帝国記(1) 春嵐1
僅かな手勢を引き連れた男が、春の強雨に打たれながら、乗っている馬の尻を勢いよく叩く。
「ははっ! ははははっ!」
それは興奮によるものか、男は濡れた身体から蒸気を立ち上らせながら、壊れたように笑い続けた。
そんな男の横に、目つきの鋭い鎧姿の人物が近寄ってきて声を張る。
「おい、馬を潰すつもりか? 少し速度を落とせ。もう追っては来るまい」
その者の言葉に少し煩そうな顔をするも、速度を落とすとこちらも負けじと声を張った。
「そうだろう! そうだろう! アイツらはそれどころじゃあねえからな! おい! エンダランド!」
名を呼ばれた目つきの鋭い人物が、顔を顰める。
「そこまで怒鳴らなくても、聞こえている」
「俺たちは進むぞ! お前が焚き付けた! 途中で降りんじゃねえぞ!」
「……好きにしろ。で、お前は何を望むのだ? ドラクよ」
エンダランドと呼ばれた将に問われたドラクは、天を指指す。
「全てだ!!」
まるでドラクの指を合図にしたかのように、海に向かって真っ直ぐに雷が走った。
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時は遡る。
小さな港町の浜に、浜辺には似つかわしくない大きな岩がゴロリと転がっている。
まるで、巨人が気まぐれに置いた様であることから、誰がつけたか「巨人の腰掛け」と呼ばれるこの岩。
ドラク=デラッサはその上で寝転がり、空を仰いでいた。
「退屈だ」
平和、と言えば聞こえはいいが。この国、ウルテアのおかれている状況は“停滞”の方が正しい表現の様に思う。
王も、その取り巻きも私腹を肥やすことと、小さな世界の権力争いに終始している。彼らの話題の中心は、いかに民から上手く搾取するかばかりだ。
別に、このウルテア王国だけが怠惰なわけではない。周辺の国々も似たり寄ったりである。
とはいえ、ドラクとて偉そうなことを言えたものではない。先年急逝した父から引き継いだこの領地は、元は祖父が王から金で買った物だ。
つまりドラクは、ウルテアの国の悪しき部分からしっかりと既得権益を享受しているから、こうして無為に空を仰ぐことが許されている。
―――だが―――
ドラクの心の中でずっと何かが燻っている。それが何かはわからない。ただなんとなく、このまま自分の“根っこ”の様な部分が腐ってゆくのを許せないような、そんな感情。
「あ! やっぱりここにいたのね!」
聞き慣れた声が岩の下から届いた。
「うるせえな。サリーシャ。俺は今、思案中だ」
下も見ずに返したドラクの眼前に、拳大の岩が飛んでくる。
「うおっ!」
慌てて避けて、ようやく起き上がったドラク。サリーシャが下から睨んでいるのが見えた。
「お前なぁ……それが婚約者にすることか?」
ドラクの抗議にサリーシャも
「それじゃあ私も聞くけれど、それが婚約者に対する態度かしら? お父様に報告するべきかしらね」
サリーシャは領地を接するワナード家の一人娘だ。元々両親の仲が良かったこともあるが、サリーシャの父、コードルは、ドラクとも親しい。
ゆくゆくはワナード領もドラクに治めてもらいたいと常から言っており、日々その根回しに勤しんでいた。
そんなコードルのことは幼い頃からドラクも慕っており、敬意を込めて親父殿と呼んでいる。
「親父殿の名前を出すのはずるいだろ?」
「あら、そんなこといつ決めたのかしら?」
ドラクが岩の上から抗議するも、軽くあしらわれる。いい女だが、気の強さはドラク以上である。
「あー、わかったわかった。俺の負けだ。で、何の用だ? わざわざ探しにきたってことは、なんかあんだろ?」
「あ、そうそう。なんか変なやつがいるのよ。道端に座って、通りがかりの相手に問答をしてるんだって」
「問答?」
「ええ」
「そんなの、適当に捕らえとけばいいだろう?」
「そうも行かない理由があるから呼びに来たの。そいつは「私を捕まえるほどの価値がお前にあるか」なんてうそぶいているわ。もしもどこかの貴族の関係者か何かだと困るから、念の為ドラクを呼んでほしいって」
「面倒だな。とっとと片付けるか。案内してくれ」
ドラクは立ち上がって、岩の上から一度周囲を見渡し、波に反射した太陽に目を細めた。
後の皇帝、ドラク=デラッサ。
始まりの物語が今、幕を上げる。