帝国記(64) ネッツ勇躍(下)
ナステルの将グランディアは、塁壁上から息を潜めるようにして敵陣を睨んでいた。
「動きました」
グランディアと並ぶように様子を見ていた、一際夜目の効く部下が小さく呟く。
目を凝らしてみれば、なるほど確かに、敵陣から部隊が動き出している様が確認できた。目標はもちろん、ナステル軍の挑発部隊であろう。
敵の指揮官であるネッツを誘い出し、孤立させて討ち取る。
相手の部隊がネッツを追いかけ、全軍で囮を追うようであれば、城内の兵士が敵を背後から襲う。
敵兵が割れた場合は、残った数と動いた数で手薄な方へと攻めかかる。
ほかに細かな取り決めはしたが、とにかくこれが基本方針だ。
すでに準備は整っている。ネッツ軍からすれば、挑発しているのは1000から2000程度の兵士に見えるだろう。しかし実際には、誘引した先に、さらに3000の兵士が待ち構えていた。
この伏兵は先ほどまで城内にいた守備兵だ。まさかそれが知らぬ間に城外に出ているとは、ネッツは思いもよるまい。
ナステルの王都フレデリアには、ナステル軍しか知らぬ秘密の通路が存在する。
城の背後にある岩山をくり抜いて造られたその道を通り、伏兵役の部隊は誘引場所へと抜け出していた。
5000の兵が城外に出ても、なお城内には6000ほどの兵士が残っているため、不測の事態にも十分に対応できるはずだ。
グリードル軍がいくら強兵といえど、見知らぬ土地での夜戦。地の利はナステルにある。
しかしながら、この策はネッツがこちらの挑発に乗ってくる必要があった。挑発が不発に終われば兵を城内に収容し、今日の戦いは終わり。
とはいえ、日を改めたところで状況が好転する見込みはない。であるからこそ、グランディア達は乾坤一擲のこの策の成功を祈るように眺めていた。
そして今、誘引策は成功しつつある。
グランディアは先ほど最初に敵の動きに気付いた部下に、慎重に尋ねる。
「出てきた部隊の旗印は判別できるか?」
グランディアに問われ、薄闇に喰らいつくように目を凝らした部下は、しばしして、「ネッツの旗印のように思われます」と言った。
その言葉を聞いたグランディアは、大きく息を吐き、
「よし。では予定通りに。敵の動きに合わせ、柔軟に対応する。理想は指揮官の首だが、敵を一旦退かせることができればそれで良い。相手に最大の被害を与える方法を優先せよ」
と命じる。
副官は黙って頷いた。どのような展開となっても迷わぬように、すでに各将の役割は手配済み。あとは敵将ネッツの首を取るだけ。
ネッツという将が、皇帝ドラクの初期からの腹心であることはすでによく知られている。ここでネッツを失えば、ドラクとて大きな衝撃を受けるであろうし、士気の低下も避けられない。
うまくすれば、グリードル軍は立て直しのために、砦を囲んでいる本隊も撤退するかもしれない。そうなれば、まだこちらにも生き残る方法はある。
此度の一戦の命運を占う戦い。グランディア以下、王都にいたナステルの将達は、強い覚悟を持って自らを奮い立たせた。
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「では、手筈通りに」
敵が予想通りに動いたことに満足そうなリヴォーテは、自ら一軍を率いる準備を始めた。
「本当に、いいのか?」
此度の挑発に乗って出張るのは、ネッツの旗を掲げたリヴォーテとガフォルだ。
リヴォーテの予測通りであれば、挑発した敵兵はこちらを引き連れ、どこかに配した伏兵のところへ連れてゆくはず。
つまり、リヴォーテは自ら囮役となって、敵の策に乗ろうというのである。土地勘のない場所で、しかも夜間。極めて危険な選択である。
しかしリヴォーテはこともなげに、
「罠があっても俺とガフォルが一番効率よく抜け出せます。というか挑発している部隊を利用して、逆に引き摺り回してやりますよ」
と、頼もしいことを言い放つ。
「それよりも、“その後の事”よろしくお願いします」
「ああ。任せとけ。恩に着る」
ここまでお膳立てされて、失敗しましたとは口が裂けても言えない。ネッツは気合を入れ直し、出陣しようと歩き出したリヴォーテに声をかける。
「なあリヴォーテ」
「なんですか?」
「今回は色々と助かった! ありがとよ! で、ついでにちょっと頼みがあるんだが……」
「お礼は策が成ってからですが、頼みとは?」
「今度さ、俺にその、策の立て方ってやつを教えてくんねえか?」
言いながら、10以上歳の離れたリヴォーテにまた、頭を下げる。
頭を下げたままなので、リヴォーテがどのような表情をしているかはわからない。
が、「……俺、ネッツ様のそういう貪欲なところ、尊敬してますよ」という言葉を残して、今度こそリヴォーテは去っていった。
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ネッツの旗を掲げた1500ほどのグリードル兵が、挑発相手に向かって怒声を吐きながら突き進む。
迫る偽ネッツ軍に対して、なおも挑発を続けながら逃げてゆくナステル兵。
すぐに追加で2000ほどの兵がネッツの旗を追いかけてゆく。グリードルは兵を割ったように見えた。
ネッツの旗がナステル兵に誘われ、夜の闇の中へ消えて行ったのを待ちかねたように、フレデリアの城門がゆっくりと開く。
そして、城から続々とナステル兵が飛び出してくる。
しかし、ナステルの兵士達が半分も城外に出ないうちに、異変は起きた。
ネッツの旗を追いかけていったはずの部隊が、城門に向かって烈火の如く突撃を開始。
さらに残っていたグリードル軍も同調し、城門周辺は混乱の極みに陥ったのである。




