいるぞ」

「え?」

 俺が指差す先を見る冴子。それに続いて西川。男一人女二人が雑踏の中探す友人の隣には……。

「女の人……ですかね?」

「どうみても女だろ」

「女しかありえないでしょ」

 それぞれ本人らしい感想を述べる。

 今は後ろ姿しか見えないが、さっき一瞬だけ見た女性の横顔は悟のお目がねに十分かなうに値していた。

「本当に陽一さんが言ってた通り色んな女の人と知り合いなんですね」

「この前なんかこれが俺の生きる証拠だ、みたいな事言ってたからな」

「でもああいう女はえてしてワガママで頭悪かったりするんだって」

 最後の言葉は嫉妬とも取れなくもないセリフだったが俺はあえて追求しなかった。理由? 聞いた後が恐いじゃん。

 俺達はどこからどう見てもカップルにしか見えない二人を見送った。悟が見えなくなった所で西川が、

「それで、これからどうするんですか?」

「お前は馬鹿か? 今のを見てめくるめく何かを感じなかったのか?」

「いえ、別に」

「ったくお前は……。いいか? 暇で彼氏彼女がいない人間が三人、そこに楽しくデートを満喫してる友人が俺達に気づかず素通り。これで条件満たしてんだろ」

「えっと……影ながら悟さんを応援する?」

「違ぁう! アイツを尾行したら何か面白い事があるかもしれないじゃねぇか! っていうか絶対ある!」

「そんな事したら怒りませんか?」

「悟だから何したって問題なし! あいつの人生はネタまみれ!」

「でもバレたら……」

「バレるかもしれないから面白いに決まってんだろう! これが分からなかったら人生の60%無駄にしてるぞ!」

「……冴子さんは賛成なんですか?」

「あたし? あたしは面白ければ何でもいいよ。っていうか、悟で面白い事が無いなんて事はないから」

「な? 多数決の原理により可決だ」

「…………」

「それに悟の生態を知るにはこれが一番だと思うよ」

 冴子が更に加勢してくれた。

「じゃあ、ちょっとだけですよ?」

「よし決定!」

「とりあえず注意事項ね、葵ちゃん。まず、

1) 目標物(今回は悟) には半径8m以内には接近しない。それ以上はレーダーに反応するから。

2) サングラス等の変装は極力控える。前回これやってばれたから」

「前回って……初めてじゃないですね?」

「もちろん。じゃ、続きね。

3) 目標の会話は全て記録する事。一番いいのは録音かな。

4) その際に他人の名称が出てきた場合その名前は必ず伏せる事。

5) もしバレたら葵ちゃんが『ゴメンね、たまたま通りかかっただけなんだけど……』 と涙目に上目遣いで懇願する事、の以上だから」

「最後のは何ですか最後のは!」

 珍しく西川が怒りの感情を込めて抗議する。

「いつもは冴子が逆ギレするっていうのがいつものパターンなんだけどさすがに何度も使うとあっちもそろそろ感づくかなぁ……と思って」

 俺は今までの探偵の真似事の記憶を振り返って言った。

「思ってじゃないですよ! 何ですか上目遣いで涙目って。一体どうやったらそんなのすぐにできるんですか!」

「葵ちゃん葵ちゃん」

「なんですか?」

「ハイ、目薬」

「…………」

 右手にしっかりと最後の砦が握られた。

「西川、お前の負けだ」

 西川の肩に手を置き小粋な笑顔で俺は言ってやった。

「葵ちゃんの迫真の演技を楽しみにしてるわ」

「……しかもバレるって事前提なんですね」

「成功確率35%! 難しいミッションだから心してかかれよ新入り!」

「じゃ、そろそろ尾行開始といきますかぁ」

 冴子が先頭を行き、その後ろに俺と西川が並んで歩くというフォーメーションで俺達は遠く離れた目標人物を追いかけた。


 尾行開始から約一時間半経過。公園のベンチにて。

「……陽一、気づいてる?」

「あぁ……」

 よく晴れ渡った大通り。俺達でなくてもこんな日はひなたぼっこでもしたいのか、若い男女が何組かベンチを占領してそれぞれの時間を楽しんでいた。

「あの、何がですか?」

 西川が手に持っているポップコーンを群がっている鳩やら雀やらにあげながら言った。

「今日の悟、一度も笑ってないんだよ」

「そうなんですか?」

 そう言うと西川は俺のオペラグラスを借りて遠くのベンチに座っている悟と女性を見た。この距離ではさすがに俺は表情は見えないが、大体雰囲気で分かる。そして、今までの経験からこれだけは言える。

