戦艦尾張 in 1993
戦艦尾張 in 1993
1993年5月27日は、海軍記念日だった。
よって、本日は祝日。学校は休みだ。昼まで寝坊するに限る。だって、休みだから。
今日は寝坊したところで、遅刻する心配はなかった。特に昨日の晩は昇竜拳の練習で夜更かしが過ぎた。波動拳は出せても、昇竜拳はなかなか難しい。
だから今日は一日家に篭って昇竜拳の練習をする予定なのだ。この昇竜拳が出せるか出せないで、放課後のヒエラルキーの大半が決まるといっても過言ではない。昇竜拳が出せることは中学生にとって一種のステータスだった。
そうした理由により、今日こそはなんとしても昇竜拳をマスターしなければならなかった。
だというのに、僕は何故、眠い目を擦って坂の多い呉の街並みを海に向かって歩いているのだろうか?
どうしても分からなかった。
少なくとも、土方衛には分からない。
「さっきから、何ぶつくさ言ってんの?」
幼馴染の藤堂可奈子は胡乱気な顔をして言った。機嫌が悪いように見えた。
なぜ怒っているのか、僕には分からない。
おさ馴染みなんだから、少しは愛想よくしたってバチは当たらないと思う。ただし、ほんとうにそうなったとしたら、いろいろ恐ろしいものが当たってしまいそうなので、絶対に遠慮したいと思う。
「えーっと、僕は、家に帰って昇竜拳の練習がしたいんだけど・・・」
「はぁ?なにいってんの?バカじゃないの?」
僕の提案は一蹴された。
しかもバカと言われた。
「こんないい天気の日に、部屋に篭ってゲームなんかするなんて、バカじゃないの?これ以上頭が悪くなったら、どうするのよ?外の空気を吸って、しゃきっとしなさい」
「でもさ・・・」
「でも?」
可奈子がつないだ手を思い切り握りしめてきた。
とても痛い。
そういえば、最近、可奈子は通信教育で空手を習い始めたと言っていた。体を鍛えるなら、小学校からやっているバスケで十分だと思うのだけれども。
ちなみに、彼女はレギュラーだ。1年だけど、レギュラーだ。ぶっちぎりのレギュラーだ。
「・・・暴力はよくないと思うんだけど」
「黙れ」
胸ぐらを掴まれて、可奈子の顔をアップになる。
ちょっといい香りした。真新しいシャンプーの匂いだ。それ以外にも少し甘い香りがした。
これで気管支が締め上げられてなければ、少し嬉しいかもしれない。
「あんたねぇ、自分に拒否権があると思ってるの?せっかく人が親切心で、誘ってあげたんだから、もうちょっと楽しそうな顔しなさい。分かる?これは義務なのよ。OK?」
「ぎ、義務?」
「そ、義務。あんたには、国防と納税と私に奉仕する義務があるのよ!」
最初と2番目は理解できる。しかし、最後は滅茶苦茶だった。いつものことだが。
「ほんと・・・私って、幼馴染の鏡よね。家がとなりってだけで、あんたみたいなバカの面倒をちゃんと見てあげるなんて。自分で自分を褒めてあげたいわ」
「そういうのって、自分で自分に言うようなものじゃないと思うけど」
「うるさい」
問答無用で殴られた。
重力から解き放たれ、宙を舞う。後頭部から落下。とても痛い。視界がぐるぐる回る。
横倒しに視界の片隅に、近所のオバチャンたちが足速に去っていくのが見えた。
人間が錐揉み回転して吹き飛ぶのを見てショックを受けたらしい。
僕もかなりショックだけれども。
「思ったよりも軽いわね。ちゃんと食べてる?」
「可奈子の力が強すぎると思う」
空手の通信教育なんかなくても十分強い。
「あんたが弱すぎるのよ。それでも原子力空母艦長の子供なの?おじさまが見たら、きっと泣いてかなしむわ。これじゃ、おじさまからあんたの面倒を頼まれた私の立場がないじゃない」
「いや、父さんは別に泣かないと思うけど」
「黙れ」
顔面を踏みつけにされた。
「いい?愚かな、愚かなあんたにも分かるようにゆっくり日本語で今日の予定を説明してあげるからよく聞きなさい」
イヤだと言ったら、僕はどうなってしまうのだろうか?
