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緊急事態発生

お久しぶりに投稿です。生暖かい目で読んでいただけたら幸いです。

 作家、佐倉踏冠もとい千葉陽一、ちょっとしたノイローゼです。原因はいたって単純、ストーカーされてます。

 始まったのは二週間ぐらい前だったかな。朝乗った電車に西川が乗ってた事から始まった。時々会うなら不思議ともなんとも思わなかった。でも待ち合わせもしてないのにそれから毎日のように会えば疑問を抱くのも無理はないんじゃないだろうか。時間帯まで変えてるというのに。

 通学方法をバイクに変えてもそれは終わらなかった。朝のジョグにも現れたときはさすがに背筋が凍えた。ストーカーという存在としか思えなかった。でも決して俺に迷惑をかけてるわけじゃない(居るだけで精神的被害を受けてる気が……)。会うたびにそれなりに西川と話すのだが、その時に悪意は全く感じ取れなかった。無意識にやっているならそれはそれでたちが悪いと考えていたこの前、ある人物の名が出てきた。

「というわけでつぐみ。知ってる事全部話してもらおうか」

 いつものように人の波が行き交う大通りを歩きながらつぐみに問いただす。今日は原稿の締切りで本来ならまだ日にちはあるのだが創刊十周年か何かで早めに提出しなければいけないらしいのだ。

「へ、へぇ~。葵さん、そんな事言ってたんだ?」

「あぁ。何でこんな所にいるんだ? って聞いたら、お前に教えてもらったから冗談半分で来てみました、ってな。朝ジョグしてるときに会った日も晩飯の買い出しに行ってスーパーで会った日も漫画の発売日にコンビニで立ち読みしてるときに会った日もな」

「…………」

 あからさまに顔を背けてあさっての方向を向いている。

「お前はアイツに何をさせたいんだ?」

「や、確かに連絡は毎日のように取り合ってたよ? それで『陽一さんの事もっと知りた~い!』 って言ってたからあたしが知ってる事の全てを」

「教えたのか」

「……スイマセン」

 俺の隣から一瞬前に出て振り返ると同時に頭を下げる。やっぱり犯人は別にいたか。今考えるとあんな天然キャラが悪事を働けるわけがないな。

 つぐみに合わせて俺も立ち止まり目の前の罪人を見下ろす。損害賠償を請求したいくらいだ。

「判決を下す。被告人朝比奈つぐみを」

 つぐみは黙って頭を下げたまま判決を待つ。表情が読み取れない俺は言葉を続けた。

「……被告人を手刀一発の刑に処する」

 言い終わると同時に右手を振り上げそれを一気に振り下ろす。

「あてっ」

 間の抜けた悲鳴を上げる被告人。

「処刑終了、さっさと行くぞ」

 つぐみの横を通り過ぎながら俺の心はどこか安心してるのが分かった。精神的に楽になったのもあるが、何より人を疑うっていうことをしなくてすむのが嬉しかった。

 でも西川の奴、俺の事知りたいって言ってたって……や、まぁあれだよ。そういうのじゃなくてただ俺のファンって理由で俺の身の回りのことを知りたがってるだけであって。それにやっぱりあんなに整った顔してたら周りの男が放っとかないだろ。彼氏の一人や二人や三人四人五人……そんなにいたらさすがにまずいな、一人くらいいるだろ。

 何こんなに必死になって一人で否定してるんだろ。

「陽一! 後ろ危ない!」

 背後からつぐみの切羽詰った声が聞こえた。

「あ? 一体どうし……どわぁぁぁ!」

 振りかえるやいなや視界一杯に映る誰かの靴の裏。男物なのは分かったが誰なのかは皆目見当もつかなかった。しかし、靴の主と思われる雄叫びで誰なのか一発で分かった。

「陽一ィ! 貴様はなんという事をしてくれたんだぁぁぁぁぁぁぁ!」

 悟か! モロに蹴りを喰らい、視点がいきなり地面の高さと等しくなる。顔面に蹴りは初めてだ。アスファルトに後頭部強打でメチャクチャ頭痛ぇ。おまけに背中も打って息できない……。

