逃避のすゝめ
「何もなくなったら、君は小説家にでもなればいい。だから、それまでは逃げ続ければいいんだよ」
そう言ったのは、蟻坂だった。
蟻坂は私の幻聴であり、幻視だ。それ故に、一般の人間には見えない。私自身、蟻坂が幻視であり幻覚であると知ったのは、二十六歳を過ぎて少し経ってからだった。それまで、私は、蟻坂が普通に存在する人間だと思っていたのである。蟻坂という名前は私がつけた。彼女は自分の名前を名乗らなかったのだ。そのため、出会った店の名前である『ありさか』をそのまま彼女の名前として使っている。
私は現在三十三歳になる。二十六歳の時に、統合失調症と診断され、それ以来、社会とは少し外れたところで生活してきた。否、逃げ続けたと言ってもいいだろう。私が逃げてきたのには理由がある。大きな理由は、私が統合失調症になってしまったことだろう。この病気は、百人に一人は罹患する、決して珍しい病気ではない。過去、統合失調症は、精神分裂病と呼ばれ、不治の病として恐れられた。これに罹患すると、一生精神病患者のレッテルを張られ、病院で暮らすと言われていたのである。
しかし、今はそんな風にはならない。統合失調症は、今やそれほど恐れる病気ではない。医学が進歩し、薬も発達した昨今では、キチンと精神科や心療内科を受診し、適切に治療を受ければ回復が見込める病気なのである。私自身、この病気になり七年が経つが、今は薬を飲めば症状は安定している。見た目の印象は、普通の人間と何ら変わらないだろう。ただ、緑色の障害者手帳を保持しているだけだ。後は、障害年金を受給しているくらいか。いずれにしても、かなりギリギリの生活を送っている。
私が蟻坂に会ったのは、確か二十五歳を過ぎてからだったと記憶している。私の場合、大学を出てから専門学校に進学した関係上、二十五歳まで学生生活を送っていた。人よりも社会に出るのが遅かったのである。専門学校に進学した理由は、今となっては曖昧になっている。ただ、社会に出るのが怖かったのかもしれない。もう少し、先延ばしにして学生生活を満喫したかったのかもしれない。専門学校では、服飾に関して学んでいた。洋服の型紙を引くパタンナーという職種に憧れていたからだ。だが、私はパタンナーにはなれなかった。正確には、なれなかったというよりも諦めたと言った方が正しいだろう。三年間の専門学校に通っていて、就職活動を行っていた三年生の時に、私は猛烈にパターンを引くのが嫌になったのである。こんなものを仕事にしたら、きっとおかしくなってしまう。そう思ったのだ。だから、私はパタンナーの道を諦めた。大学を出てわざわざ専門学校にまで通ったのに、その道をあっさりと諦めてしまったのだ。
当初、私はそれでもいいと思っていた。とにかくパターンから解放されるなら、何だっていいと感じていたのである。しかし、それは誤りだった。私は専門学校を卒業し、猛烈な後悔に襲われる。後悔のない人生というものは、恐らくありえない。人は少なからず後悔という呪縛を背負っている。大なり小なり、後悔というものは誰にでもあるだろう。あの時に戻りたい。そう思うのは、そこに後悔があるからだ。私もその例に漏れず、大きな後悔を背負っている。パタンナーを諦め、何もなくなってしまい、私は途方に暮れた。どうしてあっさりと諦めてしまったのかと、自分を呪った。それでも気づいた時にはもう遅かった。
日本という国の就職システムはかなり変わっている。新卒という枠があるからだ。私は新卒で就職しなかったから、新卒という枠組みについて百パーセント知っているわけではないが、これほど至れり尽くせりという就職システムを私は知らない。まさに就職するために仕組みと言えるだろう。だから、皆この枠で就職しようとする。同時に、新卒という枠を外れしまうと、一気に氷河期のような就職活動を背負う羽目になる。私は新卒で就職せず、いわゆるプー太郎という人種になってしまった。そこから自分を変えようと必死に職を探したが、道は険しかったのである。恐らく、百社以上の会社を受けただろう。その内、面接までたどり着いたのは十社程度。実際に採用が決まったのは、二十五歳が終わろうとした時だった。
ギリギリの精神の中、私は就職を決めた。ようやく決まった会社であり、そこはテキスタイルの会社であった。テキスタイルというのは、簡単に言えば生地を扱う会社である。私が採用された会社は、主に洋服の生地を扱っていた。私は服飾の専門学校に通っていたから、その恩恵を受けてファッション業界の川上の分野に就職したのである。と、ここまではよかった。回り道はしたが、ようやく社会に立てたのである。これから社会人としてやっていこう。そう高らかに宣言していた。ただ、私の社会人生活はたった三ヶ月で終わりを告げる。研修期間が三カ月ある会社だったのだが、その三カ月で私は会社にいるのが嫌になってしまった。猛烈に逃げたくなったのだ。研修を終え、いざ本採用が決まる段階になると、私は絶望に包まれた。このまま会社にいたくない。逃げたい……。そう思ったのである。
そんな時だった。私が蟻坂に会ったのは。
私は社会人時代、毎週金曜日の夜に一人で居酒屋へ行きハイボールを飲むのが日課になっていた。これがストレス発散になっていたのである。行きつけの居酒屋があり、そこで私は蟻坂に会った。蟻坂は居酒屋にいるのに、何のメニューの注文せずに、ただ私の前に立っていた。(私がいた居酒屋は立ち飲み屋である)。ここで蟻坂の容姿を説明しておこう。蟻坂の身長は一六〇センチくらいだろう。普通くらいの身長をした女性である。ただ、夏だというのに、パンツスーツを着こなし、白のブラウスの一番上のボタンを開けてきた。パンツスーツは漆黒であり、どこか喪服を彷彿させる。そんな格好で立ち飲み屋にいるものだから、私は正直、頭のおかしい女なのではないかと、察していた。だが、声をかけるわけでもなく、ただ遠くから彼女を見つめていた。この時、私は蟻坂に興味があった。それは蟻坂の容姿が私のタイプの女性だったからではない。どことなく、自分と同じ匂いを感じていたのだ。自分と同じ匂い。それは社会に対する適応力である。私は正直、社会人としての素質があまりない。遅刻や早退が多いわけじゃない。無遅刻なのは当たり前であるし、普通に仕事をこなしていた。だが、私は心のどこかで社会に適応しない何かを感じていた。上手く言葉で説明できないのだが、自分の居場所がここではないような気がして、途端に嫌になるのである。一度嫌なになると、そこから抜け出すのは容易ではない。呪いのように、私を襲い「逃げろ!」と告げるのである。
「嫌なら逃げればいいのよ」
蟻坂はたこ焼きをつまみにハイボールを飲む私のそばまでやってきて、徐にそう言った。逃げるという選択肢を取るのは楽だ。だが、そのツケは支払わなければならない。私の場合、パタンナーが嫌になり一度は逃げ出した。その結果、新卒という素晴らしい就職システムを逃し、その後辛酸を舐める羽目に陥る。逃げても問題は解決しない。問題を先送りにするだけなのではないか? 私は少なからずそう思っていた。だが、蟻坂はそうは考えていないようであった。
「逃避はね、問題の解決になるの。逃げ続ければ、いつしか問題は風化され、問題であったことすら忘れてしまう。だから大いに逃げなさい」
おかしな女だ。逃げれば問題が問題でなくなるだと! そんなのは幻想だ。逃げても問題は問題のままだ。決してなくならない。むしろ逆に自分を縛る鎖のようになってしまうだろう。だからこそ、私は逃げたくはなかった。しかし、その時の蟻坂の言葉は妙に芯を突いていて、私を震わせたのである。弱っていた時期であった。とにかく今の現実から逃げたかった。逃げる理由が欲しかったのである。そんな中、唐突に蟻坂が逃げる道を与えてくれたから、私はその道に縋りたくなった。
私は何かに対する判断が人よりも早い。これはいつからそうなったのかはわからないが、とにかく一度ものを決めると、それを覆すのが難しいのである。だから、仕事を辞めたくて、逃げる方法を考えて、いざその道が見つかると、私は逃避の道に一直線に進んでしまう。だが、昔から逃げてきたわけではなかった。むしろ、昔は忍耐強かった方だと思う。私はその昔、サッカーをしていた。到底Jリーガーになるようなレベルではないが、合計して十年ほどサッカーを続けたのである。事は中学時代に起きる。中学時代、私は県内でもレベルの高いサッカーのクラブチームに所属しており、そこで活動をしていた。同じ小学校からも、数名の同級生が一緒に入り、共に活動をしていたのである。しかし、あまりにクラブのレベルが高いため、私と同じ小学校だったチームメイトはレギュラーになれなかった。当然、私も万年Bチームの劣等生であり、とてもではないが、試合に出られるようなレベルではなかったのである。
一年程たち、同じ小学校から進んだ生徒がクラブチームを辞めた。理由は聞いていない。恐らくだが、試合に出られないから辞めたのだと思う。同級生が辞めたものだから、私の両親も私がクラブチームを辞めるであろうと思っていたようである。しかし、私は辞めなかった。ここでチームを去り、試合に出られるチームに移れば、それで青春を謳歌できるかもしれない。だが、それは単なる逃げで、私の美学に反した。同時の私は、忍耐こそ美徳であると思っており、とにかく耐えていたのだ。私は結局、三年間クラブチームに所属し、卒業まで活動を続けた。周りは私の勇気ある行動を讃えてくれた。これは、私の中でも自信につながった。例え、試合に出られなかったとしても、最後まで逃げずにチームに残った事実は、私に大きな勇気を与えたのである。中学時代のクラブチームで出来事があったから、私は忍耐強い人間だと周りから思われていた。私自身、忍耐強いと思っていたところがある。しかし、それは幻想であり誤りであった。社会に出たら、私の忍耐力はあっさりと吹き飛び、あっという間に逃避の道を走ってしまった。一度逃げると、もう止まらない。暴走した列車が急に止まれないよう、行くところまで突っ込んでしまう。逃げ続けて、気づいた時、私は途方もない、焦りと劣等感に襲われる。
既に述べてきているが、私は二十五歳まで学生であった。通常は大学を出ると二十二で卒業し、就職するから、私は世間よりもスタートが三年遅いのである。三年遅いだけでも、かなりマイナスであるのに、尚且つ新卒で就職しなかった私は、世間の普通からかなりあぶれたところで生活する羽目になった。二十五歳を迎えた時、未だに就職できずに、プー太郎のような生活を送っている自分に嫌気がさした。何もできない自分が情けなくて、堪らなく嫌なになったのである。とはいっても、どうしようもない。それでも粘って就職活動を続け、ようやく入った会社を、たった三ヶ月で退職し、私は逃げ続けた。それは、今思うと蟻坂の指示だったのかもしれない。