もちろん、そんなこと興味はないけれど。
「今日は5月27日。海軍記念日です。日本海海戦の伝説的な勝利で日露戦争の勝利が決まったとてもとても記念すべき日です。だから、今日は祝日です。国民は、この日を祝う義務があります。わかりますか?」
反射的に「わからない」と答えようとしたら先回りされて頭蓋骨への圧迫が強まったので、僕は「わかります」と答えた。
「呉の海軍基地では、今日という素晴らしい日を祝うために、祝賀会がひらかれます。さらに戦艦尾張が一般公開されます。この素晴らしいイベントに参加し、日本海海戦の勝利に想い馳せ、さらに未来の職場を見学をする絶好の機会です。分かりましたか?」
反射的に「わからない」と答えようとしたら先回りされて頭蓋骨への圧迫がさらに強まったので、僕は「わかります」と答えた。
「分かってくれて嬉しいわ。やっぱり、もつべきものは幼馴染ね」
ようやく顔面から足が退いたので、僕は言った。
「可奈子は、どうしてそんなに海軍に入りたいの?」
「はぁ、何言ってんの。あんたは?」
退いた足が戻ってきた。前よりも力強く。
「私は、藤堂家の跡取り娘よ?パパも、おじいちゃんも、ひいおじいちゃんも、ひいひいおじいちゃんも、ずっと、ずーっと先祖代々の海軍の藤堂家の跡取り娘なのよ?ひいおじいちゃんは連合艦隊参謀、おじいちゃんは第2艦隊司令長官。パパは翔鶴空母航空隊の隊長。完璧な海の家系じゃない」
それは分かる。ご近所でも有名だから。明治時代まで遡る由緒ある家系らしかった。
ちなみに「ひいおじいちゃん」はまだ存命で、たまにヘルパーさんと一緒に近所を散歩しているのを見かける。最近ボケが進んでいるらしい。
「そして、あんたのパパは原子力空母翔鶴の艦長。これで分かるでしょ!」
幼馴染の脳内で、もういろいろ結論が出ているらしかった。
思考と結論が融合しているタイプなのだ、彼女は。最初に結論があって、そこに至る過程は結論と一体化しているので、外部からは伺いようがない。そして、伺うことができない人間は、彼女の脳内カテゴリーでは全てバカに分類される。
つまり、僕のことだが。
「ちゃんと、理解した?」
「りがいじばじだ・・・」
彼女の素晴らしいところは、僕の無理解にちゃんと気付いて、確認を求めてくるところだ。そういうところはよく気が回る。そういう気遣いはとても上手だ。
顔面を傷つけないで、それでいて最大限の圧迫と苦痛を与えることは、それ以上に上手だった。
「結構。それでこそ、未来のGF参謀総長ね!」
ということは、彼女は未来のGF長官ということになるのだろうか?
「ところで可奈子さん。一つ報告したいことがあるんだけど?」
「いいわよ。何でもおっしゃいなさい。偉大なGF長官は、たとえそれがどんなに下らない報告であったとしても、部下の報告を無視したりはしないから」
たしかに、僕はとても下らないことを報告しようとしていた。
或いは、言わなくてもいい事を言おうとしているのかもしれない。余計なことをしているのかもしれない。しかし、言わなくてはいられなかった。
言わなければ、僕は罪悪感に苛まれることになるからだ。
そんなことは御免被る。少なくとも、こんな下らないことに対しては。僕の罪悪感はそんなにも安いものではない。
それにしても、彼女はどうして、こんな簡単なことに気づかないのだろう?
