変わる日常
張り詰めた空気。部屋には俺一人。外からの声は防音設備のによりまったく聞こえない。俺はまさに、自分自身と闘っていた。
息を殺し、震える両手で二枚の長方形の形をしたカードを手に取る。角と角を合わせ、そっと手を離す。同じ工程で作られたカードの山は、座っている俺の目線を僅かに越えるほどの高さになっていた。この緊張感とスリルがたまらない。時間も忘れ、無我夢中になってしまう。恐ろしい、恐ろしいものだ。トランプピラミッドというのは。
しかも、今回は四段とか五段などというお子様レベルではない。人類史上初の試みの八段に挑戦しているのだ。このためにわざわざ同じトランプをコンビニで二セット買ってしまった。改めながら恐ろしや、トランプピラミッド。
既に下積みは終わっており、残るは頭頂部のみ。これまで幾度も失敗を重ねてきたが、ついに、ついにこの素晴らしい偉業を成し遂げる瞬間が訪れたのだ。
スゴイぞ、俺!
歴史上の偉人達もこんな感覚を味わったのだろうか。早鐘を打つ心臓を静めようと大きく深呼吸をする。
意を決しゆっくりと両手を伸ばし、最後の二枚を置いた瞬間、
「陽一~! 来月の原稿なんだけどさ……」
突然の来訪者の妨害により、俺の両手は大きく手元を狂わされた。
そして、俺の今まで積み上げてきた時間、体力、集中力が、瓦礫のように脆く崩れ去った。
「……」
状況がいまいち理解できない。まず、俺は夢の八段に挑戦していた。そして最後の一段に手をつけようとしていた。そこにつぐみが無神経にもノックもなしに入ってきた。そこで驚いた俺は自分の手で自分の夢を壊してしまった、と。理解した。
「あっちゃあ……」
つぐみが他人事のようにつぶやく。
俺はただ呆然として、テーブルに散乱しているカードを眺めることしかできなかった。
「そ、そういえば担当さんがあたしを呼んでた気が」
ぎこちなく言葉を発しながら、つぐみが回れ右をする。
「待てや」
つぐみの肩に置かれた俺の手は、ほんの少し悪意に満ちていた。
「動くな」
「ハイ」
金縛りにあったように直立し、返事をした。
「何しに来た」
「や、別に邪魔しに来たわけじゃなくて……」
二人とも同じ向きを向いての問答が始まった。
「ノックぐらいできんのか」
「や、いつも陽一相手だったらしてないから……」
「ほぉ~そうですか朝比奈『先生』」
「……や、スイマセン」
ドアに向かって頭を下げる。
「まぁ、いいか」
あんまりいじめると逆ギレするし。実は肩こってきて疲れてたし。しかし、偉業を妨害した事とは別の話。
「天誅っ」
垂れている後頭部に軽く手刀をいれる。
「あたっ」
不意の制裁で、つぐみの体はよろめき勢いでドアに頭を打ちつけた。いい気味だと思いながら踵を返し、テーブルに広がっているカードを片付けた。
「珍しいね。陽一が何もしないでここにいるの」
すねた声が真正面から聞こえる。
「ちょっと人を待ってる。……お前、ここにいる時は『先生』 じゃなかったのか?」
顔を上げないで手だけを動かしながら話を合わせた。
「二人のときは面倒だからいらない」
「そうか」
何とも自分勝手な性格だ。俺も負けてないと思うけど。
「……編集長待ち?」
「そうだけど」
カードを箱に納め、顔を上げると、つぐみが俺の集め忘れたカードで俺の真似事をしていた。
「何か用事?」
一段目の一番最初の山で苦戦している。
「ん? まぁ、ちょっと……」
歯切れ悪く答える。
「どうしたの?」
手を山からそっと離し、山を見守る。どうやら大丈夫そうだ。二つ目に取りかかろうとつぐみがカードを手に取る。
「この前、一般人に俺の正体バレてさ。ちょっと相談しようと思って」
つぐみの挙動を見ながら俺は答えた。つぐみも秋山さんと同様に、同じ仕事をしている上で知る権利がある。にしても、俺もこんな重要なことサラッっと言うのもアレだな。
「編集長なら印刷会社行ってて帰ってくるの分からないって」
「そうか」
「うん……って、えぇっ?」
叫ぶと同時に二人の間にあった山が静かに倒れる。「あっ」と短く声を漏らしたが、言われた事の方が大事と判断して話を続けた。
「そ、それでどうしたの?」
「とりあえず事情話したら『誰にも話しませんよ』 とは言ってくれたけど」
つぐみの前にあるカードを拾い上げ、箱にしまう。
「あんた、よくそんな平気な顔してられるね」
「元々俺のファンだったらしいし、それにあの人は信用できるよ」
一週間ほど前に会った時の彼女との会話を思い出す。あんなにまっすぐに人の目を見る人は今時珍しい。
「ふぅん……」
突然、つぐみの目が疑わしげな視線で俺を見る。
「なんだよ」
視線に耐え切れず、つぐみに話を促した。
つぐみは一層不機嫌になり、身を乗り出して上目遣いで俺の顔を覗いた。正直、ちょっと動揺した。確かに、俺に対する口調や態度は半端じゃなく悪いが、最初に会ったときはさすがの俺もアブなかった。何がアブなかったかというと、まぁなんだ。用はコイツも世間一般から言わせてもらえば「半端じゃなく可愛い」 部類に入る人種なわけだ。
「その人、女の人でしょ」
「なっ」
「しかも陽一と同じくらいの歳の」
「……何で分かる」
ひょっとしてコイツ、超能力者か。
「経験と勘。それと……」
「それと?」
「……顔がにやけてた」
「はぁっ?」
顔が赤くなっていくのが分かった。気付くと、僅かだが顔の筋肉が弛んでいた。俺はすぐさま顔を引き締め、熱弁を振るった。
「何を言っている、小娘。貴様の目の前にいるのは、生ける漢道一本野郎とまで言われた千葉陽一様だぞ。確かに一般人とやらは俺と一つ年下の女子大生だ。だが、だがしかし! 俺はその女に貴様の考えているような低俗な感情など抱いておらんわ! 第一、まだ一回しか会っていないような人に……」
「人は嘘をつくとき、多弁になる」
「な…い、言いがかりを……!」
「そして、目を逸らして話す」
「うっ……」
何も言い返せない。さすが三年目の付き合いなだけある。
「そんなに可愛かったの? その人」
「少なくともお前よりはな」
「絶世の美女つかまえて何言ってんのさ」
「……へぇ~」
品定めするかのようにつぐみの容姿を眺める。するとつぐみが自慢の決めポーズをとりながら、
「お客様、当店ナンバー1のコに何かご不満な点でもございますか?」
