第二十五話 王太子との静かな言い合い
王宮から届いた「隣国アーベントとの合同行事」の知らせが広がって数日後。
学園は一気に慌ただしさを取り戻していた。
舞踏や外交礼式の授業が追加され、生徒たちはこぞって衣装やパートナーの準備に奔走する。
そんなざわめきの最中――カトリーナは図書塔の上階にいた。
窓の外では春風がカーテンを揺らし、机の上の書類がかすかに鳴る。
彼女の指先が走るペン先の音だけが静かに響いていた。
――その沈黙を破ったのは、重い扉の開く音。
「こんな時間に、ひとりで記録を整理とは。まるで学園の教師のようだな」
声を聞いた瞬間、ペンが止まった。
振り向くまでもない。
その穏やかで芯のある声を、彼女はもう何度も聞いていた。
「殿下。……お忍びにしては、少々お足音が大きいですわね」
カトリーナは微笑みを浮かべたまま、静かに立ち上がる。
レオン・アシュフォード王太子は、いつものように涼しい顔で立っていた。
だが、その瞳の奥――金の光には、いつもと違う熱が宿っているように見えた。
「君と、少し話がしたくてな」
「わたくしなどと? 恐れ多いことでございますわ」
「そう言うところだ」
「……え?」
レオンが歩み寄り、机の端に手を置いた。
距離が一歩、縮まる。
その近さに、カトリーナの心臓がわずかに速まる。
「いつも距離を置く。誰とでも丁寧に接し、決して踏み込みすぎない。……まるで、最初から“別の舞台の人”のように見える」
「それは、“悪役令嬢”の務めですもの」
淡い笑みで返す。
けれどレオンは引き下がらなかった。
「僕にはそうは思えない。断罪の場での君を見た時、僕は――」
言葉が途切れた。息を呑むような沈黙。
レオンの喉がかすかに動き、彼は自分の胸元に視線を落とす。
「……僕は、君を守りたかった」
その声は、囁きよりも小さく、しかし真実よりも重かった。
金の瞳が、真っすぐにカトリーナを捉える。
「(ああーーやっぱり、この人はもう“台本”の外に出てしまったのね)」
心の奥が、ひやりと冷える。
王太子は、本来ヒロインを愛する運命だった。
それが、書き換えられつつある。
「殿下」
カトリーナは一歩、静かに下がった。
「そのお言葉、あまり軽々しく口にされては困りますわ」
「軽くなどない」
レオンの声がわずかに強くなる。
金の瞳に宿る光が、炎のように揺らめいた。
「僕は、君のような人を他に知らない。強く、聡く、それでいて誰よりも優しい。悪役を演じながら、誰も傷つけないようにしている――」
「殿下」
カトリーナはその言葉を、やんわりと遮る。
扇を開き、微笑んだままその隙間から彼を見た。
「わたくしは、“演じている”だけですの。本当のわたくしをお知りになれば、きっと退屈な人間だとお思いになりますわ」
「……そう言って、自分を遠ざけるつもりか?」
「そうですわ」
即答に、レオンの眉がわずかに動く。
彼は言葉を失ったように沈黙した。
その沈黙の中、カトリーナはゆっくりと息を吸う。
「殿下は王太子でいらっしゃる。そして、この国の“物語”の主役。ーーですから、わたくしのような“端役”に心を向けてはなりません」
淡い声だった。
だが、拒絶ではなく、祈りのような響きを含んでいた。
レオンは何も言わず、しばらく彼女を見つめていた。
やがて小さく笑う。
「……本当に君は、強いな」
「いえ。強いふりが得意なだけですわ」
カトリーナは扇を閉じ、軽く一礼した。
それ以上、言葉を交わすことはなかった。
けれど、二人の間に流れる空気は、もう以前のような“王太子と令嬢”ではなかった。
レオンの背が遠ざかる。
その背を見送りながら、カトリーナは胸の奥で静かに呟いた。
「(殿下……あなたを、巻き込むことになるわ)」
窓の外では、春の空に薄い雲が流れていく。
風に揺れるカーテンの隙間から、一筋の光が差し込んだ。
その光が、まるで彼女の心の奥の不安と希望を、ひとつに縫い合わせるように――
静かに、暖かく、揺れていた。