すべてを蟻坂の所為にするつもりは毛頭ない。決断したのは私である。ただ、その決断のための背中を押したのは蟻坂でもある。だから、責任の半分は蟻坂にもありそうなのであるが、私は蟻坂の所為にはしなかった。彼女に責任を押し付けても、辞めてしまった事実は消えない。前を向いて歩いていくしかないのである。仕事を辞め、途方に暮れた時、私はスーパーでアルバイトを始めた。どうしても生活費を稼がなければならない。私の両親はその当時、現役で働いていたから、仕送りを貰うという選択もできた。恐らく、その方が楽であっただろう。ただ、私はその選択を選ばなかった。ただでさえ、二十五歳まで学生であり、学費を払ってもらっていたのに、その後も継続して生活費を強請るなんて真似は、私にはできなかった。申し訳なくて、いくら貧乏になっても良いから、自分の生活費くらいは自分で稼ぎたかった。
スーパーでのアルバイトは、正直に言って苦痛であった。覚える仕事はあまり多くない。私は深夜帯のシフトに入っていたから、やる仕事はレジ打ちと商品の品出し、後はレジのお金の清算処理である。清算処理だけはかなり面倒なところがあったが、一度覚えると、それほど難しくなく、一カ月程度で難なくできるようになった。仕事は思いのほか楽である。だが、苦痛なのだ。深夜帯のスーパーはとにかく暇である。私のいた地区は、繁華街が近いわけでもなく、住宅地であるので、夜九時を過ぎれば、それほど人は来ない。仕事帰りのサラリーマンたちが値引きされた弁当や総菜を買い求めるだけである。それ故に、仕事はほとんどない。レジを打ち、足りなくなった飲料などを補充するだけで、後はダラダラと過ごす。このダラダラが意外と厄介であり、仕事がないから、とにかく時間が長く感じるのである。早く家に帰りたくて堪らなかった。同時に、かなり低賃金で働いていたので、働いても働いても、貧乏には違いなかった。いつまでこんな生活を続ければいいのか? それがわからず、私は悶々としていた。正直に言えば、地獄のような時間だった。
スーパーは深夜一時までやっており、仕事が終わると一時半を回っていた。帰り道、ひっそりと寝静まった住宅地を歩く。私の隣には、どういうわけか蟻坂が立っていた。蟻坂は私の仕事が終わるのを見計らっているのか、不意に現れて私と共に深夜の道を歩いた。
「スーパーの仕事はどう?」
蟻坂は大して興味がなさそうに呟いた。
私はとりあえず質問に答えておいた。
「苦痛だよ」
「なら逃げたら。嫌ならどんどん逃げなさい」
「金がないんだ。働かないと」
「生活保護があるじゃない。それにあなたには両親もいる」
「僕にもねプライドがあるんだ。自分の生活費くらい、自分で稼ぎたい」
「逃げれば楽になるのに……」
蟻坂はそう言うと、フッと笑い白い歯を見せた。
私は結局、スーパーの仕事も逃げた。堪らなく嫌になって、別の仕事を探そうと思ったのである。正直話、次の仕事のあてはない。まるっきり見切り発車の状態だ。スーパーの仕事を辞め、比較的自由が利くようになると、私は朝からハローワークに通い、就職活動を始めた。やる仕事は何でもよかったのだが、ハローワークの職員が、ファッション業界にいた経験が少しでもあるなら、同じ業界を選んだ方が上手くいくと助言してくれたので、私はそれに倣い、アパレルを中心に就職活動を続けた。とはいうものの、販売員はしたくなかった。販売の仕事は、きっと向いていないと勝手に思っていたのである。当時、私は二十六歳になっており、就職活動は困難を極めた。一般的な企業は未経験であると大体二十五歳くらいまでが上限のようで、二十六歳になると、途端に採用の枠が小さくなったような気がした。ほとんどの会社の選考に落とされ続けた。面接はおろか、書類選考にすら通過しない時代が長く続いたのである。逃げ続けてきたツケがここで回ってきたと感じだ。
ただ、意外と次の仕事は早く見つかった。スーパーを辞めて二カ月くらいで、ある販売員の仕事が見つかったのである。販売というのがネックであったが、貯金も底を突き、選んでいられなかった。とにかく仕事がないと金がない。仕方なく、私は販売員の仕事を始めた。これが地獄への始まりだとも知らずに。
私は統合失調症である。初めて病院に罹り、実際に診断が下ったのは二十六歳の時なのだ。つまり、販売員の仕事を始めた時期に重なる。私が採用された販売員の仕事は紳士服の販売であり、賃金はそれほど高くなかった。また、変なノルマがあり、顧客に服を買ってもらわないと、自分の評価が上がらないのである。だから、服が売れないと、いつまでたっても賃金が上がらない。給与は深夜のスーパーとそれほど変わらなかった。販売員の仕事はとにかく苦痛である。ファッション業界の接客業というものは難しい。私はそれほど話が得意なわけではないから、必然的に客と話す接客業は、とにかく向いていなかった。だが、全く話せないわけではない。それなりに、私は仕事をこなしていたのである。だから、他の社員からの評価はそれほど悪くなかっただろう。それでも、少しずつストレスは溜まっていく。ストレスが溜まると、私は食が進まなくなる。まず、お昼休みに昼食が全く食べられなくなった。昼休みは、食事に出かけると嘘をつき、フリスクを食べながらお店の近くの図書館で時間を潰していた。昼食を食べなくなり、その分夕食をたくさん食べていたわけではないので、私はかなり痩せてしまった。当時の私は体重計を持っていなかったのだが、恐らく一カ月で五キロ程度は体重が落ちたのではないだろうか。体重も減り、筋肉も同時に減ったからかなり体力が落ちてしまった。電車通勤をしていたのであるが、駅の階段を上るのが非常に辛くなってしまった。
昼食を食べなくなってから、三カ月ほどたち、私は精神にも異常をきたし始めた。私の働いていた職場は、来客を告げるベルがあるのであるが、そのベルの音が四六時中頭の中で鳴るようになったのである。だから、私は家に居ながらも職場にいるような気分になり、ストレスが溜まる一方であった。この時、これが幻聴であるという自覚はあまりなかった。ただ、遠くから聞こえるベルの音であると、勝手に思っていたのである。しんどい日々が続く。私は職場が嫌いであったから、このベルの音は大いに私を苦しめた。とにかく、ずっと職場にいるような感じがして、心の休まる時間がなかった。いつしか睡眠不足に悩まされ、夜十二時に布団に入ったのに、明け方まで一睡もできないという日々が長く続いた。睡眠不足が続き、さらに食事をまともに摂っていなかったので、私は一気に老けてしまった。職場に人間にも心配される始末である。しかし、私は医者には行かなかった。この時、ベルの音や不眠という症状は、恐らく精神的な病であろうという自覚が芽生え始めていたのであるが、精神的な病というものは、どこかメンタルが弱い者がなるものであり、気合で何とかなると、高をくくっていたのである。つまり、私は精神的に追い詰められていたものの、それを認めたくなかったのだ。医者に行ったら負け。そんな風に感じていた。今思えば、もっと早い段階で心療内科なり精神科を受診していたら、もっと楽になっていたかもしれない。
「休めばいいのよ。そんなに辛いのなら……」
そう言ったのは、他でもない蟻坂である。この時、蟻坂という女性はどういうわけか私の家に頻繁に現れるようになった。この時、私は蟻坂を幻視だという自覚がなかったのであるが、特に気にせず蟻坂を迎え入れていた。よく考えれば、おかしな話である。私と蟻坂は決して男女の付き合いをしている関係ではなく、突き詰めて考えれば他人のような間柄である。だからこそ、そんな他人である蟻坂が私の家に入り浸っているのは、かなりおかしな状況なのである。なのに、私はその違和感に気づかなかった。自然に蟻坂が家に居るものだと感じていたのである。というよりも、私は蟻坂と話すのを心のどこかで楽しみにしていた。職場でのストレスを抱え、さらに食事がまともに摂れなくなり、不眠にも陥った私にとって、蟻坂との会話は一つの癒しになっていたのである。今思えば、蟻坂という幻視が、私の心のバランスを取る役目を担っていたのかもしれない。蟻坂は不思議な女であった。ほっそりとした今風の体型をしているのであるが、私は蟻坂が食事をしているのを見たことがない。食事をほとんど摂らなくなったものの、私はサラダや蒸かした野菜などを少量食べる生活は続けており、蟻坂の前でその食材を食べる場面があった。蟻坂はじっと私の食事を見ているだけで、決して食べようとはしなかったのである。特に食べたいような素振りも見せなかったので、私は気にはしていなかっただが、ある日私は蟻坂に向かって、こんな風に尋ねてみた。
「蟻坂。君は何が好きなの?」
僕の問いに、蟻坂は少し考えた素振りを見せて、静かに答えた。
「好きなもの? 食べ物かしら」
「うん。君は何を食べるんだ? 僕は君が食べる姿を全く見ない」
「私は食べないの。空気さえあればそれでいいのよ」
それは奇妙な告白であった。当然ではあるが、人は食べなければ生きていない。一日や二日程度であるならば、絶食しても体重が数キロ落ちるだけで命に別状はないが、一週間は生きられないだろう。また、一カ月の絶食は不可能である。人は食べ物からカロリーを摂り、栄養を補給しなければ生きていけないのだ。にも拘らず、蟻坂は空気さえあればいいという。こんなに不可解な言葉はないだろう。通常の状態であれば、この段階で蟻坂が普通の人間ではないと読み取るのは容易であったであろうが、この時の私は精神的に深く病んでいたので、蟻坂の存在が幻であると見抜けなかったのである。蟻坂の姿や声を感じ始めたのは、精神的に深く病む前であったから、その時にも気づけそうなものであるが、私は、蟻坂が実際に存在する人間であると思っていたのだ。頭がおかしいと言えばそれまでであるが、私は販売員の仕事をする前から、蟻坂という幻視を見て幻聴を聞いていたのである。ただ、気づかなかったのだ。蟻坂があまりに自然な存在であったから、普通にいる人間であると誤解してしまったのである。食事をしない存在。それが蟻坂である。不思議な存在であり人間を超越している。しかし、私は特に不思議には思わなかった。そんな存在もいるのであろうと、勝手に納得してしまったのである。蟻坂という不思議な存在との共同生活は続く。眠れなくなり、数カ月がたつと、私は夜のほとんどを蟻坂と話して過ごした。当時、壁の薄いアパートに住んでいたから、隣の住民はかなり迷惑だったかもしれない。夜中喋っているのであるから……。