「俺はお前を指名した覚えは無い。不満なら大アリだ。何だこの店は。この店は花も過ぎた年増に制服を着せれば客が喜んで金払うと思ってんのか! ボーイさん、チェンジチェンジ!」
「や、あたし今日私服だし」
淡々とツッコミを入れる自称当店ナンバー1(しかもお約束の手付き)。
「こら、年増だぞ、年増。ツッコミ忘れか」
「お客様は年齢を四捨五入した場合、十になる方がお好みとお聞きしましたので、もうすぐ二十になる私など……」
「もういい。皆が誤解するからやめろ。いい加減話を戻すぞ」
「分かった。え~…………っと、そんなにブスだったの? その人」
「そうなんだよ。明らかに適正体重四十キロオーバーな肥満体な人でさ。体中どこもかしこも脂肪たっぷりで、どの部分も市場に出せばボンレスハムとして売れる事間違いなし! ……ツッコムべき?」
「どっちでも」
「そうか」
「…………」
どちらからともなくため息を漏らす。
「そしたら秋山さんがいないんならしょうがないな。西川にだけでも連絡しとくか…」
「西川?」 と、聞きなれない名前を聞いて首をかしげるつぐみに、「ボンレスハムの人だよ」 と言ってやった。「あぁ」 納得して何度も頷いた。
「連絡先聞いたの?」
「いや、聞いてないけど多分バイトだろうからそこ行ってみる」
立ち上がり、鞄を肩にかけて部屋を出ようとドアに向かう。
「あたしも行っていい?」
後ろについてきたつぐみが鞄の端をつかんで聞いてきた。
振り返り、少し目線の位置が低いつぐみを見下ろす。
「ついてくんな」
俺は高圧的に言ってやった。
「何でさ~」
明らかに不満たらたらな顔をする。
「あったらいきなり『この人がハムの人?』 なんて言いかねない」
「そんなの言うわけないじゃん。あ、分かった。あたしがいたら口説けないからでしょ。ロリコンでデブ専だったんだ、陽一」
「誰がデブ専だ。それに、西川お前より体細いぞ。顔も小さいし。っていうかお前がいたから何だって言うんだよ」
「や、あたしの事彼女かと思うじゃん」
「はぁあ?」
いきなり面白い事を言ってくれる、この娘。
「なんたって、絶世の美女だからね」
言いながら片手を腰に当て体をくねらせる。
「うわっ。なんて貧相なグラビアアイドルだ。目がつぶれるっ」
必死になって両手で顔を覆い顔を背ける。
「なにそれ、さっきから。信じらんない。そんなにあたし魅力無いの?」
「体は無いな。少なくとも」
「………セクハラ発言だし」
おっと失言。ってかなんか涙声になってるし。気にしてたのかな? しょうがない。ここは一つ持ち上げて機嫌の一つでも取っておくか。
「悪かった」
つぐみの頭に手を置き慰める。
「ま、その分顔にいっちゃってんじゃない?」
「……ふん」
今度はつぐみが顔を背けた。コイツ、本当に嬉しいときって人に見せないようにこうする癖あるんだよな。ってか俺が言った事もなまじ嘘じゃないと思ってるからかなりこっ恥ずかしいんだが。
「それに、いつか秋山さんに会わせるときにはお前もいるだろうから。お前が今会ったら変に西川緊張させるだけだし、な?」
そっぽを向いているつぐみは少しの間考え込み、突然弾けたように俺の目を見て、
「早く会ってみたいな、その西川って人と」
まだ子供っぽさが残っているその笑顔からは、先程のふくれっ面は想像できなかった。表情ころころ変わって面白いな。
「それじゃあ、秋山さんが戻ってきたら電話くださいって言っといて」
「うん、分かった。気をつけてね」
そう言って俺を見送る。
「あ、そうだ」
「あ?」
ドアを開けようとした時、思い出したようにつぐみが言った。
「ハムの人によろしくね」
ふと、どうして俺はこんな職業を選んだのかと思う事がある。
それは、高校の時に授業中先生の目を盗んでは少しずつ書き溜めた小説が出来上がった当時、その勢いでたまたま今の編集社に投稿して、それが秋山さんの目に止まったからなんだけど。
その前の段階として、どうして「小説を書きたい」 と思うようになったのだろう。
高校に入るまでは小説なんかより漫画が好きで(今もそうだが)、とても何十枚何百枚もの原稿用紙に文字を書くなんて作業なんかお金を払ってでもやりたくなかったはずだった。そんなことをするぐらいなら丸一日友達と馬鹿やっていたかった。中学の俺が今の俺を見たら、きっと速攻で精神病院に連れて行くだろう。
一つの答えの可能性として「俺は何かを伝えたい」 ってのがあると思う。あると思うっていうのは、正直なところ、「何か」 っていうのはまだ自分でも分からない。それを探すために頑張っているのかなと思うこともある。
立ち読みで何気なく手に取った漫画を読んで泣いた事があった。その人の絵はとても見れたものじゃなくて、よくこんなので漫画家になれたなと思ったけれど、逆に絵が下手だからこそ伝えたいものっていうのが自然と強調されて素晴らしい作品になったんだと今では思う。その人はまったくの無名の作家だけれど、俺の中では最高の作家にランクされている。
その頃は確か高校に入ったばかりで、ただ感動していただけだった。何かを伝えるっていうのはこんなにすごい事なんだと中学あがりたての俺は始めて分かった。
その想いは一年経っても二年経っても冷めることはなくて、ついに「俺もやろう」 ってことになって、でも俺は絵が下手だし、音楽はピアノすら無理だし、ましてや演技なんてもってのほか。で、俺なんかが出来る最後の手段が紙と鉛筆で文字を書く事。で、書いちゃったわけですよ。原稿用紙恐怖症の俺が。いつのまにか文字を書くのが当たり前になってた自分が恐い。
そんなこんなで、俺は小説家やってます。まだまだだけどね。
物思いにふけりながら歩く大通り。BEGINのあるビルの一角を曲がる。大分人通りが減って歩きやすくなった。と、その時、
向こうから歩いてくる女性が一人。西川だ。私服ということはこれからバイトだろうか。俺より先にビルの前に着いて俺に気付いて大きく手を振っている。ハッキリ言って恥ずかしい奴だ。俺は手を振り返さず、早足で近づいていった。俺との距離はまだ二十メートル近くある。西川は気付かれてないと思ったのか、あろうことか
「佐倉先生~!」
と大声で叫びやがった。
あんの馬鹿! 通行人見てるじゃねぇか!