「大丈夫、陽一? ちょっとアンタ、いきなり何すんの!」

 駆け寄ってきたつぐみが怒鳴り散らす。俺のために怒ってくれるってのも悪くはないもんだな。でもこれ見て誤解させたままってのも人間的に駄目だな。

「つぐみ、そいつ俺の知り合い……」

「ぬおぉぉぉぉ! 俺は、俺はただ本能に従い男に虐げられている一人の女性を救おうとしただけなのに! 何故! 何故だっ! 何故俺が咎められるのだぁぁぁぁぁぁ!」

 狂ったように叫ぶ機智外。女の罵声を浴びただけでここまで錯乱できる男がこの男以外に居るだろうか。機智外の錯乱ぶりはさらに激しくなる。

「この岩代悟、二十年間生きてきてこれ以上の醜態を世の女性に見せた事がありましょうか! 否、あるはずがありません! 助けた女性に嫌悪されるとは何たる理不尽! それほどあの男の方がいいというのでしょうか! あぁ神よ! あなたは不公平だ!」

 言葉遣いが劇調になってしまってもはやイっちゃってる人にしか見えない。

「ねぇ、陽一の知り合い?」

「そうだけど……今は違うかもしんない」

 事情を説明したくても話しかけたくない雰囲気の中、道の向こうから腕力以外は一般人の親友がやってきた。

「あれ? 知らない女のコ連れて何してんの?」

「冴子、それは後で話すから。まずはそこの機智外止めてくれ。止められるのはお前しかいない」

「え? あぁ悟? こいつ一緒に歩いてたらいきなり『前方にレーダー反応あり! 速やかに突撃します!』 とか言って特攻していったんだけど……陽一ん所行ったのか」

「細かくはこっちの所だけどな」

 隣でまごついているつぐみを指差す。

「お、これはまた可愛い……でもそれ故にご愁傷様」

 つぐみの肩に手を置き悟りを開いたかのようにつぶやく冴子。

「あのぅ……どういう事ですか?」

 いまいち流れに乗っていけないようで動揺している。

「簡単に言うとあの機智外は俺の友達でちょっとした勘違いで俺にドロップキックをかましてくれたっていう話だ」

 手短に結論を述べてやった。

「あ、そうだ! ねぇ大丈夫? 怪我してない?」

「いや、多少手ぇすりむいたぐらいだから問題ナシ」

 後頭部を手でさすってみたが血は出てないようだった。

「本当? 本当に大丈夫? 病院行かなくていい?」

 今更俺の体を心配するつぐみ。というか異常に反応しすぎじゃないか?

「こんなの日常茶飯事だから気にすんな」

 よく考えてみればつぐみとは口ばっかりで取っ組み合いや殴り合いっていうのはした事ないからな。俺が一方的にポコポコ軽く叩いたりする事はあるけど。こういうのに慣れてないのかな。

