江戸前のそばとは…?
昼休みの蕎麦屋は、いつも少しだけ会社に似ている。
席は狭く、誰も長居しない。
会話はあるが、深くは踏み込まない。
そして、全員が何かに追われている。
私は午後一時からの会議資料を頭の隅に置いたまま、駅前の古い蕎麦屋で、もりそばと小さな天丼のセットを待っていた。
そのとき、隣の二人掛けの席に、奇妙な男が座った。
年齢は四十代後半くらい。
紺のジャケットに、白いシャツ。ネクタイはしていない。
清潔ではある。だが、どこか全体に「自分で自分を老舗に寄せている」感じがあった。
男は、店員が水を置く前から言った。
「もりを一枚。薬味は別皿で」
別皿で来ると思うけど。
私はスマートフォンを見るふりをしながら、心の中で小さく返した。
男は、向かいに座った若い男性に向かって、深くうなずいた。部下だろうか。後輩だろうか。あるいは、ただ捕まってしまった人だろうか。
「いいか。江戸前の蕎麦というものはね、まず時間との勝負なんだ」
出た。
まだ蕎麦も来ていないのに、勝負が始まった。
「蕎麦は三たて。挽きたて、打ちたて、茹でたて。これは有名だろう」
若い男性は曖昧にうなずいた。
「ただし、江戸前の場合は、そこにもう一つ加わる」
男は水を一口飲み、少し目を細めた。
「急ぎたて、だ」
なにそれ。
私は箸袋を開けかけた手を止めた。
「江戸っ子は気が短い。だから蕎麦も、客を待たせてはいけない。つまり、蕎麦屋の本質は、味ではなく、提供速度にある」
いや、味も大事でしょ。
「現代のビジネスにも通じる。QualityよりDeliveryだ」
コンサルみたいなことを言い出した。
若い男性は、たぶん愛想笑いのつもりで口角を上げた。
その表情は、社内研修で講師に当てられた新入社員の顔に似ていた。
「そして、そばつゆだ」
男はまだ何も出ていない卓上を見つめながら、そこに仮想のそばつゆを置いた。
「江戸のつゆは辛い。これは、ただ辛いのではない。濃い。なぜ濃いか。蕎麦を全部つけないからだ」
それは聞いたことがある。
「蕎麦の先を少しだけつけて、すっと手繰る。これが粋だ」
まあ、ここまでは普通。
「しかし、私はあえて全部つける」
え。
若い男性も、少しだけ顔を上げた。
「なぜですか」
聞いちゃった。
「粋に抗うのもまた、粋だからだ」
面倒くさいタイプの逆張りだ。
男は満足そうにうなずいた。
「江戸前というものは、型を知り、型を破り、最終的には型を自分に謝らせる」
型、謝るんだ。
そのとき、店員が男のもりそばを運んできた。
せいろの上に、白っぽい細い蕎麦が端正に盛られている。つゆ、薬味、わさび。
至って普通だ。
普通なのに、男の前に置かれた瞬間、何か儀式の供物のように見えた。
男は箸を取った。
そして、若い男性に言った。
「まず香りを聞く」
聞く?
男は蕎麦に顔を近づけた。
鼻で吸うのではなく、本当に耳を近づけた。
いや、嗅いで。
「蕎麦はな、語るんだ」
語らないと思う。
「今日のこれは……少し湿度を含んだ声をしている」
湿度を含んだ声。
「梅雨前の日本橋に似ている」
具体的なようで、何もわからない。
男はようやく蕎麦を数本取り、つゆに沈めた。
さっき「先を少しだけ」と言っていたはずだが、完全に全部つけている。
しかも、わりと長めに浸している。
「こうすることで、つゆと蕎麦が対話する」
水没してますけど。
男は蕎麦をすすった。
派手な音ではない。だが、控えめな店内では、十分に存在感があった。
「うん」
男は目を閉じた。
「これは、江戸だ」
便利な感想。
若い男性のそばも来た。
彼は無難に、蕎麦の先だけをつゆにつけて食べようとした。
すると男が言った。
「違う」
かわいそう。
「君は今、蕎麦を食べようとしている。だが、江戸前の蕎麦は食べるものではない」
男は箸を置いた。
「通過するものだ」
どこを。
「口腔を通過し、食道を通過し、胃に至る。その一連の速度感。これが江戸だ」
それ、だいたい全食品がそう。
若い男性は「なるほど」と言った。
なるほどじゃない。
私は自分のもりそばを食べながら、隣を見ないようにした。
だが耳は完全に持っていかれている。午後の会議資料どころではない。
男の話は続いた。
「そば湯というものがあるだろう」
「はい」
「そば湯は、蕎麦の余韻ではない。反省会だ」
反省会。
「濃いつゆにそば湯を注ぐ。すると、つゆは自分の濃さを省みる。蕎麦は、自分が通過したあとに何を残したかを考える。客は、今日の自分の手繰り方が本当に粋だったかを検証する」
PDCAを回し始めた。
「つまり、そば湯まで飲んで初めて、江戸前の蕎麦は完了する」
ここだけ聞くと、まともに聞こえるのが腹立たしい。
男は店員を呼んだ。
「そば湯を」
まだ半分残ってるのに。
店員は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、男のせいろを見た。
しかし何も言わず、そば湯を持ってきた。
老舗の接客というより、都市部飲食店の処理能力だった。
男はつゆにそば湯を注いだ。
少し多い。
つゆ猪口の縁ぎりぎりまで白濁した液体が迫った。
「ここで大事なのは、薄めすぎないことだ」
もう遅い。
男は慎重に持ち上げ、一口飲んだ。
「うん。丸い」
それは薄いのでは。
「角が取れている。しかし、中心に一本、江戸が残っている」
その江戸、たぶん塩分。
若い男性もそば湯を注いだ。
男はそれを見て、またうなずいた。
「君は筋がいい。つゆの中に自分を残そうとしていない」
もはや評価軸が人事考課。
私は会計伝票を手に取った。
午後の会議に遅れるわけにはいかない。
隣の男はまだ、そば湯を前にして語っている。
「結局ね、江戸前の蕎麦とは、未練を残さない文化なんだ。さっと来て、さっと食べて、さっと去る」
あなた、もう二十分しゃべってますけど。
私は席を立ち、レジへ向かった。
後ろから男の声が聞こえた。
「だから長居は野暮なんだ」
本当に、どの口が。
店を出ると、五月の風が少しだけ生ぬるかった。
私は会社に戻りながら、なぜかそば湯のことを考えていた。
反省会、という表現は変だった。
かなり変だった。
でも、午後の会議の前に自分の資料を見直すには、妙にちょうどいい言葉でもあった。
私はエレベーターの中で、スマートフォンのメモを開いた。
「資料レビュー=そば湯」
と打って、すぐ消した。
危ない。
少し感染している。