この時、私はギリギリのバランスを保持していた。眠れなくなり、食事もままならなくなっていたのであるが、何とか生活できるレベルにはあり、仕事にも真面目に通っていた。しかし、ベルの音は鳴りやまず、むしろ逆に酷くなっていった。ベルの音は、蟻坂との会話を阻害するくらい大きくなり、私は現実と夢の区別が徐々につかなくなっていった。少しずつ精神が破綻していき、歩いていて突然大声を上げたくなる衝動を覚え、奇行を行うようにもなっていた。流石にこの頃になると、職場にも影響が出てきた。全く接客ができなくなり、常に疑心暗鬼でいるので、職場の人間が私を心配して、医者に行くように促した。最初、私は医者に行く予定は全くなかった。行っても意味がないと思っていたのである。しかし、少し職場を休みなさいと促され、それがきっかけになり、医者に行ってみようという気持ちになれた。早い話、医者に行くのなら、仕事を休んでもいいと言われたのである。仕事が嫌であった私は、仕事が休めるのであれば、嫌な医者に行くくらい問題ないだろうと楽観的に考えて、医者に行ってみようと考えた。初めて精神科を受診することになったのである。
精神科の多くは、事前に予約が必要になる。そのような初歩的な事実すら、当時の私は知らなかった。通常の内科などのクリニックと同じで、予約など不要で見てもらえるものだと思っていたのである。実際に、予約が必要であると知り、私は家の近所の心療内科や精神科を探してみた。残念ながら家の近所には精神科や心療内科は存在しなかった。それでも、電車で数駅離れたところに、一件精神科があるようで、そのクリニックのホームページを参照し、大体の雰囲気を掴んだところで、実際に診察の予約を依頼した。私が選んだ精神科は、かなり人気があるクリニックのようで、実際に見てもらえるまで二週間前後かかってしまった。職場の人間に実際に医師に診てもらうまで時間がかかると告げると、その期間は仕事を休職してもよいと言われたので、私は自宅待機する日々を過ごしたのである。嫌な仕事からも解放され、少しだけ精神状態は回復していた。とはいっても、ほんの些細な回復力である。決して劇的に回復したわけではない。相変わらず、食は進まないし、さらに眠れない日々を過ごしていた。おまけに、私の頭の中では四六時中ベルが鳴っており、正常に思考するのを阻害していた。かなり弱っていた時期であったと言える。今思えば、よくこんな状態で生活していたと、驚くばかりである。すべてがギリギリのラインであった。これ以上悪化すれば、恐らく私は精神的に深く病み、長期の入院を余儀なくされたであろう。しかし、一人暮らしで、何とか生きていかなければならないという、自己犠牲の精神が、私を限界ギリギリのところで奮い立たせていた。眠れなくなり、幻聴を聞いても私はしつこく生き続けていた。
「死のうと思わないのか?」
精神を病むと、よく人は自殺を考える。太宰治の名作『人間失格』は自殺話だし、実際に自殺を考える人間は、実は多くいるものである。私自身、死を全く考えなかったわけではない。死にたいと思う日々もあった。死ねば楽になるような気がしていたのだ。だが、本当に死にたいのかと言えば、首を縦には振れなかった。死は最大の逃避だ。というよりも、死んだらすべてが終わってしまう。私はそれが怖かった。この時、私はまだ自分に何かあるのではないかという密かな期待をしていたのだ。つまり、私は特別な人間で、何か特別な力が内包されており、それが使えない状態になっているだけなのではないかと、考えていたのである。今風の言葉を使うと、『中二病』というやつである。もちろん、私には特別な力なんてない。物覚えは悪いし、ファッションの学校に通い、服飾の勉強をしていたのに、手先は不器用であった。未だに私は玉止めが上手くできないのである。つまり、私には特別な才能はない。むしろ、才能があるのであれば、恐らくこんなに苦労していない。もっと早く何らかの分野で才能を発揮できていただろう。それができていないのは、私に才能がない証拠であり、特別な力などないのだ。決して、魔術が使いたいとか、超能力を手に入れたいとか、そんな願望があったわけではない。ただ、何かキラキラ光る才能の欠片のようなものが欲しかった。突き詰めて考えると、私は何かで認められたかったのだ。当時、私は二十六歳になっていたが、逃げ続けてきた人生であり、何かを達成したわけではなかった。仕事でもうだつは上がらないし、認められたわけではない。だからこそ、誰かに認めてもらいたかった、褒めてもらいたかった。私は褒めて伸びるタイプなのだ。
少し話が脱線したが、私は死ぬつもりはそれほどなかったのである。多くの偉人が人生一度しかないから悔いのないように行動しなさいという。しかし、私はそれに疑問を覚えている。もしこれが序章だったらどうすればいいのであろうか? 実は、現世はこれから始まる新しい世界の序章であり、死がすべての始まりだったら、この世界で行ったすべての行動は無意味になる。だからこそ、私は一度しかないから悔いのないように行うというのは半分だけ信じて、半分は信じていない。むしろ、後悔のない人生などありえないのだ。死がすべての始まり。その考えは、今でも私を苦しめている。死があるから、上手く行動に移せない。死ぬのが怖い。これは当たり前だ。誰だってすき好んで死にたくはないだろう。自殺をしたがる人間は多いが、心のどこかでは生きたがっているのだ。要は絶妙なバランスで成り立っている。私がこの時感じていたのは、多分死んでも意味がないということだった。死がすべての始まりであろうと、そうでなかろうと、それは関係ない。死ねばすべてが終わってしまう。そんな風な考えが頭を過っていた。故に、私は死を考えてこなかった。とりあえず生きようと思っていたのである。
二週間経ち、私は精神科の門を叩く。初めて行く精神科は、私の想像した世界とは全く違っていた。精神科というと、何というか薄暗い診察室で窓もないような部屋を想像するが、全く違っていた。むしろ、普通のクリニックよりも清潔感が保たれており、雰囲気が良い場所であった。最初に私を診察した医師は女医であった。決して若い医師ではなく、恐らく四十代後半くらいの女性であったが、優しそうな人柄で、私はすぐに信頼できた。簡単な自己紹介や症状を説明し、カウンセリングのような診察が続いた。私は医師を信頼していたが、すべてを説明しなかった。万が一入院になったら、大ごとになってしまう。精神科に入院すると、もしかすると、二度と娑婆の土は踏めないかもしれない。そんな根拠のない恐怖があった。だからこそ、私はベルの音が鳴る幻聴について一言も話さなかった。私が話した内容は、『食事が摂れない』『眠れない』。この二つである。幻聴があるなどと言えば、きっと長期の入院になり、問題が多くなってしまう。仕事を休めるのはありがたいが、入院する費用などない。だから、何とかして入院だけは回避したかった。この時の私は、見た目の印象もかなり痩せていたので、医師は一目見て私の異常を感じ取ったらしかった。私は身長が一八〇センチあるが、この時の体重は五十キロ程度であった。故にかなり痩せていたのである。結局、私に下った診断は重度の「鬱病」であった。初診にも拘わらず、大量の睡眠薬と、抗鬱剤が処方された。初めて飲む精神安定剤には抵抗があった。何か、二度と正常には戻れないのではないかという恐怖があった。だから、最初の数日は抗鬱剤を全く飲まずに、睡眠薬でだけ飲んでいた。睡眠薬の効果はそれなりにあったと言えるだろう。完全に眠れたわけではないが、眠りに入るまでの時間が確実に短くなった。明け方まで眠れなくなるということが少なくなった。
鬱病の薬を飲み始めたのは診察から一週間後であった。この時、定期的に精神科に通うようになり。医師も女医から男性の医師に代わっていた。本格的に精神科の医師に診察を受けるようになったのである。ようやく重い腰を上げて抗鬱剤を飲み始めたが、こちらは全くというほど、効き目がなかった。そもそも私は鬱病でないのである。私を苦しめている症状は、明らかに統合失調症であり、鬱病の薬を飲んでも意味がないのである。統合失調症の症状は、主に幻聴は幻視である。私はこの時、蟻坂が幻視であり、幻聴であるとはわからなかった。ただ、なんとなくすぐそばにいる人。……そのくらいの感覚で彼女と付き合っていた。では、四六時中なるベルの音はどうだろう。こちらはかなり早い段階で幻聴であると分かっていた。幻聴であると分かった理由は、極々単純である。私の家には来客を告げるインターフォンはあるが、それは職場にあるベルとは全く違うものである。よって、ベルの音が自宅で聞こえるはずがないのだ。だからこそ、私は早い段階でこのベルの音が、幻聴であり、私の精神が異常をきたしている証拠であると自覚していた。ただ、自覚していながら、治療には積極的ではなかった。この理由は既に説明しているが、幻聴が聞こえるとなると、閉鎖的な病室に閉じ込められるのではないかという恐怖があった。まだ、人生を終えるには早い。一度精神病院に入れば、簡単には出て来られないという。大きな恐怖があったのである。いずれにしても、私は医師に真の症状を告白しなかった。そのため、医師には統合失調症ではなく、重度の鬱病であると勘違いされ、結果的に大量の鬱病薬を処方される羽目になったのだ。
処方された薬をとりあえず飲み始めたが、私にはほとんど効果がなかった。全く幻聴は消えず、むしろ逆に、日を追うごとに強くなっていった。この頃から、私は職場の人間から監視されているのではないかという、奇妙な感覚に囚われるようになった。職場の人間は、どういうわけか、私の症状を知っている。それは何故か? これは正常な思考でよく考えれば、すぐにわかるのであるが、当時に私には理解不能であった。病気に苦しめられた時、私の体は真っ当ではなかった。完全なる異常者だったのである。極端に痩せ、眠っていないので目も虚ろ。そんな状態は、まさに正常ではない。誰の目から見ても、私の体は健康的なそれではなかった。だからこそ、私の職場の人間たちは、私を医者に診てもらうように助言したのである。私は、そんな彼らの思いやりを、全く逆方向に考えてしまった。部屋に盗聴器が仕掛けられているのかもしれない。そう考えると、家に帰るのが怖くなり、私はネットカフェで寝泊まりするようになった。さらに負の歯車は進んでいく。私は、とにかく奇妙な光景を見るようになった。電柱をツルハシを使って登っていく人間を見たり、ドアノブがカセットコンロのつまみに見えてしまったりして、火が出るのではないかと思い、ドアノブをひねられなくなった思い出もある。とにかく、この頃の私は異常そのものであった。そんな異常な私に接していた唯一の存在が、蟻坂であった。