「陽一、この可愛い子彼女?」

『……はぁぁ?』

 冴子の問いに思いっっっっきり否定を込めた返事を揃って返してやった。

「あれ、違うの?」

『違う!』

「じゃあ一体どんな関係でいらっしゃるのかこの悟君に教えていただきましょうか陽一君!さぁ! さぁ! さぁさぁさぁさぁ!」

「悟、あんたうるさい」

 伝説の裏拳が放たれた。

「ふぐっ……!」

 短い悲鳴を残して機智外はその場に倒れた。

「…………」

 いつもながら思うが悟に対して容赦ないな、お前は。つぐみ絶句してるぞ。

「で? 本当のところはどうなの?」

 冴子は言った。

「ん、とだな……」

「あ、それはですね、陽一先生とは一年前からあたしの家で勉強教えてもらってるんですよ。先生実は教えるのスゴク上手なんですよ」

 こら、てめ先に話作るな。っていうかフォローするな、俺が情けないだろ。

「あぁ~、中学の時あたしも何度か聞いた事あってあたしもそう思ったよ。話上手っていうか話をでっち上げるのが上手っていうか」

「……いや、それは誉めてるのか? 喜んでいい気がしないんだが」

「ん? 誉めてる誉めてる。で、家庭教師ってことは高校生? なんて名前?」

「朝比奈つぐみっていいます。一応受験生です」

「あたし白石冴子。陽一とは小さい頃からの仲でね」

「えぇ~! そうなんですか。じゃあいわゆる幼馴染ってやつですか」

「そんないいもんじゃないけどね。にしてもつぐみちゃん可愛いね」

「そんな~、冴子さんだって負けてませんってば~」

 そこは本当にそう思ってても否定しとけよ。

「まぁね~。まぁ可愛いのジャンルが違うかな、あたしとつぐみちゃんじゃ」

「……お前もですか」

 女が一人増えるだけでこんなにツッコむ気が失せるもんなのか。

「いいやっ! つぐみちゃんの方が可愛いっ!」

 おっ、機智外復活した。しかも人の話聞いてたし。

「高三という若い年齢に加えてそのルックス! スタイル! オシャレにも気を遣っていて言うことなし! 時代は今や十代少女! ビバ! 制服王国日本!」

 でもやっぱりまだ壊れてた。しかも今つぐみ制服じゃないし。

「あ、あの悟さん。さっきは私の勘違いで失礼しました」

「いやいや、時には卑下されるのも紳士の務め。それに陽一がいなければ俺はただの暴走野郎で終わってつぐみちゃんとも知り合えなかったわけだし。意外と役に立つもんだな、お前も」

 俺の肩に手を置いて「グッジョブ!」 ともう片方の手で親指を立てる。

「あの冴子さん。冴子さんって……悟さんと付き合ってるんですか?」

『なっ……』

 現役女子高生の発言により俺含め二十歳三人組が固まる。コイツ、俺でさえ聞こうとしても聞けない事を初対面で聞き出すか。

「そ、そんなわけないでしょ、つぐみちゃん。こんなただ背が高くて女の子見たらフラ~ッって後ついていっちゃうようなエセフェミニストになんであたしが付き合わなくちゃいけないの!」

「白石! お前そこまで言うか! 俺だってなぁ、こんな言うことキツくてすぐ暴力振りかざすようなちょっと高校の時モテて調子に乗ってるような奴なんか……」

「ちょっと! 高校のときは関係無いでしょ! 昔の話出さないでよ!」

 珍しく悟の言葉にムキになり顔を赤くする冴子。

「本当の事だろうが! あんなのはなぁ、お前の生徒会長っていう肩書きと言う名のブランドに皆騙されてたんだよ!」

「へぇ~お前生徒会長なんかやってたのか」

 初耳だった。確かに存在感というかリーダーシップみたいのは持ち合わせてる気はする。こいつならあごでこき使われても暴力でねじ伏せられ……とにかく意外だった。中学まではそういう目立ったことは嫌いだったはずだ。