位置関係はとても明白だ。僕は地に仰向けに倒れている。うつ伏せではい。そして、彼女はスカート履いている。彼女は右足を90近く屈折させ、足裏に体重をかけて僕の顔面を圧迫している。
位置関係はやはり明白である。
長くなった。そろそろ、結論を述べよう。
「あのさ・・・パンツ見えてるよ」
呉鎮守府は、1886年(明治19年)の海軍条例において定められた鎮守府の一つである。
開庁は1890年。そこから数えて100年以上経過しているが、呉鎮守府の基本的価値と役割は開庁の日から全く変わっていない。
基本的役割とは、海軍の出撃根拠地である。
この軍港は、帝国海軍に所属するあらゆる艦艇に対して、あらゆるサービスを提供することができる。それは燃料の補給、破損の修理といった一義的なものにとどまらず、全人格的な意味も含まれる。
また、そうでなければ、戦闘艦艇というものはその機能を維持することができない。
なぜならば、19世紀以降、戦闘艦艇の多くが全金属製に進化したが、それを操る人間までは金属化できなかったからである。人間への包括的なケアがなければ、70,000tの巨大戦艦も形骸に過ぎない。機械が耐えられても、人間の肉体と精神が保たないからだ。
そうした呉鎮守府の各種サービスには、時代の趨勢によって廃れたものもあるし、新たに追加されたものもある。
5月27日の海軍記念日と連動した基地の一般公開は、呉鎮守府のサービスとしては、大正時代から行われてきた比較的古いサービスの一つである。
ただし、これほど大規模なものになったのは、ごく最近のことだった。
主要目的は納税者の支持獲得である。
帝国海軍は、このような広報活動がなければ予算を獲得できない組織になっていた。脅威を訴えるだけで、容易く納税者から金を巻き上げられた時代は、冷戦崩壊と共に終わっていた。人件費や装備調達に関わる予算は全て漸減していたけれど、広報活動費だけでは毎年増額されている。
よって、今年の呉鎮守府の基地祭も大盛況だった。
うんざりするほどに。
「すごい人・・・いったい、どっから沸いて出たんだか」
げんなりした調子で、可奈子は言った。
行列はどこまでも続いていた。果てしなく、彼方まで。
戦艦尾張の一般公開は大盛況だった。3時間の順番待ちだ。
「だから、言ったのに・・・最近は観光の人が来るから、今からは無理だって」
「うっさい!」
また殴られた。
今日は厄日だ。
「あんたがグズグズしてるからこうなったの!人のせいにしない!」
言葉の前後が思い切り矛盾していた。
指摘しない方がいいことぐらい、僕にだって分かる。
一日何度も殴られたり、顔面を踏潰されたくない。
「あー、もう!あっついわね。ムシムシする!」
5月の終わりになると瀬戸内海はそれなりに暑い。冷たい海風も人ごみに遮られて、ここまでは届かない。
「ねぇ、なんか、買ってきて」
「そう言うと思ったよ」
だから、僕はナップザックの魔法瓶に冷たい麦茶を用意していた。
「あら♪土方くんの割には、気が利くじゃない」
「・・・長い付き合いだから」
本当に、長い付き合いだ。縁だけはたっぷりある。腐るほど。
僕は可奈子に麦茶を注ぎながら、戦艦尾張を見た。
1時間並んでようやく艦尾が見えてきた。3年ぶりだ。前に見に来たときは、父さんと一緒だった。
あの時から随分と背は伸びたけれど、尾張が小さく見えることはなかった。とてつもなく大きい。ばかみたいに大きい。圧倒的に大きい。
これが来年スクラップになって、消えてなくなってしまうのは、ちょっと信じられなかった。
尾張を見学するために列を作る人間が、まるで蟻の行列のように見えた。艦橋の高さは、コンクリートビルディングぐらいはある。けれど、どんなビルディングにも似ていない。たくさんのアンテナが突き出している。最近、増えてきた携帯電話の電波塔を10倍複雑にしたような感じだ。
甲板にはハリネズミのように対空砲が並んでいる。
オートメラーラ自動砲、57mm自動砲、ゴールキーパー、15サンチ自動砲。
ここからは見えなかったけれど、前甲板には超音速対艦巡航ミサイルの発射チューブがある。
「よう、お前たち。来てたのか」
声がした。振り返ると、そこに伯父の古代勲が立っていた。
いつも紺色の勤務服じゃなかった。今日はきぐるみのサンドイッチマン姿だ。