ダッシュでビルまで走り、目の前の西川が、「おはようござい……」と言うのを無視して、かよわい腕をつかみビルの中に押し込んだ。
「今度街中で叫んだらコンビニのゴミ箱にぶち込むぞ」
腕をつかんだまま今までにない表情で西川を睨む。
「す、すいません……」
西川の目には、ほんの少し涙が溜まっていた。
「あ、イヤ悪い。そんなに怒ることもなかったな」
慌てて腕から手を離して謝った。女の涙は基本的に苦手だが、西川のは特別苦手だ。多分、この前ののせいなんだろうけど。
「いえ、いいんです。あたしが約束忘れてたばっかりに……」
うつむいて声も小さくなる。なんか少し涙声にもなってるし。
「さっきあっちの名前で呼んだのはもういいって。気にしてないから」
「……本当ですか?」
「あぁ」
話をしに来たのに泣かれても困るし。
「本当に本当ですか?」
「あぁ」
「本当に本当に本当ですか?」
「あぁ」
「本当に本当に本」
「しつこいぞ」
「うぅ、すいません……」
再び頭をうな垂れる。しかし、先程の憂いの雰囲気はどこにも感じられない。むしろ楽しげだ。
「早く行くぞ、ハム女」 そう言って階段を先導する。
「ハム?」
「あぁ、何でもない。今からバイトか?」
適当にごまかし、さっさと階段を昇り店のドアの前に立つ。
「ハイ。十二時から五時までです」
後ろから階段を昇る音とともに声が聞こえる。
「そうか。頑張れよ」
「ありがとうございます」
「それと、近いうちに編集長に会わせるから」
「えっ?」
「あと、俺の専属のイラストレーターも会いたいみたいな事言ってたな」
「え……えぇっ?」
西川の反応を無視してドアを開ける。
今日の店内に客は一人もいなかった。つまり俺のみ。当たり前のように感じている自分が恐い。
「あ、あの、じゃあ後でお話伺いに行きますんで……」
そう言ってカウンターの中に入って「おはようございま~す」 と、マスターや他の女給達に挨拶をしていた。とりあえずいつも通り奥のテーブル席に腰を下ろす。
つぐみから連絡が来てないかと携帯を取り出したが、まだ何も来ていなかった。携帯をテーブルの上に適当に置く。と、
「いらっしゃいませ~」
店内にウェイトレスの声が響く。俺以外に客が来るのは珍しいなと思い、ドアのところに目をやるととんでもない奴がそこに立っていた。
「おぅ、陽一」
いいながらズカズカと近づいてきて俺の向かいの席に座りやがる。
「……悟」
「ん?」
悟はテーブルにあったメニュー表を見ながら俺の呼びかけに生返事を返す。
「何でお前がここにいるんだ?」
「ん……」
「いや。ん、じゃなくて」
「ここ、他のところより少し高くねぇか? 意外にお前、値段より雰囲気重視なんだな」
「人の話を聞け」
メニュー表を取り上げると、悟は渋々顔を上げた。
「……本当はこの後ちょっと用事があんだけどさ」
「じゃあ帰れ、さっさと帰れ、問答無用に帰れ」
「ひどっ。まだ続きがあるのに」
「じゃあ言ったらさっさと帰れ」
悟は「なんか機嫌悪いなぁ」 とかつぶやきながら姿勢を正し俺を睨むと、
「女はどこにやった」
「は?」
「女どこにやったかって聞いてるんだよ! さっきこの店の前でお前が女引っ張ってここに入ってくの見たんだよ! 知らねぇとは言わせねぇぞ!」
唾を飛ばしながら一気にまくし立てる。こいつ、さっきの見てたのか。っていうか端から見ればそんな風に見えたのか。あん時は焦ってたからな。ちょっと反省。
「どうかしましたか先生?」
顔を横に向けると制服に着替えた西川が心配そうにこっちを見ていた。
「西川、別に……」
「先生っ?」
言いきる前に悟が俺の声を遮った。なんかややこしくなりそうだ。ってか単純にやべぇ。家族の次にばれてほしくない奴なのに。
「陽一っ!」
「ハ、ハイ……」
バレた。ついにバレたか。こいつにもバレたか。こういう事って重なるもんなのかな。悟にバレたついでに冴子にも言っちゃおうかな……。
「お前、羨ましいな!」
「ハイ、まったくその通りで……え?」
こいつのおっしゃる意味が分からない。
「羨ましい? どこがどう羨ましいんだ?」
少なくともお前にこの職業は合わないと思うぞ。仕事仲間は生意気だし、仕事仲間は口うるさいし、仕事仲間は俺のやる事成す事に何かとケチつけるし。環境はあまりよくないぞ。
「てめ……何言ってやがる! 家庭教師やるからには可愛い生徒の担当になりたいと願うのは男にとって当然だろうが! 今、お前の発言で全国のお兄さんがすすり泣いてるぞ!」
「…………ハイ?」
家庭教師? こいつ、西川の言った「先生」 を家庭教師の「先生」 ととってくれたのか?
ということは……バレてない? セーフ? 俺生き残った?