「逃げればいいのよ。どこまでも……」
逃げる――。これは蟻坂の口癖である。彼女は事ある毎に、私に逃避を勧め、助言をしてきた。私は逃げ続けてきた。既に逃げられる限界ギリギリのところまで逃げている自負があったのである。これ以上、どこに逃げればいいのか? その答えを私は持っていなかった。だが、まだ逃げる余地はある。今の職場を辞めてしまうのだ。私の精神に異常が現れたきっかけは、まず間違いなく販売員の仕事が関係しているだろう。この仕事を始める前から、蟻坂という幻視を見ていたわけだから、直接的な原因ではなかったかもしれないが、確実に異常となり、症状が進行してしまった理由は、確実に販売員の仕事が影響している。恐らくではあるが、このまま仕事を続けていると、きっと、私の精神は完全に破綻する。だからこそ、逃げるしかないのだ。この仕事を追っていたら、私はおかしくなり、きっと元には戻れなくなる。そんな恐ろしい考えが脳裏を過った。これ以上おかしくなるくらいなら、逃げた方がマシだ。逃げよう。そんな思いが、私の心を覆っていく。それに呼応するように、蟻坂は口を酸っぱくして逃げろと助言してくる。私は、初めて精神科の門を叩いた一か月後に、職場を辞めた。辞めたというよりも逃げ出したという方が正しいだろう。通常、職場を退職するためには、一カ月程度時間が必要になる。私に任されていた仕事もあり、引継ぎなどを考えると、そう簡単に辞められないものである。しかし、私は強引に辞めた。もうこれ以上やってはいけないと、強引に話を進め、その日のうちに辞めてしまったのである。後から分かったのだが、私の働いていた会社は雇用保険に入っておらず、失業手当が全く出なかった。本来、そんな馬鹿な話があるのかと、頭を擡げたくなるが、この時の私には、文句を言う力がなかった。とにかく逃げたかったのである。失業保険など全くいらなかった。逃げたいという気持ちが体中を支配していたのだ
逃げた――。性懲りもなく。全く後先を考えなかった。次の仕事の当てはまるでない。販売員の仕事は一年ほど勤め、数ヶ月分くらいの貯えはあった。私は意外と律儀なところがあって、少ない給与でも上手くやりくりして、それなりに貯金していたのである。とりあえず、数カ月はやっていける。金が尽きたら、それから考えればいい。幻聴や幻視に苦しめられており、私は金の心配をしている余裕がなかったのだ。精神状態は徐々に悪化し、私は疲弊していく。それはどうやら医師の目にも異常と映ったようである。私はある日の診察で、医師にポロリと幻視の話をしてしまった。それを聞いた医師は、目の色を変えて、質問を飛ばしてきた。その症状はいつからか? そんな話が始まる。いよいよ、症状がバレてしまった。隠しきれない。もしかすると、この医師も職場の人間とグルなのかもしれない。恐ろしくなった私は、これ以上ないくらいに暴れた。人生が終わってしまうと思ったからだ。体力が衰えた私は、あっという間に医師と看護師に取り押さえられ、そのまま緊急入院となってしまった。どうやら、精神科の医師には患者を強制入院させる権限を持っているらしい。私は暴れ狂っていたが、結局は逃げられないと悟り、そのまま近隣の精神病院に運ばれたのである。
私が入院した精神病院は、閉鎖病棟であった。閉鎖病棟と言うと、窓がなく、鉄格子で覆われた病室を想像するが、決してそんな病室ではなかった。広い廊下に、清潔な室内。まるでホテルのような雰囲気があった。ロビーには一人掛けのソファが複数置かれ、大きな液晶テレビもある。それ以外にも談話室などがあり、病院という感じがまるでしなかった。私は、個室に入院していた。通常の病院の病室とは違い、極端にものが少なかった。室内の広さは八畳ほどだろう。室内の中央にシングルベッドがあり、後はクローゼットが一つあるだけで、他に物はない。個人用のテレビはなく、殺風景な部屋であった。食事がほとんど摂れなくなっていたので、私は点滴による治療を受けた。後、恐らくではあるが、暴れたために、鎮静剤を注射されているようであった。とにかく体が鈍重で、起き上がるのさえ難しかった。ただ、ベッドの横になり、トイレに行く時だけ、何とか起き上がり、ガラガラと点滴の台を引いていきながら歩いた。その時、何となくではあるが、閉鎖病棟の中を垣間見た。イメージと違う景色が広がり、私は心のどこかで安堵していた。深夜、私は目を覚ました。かなり強い睡眠薬を処方されていたため、ぼんやりとした意識ではあったが、私の目の前には蟻坂が立っていた。どうしてこの場に入って来られたのか? 私は全く気にしなかった。蟻坂はぼんやりとしている私を見下ろしながら、次のように言った。
「ほら、助かったでしょ」
意識が朦朧としている。それでも、確かに蟻坂は私の前に現れた。格好は黒のスーツを着ていた。いつもの蟻坂はスーツ姿である。できるキャリアウーマンという装いをしているのだ。閉鎖病棟は、かなりチェックが厳しいようである。手荷物チェックもされるし、お土産なども基本的には持ち込めない。多くの場合は、家族しか面会を許されていないようだ。だからこそ、この場に蟻坂という人間がいるのは、かなりおかしな事実なのである。それでも、私は蟻坂の存在を当たり前の様に受け入れていた。まるで、呼吸するのと同じように……。蟻坂の黒いスーツを見ながら、私はゆっくりと体を起こした。個室の私以外誰もない空間。時計がないので時刻を確認する手段がない。それほど空腹感を感じないから、まだ一時前後かもしれない。根拠はないが、そんな風に感じていた。私が体を起こすと、蟻坂は私のそばまでやってきて、静かに笑みを零した。なぜ、笑うのか、私は理解ができなかった。何もおかしな行動はしてない。笑われる理由は何もないはずなのに。ただ、蟻坂は笑っている。その笑みは、どこか蠱惑的な印象があり、少しだけ恐怖を覚えた。
「助かったって何がだよ」
と、私はぶっきらぼうに告げる。蟻坂は今、私に向かって助かったと告げた。助かったと彼女は言うけれど、実際は何も助かっていない。むしろ、現状は悪くなっている。恐らく、私が緊急入院した事実は、家族にも連絡されているだろう。確か、精神科の初診の問診票を書いた時、緊急の連絡先を書いたはずである。私の実家は新潟である。この病院がどこにあるのかわからないが、私が住んでいる川崎市の近くにあるのだろう。川崎から新潟までは三〇〇キロ以上離れている。私が運ばれたのは恐らく夕方だろうから、そこから家族に連絡がいったとしても、実際に病院に来られるのは明日になるだろう。家族にも迷惑をかけてしまった。仕事を辞め、残ったのは精神疾患という事実。逃げ続けた結果、私に残っている者は何もないと言える。金もない。仕事もない。当時、私は二十六歳だった。世間の二十六歳に比べると、かなり劣った大人であると言える。何もできない子供のような大人。だからこそ、助かったと言われても実感が湧かなかった。むしろ逆に、猛烈な憤怒の想いが沸き上がってきた。この女は何を言っているんだろう。それもこんな不気味な顔をして……。助かったわけじゃない。何も助かってはいないのだ。そう思いたかった。しかし、この時の私の心境は複雑であった。嫌な仕事から逃げ、ようやく自由になり、心のどこかで安堵していたのだ。つまり、助かったと言われても、何ら不思議ではないのである。その想いを蟻坂に見抜かれて、私はただただ驚いた。この女は一体何者なのだろう。神出鬼没の不思議な女。実際には存在しない女。だが、私は彼女の存在を信じていた。
「逃げたから助かったのよ」
「助かったけれど、結局は苦しむ羽目になる。逃げたって何も変わらないんだよ」
「いいえ。逃げれば変わるわ。そして、問題もうやむやになる。いつしかその問題だって忘れてしまうの。だから、逃げればいいのよ。逃げて逃げて逃げて。逃げまくればいい。それであなたは助かるのだから」
「限界はあるよ。逃げ続けても、いつかは逃げられなくなる」
そう。逃げ続けるのには限界がある。いつまでも逃げられるわけじゃない。多分だけど、そんな風に思えた。今はまだ、金があるから逃げられる。嫌な仕事から解放されるし、最悪の場合、両親に頼れば問題はない。私の両親はまだ現役で働いているから、仕送りを送ってもらうくらい訳はない。ただ、プライドの問題である。二十六にもなって仕送りを送ってもらっているという事実は、それだけで私を苦しめた。とりあえず、一人で生活していくくらいの仕事はしたいのである。それができなくなっている今、私は自分に嫌気が差していた。さて、いつまで逃げられるのだろうか? このまま親が年を取り、現役を引退すれば仕送りは難しくなる。仕事をしなければ、一人で暮らしていくのは難しいであろう。まぁ、今の時代は生活保護という仕組みもある。それ故に、生活が破綻する心配はまずありえない。ホームレスになる可能性は、私にはないのである。区役所に行って、生活保護の申請を出せば、それだけで生活の基盤はできる。もちろん、貯金はできないし、いい家に住み、いい車には乗れない。だが、そんなものには私は興味がない。都心にいる限り、車に乗る必要はないし、いい家に住みたい願望もない。むしろ広い家は掃除が大変である。狭い小ぢんまりとした位の方が、住みやすいのだ。最悪の場合、生活保護という仕組みがある。だから、まだまだ私は逃げ続けられる。きっと、今の時代は逃げられるようになっているのだ。嫌ならどんどん逃げてもいい。逃げずに戦って、精神を病み、おかしくなってしまったら元も子もない。私は、もっと早く逃げるべきだったのだ。もっと早く逃げていれば、私は精神疾患にならなかったかもしれない。もっと早く逃げていれば、私は今頃普通に家で眠っていただろう。逃げずに戦ったから、こんな風にボロボロになってしまったのである。それを、蟻坂は見抜いた。だから、彼女はもっと早く逃げるように私に指示を出したのである。それを私は聞かなかった。聞かなかったから、こんな風に苦しんだのである。もっと、蟻坂を信頼してもいいのかもしれない。蟻坂を信頼すれば、きっと私はもっと自由になれる。逃げ続けて、結局何もなくなっても、ストレスなく生きていけるかもしれない。もちろん、百パーセントストレスがない生活などありえない。仮に生活保護になってしまったとしても、きっとストレスは発生するだろう。適度なストレスは生活には必要なのだ。