「あれ、言ってなかったっけ? ……じゃなくて悟! アレ忘れたの?」

「あ、悪い……」

 急に大人しくなり、しおらしく謝る。……『アレ?』

「スイマセン、なんか聞いちゃいけなかったみたいで……」

「あ、全然気にしなくていいよつぐみちゃん。そうだ悟、今日こそ買物付き合ってもらうからね。途中で逃げようったって逃がさないからね」

「な……お前、逃げ切れたのか?」

「いや、試着のスキを狙って逃げたんだが、その後女性の悲鳴を聞いて速攻で駆けつけたらそこに白石が……囮捜査とは実に効果的だとこの身を以って実感したよ」

 お前にしか使えないけどな。

「そういうわけであたしらもう行くね。そうそう、悟から聞いた可愛い子、今度会わせてよ」

「悟、お前冴子にまで教えたんか」

「別に誰にも言うなとは言われなかったから」

「まぁそうだけどさ……覚えてたらいつの日かな。じゃ俺らも急ぐから」

「おぅ。つぐみちゃん、襲われないように気をつけてね」

 咄嗟につぐみの手を取り真面目な顔で言う悟。

「お前が言っても説得力が無いんだがな……」

「ははは、大丈夫ですよ。この人にそんな度胸ありませんから」

 なっ……行為自体はともかく俺だってやる時はやる、

「あぁ、まぁね。陽一昔からそういうのは疎いから」

 ……冴子、お前もか。

「俺もコイツに限ってそんな大それた事しすぎたな。じゃ、今度こそじゃあね」

 ……もぉいいです。


「おはようございま~す!」

「……おはようございます」

 いつもの締切り前より更に激しい慌ただしさにの中、つぐみと俺(?) は元気よく挨拶した。

「佐倉先生どうも。……元気ないようですけど大丈夫ですか?」

「いえ……根性無しなんで気にしなくていいですよ……あの、秋山さんって今どこですかね?」

 目線を床に落としため息をつく。

「編集長ですか? 今外に出ててるんでチェックは川島にやらせるんで渡しといてください。いつもの場所にいると思うんで」

「ハイ……分かりました」

 デスクの波に弄ばれるように川島さんのいるデスクに向かう。川島さんはいつも通り今月のスケジュールと会議の管理が書かれているシステム手帳に顔をうずめて睨めっこしていた。

「川島さんおはようございます! 今日も忙しそうですね」

 俺の気も知らずに明るさ全開で笑顔をふりまく。

「あ、朝比奈先生。佐倉先生……どっか具合悪いんですか? 元気ないですけど」

「……そのセリフ、そっくりそのままお返しします」

 川島さんの目にはうっすらとくまのあとがあり、目も充血していてとても健康体とは言いがたかった。

「ははは…………忙しくって皆ごった返しててミスは出るわ連絡は行き届いてないわで収拾つかないんですよ」

 空笑いもその風貌で言われると切羽詰ってる感じがひしひしと伝わってくるんですけど。

「原稿ですよね? 編集長の事は他から聞いてます?」

「はい。それじゃあそういうわけで忙しい中すいません」

 言いながら封筒を手渡す。

「これも仕事なんだからやりますよ。三十分くらいしたら打ち合わせするんで待っててもらえますか?」

 それじゃあ応接室で待っています、と伝えて川島さんといったん別れ応接室に入ったとたん、一気につぐみは静かになった。向かい合わせで座り無言の沈黙が流れた。

「……」

「…………」

 ……気まずい。なんだ、この不自然な沈黙は。前にいる人妙におっかない顔してるし。さっきまでヘラヘラ笑ってたのにこのギャップはどうしたんだ? 何で怒ってるんだ?

「ねぇ」

「はいぃ?」

 うわずった返事になってしまった。

「……いいや。なんでもない」

 顔を見るとやはり表情が読めない顔でゆるやかに髪を左右に振っていた。

「おいおい気になるな。そういうのは言う前に考えてから喋ってくれ」

 多少もどかしい気もしたが沈黙が破れたことに少し安心した。

「ん、ゴメン……」

「……」

 ってそれだけかよ。もっといつも通り反抗するなりくだらない話でもしてみるとかあるだろうが。俺は独りで居るとき以外の沈黙ってのが大嫌いなんだよ。

「別に謝ることはないけどさ……」

 しかも俺もこういうときに限って特に何の話題も思いつけないまま口を紡ぐ。再び沈黙が流れる。

「あ~」

 話題もないままとりあえず音だけを発する。何か、何かないか!

