第十五話 舞踏会事件・表
王都の夜は、まるで星そのものが地上に降りたかのようだった。
王宮の大広間には無数の灯りが並び、金糸のシャンデリアが輝きを放つ。
磨き上げられた大理石の床に反射する光は、まるで波のように揺れている。
春星の舞踏会――王国の誇る、最も華やかな夜。
私は、ルイスに裾を整えられながら深く息を吸った。
銀青色のドレスが、光の角度によって月のようにも氷のようにも見える。
鏡の中の私は、完璧に微笑んでいた。
「(今夜は、悪役令嬢としてではなく、策略家として踊る夜よ)」
扉が開かれると、眩い光と音楽が私を包み込んだ。
貴族たちの視線が一斉にこちらを向く。
その中に、レオン殿下の金の瞳があった。
静かに頷かれただけで、少しだけ心が揺れる。
けれど、その一瞬の温もりの影で――冷たい視線も感じた。
エリス・ベルフェリア。
彼女は桃色のドレスに包まれ、完璧な笑みを浮かべていた。
まるで「この夜こそが、あなたの終幕です」と言わんばかりに。
――◇――
舞踏の時が訪れた。
音楽が始まり、ペアたちが次々とホールへと進む。
私は予定どおり、別の貴族子息と礼儀正しくステップを踏む。
――エリスとは、できるだけ距離を取って。
エリスは距離を取られていることに苛立ちを感じていた。何よりカトリーナを転ばせるように指示した令嬢が全く動きを見せない。
「(このままでは……!)」
曲が変わり、視線が一斉に中央へ向いたその瞬間――。
「きゃっ!」という声が響く。
エリスが、人混みの中でよろめいた。
次の瞬間、彼女のドレスの裾が床の飾りに引っかかり、そのまま倒れかけ――。
「危ない!」
私は思考より先に身体が動いた。
反射的に駆け寄り、彼女の腕を掴む。
その勢いで、私の胸元にワインがこぼれた。
銀の布に、赤いしずくが散る。
ざわめき。
音楽が止まり、会場全体が凍りつく。
誰もが、次に起こる断罪を期待していた。
原作なら、この瞬間、カトリーナが怒りに任せてヒロインを罵倒し、王子に見放される破滅の舞台。
だが、私はただ静かに微笑んだ。
「大丈夫ですわ、エリス様?」
腕を支えたまま、ゆっくりと彼女を立たせる。
エリスが一瞬、息を呑む。
その瞳には確かに想定外の色が浮かんでいた。
「わ、私……その、すみません……」
「謝らないで。これは私の不注意ですの。
――ドレスの裾を踏んだのは、私のほうですわ」
会場に小さなどよめきが広がる。
「えっ……グレイス様が?」「そんなはず……」
「だって今、庇ったじゃ……」
私は扇を軽く開き、落ち着いた声で言葉を続けた。
「舞踏会は祝福の場ですわ。どんな過ちも、笑って流せる余裕があってこそ貴族でしょう?」
その一言で、空気が完全に変わった。
悪役令嬢がヒロインを庇ったーーその構図だけで、観客の心が動いたのだ。
レオンがゆっくりと近づいてきた。
そして、軽く頷きながら言った。
「見事だ、グレイス令嬢。君の落ち着きと品位は、まさに我が王国の誇りだ」
周囲の視線が、敬意と称賛に変わっていく。
エリスは一歩下がり、唇を噛みしめた。
「(違う……違うのよ……! こんなの、わたしの思い描いた展開じゃない!)」
彼女の胸の奥に、怒りと焦燥が渦を巻く。
人々はカトリーナを称え、レオンの視線ももう彼女に向かない。
聖女の笑顔は、誰も信じていない。
私は静かに会釈をして、その場を離れた。
ワインの染みが、まるで勝利の勲章のように赤く輝いていた。
――◇――
夜会の片隅。
月光が差し込むバルコニーの陰で、エリスは震える指先を握りしめていた。
「(……このままじゃ、すべて彼女に飲み込まれる)」
星の光がその頬を照らす。
けれど、その瞳の奥は、もう“光”ではなかった。
「なら――証人を増やすしかないわね」
小さな呟きが、夜風に溶ける。
微笑みを取り戻したその横顔は、もはや“聖女”ではなく、復讐を誓うプレイヤーのそれだった。
次の幕が、ゆっくりと開こうとしていた。