「蟻坂。僕は君を信じてもいいのかな」
ぼんやりとする意識の中、私は蟻坂に向かってそのように呟いた。私の言葉を受け、蟻坂は意外そうな顔をした。驚いている蟻坂の瞳。こんな瞳をした蟻坂を見るのは始めであった。冷静沈着なところがあるのが、蟻坂のよく観る姿である。こんな驚いた女性的な表情をするなんて、かなり意外に思えた。それでも、蟻坂はすぐに真剣な表情を向けて私を見つめた。漆黒の瞳が私に注がれる。蟻坂は私の見ている幻視であり幻聴であるのだが、この時の蟻坂はまさにこの世界に存在する人そのものであった。普通に存在する女性。そんな風に思えたのである。
「信じてくれるの?」
蟻坂の声は僅かに震えていた。
「多分、君を信じればよかったんだよ。僕はもっと早く逃げるべきだった。逃げなかったから、今こうして苦しんでいるんだ。君は確か、逃げ続けて道がなくなったら小説家にでもなればいいと言ったよね。それは本当?」
「本当よ。すべての人間に向かって、小説家は道を開いているわ。例え、犯罪者になってしまったとしても、小説は書ける。誰にでも開かれている最後の道。だから安心して逃げなさい」
「僕は多分、これからも逃げると思うよ。なんていうのかな。一度逃げると癖になるんだよ。逃げずにはいられなくなる。今回は少しだけ耐えられたけれど、次はどうなるかわからない。きっともっと早く逃げるかもしれない。多分。逃げ続けて何もなくなるだろうよ。それでも僕は自分が小説家になれると思えない。僕にはそんな才能はないよ」
そう。僕には才能はない。特別な才能がないからこそ、僕はこうしてうだつの上がらない生活を送っているのだ。才能豊かな人間は、こんな風にならないだろう。すべてを才能の所為にするつもりはない。だけど、才能があれば、もっと違った世界が見えたのかもしれないと思う時がある。仮に私にパタンナーの才能があったら、今頃ファッション業界でバリバリ働いていたかもしれない。だけど、私には才能がなかった。否、才能以前の問題である。才能よりも前に私は逃げてしまった。正直な話、パタンナーになるのには豊かな才能はいらないであろう。もちろん、腕のいいフリーランスのパタンナーとして成功するには、それなりの才能が必要かもしれないが、企業に入り、会社のパタンナーとして勤めるのであれば、服飾の学校で勉強してきたという経歴以外何もいらないだろう。今のパタンナーは手書きではなく、CADというソフトを使って行うから、手先の器用さよりもパソコンの知識の方が必要かもしれない。
小説家になるにはどうすればいいか? 今まで私は文章を書いた経験がほとんどない。唯一の経験は履歴書や職務経歴書で書類を書いたくらいである。小説というと、一般的には原稿用紙で何百枚も書く。私の場合、五枚だって難しいであろう。原稿用紙五枚じゃいくら何でも小説にはならない。ショートショートというジャンルもあるけれど、同時に私にはほとんど知識がなかった。この世界には多くの小説家がいる。売れている作家もいれば、全く売れない作家もいるだろう。売れている作家にならなければ、生活は難しい。売れている作家になるためには、もちろん才能が必要だろう。才能のない私には、小説家としてやっていく自信が全くなかった。本だってろくに読まないのに、小説家になれるわけがないのだ。バイクの運転免許がないのに、二輪の整備士になるようなものだ。全く仕事にならないだろう。だから、どうして蟻坂が小説家を勧めるのか理解できなかった。私の知らないところで、小説家という才能があるのであろうか? とにかくやってみるか。再び意識が遠のいていく。蟻坂の輪郭がぼやけていくと、私は眠りの海へと落ちていった――。
翌日。私の両親が見舞いにやってきた。かなり驚いているようであったが、医師からの説明を受け、私を神妙な瞳で見つめてきた。私はこの時、自分の病状を知らなかった。つまり、どんな病気であるのかわからなかったのである。入院した次の日から、本格的な治療が始まった。一日三度、大量の薬を飲む羽目になった。恐らく、精神安定剤や睡眠剤であろう。薬を飲むと決まって眠くなるから、かなりの量の薬を飲まされていたはずである。それでも私は文句を言わなかった。ただ言われるままに治療を受けていた。両親が何かいる物はないかと聞いてきたので、私は自宅のパソコンを持ってきてほしいと頼んだ。しかし、それはできなかった。閉鎖病棟には、携帯電話やパソコンなどの情報機器を持ち込めなかったのである。私がパソコンを持ってきてもらいたかったのは、暇つぶしにインターネットがしたいからではない。そもそも、私はあまりインターネットをしない。当時、携帯電話もスマホではなく、ガラケーであった。当然、ラインやTwitterなど、SNSなどもやっていない。かなり遅れた人間なのである。私がパソコンを持ち込みたかった理由はただ一つ。それは、小説を書くためである。私のパソコンは文章作成のソフトが入っている。履歴書や職務経歴書で頻繁に使っていかたら、使い方は熟知している。キーボードのタイプも早いわけではないが、問題はない。あれさえあれば、小説が書けるのである。しかし、パソコンが持ち込めないとなると、文章を書く方法は一つしかない。つまり、手書きで書くのである。私が入院した病院の近くには文具店があり、そこで原稿用紙が売っていた。その原稿用紙とボールペンを使って私は小説を書く修行を始めたのである。何か、書きたかったわけではない。特別文章力を上手いわけでもないし、人を楽しませる物語が思い浮かんだわけでもない。ただ、蟻坂の指示通り、小説を書いてみたくなったのである。逃げ続けて、今何もない状態である。つまり、小説を書く土壌はできている。小説を書くのなら今しかないのだ。原稿用紙を買ってもらい。私はボールペンを片手に文章を書いた。正直話、何を書いていいのかわからなかった。何も思い浮かばないのだ。一時間ほど唸り、日記のような話が数枚書けただけで、一気に嫌になってしまった。それでもしつこく私は文章修行を続けた。嫌になったら逃げる。この悪癖が付いていた私にとって、本来小説は苦痛な作業だったはずである。しかし、小説以外にも苦痛な日々の連続であった。薬は副作用があるし、眠気も強い。食事は不味いし、自由もほとんどない。だからこそ、小説を書く作業が一つの憩いとなっていた。書いている時間だけは、作業に没頭できたのである。何かに熱中すると、時間が短く感じるものだ。何もしない入院生活はかなりしんどい。だが、小説を書いていると時間を忘れられる。それ故に、私は小説に取り憑かれた。早い話、嫌だと思っていた小説が楽しいと思えてしまったのである。
入院から一カ月が経ち、私はある異変に気が付いた。異変。それは蟻坂が全く現れなくなったということである。当初、それほど気にはしていなかったのだが、ある日突然蟻坂がいない事実に気づいた。私は蟻坂の連絡先を知らない。幻視なのだから、連絡先があるわけがない。私は、医師の診察の時に、蟻坂の存在について話した。お見舞いに来ているはずの女性の連絡先を知りたいと話したのである。医師は怪訝な表情を浮かべながら、曖昧な態度を取った。
「この病院は家族以外の面接を許されていない。君に女性の見舞客が来た事実はないよ」
医師は冷静に語った。この時、私は確かに悟った。蟻坂は私が見ていた幻視であり幻聴であるのだ。恐らく、薬が効いてきて蟻坂の存在が消えてしまったのだろう。薬の効果が出てきたのだ。だからこそ、私の前から蟻坂は消えてしまったのである。蟻坂が消えた……。私にとって、蟻坂は特別な存在であった。蟻坂の存在は私の精神バランスを取っていた唯一無二の存在なのである。それが途端消えてしまったため、私はショックを覚えてしまった。蟻坂に会えない。私に小説の道を教えてくれた蟻坂がいなくなり、その日から私は寝てばかりであった。日課だった小説を書く作業も億劫になり、ほとんど進まなくなった。そんな中、意外と新しい話が舞い込んできた。私が原稿用紙で小説を書いているのを知った両親が、地元の新聞社がやっている文学賞の知らせを教えてくれたのである。私自身文学賞の存在をほとんど知らなかったのであるが、自分の作品を他の誰かに読んでもらいたいという気持ちがあり、私は文学賞への挑戦を決めた。小さな地方新聞社の文学賞であり、枚数は三十枚と少なかった。今の私は十枚程度の作品をいくつか作り上げていたから三十枚の作品を書くのはレベル的には問題なかった。消えた蟻坂のためにも挑戦しよう。私は心に決め、その日から三十枚の短編小説の執筆に勤しんだ。入院生活も二カ月を過ぎた時、私はいよいよ三十枚の短編小説を完成させた。親子が運動会の徒競走に挑戦する話を描いたのである。正直話、自身は全くなかった。だが、作品を完成させたという喜びが大きく、私に自信を植え付けた。そして、その私の意思に呼応するように蟻坂が不意に現れた。その日の蟻坂はいつもと様子が違っており、全体的に静かであった。普段から、蟻坂はそれほどうるさい女性ではない。私の幻視であり、幻聴であるのは間違いないのだが、基本的には静かな女性である。ただ、やはり幻聴というだけあって、四六時中、神出鬼没に私の前に現れる。よく考えれば、おかしな存在である。この時、私は蟻坂が幻視であり幻聴であると気づいていた。これまでは、自然に受け入れていたのだが、今回は違う。蟻坂という存在は、実在しない人間なのである。そんな存在に、今まで選択の背中を押されていたと思うと、かなり滑稽な話となるだろう。自分の幻視にアドバイスを受け、さらに逃げ出していた。今思えば、相当狂っていたと言えるはずだ。そう、私は完全に狂っていたのである。精神に異常をきたし、統合失調症と診断され、私は精神障害者の仲間入りを果たした。決して誇らしい事実ではない。むしろ、マイナスイメージが大きいだろう。障害者が抱える、就労への道はなかなか難しいものがある。私の場合、健常者であった時代ですら、社会に適応しなかったのだから、障害者になった今、社会に溶け込み、歯車として働いていけるか全く自信がなかった。そんな中、現れた蟻坂という存在。今日は、何の用があるのであろうか?