 助け舟は意外なところからやってきた。ドアをノックするとすかさず入ってきた川島さんが大声で、

「佐倉先生!」

 と叫んだのだった。本当は小さい声だったのかもしれないが、あまりにも突然なことにつぐみも目を丸くして驚いていた。

「……どうしたんですか? いきなり」

「そんな落ち着いてる場合じゃないですって! いったいこれどうしたんですか?」

 早口でまくし立て、右手に持っている封筒を俺につきつけた。

「どうしたって……いつも通り枚数通りに納めて書いてますけど」

 毎月載せる分には大体雑誌のページで四、五枚分の量を載せてもらっている。挿絵のスペースもあるが、平均して原稿用紙三十枚ほどだろうか。

「朝比奈先生から何か聞いてなかったんですか? 原稿の事で」

 身振り手振りをつけて川島さんは言った。

「いえ、特に何も。おい、つぐみお前何か聞いて……ってどうした? 顔色悪いぞ」

 口を「あっ」 の形にとどめたまま凍りついている。単純に嫌な予感がする。

「もしかして……朝比奈先生も忘れたんですか?」

 おそるおそる川島さんがつぐみに聞いた。つぐみは声にならないのか壊れたおもちゃのように一度だけ大きく頷いた。

「はぁ……二人とも今日は大変ですよ」

「え? 何? どういう事?」

 俺は当事者のはずなのに全く置いていかれている自分に焦っていた。そのうえ先が読めない予感が怖かった。

「あのね、陽一。今日は創刊だっていうのは知ってるよね?」

 つぐみが子供を諭すような口調で俺に説明しだした。

「あぁ、だからこうやって来たんだろうが」

「それでね、今月あたし達の枠が二倍に割り当てられてるんだよね」

「あぁそれじゃあまだ半分しか終わってないな……何ぃっ?二倍?」

「まぁ他の人達も似たようなもんなんだけど。あぁ~忘れてた~、陽一があん時トランプなんかで遊んでなけりゃちゃんと連絡してたのに~」

「トランプって……あの時か」

 偉業寸前で挫折したピラミッドの山を思い出した。っていうか原稿二倍って……。

「どうしますか?二人とも」

「どうするって言われても……」

「ねぇ、あそこ行くしかないんじゃない?」

 互いに顔を見合わせて相談する。

「やっぱり?」

 俺嫌いなんだよなぁ。仕事やりたくてもすぐ眠くなるし。

「しょうがないか。川島さん、『カンヅメ室』 二部屋空いてます?」

「ちょっと待ってください……今一部屋しか空いてませんね。どうします?」

「だって、どうする?」

「別に二人一緒でもいいしょ。お互い見張れるし机だって二つあったでしょ?」

「そうだな。じゃあそこ使わせてください」


 カンヅメ室――――そこは締切りに追われた人が下界から隔離され、五感のあらゆる感覚を麻痺させてくれる場所だ。白い壁にはとってつけられた小さい窓が一つ、部屋の広さは一人では少し広く、二人だと少し窮屈と感じるという中途半端な広さだ。時には何日間もこの部屋に住むこともあるのでそんな人のためにわざわざ布団と毛布が常備されている。しかも、和式の置き机と普段使うデスクも配備されている。

 部屋に入ると中の空気は太陽の光で少しこもっていてむせ返るようだった。靴を脱ぎ、荷物を降ろして振り返りつぐみと向き合うと、

「どっちがいい?」

 と、あごで二つの机を指して選ばせた。

「こっち」

 俺の横を通り過ぎて畳に置かれた机の上に学生鞄を置いて画材やらを取り出す。中から見たことも無い形のペンが何本も出てきた。俺も鞄から原稿用紙を予定より多めに取り、机の上に置いた。

 ……一日にこんなに書かなきゃいけないのか? 確か一枚四百字だったからそれが三十枚で……一万二千? いちまんにせん? 壱萬弐千?

「やるしかないか」

 ため息をつき、覚悟を決めてゆっくりと椅子に腰を下ろす。なぁに書くのが一ヶ月早まっただけのこと。それに俺にはとっておきの秘密兵器が……。

「言っとくけど」

「え?」

「一文一文短く書いて連続改行しようなんて小学校レベルなことしないでよ」

「……ハイ」

 読まれてた。

「お前こそ、適当な絵で読者をごまかすような事はしてくれるなよ」

 精一杯の皮肉だった。

「大丈夫。あたし、陽一とは違って仕事にプライドってもんがあるから」

「まるで俺にプライドが無いような言い方をするな」

 人に自慢するほどあるとは自分でも思ってはいないが。

「そろそろ真面目にやろっか。時間そんなにないし」

「何時まで?」

 部屋に時計がないので携帯をポケットから取り出す。時間はデジタルで三時を示していた。

「確かねぇ、川島さんが十時までお願いって」

 すでにつぐみは机と向き合ってさらさらと下書きのようなものを描き始めていた。

「十時って……微妙っ」

 七時間弱で三十枚を書き上げろってことだろ。という事は原稿一枚につき……

「だぁっ! 計算めんどい!」

 髪をかきむしり万年筆を手に持ち書き殴るように原稿用紙を右から順に埋めていく。こうなったらとにかく書かなきゃいけないんだろ。なかばヤケクソだった。それからの俺達はまともに会話を交わさなかった。所々の会話をダイジェストでお楽しみ下さい。