それは最近、帝国海軍が採用したペンギン型のマスコットキャラクターのきぐるみだ。いつから帝国海軍がシュレアリズムに傾倒したのかは分からない。
「あ、古代さん♪」
可奈子が麦茶のカップを放りだして、伯父に飛びついた。
「おっと、ちょっと重くなったかな?重畳、重畳」
「えーっ!わたし、太ってなんかないですよ!ちゃんとダイエットしてるもん!」
傍から見ていると悪寒が走るほどのぶりっ子ぶりだった。
可奈子が放り出したカップが直撃した僕の服がそのまま凍くのではないかと思えるほどだ。
「元気そうだな。衛くん。まぁ、そのなんだ。いろいろ頑張れ」
伯父が微妙な笑顔を送ってくれた。
優しさが目にしみて、目から変な汗が出そうになる。
「そうよ!あんたは人一倍バカでマヌケなんだから、常人の3倍は頑張りなさい!」
「バカとマヌケは余計だと思う・・・」
本当のことを言ったら、また殴られた。
とても痛い。
「羨ましいぞ。衛くん」
「代わってあげましょうか?」
伯父さんは静かに頭を振った。とても速やかに。
「はぁ?なにいっての?あんたが古代さんの代わりになるわけないでしょ?バカ?」
たしかに、それはそうだけれども。
ものすごくモテるという話を聞いたことがある。一目見れば、それが実感出来る程度に分かる。けれど、決して嫌味な感じではなかった。
むしろ、僕は、伯父さんは好きだった。気取らないところが、とてもカッコイイと思う。僕と同じXY染色体の持ち主には見えない。
「さぁて、それはどうかな?やってみなければ分からないさ。衛くんさえよかったら、一週間ほど代わってほしいもんだが」
「なに言ってるんですか!そんなの絶対だめ!」
どういうわけか、可奈子は冗談と分かりきってることに過敏に反応した。
可奈子の反応する特異点はどこにあるのかとても分かりにくい。
「ほう?それはどうしてかな?」
「え?えっと、それは、その・・・そうだ!わたし、飲み物買ってきますから!」
そして、可奈子は走り去っていった。
飲み物を買いに行くと言っていたわりには、全然、明後日の方向だったけれど。
毎年、可奈子の行動は意味不明なことが増えているような気がする。
「いい子だ・・・そうは思わないか?」
「えーっと、悪人ではないと思います」
そりゃ、そうだ、と伯父さんは笑った。
「あの子は、いい子だ。ほんとうにいい子だ。あんな子が、海軍に入りたいなんて、海軍もまだまだ捨てたもんじゃないな」
「そう・・・ですか?」
「冷戦が終わって、世界は変わった。海軍も変わった。新八八艦隊も、全て水子に流れた。国家予算の五割もぶち込んで、好きなようにやれた時代は終わった」
伯父さんは戦艦尾張を見上げた。
「こんなものをつくって、世界が滅亡するか、どうかなんて戦争のために、アレコレ努力してきた俺達は、全くの無駄骨だったわけだ」
「そんなことないですよ・・・たぶん」
僕は、たぶんとしか言えなかった。
だって、それぐらいにしか、伯父さんの言葉が伝わらないから。
世界が滅びるだとか、そんなこと少しもピンとこない。
「それを願っちゃうな。そうでなければ、俺達の立つ瀬がない」
伯父さんは肩をすくめた。やれやれだという具合に。
「だが、この先、好き好んで海軍に入る奴は少なくなるだろう。最近、景気もいいしな」
僕は、なんとなく伯父さんが言いたいと思っていることが分かった。
少し前に、それとなく父さんからも似たようなことを言われたことがある。
「伯父さんは、可奈子が海軍に入ることは反対ですか?」
伯父さんは少し考えてからはっきりと言った。
「反対だな。今の海軍は、彼女のような子が入っても、空回りするだけだろう」
「でも、絶対、入ろうとすると思いますよ」
「だから、僕も兄貴も、艦長も困っている」
君からもなんとか言ってくれないか?と目で訴えられた。
僕は頭痛を覚える。
「僕に死ねと?」
「死ねとは言わない。説得するだけでいいんだ」
同じことですよ、とは言えなかった。
言ったところで、どうしようもないからだ。
きっと、近いうちにそうなる羽目になっているに違いない。
「あー、ほんとうに、もう!暑い!暑い!暑い!」
可奈子が大声でわめき散らしていた。
となりに並んでいたおばさんが、迷惑そうな顔をして僕を見た。
何故、僕を見る?