「そ、そうか? そうだよな。全国のお兄さん達が泣いちゃうよな。で、でもコイツ、今年大学入ったからもう仕事はやってないよ」
必死になって口から出任せに話を作る。
「え? じゃあ俺らと一つ違いなの?」
「は、はい……」
何が何やらよく分かっていない西川。とりあえず聞かれた事に素直に答える。
「ん? そしたらさっきの店の前のは何だったの?」
「……ま、まあ、ちょっとした悪ふざけだ」
さっきに続いて苦しい嘘をつく。
「ふ~ん……」
少し腑に落ちない顔をしてるが問題ないだろう。悟は近くに女がいたら思考力のほとんどがそっちにいくような人種だからな。
「よく会ったりするの?」
「ん、まぁ時々」
さっきから嘘しか言ってないな、俺。
「じゃあとりあえず自己紹介を……」
そう言って立ち上がり、西川の方に体を向ける。
「あの……陽一さん、私どうすれば……」
うろたえて西川が俺に助けを求める。明らかに困惑している。悟の背の高さに驚いているんだろう。
「聞いてやって。こいつもうすぐ帰るから」
「はぁ……」
おずおずと体を向かい合わせ、不安な顔で悟の目を見た。
咳払いをして喉の調子を整えると、悟は一気にまくし立てた。
「俺は岩代悟二十歳。陽一先生と同じ大学に通ってます。身長は百八十六センチ、体重は七十二キロ。靴のサイズは二十九。出身は九州の熊本で、去年北海道にやってきました。趣味はコイツとの路上ライブで、特技はスーパーの袋を綺麗に畳めることと美しいお嬢さんと仲良くなることです。座右の銘は芥川龍之介の『恋愛とは、ただ性欲の詩的表現をうけたものである』 です。どうぞよろしく」
どうでもいいプロフィールの後に爽やかな笑顔付きで西川に右手を差し出す。
「西川……葵です。どうも……」
恐る恐る手を差し出し握手をする。それでも先程よりは緊張はしていないようだ。まだ苦笑してるけど。
「葵ちゃんかぁ、いい名前だ。名前に負けないくらい可愛いしね。陽一が知り合うにはもったいないな」
握手している手を大きく上下させて、さらっと恥ずかしい事を言う。時々、その性格が羨ましく思うことがある。基本的に見習いたくないけど。
「もったいないも何も、俺と西川には何もないぞ」
悟の応対に困っているので助け舟を出す。西川はされるがまま片手を拘束されたまま「ははは」と乾いた笑いを漏らしている。っていうか一週間やそこらで何かある方が俺からしたら大問題だ。
「何を言う、女の子の部屋に一人年頃の若者が入ったら普通平常心というものを失うものなのだぞ、君」
どこかのインチキ教授のような口調で反論する。妙にハマッっているのが面白い。
「お前に平常心があるのかが疑問だよ。分かったから用事とやら済ましに帰ってしまえ」
「あ、忘れてた」
手を離して携帯の時間を見る。……ずっと握手してたんだ。言わなかったらいつまでやってたんだろう。
「それじゃあ葵ちゃん。もしまた陽一と会うことになったら『是非』 俺も誘ってね。葵ちゃんのこと色々聞きたいんだけど、あの人待たせるとローキックくらっちゃうからさ」
「冴子か」
「あぁ、金返すかわりに買物付き合わされる事に……」
「……マジか」
「あぁ……」
力無く返事をする。俺でもあいつの買物には付き合いたくない。女は大抵そうだろうが、冴子は普通の女より体力とテンションがあるから手に負えない。いつだったか無理矢理付き合わされた時なんかは……。
「……頑張れよ」
思い出したら鬱になりそうだったからやめた。
「あぁ、死んでくる……じゃあね、葵ちゃん」
「どうぞお気をつけて……?」
ドアの向こうに消えていった背中はどこか切なかった。
「スゴイ人でしたね」
「まぁ、いつもあんな感じだ。で、何しに来たんだっけ?」
「……あたし、ウェイトレスですよ?」
「あ、そうか、注文ね。ミルクティー一つね」
「はい、かしこまりました……あっ」
片方のポケットから伝票は出てきたが、もう片方から肝心のペンが出てこなかった。他のポケットも探してみたが、どうやらどこかに落としたようだ。
「すいません。ボールペンなくしちゃったみたいなんで、貸して頂けませんか?」
「おう」
「さすが陽一さん、職業病ですね」
鞄の口を開き、中身を確認せずに筆箱から適当にペンを一本取り出す。俺の場合、余程急いでいる時以外は基本的にペンとメモ帳を持ち歩いている。
「せめて職業柄と言え。ほら」
「どうもすいませ……」
「…………あ」
ちょうど西川の手が俺の手にある万年筆を手に取り固まった。万年筆を介して俺と西川が繋がる。決して高級ぶってなく、それでいて持ちやすいデザインの万年筆だった。
「……お借りします」
そう言ってぎこちない手つきで伝票にサラサラと注文を書き留める。ぎこちないのは慣れていないせいなのか、それとも……
「……こ、これすごく書きやすいですね。ものスゴ~ク高かったんじゃないですか?」
「どうだろうな。人から貰ったから分からないけど、お金ケチってどうせ安物か何かじゃないのか?」
顔を窓に向けて心にもないことを言う。ガラスの鏡では西川がテーブルの端に万年筆を置いていた。体を向き直し、西川に頭を下げる。
「……ありがとう」
久しぶりにお礼というものを言った気がする。
「……こちらこそ」
顔の見えないウェイトレスがお辞儀を返した気がした。そして、俺の前からカウンターへパタパタと足音が逃げるように消えていった。頭を上げ、万年筆を手に取り筆箱へとしまう。
突然、テーブルに置いてあった携帯が点滅しながら震え出した。画面を見ると、中央にはつぐみが描いた美化されすぎた秋山さんの顔が映し出されていた。
「ハイ、もしもし」
「あ、陽一君? 今どこにいるのかな?」
当たり前の話だが、どんな時でも秋山さんの声はいつも大人な深い声がする。直接話していても、電話口でも。
「今、一人で寂しくお茶してますけど」
「そうかい。陽一君、何か用事があるってつぐみ君から聞いたんだけどどうしたの?」
「あ、いや、電話で話すのはちょっと……秋山さん、これから時間ありますか? 直接お話したいんですけど」
「その事もあって電話したんだけど、前に言ってたパーティー、今日やらないかい?」
「パーティー? あ、単行本のやつですか」
忘れてた。と言ってもどうせいつものようにつぐみと三人で打ち合わせの延長みたいな事になるに違いない。違いと言ったら打ち合わせをする場所と、ついでに夕飯を食べているという事ぐらいだ。
「あの、それだったらもう一人呼んでもいいですか?」
「ん? でも川島君は予定があると言ってて」