幻視や幻聴というと、自分に都合のいいことを言う存在が現れるのではないかと思ってしまいがちであるが、私の経験からモノを言うと、そのような事実はないように思える。幻視は自分の脳内が壊れて見せるありえない存在だ。だから、どこかで自分の考えている人間像というものが幻視として現れそうなものであるが、蟻坂は全く違う。私の考えよりも、一歩も二歩も先を読み、言葉を選んで話している。とてもではないが、私という人間がみせる幻視としては出来過ぎのように思える。蟻坂はじっと私を見つめていた。それは深夜の再会であった。閉鎖病棟の夜は早い。九時には消灯時間を迎えてしまう。もちろん、トイレなどに起きて、院内を歩けるのであるが、不気味なほど静まり返っており、どこか恐怖を感じるものである。個室で一人、私は蟻坂と喋っていた。今日は、彼女が幻視であると分かっている。それでも私の態度は変わらなかった。後で言われた話なのだが、統合失調症の幻視や幻覚に応対するのはよくないらしい。よく考えればわかるのだが、実際には見えず、聞こえない存在に対して応対しても、周りから奇異に映るだけであり、メリットが何もない。また、基本的に幻視や幻覚は突拍子もない言葉を言うケースが多いので、それをいちいち信じていると、どこまでも疑心暗鬼になり、治療に支障をきたすのである。だからこそ、私もなるべくなら幻視や幻覚を無視したい。既に、ベルの音は完全に無視していたし、時折見える、蟻坂以外の幻視も気にしないようにしていた。だが、蟻坂という存在は違う。彼女は、私にとって特別なのだ。私をここまで導いた存在である。私は逃げ続け、短編小説を書くようになった。同時に、逃げてもなんとかやっていけるレベルにまで達していた。彼女は昔こう言った。「逃げ続ければ、いつか問題は問題ではなくなる」確かにそうかもしれない。人は本来、もっと逃げてもいいのかもしれない。戦って苦しむくらいなら、逃げて楽になった方が賢い。そんな風に思える。もちろん、逃げの選択はリスクが発生する。例えば、家庭を持った人間は、会社を辞めて収入がなくなれば家族は路頭に迷ってしまう。逃げるのは許されないだろう。だが、私はそれでも逃げの選択を推奨する。仮に家族がいても、逃げられる。逃げて何もなくなったように見えても、どこかで道は繋がっているものである。私は、経験則でそのように感じていた。今、こうして入院しているが、いつか回復し、また社会に出る時が来るだろう。もし仮に、嫌な仕事にあってしまったら、また逃げればいいのだ。逃げてもなんとかやっていける。私はそう思っていたし、やっていく自信があった。決して裕福にはなれないかもしれない。それでも、一人で生活するくらいのレベルには達せられるだろう。家族がいる場合だって同じだ。仮に一家の大黒柱が逃げても、他の家族がまだいるのである。協力し合えば、困難に打ち勝てるだろう。また、逃げているうちに、ひょんなところから道が見つかるかもしれない。人生は、何が起こるかわからない。死なない限りはいくらでも挽回ができる。そう教えてくれたのは、他でもない蟻坂だった。幻視であり幻聴であった。
「久しぶりだね。蟻坂。君は何者なの?」
僕はベッドから体を起こし、蟻坂に向かって尋ねた。彼女はじっと私を見つめている。何か考えているようにも見えるが、その考えまではわからない。そもそも、蟻坂は自分をどう思っているのだろうか? 自分が存在しない人間であると自覚しているのであろうか? それさえも曖昧だ。
「考えたこともないわ。自分が何者かなんて。意味はないわ」
確かにそうだ。自分が何者かなんて、考えるだけ無意味だ。人であるだけで充分だ。他に理由はいらない。本来、生きるのに理由などない。家族のため、人のため、自分のため……。人は存在理由を探そうとする。しかし、存在理由などどうでもいい。ただ、生きている。それだけで充分のように感じられる。私は今でもそう思っている。きっと、蟻坂をどこかで信じたかったのだろう。存在意義などどうでもいい。ただ生きているだけでいい。生きていれば、何かしらにぶつかる。それはトラブルかもしれないし、自分を変えるチャンスかもしれない。今の私なら、それが小説である。私は、こうして逃げなければ小説など書こうとは思わなかっただろう。しかし、私は何の因果か小説を書き始めた。逃げ続けた結果、その道に辿り着いたのだ。もちろん、後悔がないわけではない。未だにパタンナーという職業に未練はある。もし仮に、パタンナーになっていたら……。そんな風に考える時がよくあるのだ。しかし、動き出した時は止まらない。過去は変えられないが、未来だけは変えられる。私は残された力を使って、未来を変えなければならない。そのための手段が小説である。私自身、自分に小説家としての才能があるとは思っていない。多分ないだろう。今まで本だってろくに読まなかったのに、急に小説家を意識して、すぐに結果が出るほど甘い世界ではないだろう。しかし、それでも縋りたくなった。パタンナーはモノを作る仕事である。同時に、小説家も物を作る仕事なのだ。その点では、両者はよく似ている。だからこそ、私は小説に縋りついているのかもしれない。もうこれしかない。そのくらいに感じている。逃げてもいい。ただ、今置かれ場所で敢然と立ち向かう。それができなくなったらまた逃げて、別の場所で自分と向き合う。その連続でいいのではないか。私はそう思っていたし、何もなくなることはないと思っている。私にはいつだって小説が残されている。どんな苦境に陥ったとしても、私は小説に縋る。逃げ続けても、小説だけは手放さない。それでいいではないか。
「蟻坂。僕は小説を書いたんだ。文学賞に送るよ」
「そう。あなたの書いた小説を読んでみたいわ」
「今あるよ。読んでみるかい」
私はそう言うと、一旦ベッドから立ち上がり、病室に唯一ある棚から原稿用紙の束を取り出した。短編三十枚の作品。それが今ここにある。蟻坂に見せたら、どんな反応をするだろう。
「時間がないわ。多分、私はもう消える。それがわかるの。だから最後に言わせて」
そう言うと、蟻坂は深呼吸し、真剣な黒い瞳を一旦天井に向けた。消える。その言葉は、私を大きく動揺させる。蟻坂は自分が存在しない人間であると分かっているのであろうか? そもそも、私の幻視である蟻坂に、自我が芽生えているというのは、甚だおかしな話なのではあるが、この時の私には、そんな考えを深く行う余裕がなかった。薬の影響により、私の幻視や幻覚は格段に抑えられている。統合失調症の治療は、早期であればあるほど、効果が出やすい。私は、最初に精神科を受診し、すぐには幻視や幻聴の症状を言わなかったものの、約半年で全ての症状を告白していた。つまり、割と早期に治療を開始できたと言えるだろう。だからこそ、薬の効果は覿面であり、私を苦しめていたベルの音は、全く聞こえなくなっていた。穏やかに過ごせるようになっていたのである。また、睡眠薬の影響もあり、睡眠も十分に取れている。それ以外にも、閉鎖病棟で提供される栄養価の高い食事を摂り、私の体力はかなり回復していたのである。このような理由があるため、蟻坂との別れはすぐそこまで迫っていた。蟻坂との別れ。私の最初の幻視であり幻聴である蟻坂。私を導き、逃げるという大切さを教えてくれた蟻坂。彼女は今や、消えようとしている。治療が進んでいると、喜ぶべきだろう。幻視や幻聴などない方がいいに決まっている。あんなものは、精神を苦しめるだけなのだから。しかし、私は蟻坂と離れたくなかった。彼女と話す時間を、どこかで楽しみにしていたからである。幻視や幻覚には付き合わないほうがいい。これは医師の提案である。私もその通りだと思う。だが、私はその助言を破り、蟻坂とだけは会話をしていた。おかしいと思われても構わない。彼女と話している時間が、癒しに繋がっているのだから。
「消えるのか? 冗談だろ」
私は少し震える声で言った。森閑とした室内の中、私の呼吸の音だけが虚しく響いている。私の持つ原稿用紙は、先端が震えていた。
「辛かったら逃げていい。でも小説からは逃げないで」
と、蟻坂は神妙に語る。その言葉は、かなり奇妙であった。これまで蟻坂は逃避を推奨していた。何があったとしても、逃げれば問題が問題でなくなると、説いていたのである。それが、その考えを一八〇度変えた。逃げてもいい。しかし、小説からは逃げない。小説は、最終的に残された私の道である。簡単に言えば、私はここから逃げられない。もう、逃げる道がないのだ。小説のその先に見えるのは、栄光か死か。その二つしかないように思えた。仮に小説の道を諦めてしまえば、それこそ、私は何もなくなってしまう。今は、小説に縋っているのだ。これだけが希望であると、小さな光を目指して戦っているのである。ここから逃げたら、本当に何も残らなくなってしまう。恐らく、蟻坂はそれを危惧しているのかもしれない。彼女は、私を想ってくれている。だからこそ、こうして消える前に最後の助言をしているのかもしれない。小説から逃げない。多分、それは可能であると思う。この時、私は小説を書き始めて数カ月しか経っていなかったが、毎日一定数の原稿を書いていた。恐らく一日当たり、原稿用紙で十枚は書いていたはずである。そんな生活を毎日続けていると、いつしか小説は、呼吸するのと同じくらい当たり前のものになった。簡単に言うと、書かないと気持ち悪いのである。楽しいとか苦しいとかそういう話ではなく、ただ単純に書きたいと思う希望が出てきた。もちろん、毎日楽しく書けるわけではない。私は、書くのが苦手だ。書き始めて数カ月経っているが、未だに苦手意識は消えない。多分ではあるが、私には文才はないだろう。それでも残されたこの唯一の道を、ただ邁進するしかないのである。逃げずに戦おう。素直にそのように感じた。
「わかった。小説からは逃げない。でも、他の仕事からは逃げるかもしれない」
小説から逃げない代わりに、他の仕事からは逃げる。そう考えると、幾分か心が楽になる。嫌な仕事なら、辞めてしまっても問題ない。ただ、小説には縋ろう。何があったとしても、小説からは逃げない。私は蟻坂と約束を果たした。私の言葉を聞くと、蟻坂はにっこりと笑みを浮かべた。蟻坂のとの付き合いは数年単位になるが、ここまで華やかな笑顔は全く見なかった。時折、蠱惑的な表情を浮かべる時はあっても、このような女性らしい笑顔は見せなかったのである。最後まで、蟻坂は私の持つ原稿用紙に触れなかった。恐らく、彼女は読みたくないから触れなかったんじゃない。ただ単純に幻視だから触れられなかったのだ。今思えば、蟻坂は私の前に現れるだけで、何かものに触れることはなかったと思う。それに、彼女はこの数年間全く容姿を変えていない。蟻坂に会い三年近く経っているが、全く容姿が変わらないのは、やはりおかしい。これも彼女が幻視である証拠だろう。幻視だから歳を取らないのである。この日を境に、蟻坂は私の前から消えた。完全に……。
