第二十七話 隣国の影
朝の鐘が三度鳴り響いた頃、学園の掲示板にひとつの告知が貼り出された。
王都へ到着したばかりのノクティス帝国使節団が、セレスティア魔導学園を訪問する――。
たったそれだけの文が、瞬く間に学園中をざわつかせた。
通りの角では令嬢たちが声を潜めて囁き合い、食堂では貴族子息たちが落ち着かない様子で制服の襟を整えている。
廊下を歩くカトリーナの耳にも、そんなざわめきが絶えず届いていた。
「聞いた? ノクティスの王子殿下が同行なさっているそうよ!」
「名前は確か……ユリウス・アルバート殿下! 王太子ではないけれど、第二王子で、まだ二十歳とか!」
「外交官としても優秀らしいわ! 魔導学の論文を三つも発表しているんですって!」
どの声も熱に浮かされたように明るい。
未知なる“異国の王子”の話題は、学生たちの心を一瞬で掴んで離さなかった。
まるで新しい星が夜空に現れたかのように、誰もがその輝きに目を向けている。
カトリーナは、そんな喧騒の中を静かに歩いていた。
髪をゆるくまとめ、扇を軽く手に持ちながら。
廊下を渡る風が、薄いカーテンをはためかせる。
「……ユリウス・アルバート」
その名を小さく口にしたとき、唇の端がわずかに上がった。
あの日、原作をプレイしていた記憶が蘇る。
――王太子ルートを終えたあとに解放される“隣国ルート”。
聡明で冷徹な青年王子、ユリウス。
けれど、その物語の背景に潜む設定を、彼女はよく知っていた。
「(そう、あなたは“もうひとつの運命”の鍵)」
エリスが退場したことで止まってしまった物語の歯車を、再び回す存在。
運命コードが乱れ、空白になった“物語の穴”を埋める役目を持つ男。
「……ここで、あなたが来るのね」
カトリーナは誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
その声音は、懐かしさと警戒が混ざったような微妙な響きをしている。
再び動き始めた世界――そこに現れる新しい登場人物。
それが救いになるのか、それとも新たな破滅の種になるのか。
まだ、誰にも分からなかった。
ルイスが後ろから歩み寄る。
「お嬢様。明日、使節団を歓迎する式典が予定されております」
「ええ、承知しているわ。……服装は公式のものを。あの方に“こちらの礼節”を見せて差し上げなくては」
「“あの方”、でございますか?」
「ええ、ユリウス殿下。彼は……観察眼の鋭い方ですもの」
カトリーナは扇を閉じて、窓辺に立った。
午後の陽光が、彼女の髪を金に照らす。
遠く、王都の塔の尖端が見える。
そのさらに向こう――帝国から来る客人たちの馬車が、もうすぐ城門をくぐる頃だろうか。
カトリーナの表情は穏やかだった。
だが、その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。
それは、観察者としての視線。
“舞台”の台本を読む者の目。
「(さぁ――次の幕が始まるわ。けれど今度の登場人物は、“書かれていなかった”人)」
そのとき、遠く離れた王都のバルコニー。
漆黒の外套をまとった一人の青年が、学園の方向を眺めていた。
夜のように静かな瞳。
淡い銀髪が、春風を受けて揺れる。
「なるほど……」
その声は、低く落ち着いていた。
だが、その奥に微かな興味と、探るような熱を含んでいる。
「これが――“悪役令嬢”か」
彼の視線の先、遠くの校舎のバルコニーでは、カトリーナがわずかに微笑んでいた。
ふたりの視線が、まだ交わらないまま、確かに同じ場所を見ていた。
新しい物語の波が、静かに動き始める。
それは、星々の運命をねじ曲げる隣国の影の到来を告げる合図だった。