訴えたいことがあるのなら、本人に直接言ってほしいものだ。
それができたら、苦労はしないのだけれど。
「可奈子。暑いなら、あっちにいこうよ」
「嫌よ!見晴らしが悪いでしょ!そんなことも分からないの!?」
怒られた。
たぶん、とくに理由はない。ただの八つ当たりだった。
これはいつものことだ。
伯父さんと会って別れてから、1時間ほどして僕達は戦艦尾張に乗船することができた。
乗船といっても、中を自由に見て回れるわけではない。甲板とヘリコプターの格納庫に入れる程度だ。
甲板は暑かった。直射日光が直撃している。5月でも、天気がいいとかなり暑い。
だから、多くの人が日陰に逃げこんでいた。
家族連れが、46サンチ3連装砲の下で座り込んでいるのが見える。巨大な砲身だけあって、日陰もそれなりに大きい。
ただし、甲板は人でごったがえしていたから、あまり涼しそうには見えなかった。
とくに甲板の縁には、砲列のようにカメラとカメラマンが並んでいて、とても人口密度が高い。
僕と可奈子は、その最前列にいる。
これから始まる展示飛行を見るためだ。
「そうだ!いいこと思いついた!」
いや、それは絶対に違う。
「ねぇ、土方くん。人間の皮膚って、強い力を加えると千切れるって知ってた?」
可奈子は、僕のほほの肉をつまみながら言った。
逃げる隙もなかった。
どのみち、逃げるには、目の前の海に飛び込むしかないのだけれど。海面まで7、8mはある。
「・・・しってふぁふ」
「じゃあ、どうしたいいか分かるよね?」
僕は頷いた。頷かざるえなかった。
「大変結構。こっちよ」
可奈子は、人ごみをケチらして(かきわけてではない)甲板の中央に出た。僕は、引きづられた。
甲板の中央には、46サンチ3連装砲塔がある。これだけでも小山のように大きかった。今は少し仰角がかけてある。たぶん、見栄えをよくするためだろう。
ここに来て、なんとなく可奈子がやろうとしていることが分かった。
案の定、可奈子は砲塔のタラップをよじ登り始めた。
「怒られるよ・・・」
「大丈夫よ。平気!平気!」
仕方なく僕もついていくことにした。
そうしなければ、きっと皮膚が千切れるから。
僕の希望は、すぐそばにいた海軍の係員らしき人が止めに入ってくれることだった。
しかし、希望は可奈子が一睨みすると明後日の方向に逃げるように走り去っていた。
それでいいのか、帝国海軍?
いいわけないのだけれど。
「ああ、いい風。感謝しなさいよ。こんな特等席で、見物できるんだから」
「うん・・・ありがとう」
周りから飛んでくる視線に全身を貫かれながら、僕は頷いた。
だって、そうしなければ結んだ手の指が折られかねないから。
日本全国の恋人達に問いたい。好きな人が体力測定で握力計をぶっ壊したとして、その彼女と手をつないでも、幸福を感じるのか?それとも恐怖を感じるのか?或いは、本当は特に何も感じないのか?
「あ、来た。来た!零戦よ!」
僕は、可奈子の声で現実に引き戻される。
基準排水量64000tの巨大戦艦の3番砲塔の天蓋で、飛行展示を見ているという現実に。
アナウンスが、飛んできた飛行機について解説を入れてくれた。
『ただいま、上空を通過しましたのは、零式艦上戦闘機、21型。54型、64型です。完全なオリジナルの状態で飛行可能な零戦は、全世界でこの3機しかありません』
戦艦尾張を横切るように編隊を組んだ零戦が飛んでいった。
戦闘機なのに、あまり戦闘的な音じゃなかった。
似たような音を探すと、古い洗濯機の動く音のような、あまり迫力が感じられない音だった。大きな換気扇が回る音にも似ていた。
緑色のプロペラ機が真上をフライパスする。
ほんの少し、潮風にガソリンの匂いが混ざった。地響きのような歓声があがる。白と赤の乱舞があちこちで見えた。基地のあちこちで、みんなが一斉に日の丸を降り始めたからだ。
どこからともなく、「バンザイ」の唱和が広がった。
バンザイ、バンザイ、バンザイ・・・
いったい何がそんなにめでたいのか僕にはよく分からない。
それでも、可奈子が大はしゃぎで笑っているのを見るのは、悪くないことだった。
『続きまして、上空を飛行しますのは零戦の後継機、烈風と輝星艦上攻撃機です』
遠くに航空灯の輝きが見る。青空に黒い微かな排気が6つ。今度は6機だった。