「いえ、その………話したいことに関係あってその人とも直接会った方がいいと思うんで……」
少々後ろめたい気もしたが、これが一番手っ取り早い。
「う~ん」
電話の向こうで秋山さんの声が唸った。よく聞くと、デスクの声がひっきりなしに聞こえてくる。きっとまた編集長室じゃなくて応接室にいるんだろう。
「……分かりました。じゃあ七時に大山っていう寿司屋に来てくれる?」
「大山っスか?」
名前だけなら誰でも聞いた事があるはずだ。北海道の中で一番うまく、そして一番高いと言われているセレブな食事処だ。
「でも俺達お金の都合が……」
「いいよいいよ。せっかくのお祝いにお金なんか出させないよ」
正直、期待してなかったわけではないが、やはり高級なものを御馳走になるのは気が引ける。
「いや、そしたら一人で四人分払う事になるんですよ?」
「気にしなくていいって。いざとなったら陽一君の印税から少し借りるから」
「は、はぁ……」
秋山さんが珍しく大声で笑っている。一体、どんな顔をしているのだろう。
「それで、その人は時間大丈夫なの?」
「あ、大丈夫だと思います」
「そう。場所は? 陽一君分かる?」
「有名なんで学校帰りのコースになってます」
「そうかい。それはよかった。じゃあハムの人によろしく」
「ハイ。……って、えぇっ?」
もう切れてるし。
「……つぐみめ」
誰に言うでもなく毒づいた。携帯を閉じてテーブルに置くと、やる事がなくなってしまった。多分ミルクティーはアイツが持ってくるだろうからその時に連絡しとこう。
時計を見ると、まだ店に入ってから三十分、つまりまだ十二時半にしかなってない。単純計算で待ち合わせまで六時間半。つまり一日の四分の一近く時間があるというわけだ。
暇すぎる。暇死しそうだ。こんな時こそ眠気もぶっ飛んでテンションがトップギアに入るような素晴らしい何かはないものだろうか。
「お待たせしました、ミルクティーでございます」
「うるさい、そんなものはいい。何かないか、何か」
「…………砂糖はどうしましょうか?」
「あ、じゃあ二杯ぐらい……いや、自分でやるからいいぞ、西川」
砂糖が入っているポットを引き寄せようと手をのばす西川を制止する。
「……だったら何かって何ですか?」
「知らん。とにかく人生観が百八十度変わっちゃうくらい自己に革命を起こせるぐらいの何かだ」
「……はぁ」
何を言っているのか全く分からないという顔をしている。まぁ俺も分かんないから気にするな。
「この際今はお前でいい。とりあえずさっきの話今日になったから。俺の上司と相方に会うってやつ」
「……えぇっ!」
「いや、急な話で申し訳ないんだけどな。時間は大丈夫だよな? 七時からなんだけど」
「いえ、あのそれは大丈夫なんですけど……その、何か持っていった方がいいんでしょうか? タオルとかお酒とか土地の権利書とかハムの詰め合わせとか」
「全部俺によこせ」
「すいません。今は雑巾しか持ってないです」
「……まぁ、そりゃそうだ」
掛け合いも終わり目の前のミルクティーに口をつける。いつもより少なめに入れた砂糖のせいか、いつもとは違った紅茶の甘さが口の中で広がった。
「美味しいですか?」
「マスターの紅茶はうまいに決まってるだろ。コーヒー苦手な俺でも飲みやすいって思ったし。夜中に物書く時にいつも自分で紅茶淹れるんだけど、どんなに工夫してもここより美味いのは作れたためしがねぇよ」
「あたしもそう思います。……陽一さんってコーヒー嫌いなんですね……へぇ~、そうなんだ……」
何が面白いのか、ニコニコと俺を見て笑っている。急に気恥ずかしくなりぎこちないセリフ回しで話を逸らした。
「そ、そういえば仕事はいいのか? ウェイトレス」
「基本的に昼間は誰も来ないんで他の人達も中で休んでますよ。あ、でも夜中は結構人が来るんですよ、意外に」
「お前、それ雇い主が聞いたら泣くぞ……」
言いながらも内心納得した。こんなに客が来ない店がどうして経営していられるのか不思議でならなかったがそういう事だったのか。
「珍しいな。夜に繁盛するってのは」
俺のイメージでは喫茶店っていうのは昼間に時間潰すための場所だと思ってた。今の俺のように。
「来る人のほとんどはビルの中の会社の人達なんですけどね。仕事が終わってすぐココでお酒飲みにって感じで。そのせいかビルの中の人達皆仲いいんですよ」
「ちょっとした下町感覚だな。という事はココ、夜は喫茶店じゃなくてショットバーになってるわけだ」
「マスター、紅茶や料理だけじゃなくてカクテルも美味しいらしいんですよ。あの腕ならもっと大きな所にお店構えてもいいと思うのに何でこんな所で……」
「西川。それはマスター以前にこのビル全体を馬鹿にしてるぞ。まぁいい、とにかく伝える事は伝えたからな。七時に大山ってトコの前で待ち合わせな」
「ハイ、分かりました。あのお寿司屋さんですね。私も前に友達とふざけてあそこで待ち合わせしましたよ」
「いや、会場は……」
言いかけた言葉を飲みこむ。どうせならただの待ち合わせ場所と思わせといた方がドッキリ感があって面白い。コイツなら期待を裏切らないだろうしな。
「……っと、変な場所を待ち合わせ場所に指定するんだな、お前は。そしたらな」
立ち上がり店を出ようと西川の横を通り過ぎると、
「あ、あの」
「ん?」
呼び止められ、体ごと後ろに振り向く。今日はよく呼び止められる日だ。
「来てくれますよね?」
「……は?」
質問の意図が分からなかった。
「当たり前だろ? 自分から言っといて約束の場所に来ない程……」
不意に、自分のある言葉が大きく頭に響いた。
「……そ、そうですよね。変な事聞いちゃいましたよね。それじゃあ七時にまた」
ペコリと頭を下げてカウンターの中へ走るように去っていく。あの時の目は……そう、最初に会ったときの。俺と西川が始めて約束を結んだときに見せた。何かに必死にすがりついている目だった。
時間は過ぎて、待ち合わせの時刻が迫っていた。あの時、俺に与えられた有り余る時間は以前読破した大長編漫画を昼飯抜きで立ち読みしたぐらいで、特に有意義には使われないまま終わってしまった。さすがに腰が痛い。
大山の前にはよく見慣れた顔が二つ並んで立っていた。つぐみは楽しそうに秋山さんにずっと話しかけていて、聞いている秋山さんはちゃんと話を聞いているようで時折相槌を打っている。端から見れば親子みたいだな。いや、顔が似てないからもしかすると血が繋がってないのかも。それとも今や時代遅れの援助何とか? もしくは教師と生徒の禁断の愛……?