「アイツ、相当つまらなそうだな」

「そうみたいですね~、ずっと相手の顔も見ないで地面ばっかり見て何か考えてるみたいですけど……女の人はずっと喋ってるのに生返事ばっかりしてるみたいですし」

 西川の言う通り、悟が女性に乗り移ったかのように相手の女は悟に向かって何かを話している。あまりにも大きな声だったので尾行してる時にはこっちまで聞こえてきたほどだ。

 冴子の顔を見ると冴子は不思議な表情をしていた。何かハッキリしない、憂いとか、ちょっと怒ってるようだったり、そういうものが入り混じっている、そんな印象を受けた。と、

「あたし、行ってくる」

「は?」 「え?」

 俺と西川、揃って冴子の言動の意味を問いた。

「だから、今から悟の所行ってくるの」

「いやいやちょっと待て。尾行がバレるバレないの問題以前にこれは悟の問題だろ? 俺達が口出しするような事じゃないだろ」

 俺は他人事に首を突っ込むのが好きな性分だが、そこまでお節介ではない。むしろいつもの冴子らしくない、冷静さに欠けた発言に俺は疑問を持った。俺がいつも冴子が言う正論をかざすと、

「それでも行くの」

「いや、だから……」

「行くの!」

 冴子の声に驚き鳥達が一斉に羽ばたいていった。冴子の目からはさっきの平坦な感情は消え、瞳には静かな怒りが見えた気がした。

「……行ってどうするんですか?」

 おずおずと冴子をこれ以上逆上させないよう西川が聞いた。

「……連れて帰る」

 この言葉は、俺が今まで聞いてきた冴子の言葉の中で最も理不尽な言葉として俺の心に刻まれた。

「行くんなら俺も行くぞ」

 そして、俺もまたそんな理不尽な事を口走っていた。

「…………」

 これには冴子も驚いたのか、一瞬だけいつもの冴子に戻った。

「……一人で行かせたら後で悟がどうなるか分かったもんじゃねぇからな」

 冗談混じりで弁解。

「……分かった、二人で行こう。じゃあ葵ちゃん、ちょっとの間一人になるけど待っててね。すぐ戻ってくるから。陽一、行こう」

「おぅ」

 立ち上がり一直線に悟の元へと向かう。振り返り西川の様子を窺うと、呆然として手の中のポップコーンをこぼしていた。

「別に一人でもよかったのに……」

 独り言のように冴子が言った。

「……さっきも言っただろ。何かあったら後で愚痴聞かされるのは俺なんだぞ」

「でも本当は? 他に理由あるんでしょ?」

 冴子の声がいつもの勝気な口調に戻った。まっすぐ、落ち着いた声に。

「……修羅場を間近で傍観してみたいだけだ」

 ハハハ、と俺の冗談にためらいなく笑う。これなら余程の事がない限り大丈夫だろう。もうこいつはいつもの冴子に戻ってる。でも一応念のために。

「頼むから、取っ組み合いとかにはならないでくれよ」

「誰もそんな事しないって。悟連れてくるだけなんだから」

 話しているうちに大分悟との距離が縮まっていた。悟はずっと地面に目を向けていて一向に俺達に気づかない。本当、こんな悟は初めてだ。演技でやっているようにも見えない。もとより、女の前でわざとこんな印象を悪くするような事をする奴でもない。

 ショートカットの女は俺達に気づき、口を開くのを止めて怪訝な視線を送った。

「……なんですか? アナタ方」

 ショートの女は俺達、もとい冴子に向かって言った。あちらは敵意むき出しのようだ。悟はそれでもこちらに反応しようともしない。

「悟」

 当の冴子は女など視界にも入れないで隣でうなだれている男の名を呼んだ。悟は電源が入ったように動き出し、顔を見上げて冴子を見ていた。まるで、今やっと起きたような目をしていた。