甲高いジェットエンジンの音とプロペラの低い音が混ざって聞こえる。少しずつ、大きく、はっきり聞こえてくる。
『輝星艦上攻撃機は、流星艦上攻撃機の後継機として開発された帝国海軍最後のプロペラ攻撃機です。世界でも他に例のないユニークな設計が採用されました』
アナウンスが紹介している間に、烈風は飛び去っていた。
烈風は零戦によく似ていた。けれど、零戦よりも一回りは大きかった。キャノピーの大きさと機体の対比が大きい。それだけ機体が大型化しているということだった。
烈風はフライパスと同時にスモークを焚きながら急上昇。そのまま飛び去った。
それに比べて、輝星の飛行は地味だった。派手な機動もない。
けれど、輝星の飛行にはどよめきが走った。おそらく、あまりよくない意味の方で。
『輝星は、富嶽重陸上攻撃機用の5000馬力ターボプロップエンジンを胴体に装着して、延長軸で機首の2重反転プロペラを回すというユニークなアイデアにより、時速750kmで飛行し、爆弾を4t搭載することができました』
輝星は、一度見たら、決して忘れられない独特なスタイルをしていた。
サツマイモに翼をつけて飛ばしたら、あんな感じになるのだろうか。分かったような、分からないような、一言で言ってしまえば「変」な形をしている。
あれがアダムスキー型UFOだと言われたら、そのまま信じてしまいそうなぐらいだ。機首のキャノピーがあるから飛行機ということが分かるけれど、むしろキャノピーや操縦席がない方が自然に思えてくるから不思議だった。
ちなみに僕は、アレがもともと「景雲」という試作偵察機だったことを知っている。
なぜかというと、可奈子が重度の軍用機マニアだからだ。携帯のストラップも零戦だったりする。
その可奈子でさえ、あの飛行機だけはあまり語りたがらなかった。
「性能はすごいのよ。性能は」
としか、言わなかった。
可奈子によれば、アレは隠れた名機なのだという。
しかし、アレはずっと隠したままの方がよかった気がする。
誰だって、過去の恥ずかしい失敗や思い違いをわざわざ思い出したり、人目に晒したりしたくはないと思うから。
『プロペラ機の飛行展示に続きまして、次はジェット機の飛行展示が始まります』
アナウンスサーが努めて明るく、淀んでしまった空気を振り払うように言った。
『まもなく上空を通過しますのは、帝国海軍最初のジェット局地戦闘機、震電改です。震電改は、もともとプロペラ機として開発されていたものにジェットエンジンを搭載した局地戦闘機で、大型爆撃機を撃墜するために開発されました』
アナウンスが終わるか、終わらないかの内に、震電改が戦艦尾張をフライパスした。聞きなれたジェットエンジンの爆音で、耳が割れそうになる。
雲ひとつない青空に矢尻のような形をした灰色の機体が吸い込まれていく。
流石にジェット機は速い。急上昇も烈風とは比べ物にならない速さだった。
震電改のフライパスに合わせて、歓声がまた爆発した。バンザイの連唱がまた始まる。
『震電改は、1949年から実戦配備が始まりました。沿海州から発進するソビエト軍の爆撃機を迎撃するために、厚木、横田基地に配備された震電改は1961年まで部隊運用されました。また、レーダー連動型の射撃管制装置を搭載した全天候型局地戦闘機、星電の開発母体にもなりました」
もう一度、震電改が戦艦尾張をフライパスした。
今度は3機だった。
三角編隊の先頭の1機はさっきフライパスした機体だった。ただし、残りの2機は、少し違うように見えた。
「あれは、星電よ。超レアな機体よ!」
興奮した可奈子が叫びながらコンパクトカメラのシャッターを切りまくっている。
僕は震電改のことは知っていたけれど、星電のことは何も知らない。
うまい具合にアナウンスが入った。
『星電は、我が国初の本格的な全天候型局地戦闘機です。ソビエト軍の核爆撃機を確実に迎撃するために、震電改を母体として射撃管制装置と空対空ロケット弾発射機を組み込んだ機体が開発されました』
三角編隊が宙返りをして、こちらに戻ってくる。
『星電は、速力強化のために震電改の両主翼下にポッド型でより強力なジェットエンジンを搭載しました。機体後部のエンジンは取り外され、射撃管制装置とオペレーター席が設けられました。これにより、星電は夜間や雨天でも確実に敵機を捕捉できる全天候局地戦闘機となったのです』