精神科の閉鎖病棟での入院は、基本的に三カ月を目途に治療が進められる。最後の一カ月になると外泊などの許可が認められて、私は数カ月ぶりに自宅に戻った。そこで好きなものを食べて、一日過ごして翌日に病院に帰るという日々を繰り返していた。退院が近づいた時、送る予定である小説作品が完全に完成した。後は、郵送すれば問題ない。原稿用紙がOKの文学賞であったため、私は原稿用紙に清書して、それを外出時に郵便局から郵送した。後は結果を待つだけである。蟻坂に読んでもらいたかったのであるが、それは叶わなかった。仕方ないだろう。小説を書き終えても、私の執筆は終わらない。すぐに次の作品を書き始めたのである。『公募ガイド』という、公募制の文学賞の一覧が載っている雑誌を購入し、それを見ながら文学賞に送るという目標を決めた。私が最初に送った作品は、新聞社が主催している小さな文学賞であったため、枚数は三十枚となっていた。しかし、大きな文学賞となると、やはり三百枚程度は書かないとならない。流石に、三百枚以上は難しい。そう感じた私は、まずは百枚前後の作品を書こうと決意する。このくらいであれば、恐らく書けるだろう。根拠はないが、確かな自信があったのである。
退院が決まり、私は自宅に戻った。実家に帰るという選択もあったのだが、一人で暮らしたいという希望があったので、両親に無理を言って仕事が決まるまで仕送りを貰うようにしてもらった。これで、しばらくはやってける。だが、やはり、罪悪感は強い。早く仕事を決めて、自分一人で生活できるようにならなければならない。しかし、あまり就職をする気持ちがわかなかった。この理由は一つである。就職して小説を書く時間がなくなるのが嫌なのである。私は今、毎日二時間ほど小説を書いている。また、書き上がった小説を並行して推敲し修正しているから、合計の執筆時間は四時間程度になり、長い日は六時間に達するケースもあった。一日に一時間程度であれば、普通に働いても小説を書く時間は作れるだろう。しかし、書くのが遅い私は、それなりに時間を確保しなければならなかった。そうなると、必然的にフルタイムの仕事はできなくなる。医師から正式に統合失調症であると、診断された私は、障害者となった。精神障害者の保健福祉手帳を取得し、正式に障害者として生きる道を選んだのである。退院後、数カ月は小説を書きながらぶらぶらしていたのだが、両親の勧めもあって、区の障害課へ行き、短時間勤務の障害者の施設を紹介してもらった。ただ、こちらの施設は一ヶ月で辞めてしまったのである。工賃という形で賃金は出るが、月に五千円程度であり、とてもではないかがやっていけないのである。また、利用者との折り合いも悪く、私はすぐに嫌になってしまった。逃げる。逃げる。また逃げる。嫌になって逃げて、私は自宅で引きこもった。数カ月間仕送りで生活し、入院時代に送った文学賞の結果が出たのだが、見事に玉砕してしまっていた。最終候補には数作残ったようであるが、私の作品は全く残らなかったようだ。才能がないのはわかっているが、私は落胆してしまった。だが、小説から逃げられない。何とか気持ちを切り替えて、次の文学賞に狙いを移した。ちょうどのこの頃、私はWEBライターという仕事と出会った。WEBライターというのは、通常のライターとは違い、WEB上の記事を書くのが仕事である。今の時代、インターネットは当たり前だ。多くの情報サイトがあり、そこで書く機会があるのだ。たまたまネットで見つけて、私はあるキュレーションサイトに登録し、そこでライティング業務を始めるようにした。小説を書く修行にもなると思ったのである。WEBライターの賃金は正直に言うとかなり低い。研修期間は一記事書いて千円前後。一記事あたり三千文字から五千文字程度書かないとならないから、時給に換算すると恐らく六百円程度になってしまう。研修期間を終えると、単価は少し上がり、一記事当たり二千円程度になった。私は毎日二つの記事を書いて、月に八万円の賃金を得るようになった。八万円の賃金では正直やっていけない。生活保護でももう少しもらっているはずである。困り果てた私は、医師やクリニックのスタッフに相談し、障害年金という仕組みを教えてもらった。障害年金は障害を抱えた人に向けた年金である。初診日から一年半経っていると、受給の資格が得られる。当時の私は受給資格がなかったのであるが、両親と相談し、障害年金が貰えるようになるまで、仕送りを続けてもらい、後は自分の力で何とかやっていくと決めた。初診日から一年半経った時、私は二十八歳になっていた。障害年金の申請の書類は多いが、何とか書き切り、無事に受給が決まった。私は初診日の段階で厚生年金に入っていたため、障害年金で受給できる金額は八万円程度になった。WEBライターの仕事で月八万円、年金で月八万円。合計十六万円であり、何とか一人でやっていけるレベルになったのである。やっていけるレベルにはなったのではあるが、私はライターとしての仕事に限界を感じ始めていた。私が当時執筆していた記事は、主に芸能記事なのであるが、とにかく苦手意識が抜けないのである。私は、それほど芸能記事に興味がある人間ではない。スマホに切り替えているものの、連絡する以外、ほとんど使用しないし、自宅のパソコンも小説を執筆する以外、あまり使わないのである。もちろん、調べ物などするケースもあるが、その比重は大きくはない。だからこそ、ネット上の情報を駆使して執筆するWEBライターという仕事が苦手であった。キュレーションサイトのライターになると、まず、自分の記事を完成させて、チェックが入る。無事チェックを終え、合格になると、その記事はネット上にアップされるのである。このチェックが意外と厳しく、私は必ずと言っていいほど、記事の修正の依頼が入った。記事の修正は大修正になるケース多く、かなり辟易していた。これも、苦手意識が抜けなかった原因だろう。いつからか、記事を書くのが嫌になってしまった。逃げたい。そんな思いが私を支配していく。逃げるのは簡単だ。蟻坂とも約束している。小説を手放さない代わりに、他の仕事からは逃げてもいい。この時、私はギリギリのラインで戦っていた。WEBライターの仕事を始めて、既に三年が経った。曲がりなりにも、私は三年間やり続けたのである。今まで、一年すら続けられなかった社会人時代であったが、どういうわけかWEBライターは三年も続けているのである。このまま、やり続けた方がいいだろう。もう年齢は三十歳を超えている。ほとんど社会人経験のない私にとって、これからの就職活動は地獄以外、何者でもない。基本的に、三十歳を過ぎて就職するのは難しい。余程、職歴がしっかりしていて、勝算がないと転職するのは不可能であろう。私の場合、経験が何もない。そんな存在の私を採用する、企業はほぼないと言えるだろう。つまり、私はもう世間一般の普通の仕事に就くのが不可能なのである。何か生きる手段を探さなければならない。逃げてもいいが、金がなくなるのは困る。月々十六万の生活では、ほとんど貯金に回せず、ギリギリの生活を余儀なくされる。だからこそ、ここでWEBライターの仕事を辞めてしまうのは、愚の骨頂に思えた。だが、これ以上やりたくはない。清掃や警備の仕事を試しに受けてみたのだが、どういうわけか、「まだここに来るのは早いから、別の仕事を探したほうがいい」と諭され、採用されなかったのである。つまり、私に残っているのは、正真正銘『書く』仕事だけだった。途方に暮れる私。これ以上、WEBライターはしたなくない。しかし、次に進むべき道がない。小説は相変わらず執筆していたが、全く芽が出る気配がない。既に、三十以上の文学賞に送っていたが、一次選考すら通過しないのである。簡単に言えば、才能がないのであろう。小説家の村上春樹氏は、最初に書いた小説で「群像新人文学賞」を受賞している。これは私にとっては神がかりである。最初に書いた小説で評価されるというのは、かなり才能がある証拠だろう。私は既に書き始めてから三年が経つのに、全然小説が書けないのである。いつまでも愚作を量産している状態が続く。厳しい言い方をすると、時間をかけてゴミを作っているようなものである。小説を書き始め、ある程度上手く書けた作品もあったのだが、それは評価されなかった。常に一次選考で落選し、小説家の道はほとんど閉ざされていたのである。小説は諦められない。小説を書くためには、ある程度の収入がなければ生活ができないから、仕事は止められない。いっそ、生活保護に頼ろうかと脳裏を過ったが、どこかで働いていたかった。故に、私は嫌なWEBライターを続けていた。そんなふらふらと揺蕩っている日々を送っていく中、私は新しい仕事と出会う。その仕事は、記事の構成書を書く仕事である。私が所属していたキュレーションサイトには、執筆する記事に対して構成書と呼ばれる、案内図がある。簡単に説明すると、構成書に書かれた内容を基に、記事を執筆していくのである。構成書に書かれている内容を網羅すればよいので、ライターの方で記事の構成を考える必要がないのだ。そんな構成書を書く仕事が募集されていたのである。正直な話、賃金はライターよりも低い。一構成考えて僅か四百円しかもらえないのである。かなりの数の構成書を書かなければやっていけない。しかし、私はこの道に縋った。構成書なら書けるかもしれない。根拠はないが、そのような思いがあった。
構成書の仕事は意外と上手くいった。記事を書く才能はないが、構成を考える力はあったようである。何とか、数をこなせるようになり、ライターをしていた時期と同じくらいの賃金が稼げるようになった。これでまた、小説を書ける。構成書にかける時間が多くなったため、なかなか執筆時間が取れなくなってしまったのであるが、平均して原稿用紙七~八枚程度を毎日コンスタントに書き続けた。既に小説を書き始めて三年が経っている。かなり長い文章も書けるようになり、場合によっては八百枚に迫る作品もあった。ただ、あまりに長い作品は投稿できる文学賞がないため、あまり長い小説を書くのは止め、三百枚程度のコンパクトな長編小説に比重を移した。長編を書きながら、疲れたり飽きたりしたら、短編小説を書き、執筆意欲が落ちないように工夫し、私は執筆を続けていた。執筆環境は決して悪いわけではない。毎日安定した枚数を執筆できる状態はあるのだ。しかし、全くと言っていいほど結果が付いてこなかった。私は、小説を書いてきて、自分の書いた小説に対する意見を聞いた経験がない。この当時、私は『小説家になろう』という小説投稿サイトに自分の作品を投稿していたのだが、人気がなく、全く感想はつかなかったのである。また、文学賞の多くは、最終選考に残らないと選評が載らない。そのため、投稿を続けても、自分の小説の何が悪いのか、全くコメントが付かないためわからないのである。これは、大きなマイナスポイントであった。自分の小説が、本当に読まれているかさえも怪しい。落選続きで、私は疑心暗鬼になっていた。そんな中、私は一人の女性に出会う。その出会いは、偶然であり、奇跡のような一幕であった。
