第十六話 舞踏会事件・裏
華やかな夜会の翌日、王都はまだ祝祭の余韻に包まれていた。
だがその裏で、誰も知らぬもう一つの舞踏会が静かに進行していた。
エリス・ベルフェリアが、数人の女子生徒を呼び出していたのは――夜会の数日前のこと。
薄い笑みを浮かべ、優しく語りかける。
「ねえ、お願いがあるの。少しだけでいいの。
舞踏会のとき、カトリーナ様が私を睨んでいたって言ってほしいの」
少女たちは一瞬戸惑った。
けれど、エリスの柔らかな声に安心したように頷いた。
「もちろん悪いことじゃないの。ただ、誤解を解くため。ね? もし何か言われたら、私が全部説明するから」
まるで天使のような笑顔でそう告げる彼女に、誰も逆らえなかった。
――その時までは。
――◇――
そして夜会の翌日。
私は王都の寄宿舎に戻り、書類整理をしていた。
ワインの染みが残るドレスはすでに片づけられ、ルイスが静かに紅茶を淹れている。
「……お嬢様、噂が少し戻り始めています」
「戻り始めている?」
「ええ。『グレイス令嬢は嫉妬していた』、『庇ったのも演技だった』と……。どうやら、証言がいくつか出ているようです」
私は扇を閉じ、深く息を吐いた。
予想していた。けれど、行動が早い。
「(ふふ……やるじゃない、エリス。裏工作まで完璧。でもね、私はもう悪役じゃない。策略の裏を読む側よ)」
その時、控えめなノックの音。
入ってきたのは、一人の少女――初等貴族の令嬢、クラリッサ・ハート。
夜会でエリスの側にいた生徒のひとりだった。
彼女は蒼ざめた顔で、手を胸に当てて立っていた。
「……カトリーナ様、少しだけお話をさせてください」
「どうぞ。座って、紅茶を」
ルイスが椅子を勧める。
クラリッサは震える指でカップを持ち上げ、唇を噛んだ。
「……わたし、嘘をつきました。夜会の時、エリス様に頼まれたんです。カトリーナ様がわたくしを睨んでいたって、言うようにって」
彼女の声は震えていた。
けれど、その瞳には確かな決意があった。
「本当は……そんなこと一度もありませんでした。
でも、エリス様があなたのためになるって言って……」
私は静かに頷いた。
彼女を責める気は、これっぽっちもなかった。
「ありがとう、クラリッサ様。正直に話してくれてうれしいわ」
「で、でも、わたし……許されないことを……!」
「いいえ。あなたは今、真実を選んだ。それだけで十分、勇気ある行動ですの」
私はそっと立ち上がり、彼女の手を取った。
「このこと、私から王太子殿下にお伝えします。嘘をついた少女がいたではなく――真実を語る勇気を持った令嬢がいたと」
クラリッサの瞳が涙に滲んだ。
やがて、彼女は震える声で「ありがとうございます」とだけ告げ、深く頭を下げて部屋を出ていった。
ルイスが小さく呟く。
「お嬢様……優しすぎます」
「違うわ。悪役令嬢らしくない優しさこそ、今は一番の武器よ」
私は微笑み、窓の外に目を向けた。
夕暮れの空に、王都の塔が赤く染まっている。
「(さて、レオン殿下。あなたの耳に、どう届くかしら)」
――◇――
その日の夜。
王宮の執務室で、レオンは一枚の報告書を見ていた。
グレイス令嬢、虚偽の証言を責めず、少女の名誉を守るーー
その一文を読み終え、彼は小さく息を吐いた。
「……やはり、彼女は噂のままではない」
机の上の書簡を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、舞踏会のあの瞬間――
笑って人を救った、あの凛とした瞳。
「(誰よりも貴族的で、誰よりも優しい。……あれが、本当の彼女だ)」
その思考の先で、彼の中に芽生えていたのは、
信頼というよりも――感情のようなものだった。
――◇――
一方その頃。
エリスは自室で、鏡の前に立ち尽くしていた。
薄桃色の髪が乱れ、手元の書簡が床に落ちる。
「……どうして。どうして全部、彼女に持っていかれるの」
噂は完全に逆風。
聖女の名声は剥がれ落ち、レオンの視線も、周囲の信頼も、すべてカトリーナのものになっていた。
唇を噛み、爪が掌に食い込む。
「このままじゃ――私がヒロインになれない……!」
鏡の中で、涙をにじませたその顔は、もはやヒロインではなかった。
光を求めながら、闇を手に取る少女の瞳。
その奥で、新しい物語の歯車が、音を立てて回り始めた。