 午後四時二十五分。現在進行度三十枚中八枚。

「……つぐみ」

「ん?」

 俺は背もたれに肘をかけて振り返り、うつむいている相棒を見下ろした。つぐみの周りには失敗作と思われる描きかけの絵が数枚散らばっていた。

「何ぃ?」

 顔は下を向いたままでよく分からないが、不機嫌であるのは容易に理解できた。

「悪いけど辞書取ってくんない?」

 つぐみは横に並んでいる国語辞書をろくに見ずに適当につかみ、俺の声を頼りに放り投げた。

「ありがと」

「ん」


 午後六時四十分前後。進行度三十枚中十三枚。

「陽一」

「何?」

 今度は俺が顔を上げずにつぐみの声に反応した。

「飲み物買ってくるけど何飲む?」

「おぉ、じゃあミルクティー」

 返事をする一方で、右手は休みなく目の前の原稿の上で踊っていた。

「温かいの?」

「おぉ頼むわ」

 ほどなくしてドアの開く音がしてパタパタと小走りな足音が聞こえた。


 五分後。進行度、同じく十三枚。

「ハイ」

 つぐみが静かな音を立てて俺の視界の端に缶の紅茶を置いてくれた。

「ありがと」

「ん」

 栓に指をかけてぺシッと音を鳴らし缶を開ける。紅茶を少し口に入れると頭の中が大分はっきりしてきた。

「お前あとどれぐらい……ってうわ」

 約二時間ぶりに振り返った光景は二時間前の五倍ほど(当社比) 無惨だった。

 つまり、メチャクチャきたなかった。

「二枚できてあと一枚だよ」

 散らかした本人はいたって平気で紙の海を器用に渡り歩いて最初に座っていた場所に腰を落ち着けた。

「そっちは?」

 レモンティーを飲み、手の届く範囲で周りを片付ける。

「あぁ~、あと半分くらいかな」

「そ、頑張れ」

「……あぁ」


 午後八時きっかり。進行度、三十枚中十四枚。

 一枚しか進んでねぇよ……飲み干した空き缶を左手でもてあそびながら真っ白な原稿用紙を睨みつけた。もう書くことねぇって、マジで。ため息をつき万年筆を放り投げる。一緒に顔も天井を見上げギブアップ寸前だった。顔を照らす蛍光灯の明かりがうっとうしい。

「終わっ、た~!」

 俺の憂鬱をよそににっくき相棒は解放感からか歓喜の声を上げていた。

「じゃああたし先に川島さんとこ行ってチェックもらいに行ってくるから~」

 俺の返事を待たずに軽やかな足取りで部屋を出ていくつぐみを羨望の目で見送った。

 ……いいなぁ。って羨ましがってる暇あったらさっさと続き……書けたら誰も苦労しないって。どうすんべ。


 二十分後。進行度、依然として十四枚。つぐみが戻ってきた。

「一発OK~! やっぱり妥協のしない仕事っていうのは非の打ち所なんかあるわけないって感じだよね~、ってあれぇ? 佐倉先生どうしたんですか? 全然進んでないじゃないですか。どうしたんですか? 仕事仲間が可愛すぎるからってあんまり見とれてちゃプロとして失格ですよ。いち、に、さん…………半分もいってないじゃないですか~。たかだか三十枚ですよ、頑張ってくださいよ~」

 高校生に戻った気楽な声が背中の後ろからけたたましく聞こえる。こうやって敬語を使われて初めて気づく。こいつに敬語を使われるとこの上なく腹が立つ。思わず筆を握る手に力が入りわなわなと震えた。

「さてと。片付けるものは片付けて、と。あとは帰るだけなんだけど……あれぇ~? どうしたんだろうなぁ? まだ机の前で唸ってる人がここに一人……実力がないって大変だなぁ~」

「だぁ~うるさいっ! 終わったんならさっさと帰ればいいべや! えぇそうですよ。所詮俺は一日にたった三十枚の原稿すら上げる事のできない筆の遅いしょぼい作家ですよ! 笑いたきゃ笑えよ!」

「や、笑う暇あったらさっさと書いて」

「……ハイ」

 なんだよちくしょう。もとはと言えばお前があん時に連絡忘れてたせいで……でも原因はある意味俺だったんだよな。

「……っしょと」

「……何のマネだ」

「ん?」

 顔を真横に向けるとつぐみが隣に椅子を並べて俺が書き上げた分の原稿に目を通していた。帰るんじゃなかったのか?