三角編隊が戦艦尾張の直上で散開した。
再び、バンザイとシャッターを切る音で甲板は溢れかえった。
「でも、アレって機銃全廃しちゃったから、ベトナムで全然使えないって言われていたのよね」
可奈子が尋ねてもいないのに、解説を入れてくれた。
こういうときに、可奈子の解説に何か相槌を入れないと、その日一日機嫌が悪くなる。
「どうして使えなかったの?」
「そりゃ、そうでしょ?のろまな爆撃機ならともかく、小さくて素早いMigに空対空ロケット弾なんて、当たるわけないじゃない。米軍のサイドワインダーだって、避けられたぐらいなんだから」
可奈子は腕組みして答えた。
少し鼻が膨らんでいる。可奈子が上機嫌になっているサインだ。
「でも、アレこそが現代の戦闘機の基礎を築いたって点は高く評価されるべきね。レーダーとFCSでコントロールされたウェポンシステムって発想は、現代戦闘機の基礎中の基礎だから」
僕は深く頷いた。
可奈子が言っていることの半分も理解できなかったけれど。
「でも、アレのあとから海軍の局地戦闘機って、だんだん頭がおかしくなっていくのよね」
「頭がおかしい?」
「見てりゃわかるわよ」
そう言って、可奈子は双眼鏡を構えた。
『つづきまして、飛来しますのは冷戦初期を代表する海軍の大型局地戦闘機、極星です』
フライパスしたのは1機だけだった。
旅客機ぐらいありそうな大きな飛行機が、重々しく飛んできた。震電改の4倍以上大きい。宙返りもない。派手は急上昇もない。普通に飛び去っていた。
歓声はあがらなかった。とまどいだけがあった。
『極星は、海軍初の国産空対空ミサイルを搭載した局地戦闘機です。5000km以上の航続能力があり、内地から遠く離れた洋上で核爆撃機を撃墜するためにつくられました』
アナウンスの解説もどこかなげやりな調子だった。
できればあまり深く突っ込んでほしくないような、そんな感じ。
「そりゃ、アレを戦闘機って説明しろって言われても困るわよね」
可奈子も似たような調子だった。
「あれは、もともと超音速陸上攻撃機として作ったのを、足が短くて使えないからって、戦闘機に仕立てなおしたようなものなの」
「そんなことできるの?」
可奈子はバカにしたような調子で言った。
「バカね。そんなことできるわけないでしょ?空対空ミサイルがあれば、あのころはなんでも戦闘機なの。空中機動SAMサイトみたいなものだから、本当の戦闘機と戦ったら、瞬殺よ」
頭がおかしいって言ったでしょ?と可奈子。
「空対空ミサイルも、艦対空ミサイルを転用しただけだから、レーダーやFCSがどうしようもなくでっかいし、陸攻のペイロードじゃなければ、成立しない代物・・・あんなものよく1000機もつくったとものね。アレを作ってた頃の海軍って、原爆の放射能で頭がイカれていたと思う」
再び、極星が尾張をフライパス。機体をバンクさせて、主翼の日の丸を振る。
今度は拍手があがった。まばらに。何か微笑ましいものを見たかのように。或いは、そうすることでさっさと厄介ごとから手ひけると思っているかのように。
ひょっとすると、ほとんどの人はアレが戦闘機ではなく、実は爆撃機で、今まで解説はアナウンスのミスか何かだと思っているのかもしれなかった。
『えー、それでは、続きまして、ベトナム事変で活躍した戦闘機たちを紹介いたします』
今度は、いい意味でどよめきが走った。
「このあたりから、あんたも知っている飛行機があるんじゃない?」
可奈子は双眼鏡を貸してくれた。
ダイヤルで倍率を調整する。すぐに飛来する機を見つけることができた。かなりの高度をとっている。見つけられたのは、キャノピーが光を反射していたからだ。最近の戦闘機はキャノピーのガラスも低反射素材だから、こんなに簡単には見つけられない。
『まもなく頭上に現れますのは、ベトナム戦争でミグ・キラーで名をはせた艦上戦闘機、疾風です』
アナウンスとほぼ同時に、急降下してきた疾風が、地上すれすれで引き起こしをかけた。降下の速度をつかって、急上昇。地上に爆撃のような轟音だけが残る。
音というよりも、爆圧に近かった。雷が至近距離に落ちたような、そんな音だった。
僕はとっさに身を竦める。まわりも似たようなものだった。可奈子だけが、平然としてカメラのシャッターを切りまくっていた。