「……悟君の友達?」

 女は悟に問いただした。その声には明らかな不機嫌な色が含まれていた。

「まぁそんなトコ。そういう訳で悟、行くよ」

「……え」

 悟も訳がわからず気の抜けた声を漏らした。

「ほら、どうしたの。立ちな、木偶の坊」

「ちょっと、いきなり来て何言い出してんの? アンタ」

 女は立ち上がり悟と冴子の間に割って入り冴子と対峙した。二人の間に長い時間をかけて激情と冷静さが交錯する。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「やめなよ、マイちゃん」

 驚く事に、その沈黙を破ったのは他でもない悟だった。静かに立ち上がり、優しさ、というよりは哀れみを含んだ眼でマイと呼んだ彼女を見下ろした。

「え……な、何で?」

 訳が分からないと言った風に悟を見る。

「……俺、コイツらと一緒に行くから」

「だから何で! 今あたし達……」

「それと、もう君とは会わない」

「…………」

 マイの目が一気に暗くなっていくのが傍観者の俺でも分かった。余程ショックだったのだろう。でも俺も十分ショックだった。さっきの冴子の発言以上に驚いた。

 ――あの悟が、女を捨てた? とても考えられない。

「え…………な、何で?」

 マイと呼ばれた彼女は必死にすがるような目で訴えてきた。その問いは悟のどちらの言葉に対してのものだろうか。前者なのか、後者なのか。きっと、両方なんだろう。

「マイちゃん、君ってさ……」

 最初は目を見て言っていた悟が耐え切れなくなったのか目線を落とした。

「……可愛いよね……でもさ……」

 一つ一つの言葉をためらいがちに吐き出していく。

「可愛いけど……それだけだよね」

 俺の視点からは悟の表情は読み取れなかった。でも握られて震えていた右の拳だけは見えた。

「…………」

 可愛いだけの女はしばらく悟の奥の虚空を見つめていたが、

「…………っ!」

 右目から涙が流れたのをきっかけに、うなだれていた悟の頬に平手打ちをすると女は手を口に当てて去っていった。

「…………」

「…………」

「…………」

 嵐が過ぎ去り、静かな沈黙が流れる。決して居心地がいいようなもんじゃない。こういう時はどうすればいいんだ?

 と、冴子が悟に歩み寄り、ゆっくりと……

「……ぅっ!」

「悟! いくら何でもあんな追い払い方しなくてもいいでしょうが! あんな事言われたら誰だってその横っ面ひっぱたきたくなるわよ!」

 えぇと……貴方の場合は正拳突きなのですか?

「いや……でも本当にそうだったから」

「男ならむしろどんな女もモノにできるくらいの詐欺師になりなさい!」

「白石、お前、言ってる事が全然ちが……」

「あたしの言う事に間違いなんて一つもな~い!」

「あぁ分かった分かった。その拳を納めろ、冴子」

 俺の羽交い締めの中で暴れる冴子をなだめる。

「おぅ悟。悪いないきなり出てきたりして。何なら今からメシでも食いに行こうぜ。西川も一緒だぞ」

 収まらない冴子を抑えながら悟に話しかけた。

「何っ! マジで? どこ! 葵ちゃんどこ!」

 やっといつものテンションに戻ってくれた。

「今ちょっと待ってもらってる」

「どこで待ってんの! 行く! 今すぐ行く!」

「……とりあえず、今日一日で俺の中のお前達のイメージが少なからず変わったよ」

「え? 何言ってんの?」

「別に俺達普通だぞ。なぁ?」

「ねぇ」

「…………」

 何だかなぁ……

「じゃあ行こっか。悟、葵ちゃんの前で変な事を口走らないでよ」

「どうせいつも変な事言ってるから自覚無いって」

「失敬な。俺の言う事を変だ変だと見なしているお前達が変じゃないのか」

 いつのまにかいつもと変わらないくだらない会話。その中にいつもとは少し違った風に感じられた。西川と会ってから何もかもが変化しているような気がする。

 ふと、得体の知れない不安がこの身を襲った。心臓が不安定なリズムを刻む。しかしそれもほんの一瞬、わずかな時間だった。

 頭の中が明瞭になった時、俺は今の不安の原因が分かった気がした。

 ――――俺は悟や冴子の一部分しか理解してなかったんだなぁ

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