「や、気にしなくていいよ」

「そう言われましても」

 なぜか敬語を使ってしまった。書いてるときに隣に誰かがいるってのはものすごく気が散る。

「早く帰れや」

 面と向かって言わずに、原稿に向かって言葉を吐いた。正直イライラする。

「……」

 返事は無かった。俺の事を無視したのか熱心に読んでるのか、どちらにせよどちらも相手の顔を見ていないので分からなかった。仕方なく俺も返事を待つのをあきらめて目の前の仕事にできるだけ集中しようとした。しかし、

「……くくっ」

 しばらくしてつぐみが笑いとも嘲りともとれる言葉を漏らす。

「何だよ」

 たまらず筆を止めて聞いた。

「何でも無い」

 笑いをこらえるように喋りながら首を横に振った。

「……」

 気になる。下手に批判されてないだけに気になる。でもこれ以上聞くのも怖いので何も聞かなかった。俺は再び仕事に手をつけた。

「…………」

「…………」

「ほぉほぉ」

「……何?」

「別に。ちゃっちゃと続き書いてよ」

 さっきと似たような会話を交わす。俺はもう一度集中しようと机に向かった。

「…………」

「…………」

「・・………………」

「……えぇ~」

「あぁ~何なんだお前はっ!」

 怒りが頂点に達し、握った左手で思いっきり机を叩いた。予想以上に大きな音が出て驚いたが今は怒りが先行していて表情には出なかった。

「……ゴメン」

 今まで聞いたことのない程の低い調子でポツリと呟く。

「…………」

 俺は何も言わなかった。何も言えなかった。怒鳴った反面それをすぐに許すのもどうかと思うのもあったが、何よりかける言葉が見つからなかった。

「……ゴメン」

 もう一度、さっきの半分以下の音量でつぐみが謝った。

「……読むんなら、そっちで読んでくれ。気が散る」

 今の俺にはこんな配慮に欠けた、しかも不機嫌としか取れないような口調でしか話しかけれなかった。

 つぐみは黙って原稿を机の上にそっと置くと、何も言わずに静かに席を外した。気づかれないようにつぐみの後ろ姿を盗み見た。つぐみは足音も立てずに、まるで幽霊のように畳の机の前に座った。そして、やはり静かに机に突っ伏した。心なしか、小さな背中は気づかないくらい小刻みに震えてる気がした。

 罪悪感をこの身に感じながらも俺は机に向き直った。万年筆を手に取った右手は少しの間動く事を許さなかったが、今の気持ちを振り払うかのように一心不乱に原稿に文字を書き連ねていった。


 午後九時四十分前後。進行度三十枚中三十枚。達成感はあるが気分は晴れない。

 原稿を提出された川島さんも雰囲気で俺の様子を悟ったのか、「おつかれさまでした」 とだけ言い、すぐにまた仕事に戻って行った。俺達作家が書いた原稿をすぐに編集するのは並の作業ではないだろう。本当に大変なのは作家より編集する人なんだなと改めて理解した。

 荷物を取りに部屋に戻る足取りは決して軽くなかった書き終わったとき、席を立ったときの視界の端には一時間前と寸分違わぬ格好でつぐみは動いてなかった。

 悪い事したかな……あの時ピリピリしてたからな。正直、部屋に戻らずに家に帰りたい。

「……はぁぁ」

 誰に聞かせるでもなくため息を漏らす。あそこの角を曲がればもうすぐあの部屋に着いてしまう。まだアイツは怒ってるんだろうか。

 部屋のドアの前に立ち、ドアノブを凝視する。いっそ中から鍵がかかっていれば俺も開き直れるのに…。ノブを右手でつかみ力なく時計回りにひねる。淡い期待はもろくも破れ、何の障害も無くドアは俺を迎え入れた。観念して靴を脱ぎ部屋に上がった。