ひょっとして、彼女はものすごく耳が悪いんじゃないか。僕はそう思った。人の話をきかないのはそのせいかもしれない。
一拍間が空いて、大歓声になった。
『疾風は、艦上戦闘機初の超音速機として開発されました。疾風は世界最高のジェット格闘戦闘機として、最も多くの北ベトナム空軍機を撃墜した戦闘機になりました』
急旋回して、疾風が戻ってくる。
『この疾風は、ベトナム戦争で唯一の日本人エースとなった藤堂海軍大佐の乗機を再現したものです』
それを誇るように、疾風は再び上空を飛んだ。
ナイフエッジと呼ばれる、90度オフセットしたアクロバット飛行だった。
また、バンザイの連唱が始まった。
「すごいね。可奈子のお父さんの戦闘機だって」
「ま、まぁ。これくらい、当然ね!」
満面の笑みを浮かべる可奈子を見て、僕は、明日は雨だと確信した。
「私は、あの倍ぐらいは撃墜しないとダメね・・・GF長官になろうと思ったら」
本気とも冗談ともしれない呟きだった。
やめてほしいと思った。心の底から。なぜならば、きっと僕もそれに付き合わされるに違いからだ。
僕は可奈子の注意を逸らすために、違う話を振ることにした。
「可奈子。あれはどんな飛行機なのかな?」
「はぁ?そんなことも知らないの?それでも、原子力空母艦長の子供なの?」
やれやれね、と可奈子は肩をすくめた。
どうやら話題逸らしは成功したらしかった。成功しなければ、どうなっていただろうか。ぞっとする。
「疾風は、いわゆる戦後第2世代型戦闘機よ。帝国海軍の艦上戦闘機は、第1世代を飛ばして、いきなり第2世代から始まるから、いろいろ混同しないように注意しなさい」
何をどう注意すればいいのか分からないけれど、僕は深く頷いた。
「帝国海軍は、40年代半ばから、50年代の終わりまで、一度空母を捨てかけた時期があったの。それどころか、水上艦も必要最低限の小型艦だけにして、原子爆弾と陸攻と原潜だけあれば、戦争に勝てると本気で考えていた時期があったの。笑っちゃうでしょ?」
どこが笑うツボなのか分からないけれど、僕は深く頷いた。
「だから、帝国海軍で一番最初にジェット化されたのは陸上攻撃機だったし、重爆を迎撃する局地戦闘機だった。音速突破も同じよ。逆に母艦航空隊は忘れ去られた存在だったの。それが、却って幸いしたのは歴史の皮肉だと思うでしょ?」
どのあたりが皮肉なのか分からなかったけれど、僕は深く頷いた。
「少ない予算で母艦航空隊をジェット化するために、陸軍の軽戦闘機試作コンペで漏れた三菱の試作軽戦闘機を転用したのはまさに英断ね。陸軍の軽戦闘機は、前線の偵察や爆撃もこなせるように作られていたから1機種だけで、殆ど全ての任務がこなすことができたし、前線運用のための簡略化で整備性も抜群。しかも、敵戦闘機に格闘戦で対抗できるように作られていたなんて、偶然にしては出来すぎだと思わない?」
どこのあたりが出来すぎなのか分からなかったけれど、僕は深く頷いた。
件の疾風が頭上に戻ってきた。今度はかなりの低速だった。じっくり観察できる程度に。
疾風はどことなく、最初に飛来した零戦に似ていた。やわらかい曲線の葉巻型胴体だった。そこから主翼と尾翼が突き出している。葉巻というよりは、樽に近いかもしれない。キャノピーの形も零戦にかなり似ているような気がした。主翼はきつい後退角がついている。まだら模様の迷彩柄で、日の丸は小さく描かれていた。
どことなく、雑誌の写真で見たソビエトの戦闘機に似ているような気がした。たしか、ミグ19とかいう戦闘機だ。
「ちょっと、聞いているの!」
「ああ、ごめん」
可奈子に耳を引張られた。とても痛い。
「というわけで、以後、日本の艦上戦闘機は、偵察、爆撃、制空、全てを1機でこなす万能機になっていくの。分かった?」
「わかったから、離してよ」
「わかったなら、よろしい。これからは人の話をちゃんと聞くことね」
僕が日々、可奈子に一度言ってみたいと思っているセリフを軽々と口にしながら可奈子は笑った。
「そろそろお腹が空いてきたわね。講師料として、ランチをおごりなさい!これは命令よ」
僕は力なく頷いた。頷くしかなかった。
諦観の念が脳裏から、足のつま先まで落ちていく。
つま先の、さらに先には分厚い鋼鉄製の46サンチ3連装砲塔の天蓋があった。頑強な鋼鉄が諦観の念を反射してきた。
僕は軽い目眩を感じる。