そんなくだらない空想を巡らしているうちにつぐみが俺に気付き手を振っていた。コイツも結構恥ずかしい奴だな。思いながら目線でつぐみに応え、二人に近づいていった。
「あれ、一緒じゃないの?」
俺の周りに付き添いがいないか確認する。
「……少なくともお前が探しているようなハムの人ではないぞ」
「えっ」
目線の先がすべて健康的な体格の女性に向けられていたので注意した。
「じゃあどんな人?」
「とにかく異質だな」
少なくとも俺にとってはな。
「……ヤンキー?」
「それは今時いないんじゃないか?」
「じゃあ極道?」
「今度は銃刀法違反じゃないか?」
「ん~。あ、じゃああんな人。あのキレイな人」
俺の後ろを指差してもう片方の手で俺の腕をバンバン叩く。
「あぁ? 世の中そんな簡単にキレイな人が存在してるわけ……」
あった。
「あ、陽一さん早いですね」
何も知らずに笑顔で挨拶をする西川。お前、タイミングよすぎ。
「え? この人? 本当に? ねぇ陽一、この人?」
つぐみが俺と西川の顔を交互に見て慌てる。
「つぐみ、落ち着け」
「つぐみって……陽一さん。この子ってもしかして」
「……紹介する。俺と一緒に仕事している」
「朝比奈つぐみです! 陽一とは違って本名です!」
満面の笑みに加えて大きく右手を突き上げる。対する西川はまさかといった表情だった。
「こんな子が、こんな可愛い子があんな絵を………?」
「可愛いなんて……そんな分かりきった事言わないでくださいよ~」
冗談とも本気ともつかない会話を交わす二人。そもそもこれは『会話』 と呼べるのだろうか?
「何馬鹿言ってんだ、つぐみ。で、こっちが今日昼間話してた例の西川」
「え? ア、ハイ。ご紹介預かりました西川葵と申します。ふ、ふつつか者ですが今後ともどうぞよろしくお願いします!」
腰を九十度きっかり折り、殊勝な挨拶をする。
「あはは。陽一、面白そうだね、この人」
「油断ならんぞ、つぐみ。コイツは天然キャラだから何しでかすか分からんぞ」
「おや、陽一君。その人が例の四人目かい?」
俺と西川の間に割って入るように秋山さんが話しに入ってきた。
「ハイ、今回は俺のミスで秋山さんに迷惑を……」
「ん、まぁ立ち話もなんだし、お寿司でも食べながら聞こうか」
「編集長の言う通りだ! 今日は食べるぞ~」
「おやおやつぐみ君、こういう時女性は遠慮するものだよ」
「甘いものと上トロは別腹です! 編集長!」
粋な笑顔でのれんをくぐるつぐみと秋山さん。俺も二人に続いて歩き出そうとする。
「え、ちょっと陽一さん!」
「ん? どうした西川」
「……ココ入るんですか?」
「おぉ。待ち合わせ兼パーティー会場だ」
俺は体を向き直し、のれんをくぐった。後ろから戸惑った西川独り言が聞こえた。
「どうしよう……始めて入っちゃった……」
店に入ると二階の個室に案内された。四人で食べるには少し広く、帰りの清算が恐くなるほどいい部屋だった。まず中央のテーブルの一片に秋山さんが座り、西川とつぐみがその対面に、俺はその間に座るような形になった。
「さてと……」
注文を済ませると、仕切るように秋山さんが話を切り出した。
「じゃあ、陽一君、改めて紹介してくれるかな?」
ついに来たか。姿勢を正し静かに深呼吸する。
「この人は西川さん、一週間ほど前に知り合いまして、きっかけは……その、俺の……ファンだそうで」
秋山さんの目も見れずにただテーブルの角を凝視したまま話を続けた。
「でもたた西川がそうだったわけで俺が自分から正体明かしたわけじゃなくて、いやでもだからって西川が悪いんじゃなくて……その、俺の不注意でこんな事になりました」
もはや自分で何を言っているのか分からなくなり、勝手に自己完結して勝手に頭を下げていた。
暫くの間、重い沈黙が流れた。
「……陽一君、顔を上げて」
優しく、そして重みのある渋い声が静寂を破った。俺の頭は垂れているままだった。
「佐倉先生、私は君を責める気はありませんよ」
思わず顔を上げる。秋山さんの顔はわずかに微笑を作り、俺を見ていた。
「実際に自分のファンというものに会った感想はどうでしたか?」
微笑のまま俺に問いかける。一瞬、父親の姿とダブって見えた。
「えっ、いや……嬉しかった、です。本当に俺なんかの本を読んでくれてるんだ、って」
狼狽しながら素直な本心を口に出す。
「あの、でもやっぱり全然知らない人にバレたから秋山さんやつぐみや他の人達に迷惑かかるんじゃないかって……」
「西川さんが普通の人なら私も考えただろうけど……」
喋りながらちらっと西川に目線を移す。
「佐倉先生のファンならある程度事情は知ってるだろうから大丈夫なんじゃないかな」
「…………」
感謝しても感謝しきれなかった。秋山さんがそこまで俺を信用してくれてるとは思ってもなかった。俺は何も言えないまま頭を下げることしかできなかった。
これからも、よろしくお願いします。
「失礼します」
襖越しに声が聞こえると、すぐに襖が開けられ、何人かの人が料理を運んできてくれた。あっという間にテーブルの上が豪勢な寿司で埋め尽くされると、店員は「ごゆっくり」 とだけ言い残し、静かに襖を閉めて消えていった。
「さ、それじゃあ込み入った話も済んだことだしお祝いしましょうか」
いつもと変わらない、優しげな笑顔に戻り箸を取る。
「そうだね。せっかくこんなにいい所でご飯食べるのに落ち込んだ雰囲気で食べても美味しくないしね。いっただきま~す。ほら西川さんも」
「え、あ、じゃあいただきます……」
つぐみが西川の前に置いてある皿に容赦なく醤油を注ぎ込む。
「ほら、陽一君もどんどん食べないと」
「すいません……いただきます」
秋山さんに薦められ箸を取り、皿に取り寄せようとした。すると、皆の目の前に置かれているはずの皿が俺の前にはなかった。
「ハイ、陽一。適当に取っといたよ」
無造作に俺の前に皿が置かれる。つぐみがこんな事をしてくれるのは珍しい。やはり今日の主役は俺だからだろうか。
「悪いな、わざわざ……ん?」
目の前の皿の上に置かれた物体をもう一度よく確認した。トロ、イカ、ウニ、上に乗っかっているのはいい、問題はシャリの方だ。わざわざネタをはがしてそのうえからなみなみとかけられた醤油は何なんだ? あまりの醤油の量にシャリが崩れかけている。
「何じゃこりゃぁぁぁぁ!」
おそるおそる箸でその物体のうちの一つを掴んで取ると、音を立てることもなくシャリは完璧に崩れ去った。俺の箸に残されたのは真っ赤な肉厚のトロ一枚だけだった。