私には行きつけの喫茶店がある。古びた喫茶店で、クラシックが流れているお店だ。静かな環境が好きで、私はそこで小説の推敲をしたり、本を読んだりしていたのである。その店に行く最中、私は一人の女性にであった。WEBライターはすべてがネットで完結している。連絡手段はメールかチャットワークか、スカイプで、人とは会わない。だからこそ、極端に人間付き合いがなくなるのである。私は人付き合いがそれほど上手い人間ではないから、逆にこの環境はありがたかった。もしかすると、WEBライターに向いている人種なのかもしれない。出会いがないが、結婚などする気はまるでないので、私は気ままに生きていた。そんな感じで生きているものだから、全くと言っていいほど出会いはない。しかし、私は出会ってしまう。その女性は、蟻坂だったのだ。都会の雑踏で、私はぼんやりと歩いていた。その時、前方から歩いてくる一人の女性の存在に気づいた。普段なら意識はしない。人が歩いてくるのは当たり前だし、いちいちどんな人間が歩いているかなど確認はしない。しかし、今回は違う。歩いてくる人間が蟻坂であったのだ。この時、私は蟻坂という幻視を見なくなっていた。統合失調症の薬は、完全に私の幻視を抑えていたのである。最後に蟻坂に会ったのは、まだ私が入院していた時期だ。つまり、もう三年以上幻視は見ていない。もちろん、幻聴などの嫌な症状もなくなっていた。病状としては、寛解という状態だろう。薬を飲んでいる限り、私は普通の人間と同じレベルの生活ができるのである。幻視や幻聴は全くと言っていいほどなくなっていたのだ。だからこそ、私は突然現れた蟻坂という存在に、聊か驚きを覚えていた。なぜ、彼女がここにいるのだろう。蟻坂は私の幻視だ。現実には存在しない人間なのだ。同時に、私の統合失調症の症状が落ち着き、幻視を見なくなった時、蟻坂は消失したはずである。にも拘わらず、蟻坂という存在が、今、目の前にいるのだ。私は、再びおかしくなったのだろうか? 統合失調症の症状は、ぶり返すケースがある。ひょんなきっかけで、幻聴を聞いたり、幻視を見たりするものである。私も、薬を飲み始めてから、すぐに症状がよくなったわけではない。時折、幻聴はあったし、変な景色が見えるケースもあったのだ。だが、蟻坂を見たのは、入院中の夜が最後である。あの日以来、私は蟻坂を見ていない。蟻坂も言っていたではないか。私はもうすぐ消えると……。その言葉通り、蟻坂は消えたのだ。だからこそ、今こうして蟻坂が出てくるわけがない。となると、今目の前にいる蟻坂は亡霊なんだろうか? 夢や幻の類か? 私は、蟻坂のような女性とすれ違う時、思わず声を出してしまった。
「蟻坂!」
私の声は、かなり大きく発せられた。道場を歩く人たちが、一斉に私に向けて視線を向ける。かなり恥ずかしくなり、私は軽く咳払いをした。同時に、蟻坂も私の声に反応したようである。かなり訝しい視線を私に向かって注いでいる。私は、どう対処すればいいのか迷った。普段、ほとんど人と話さないため、どのようなコミュニケーションを取ればいいのかわからないのである。しかし、既に賽は投げられた。相手の女性は、私の存在に気づいているのである。何か言おうと、口をもごもごと動かしていると、相手の女性から逆に質問された。
「蟻坂? 多分、人違いだと思いますけど」
もちろん、その可能性は考えた。人違いであるだろう。なぜなら、蟻坂は私の生み出した幻視であるからだ。実際には存在しないはずである。だが、不可解にも目の前に立つ女性は蟻坂の瓜二つであった。どこから見ても蟻坂そのままなのである。おまけに声も似ているような気がする。私はこの時、ほとんど蟻坂の声を忘れていた。数年ぶりに会ったからこそ、過去の声などもう覚えていないのだ。だが、声は似ているような気がする。それは間違いないだろう。
「す、すいません。人違いです。蟻坂はいないんですから」
私はそう言い、足早に立ち去ろうとした。しかし、女性の方が私に興味を持ったようである。彼女は私の前にやってくると、私を吟味するように見つめながら、速やかに声を出した。
「蟻坂って誰ですか? 私に似ているんですか?」
「え、えっと、少し込み入った事情があるんです。あなたは確かに蟻坂に似ている。けれど、蟻坂は実際には存在しないんです。あの、変なことを聞きますが、あなたは本物の人間ですよね?」
私の質問は、かなり突拍子もないものであっただろう。見ず知らずに女性に向かって、いきなり人間ですかという問いかけは、いくら何でもおかしい。その証拠に、蟻坂とよく似た女性は苦悶の表情を浮かべている。早く立ち去りたい。そんな思いが私の体を支配していく。
「本物の人間です。でも、どうしてですか? いきなり他人に向かって人間ですかって質問はおかしいと思います」
「それはまぁ重々承知なんですが、ちょっと事情がありましてね。現実の人間と、架空の人間をごっちゃにしてしまうんですよ。それで、念のため聞いたんです。あなたが現実の人間であるならば、それでいいのです。ただ、私が知っている蟻坂という人間は、実際には存在しない人間であって、そんな人間が、今目の前に現れたものだから、私は驚いて声をかけてしまったんです。本当にそれだけです。深い意味はありません」
なんだか、事件に巻き込まれたような気分になる。私は声を出してしまったものの、特に迷惑をかけたわけではない。もちろん、いきなり声をかけてしまったのは問題があるかもしれないが、それくらい水に流してもらいたい。
「つまり」と、女性は言った。「あなたは現実と空想の区別がつかない人間なんですね。簡単に言えば、精神異常者。違いますか?」
「異常者ではありません。ただ精神疾患があるのは認めますが」
「それで、あなたが見ていた幻視に、私がよく似ているというわけですね。何だか不思議な話です。到底信じられるような話ではない。でも、何となく興味はあります」
「とにかく、すいません。ただあまりに似ているので驚いただけです。忘れてください」
「あなたの顔を見て思うんだけど、あなたは蟻坂って人に何か言いたいんじゃないの? だから、突然現れた、似ている私に声をかけてしまった。違いますか?」
なかなか鋭い指摘を放つ。確かに言うとおりかもしれない。私が蟻坂を今でも覚えているのは、その思い出が強烈だったからだけではない。彼女助言を聞き、実際に小説を書き始めて、今では何とか生活できるようになっている。逃げ続けてきた人生だったけれど、小説を書きながら、障害年金を受給し、さらに構成書を書いて賃金を得ている。ここまでできるようになったのは、他でもない蟻坂のおかげなのだ。蟻坂が私に逃避を助言したからこそ、私は逃げ続けて、こうして行くところまで行った。そこでようやく私は自分に適した仕事を見つけられたような気がするのだ。もしも蟻坂がいなければ、きっと小説を書かなかっただろうし、恐らく今の仕事もしていない。だからこそ、私は蟻坂に面と向かってお礼を言いたかったのである。私が感謝の言葉を伝える前に、蟻坂は消えてしまった。恐らく、今後も出てこないであろう。もう、二度と会えない存在なのである。
「そうかもしれません」私は呟いた。雑踏の中、私と女性の空間だけが切り取られたかのように、緊張感のあるムードを作り出していた。「僕は、蟻坂にお礼を言いたかったんです。でも、それができなかった。だから、突然現れたあなたに声をかけてしまったんです」
「お礼ですか? 幻視にお礼を言うなんて変わっていますね」
「まぁそうですね。私もよく覚えていないんです。ただ、蟻坂は私の背中を押してくれて、私に道を示してくれた。今の私があるのは、きっと蟻坂のおかげでもあると思うんです。もう、二度と会えないからこそ、こうしてあなたのような女性に会って、私は救われた気分になりました。蟻坂は消えたわけじゃない。きっとどこかに存在している。そんな風に思えるんです」
「そうですか。じゃあ、私に向かってお礼を言ってもいいですよ。それできっと、あなたは楽になれるでしょう」
……。一瞬であるが間があった。蟻坂ではない女性に、お礼を言う。かなり滑稽な話であると思うけれど、私は素直に彼女の言葉に従った。
「蟻坂ありがとう。逃げ続けたけれど、小説は書いてる。きっと書き続けると思う。だから、どこかで見ていてくれるとありがたい。それだけだ」
僕はそう言い、にっこりと笑った。女性は次のように語る。
「小説書いているんですか? それも蟻坂って人の指示ですか?」
「まぁそんな感じです」
「あなた小説家?」
「いえ。作家志望です。ネットで作品は発表していますが」
「なら、読んであげる。どうやって検索すればいいの?」
「『小説家になろう』というサイトで、私の名前を入れれば出ます」
「あなたの名前は?」
私は自分の名前を言った。彼女はスマホを取り出し、メモをしているようだった。そして別れ際にこう言った。
「作品読んだら、感想を言うわ。私、小説家になろうっていうサイト知っているから、使い方はわかるの。それじゃ行くわ。多分、もう会わないと思うけれど」
「わかりました。なんかすいません。ありがとうございました」
私はこうして彼女と別れた――。
数日後、小説家になろうの私のページに感想が付いた。
アリサカという名前で感想が書かれている。かなり辛口な感想であったが、私は初めて自分の小説を読んでもらい、心のどこかでホッとしていた。私は、蟻坂に小説を見せたかった。その夢はこうして間接的に叶ったのかもしれない。きっと、これからも逃げるだろう。だが、小説からは逃げない。しつこく粘り強く書いていき、納得のできる作品を作ろう。逃げ続けたとしても、私には小説がある。だからこそ、恐れることは何もない。どんな場所でも書いていくだけなのだから。私はパソコンのワードを開き、新しい小説を書き始めた。蟻坂との思い出を胸に抱きながら。
〈了〉