 部屋は完全な静寂で、俺の足音ですら雑音として耳に入ってくる。ご丁寧に俺の鞄の上につぐみの鞄がしっかりと乗っかっていた。懐かしい学生鞄を持ち上げ、ゆっくりと机のそばに歩み寄り主の隣にそっと置いた。その場に立ったまま、

「……俺、もう帰るぞ」

 静かすぎるせいで今の言葉がつぐみに届いたのか分からない。声が小さかったか大きかったかさえ分からない。つぐみは微動だにしなかった。

「ほら、もう結構夜も遅いから夜道の一人歩きは危ないかなぁ~って……」

 どうでもいい理由をつけて仲直りのきっかけを作ろうとする。

「そ、それにさ腹減ってないか? 「BEGIN」 でも行って何か食べたりとか……」

 つぐみは死んだかのように反応を示さなかった。ゆっくりと隣に腰を下ろし顔を上げない相手に言葉を続けた。

「……怒ってんのか?」

「…………」

 答えはなかった。

「さっきは悪かった。こういう事って今まであんまりなかったから焦ってて…………」

「…………」

 それでも、答えはない。

「だからいつもお前がやってる事にもつい……」

「…………」

「……聞いてるか?」

「……………」

「おい、つぐみ」

「……すぅ」

 やっと返ってきた答えはとてつもなく意味不明だった。すぅ?

 耳を傾けてよく聞いてみる。わずかだか規則正しく寝息を立てているのが聞こえた。よく見ると両肩も寝息と同じリズムで上がったり下がったりしてる。

 ……という事は俺は寝てる人を相手に必死に謝ったり一緒に帰ろうとか誘ってたのか。我ながらばかだ。俺は肘をついて軽い罵詈雑言でつぐみが本当に寝ているのか試してみた。

「つぐみ~」

「……」

「自身過剰女~」

「…………」

「酔っ払い~」

「………………」

 うん、これは寝てるな。どうしようか……とりあえず起こすか。家に帰んなかったら家族とか心配するだろうし。

 肩をつかんで軽くゆする。力の入ってない腕が机から降りて顔を覗かせる。ショートカットの髪が俺の手に触れてくすぐったい。

「つぐみ~、起きろ~」

「んん……」

 うめき声をあげたものの、深い眠りに入っているようで一向に目を覚ます気配はない。いったん揺り動かすのをやめ、めったに見れないつぐみの寝顔を拝見する。

 無防備で安らかな寝顔をしている。穏かな雰囲気のせいか、いつもより少し幼く見える。いつも笑ったり怒ったりするのを見ているからかこういう表情を見るのは新鮮だ。見ているうちにこっちのほうが和んできた。なんだか起こすのがもったいなくなってきた。

「こういう風に大人しくしてたほうがもっと可愛く見えるのにな……」

 本人に聞こえないのをいい事にいつも言えないような恥ずかしい事を俺は口にしていた。

「……って何言ってんだ俺は」

 急に恥ずかしくなり意味もなく立ち上がり周りを見まわす。と、部屋の隅にあった薄手の毛布を発見したのでそのうちの一枚を広げてそっとつぐみの肩にかけてやった。もぞもぞと寝返りを打つ。

「人が心配してたのにのん気に寝てるな、お前は」

「う……ん」

 俺の言葉に反応したのか、つぐみが寝言を漏らす。

「字ぃ、間違えてる……ここもそうだ……」

 夢でも俺の原稿を添削してるようだ。思わず鼻で笑ってしまった。

「夢の中までごくろうなこったな」

「ダメじゃん、陽一……ごめんね」

「…………」

 よく見ると、つぐみの閉じられたまぶたはいつもより少し腫れぼったく、枕がわりになっている腕の袖口にはわずかに涙が染み込んでいた。

「ごめんね……」

「……バ~カ」

 起こさないように優しくつぐみの髪を撫でる。

「別に気にしてなんかいないんだからさ」

 こんな事起きてる相手になんか絶対言えないな。涙で腫らした目をよく見ようと目にかかる髪をかきあげる。俺は、嬉しさか悲しさか、ため息をついていた。

「……お前はもう少し寝てろ」

 手を引いて背を向けると俺はそのまま動かなかった。

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