「ま、人生そんなに甘くないよって事で。あ、何ですか葵さん。え? 葵さんって私と一つしか年変わらないんですか? 『先生』 ってそんな堅苦しい呼び方しないでくださいよ。呼び捨てでいいですよ呼び捨てで」
俺をそっちのけで西川と盛り上がる犯人。俺の怒りのボルテージが静かに上昇していく。
「コラ、つぐみ」
「ん? 何、陽一?」
「これは何だ?」
箸で既に寿司とは呼べない米粒を指した。
「あぁ、それ? 単行本発売のお祝い」
「ほほぉ……」
世の中にはこんな言葉がある。食べ物の恨みは恐ろしい。実に言い得て妙である。
「秋山さん秋山さん」
「ん? どうかしたかい?」
小声で話しかけられ不思議そうにしている秋山さんを無視して話を続けた。
「お酒頼みましょうよ、お酒」
「お酒? いきなりどうしたの?」
「とにかく頼みましょうよ。一番安いやつでいいんで。むしろそっちの方が好都合なんで」
「何を言ってるのか分からないけど飲めるのは私と陽一君だけだよ?」
「そんな堅いこと言わずにつぐみにも飲ませましょうよ。せっかくのお祝いなんだし二十歳になる前から練習しといた方がいいじゃないですか」
空になりかけた秋山さんのコップに生ビールを注いでやる。鮑を口に運び一気に飲み下すと秋山さんは口を開いた。
「……まぁ、たまにはいいでしょう。でも陽一君はあんまり飲んじゃ駄目だよ。そんなに強くないんだから」
「ははは……」
苦笑いでその場を流す。男のくせにワインのボトル一本も空けられない自分を今更ながら恨めしく思う。
「一番安い日本酒お願いします。あとあったらでいいんですけど……」
店員を呼んで注文を頼む。店員は訝しげな顔で注文を受け取り部屋を後にした。
「それじゃ改めて自己紹介といきますか。朝比奈つぐみいきま~す!」
頼まれてもいないのにいきなり司会進行を務める。
「九月十三日生まれの可憐な乙女座、花の女子高生で~す! 趣味は絵描きで特技は五分で似顔絵を書く事! スリーサイズは秘密! 彼氏募集中です! 以上!」
俺の「最後誰も聞きたくないぞ~」 という野次を無視して秋山さんにマイク(空のコップ)を渡した。
「次は私ですか? えー、秋山玲司です。霜雪社の編集長やらせてもらっています。えーと他は特にないですね。ん、何? 陽一君。今年の抱負は? んー、例年通りかな? 以上」
酔いで頬を赤らめた秋山さんからマイクをもらう。咳払いで喉を整える。
「千葉陽一、大学行きながら小説書いてます! 将来の夢は直木賞受賞! と芥川賞! とノーベル文学賞! まだまだ半人前ですがよろしくお願いします!」
「大きく出たね、陽一君」
「っていうか半分どころか三分の一もいってませんって」
「うるさい! ほら西川、大トリだぞ」
言いながらコップをつきつける。
「あ、あたしもですかぁ?」
「当たり前だ。誰のためにわざわざこんな恥ずかしい事してると思うんだ。それに俺達まだお前の事よく知らないし」
完璧に天然なのは分かったけどな。
「わ、分かりました。え、え、え、え~っと私は…」
「名前が分かりませ~ん」
白々しく野次を飛ばす。顔を真っ赤に染め上げて右手のコップを強く握り締めた。
「うっ……私西川葵は生まれも育ちも北海道の百%天然の道産子です。しゅ、趣味は読書で…」
「ふっつう~」
「…………と、特技は体が柔らかい事です! ハイ!」
立ち上がり体を曲げると、手のひらがぺったりと畳みの上についていた。
『おぉ~』
ギャラリー三人が歓声と拍手を送る。
「…………失礼します、日本酒お持ちしました」
異様な光景に女将さんと思われる人はかろうじて平静を装っていたようだった。さっきより真っ赤な顔をして静かに席に着く西川。テーブルの端に少し安っぽい瓶と、
「……陽一君?」
「ハイ?」
「お酒を頼んだんだよね?」
「そうですけど」
「じゃあお酒の横に置いてあるこれは?」
「ストローです」
栓を空けてコップに注ぐ。アルコールの匂いが鼻につく。
「あれ、お酒頼んだんだ」
「おぉ、お前も飲むか?」
コップを持った手を軽く上げてみせた。俺の記憶が正しければこいつはまだ一度も本格的に酒の類を飲んだ事がないはずだ。
「え? いいの?」
まんざらでもない顔で期待しているのが見て取れた。これから起こる事も知らないで疑いなく目を輝かせて…………。計画を実行に移します。
つぐみの前に酒の入ったコップを置き、今回の作戦の要であるストローを差した。
「ちょっと陽一。ストローなんかいらないってば」
「何言ってるんだ。初めて酒を飲むようなお子様にはストローがお似合いだ。キリキリ飲まんかい」
半ば強引にストロー一気飲みを強要する。
「ん~……仕方ない。飲んでやるか」
ストローに口をつけて中のアルコール入りの液体を一生懸命吸い上げる。
「…………はぁ。陽一、これ使ってたらいつまでもなくならないって」
「頑張れお子様。それは大量に酒を飲むのを未然に防ぐためにつけられた装置だぞ。飲みにくくて当たり前だ。初めての酒はうまいか?」
「ん~、微妙。おいしくはないけど飲めなくは……ヤバイ。顔熱くなってきた」
急に目が虚ろになり顔から火が出たように赤く染まり出した。
「ちょ、つぐみちゃん大丈夫? もしかしてお酒弱いんじゃない? まだ少ししか飲んでないよ?」
隣の西川がコップとつぐみを見比べながら心配していた。コップの中身はまだ少しも減っていなかった。
「いやぁ、葵さん。実はこれまでにもほんの少しなら飲ませてもらった事があるんでこれぐらいならこんなになることはなかったと思うんだけど……」
言い終わると再び酒をストローで吸い上げる。先程よりも随分水位が下がった。そろそろ頃合いかな。
「なぁ西川。知ってるか?」
「何をですか?」
「ストローでアルコール類を飲むって事は飲むときの空気とアルコールの量の比率とストローで吸い上げるっていう関係で恐ろしく早く酔いが回るらしいぞ」
「っ!」
つぐみが咳き込みコップに入っている酒をブクブク言わせた。
「おいつぐみ。そういう事はしちゃ駄目だって親に言われなかったか?」
「そろ前にそろことを早くおひえてよ!」
呂律が回らず立ち上がろうとした。
「あ、いきなり立ち上がると脳に酸素が……ってもう遅いか」
「うぅぅぅ……ぎぼちわるい…………」
言い終わる頃にはよろよろと俺の横を通り過ぎて壁にもたれかかっていた。
任務完了いたしました!
「つぐみちゃん大丈夫!?」
「ぜんぜんおっけーですよぉ……」
「いや、全然オッケーじゃないぞ」
まぁ遅かれ早かれ通るんだからしょうがないってもんだろう。
「つぐみ君、冷たい水飲んで横になってなさい。あと吐きそうになったら無理するんじゃないよ」
「うぅ~、編集長…ありがとうございます……」
よろよろと立ち上がりコップを手に取り少しずつ口に含んでいった。
「……早速行ってきます……下手したら一時間は帰ってこれないかも……それじゃ」
うめきながら化粧室を求めてつぐみは部屋を後にした。
「…陽一君、いくらなんでもあれはないんじゃ……」
「食べ物と日ごろの恨みは恐ろしいですから」
「……まぁいいか。丁度二人に話しておきたいこともあったし」
自然と姿勢を正し、西川も俺も秋山さんの言葉を待った。
「……今回の件はさっきも言った通りお咎めはありません。しかし、いくつか忠告をするので二人ともよく聞く事。まず西川さん」
「ハ、ハイ」
「今後関係者以外に陽一君のことは他言無用。何かの間違いでバレてしまった場合はすぐに私か陽一君に連絡してください」
「分かりました」
何度も頷き、西川は肯定した。
「陽一君」
「……ハイ」
「無闇に原稿を公の場で書こうとしない。もし書くんなら細心の注意を払う事。食べ物で遊ばない事。あと、いつも言ってるけど女性には優しくする事。いいね?」
「ハイ」
項目多っ! すべて的を射ているから何も言い返せないんだけど。でも先に食い物で遊んだのはつぐみなのに……。
「よし、それじゃつぐみ君が戻ってきたらまた何か頼もうか。きっとお腹空っぽにして戻ってくるだろうから」
「えっ、でもまだ……っ!」
テーブルの大皿を見て絶句した。皿という皿には寿司という寿司はなく、すべて(恐らく) 秋山さんの腹の中に入った……んだろうか。残ってた分だけでも四人で食べて丁度よかったぐらいはあったぞ。英国紳士、恐るべし。
「あ~一杯食べた。編集長、どうも御馳走様でした!」
酒が抜けたつぐみはきっかりと腰を折って謝礼を述べた。どうやらコイツは酒に強い方らしい。ストローは無差別に効くから意味無いがな。
「まさか晩御飯御馳走になるなんて思ってなかったんで本当にありがとうございました」
西川も思いがけない夕食にお礼を言った。
「いやいや。それより家族が心配してるんじゃないのかい?」
「いえ、一人暮しなんでむしろ助かったぐらいです」
「へぇ~陽一と同じだ」
「あ、そうなんですか?」
「あぁ」
西川は俺と共通点があったからか、妙に上機嫌になっていた。
「じゃあ私とつぐみ君はこっちだから。陽一君、西川さん途中まで送ってあげて」
そう言うと秋山さんは俺達とは反対方向の道を歩いていった。
「じゃあ葵さん。今度遊びに行きましょう!」
「いつでも携帯電話にかけてもいいからね。じゃあねつぐみちゃん」
俺を差し置いてもはや電話番号交換したのか、この二人は。っていうかいつの間にそんな事したんだ?
秋山さんとつぐみと別れて駅に向かう間、俺は西川の質問攻めにあっていた。
「つぐみちゃんって高校生ですよね? あの年であんなキレイな絵描くなんて反則ですよね?」
「そうだな」
「すごいなぁ、二人ともあんなに若くてレベルの高い本出して。夢のないあたしなんかにはマネできませんよ。つぐみちゃんとはどうやって知り合ったんですか?」
「あいつとは三年前に俺の投稿時期とつぐみの投稿時期がたまたま一緒だったんだよ」
「うわぁ~運命の出会いみたいですね。また話は変わるんですけど出した本って何か裏設定とかあるんですか? これ、一度先生に聞いてみたかったんですよね」
「まぁ……企業秘密ってことで」
「さすがプロ! じゃあ今書いてる方は……」
とまぁこんな感じに際限無く喋りまくってたわけですよ。電車に乗ってからいくらか落ち着いたものの質問は終わらなかった。
「どうして一人暮ししてるんですか?」
段々プライベートな項目になってるような気がしたが、そんな事は今の彼女が気にするはずもなく。
「一人が気楽ってのもあるし、周りに誰もいない方が物書くときに集中できるし」
「へぇ~、伊達に印税で生活してませんね。どこに住んでるんですか?」
「星観だけど」
「えっ……星観って、すぐ近くが銭函の星観ですか?」
「そこ以外の星観は知らんな」
ちなみに俺の家から徒歩五分で現在地が「銭函」 になる。おそらく札幌市から一番遠い札幌市民ではないかと思われる。一応言っておくが、田舎者ではない。
「あたしも星観なんですよ。偶然とは思えませんね」
笑顔で問題発言をしてくれた。アタシモホシミナンデスヨ?
「……念のために聞くけど星観のどこ?」
まさかお隣りさんとかいうオチはなしだぞ。
「駅前のマンションです」
「あぁじゃ違うわ……え? 駅前の?」
素の声でリアクションしてしまった。いくら都心から遠いとはいえ駅前のマンションは大学生が買えるような値段はしていなかった気が……。国会議員の娘か?
「親戚が管理人やってるんで安くしてもらってるんです」
「あぁ何だそっちか」
あらぬ想像をしているうちに電車は二人が降りるべき駅に着いていた。駅の正面には天高くそびえたつマンションが三棟並んで建っていた。これのどれかにすんでやがるのか、この一般人は……
「それじゃあ今日は色々とありがとうございました。またのご来店をお待ち……何でもないです気にしないでください」
頭を下げたり顔を赤くしたり忙しい奴だ。思わず吹き出してしまった。
「笑わないでくださいよ~」
「悪い悪い。お前、面白いな」
「え……?」
更に顔が紅く染まる。本当に見ていて飽きない奴だ。
「こんなに近所ならどこかで会うかもな。じゃあまたな」
家路に向かおうと振りかえった。
「あ、あのっ」
「ん?」
首だけ西川を向いて返事をする。
「約束ですよ!」
今回は満面の笑みで言ってみせた。この時、すごく笑顔が似合う人だと素直に思った。
「あぁ」
そうして、俺達は家路に着いた。