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お洗濯日和

 あるお洗濯日和の日曜日、I君が洗濯物を干そうとベランダに出たら、何かが柵に引っかかっていた。

(何だこれ・・・)抓んで、広げてみる。

青空のような青いマント、燃える情熱の深紅のベルト。これを着れば多少深海に潜っても業火を潜り抜けても大丈夫そうな、頼もしい見かけ。体にピッタリ密着しそうに出来ていて、それでいて伸縮自在。分厚く派手な全身タイツのよう。

(どうもこれはスーパーヒーローの衣装のようだぞ・・・)

ご丁寧にも、洗濯ばさみで、陽光に照り輝くゴールドの長手袋とゴールドの靴下が腰の辺りに留めてある。

(きっと上の階の住人が洗濯して自分ちのベランダに干していたのが、風に飛ばされちゃったんだろう、で、うちに落ちてきたんだな・・・)

I君は太陽にホカホカ暖められてまるでそれ自体が体温を持っているかのような熱いスーパーヒーロー衣装一式をとりあえず自分ちの中に取り込んだ。

(後で上の階の人に返しに行ってあげよう・・・)

自分の洗濯物、平日会社で着たシャツや洗えるスーツ、靴下、タオル、下着類など、いつも晴れた日にはベランダに干す物を干していく。

 遠い空には入道雲。コンビニで売ってるプチシュークリームのようだ。手前側の空には筋雲。こっちはまるで高級では無いスジ肉の筋部分みたいだ・・・夏の名残と秋の兆し混合の清々しい空。飛び込んで泳ぎたくなる水のように綺麗な大気・・・

 全部の洗濯物を干し終わった後、I君はちょっとベランダの柵に寄りかかって上の階を見上げてみる。が、特にめぼしい物は何も見えない。

ヒーロースーツの洗い替えが他にも干してあれば、あの部屋だなと一目瞭然に分かっただろうけれど、どうやらスーパーマンは替えのスーツを干していないらしい。まぁ、何よりな事とも言える。そんなに頻繁に退治するほどの悪党が暗躍して居ないので、それほど頻繁にヒーロースーツが汚れず洗う必要も無いのだ。この街がまずまず平和な証拠である。

(落とし主が見付かるまで一軒一軒回らないといけないか・・・ちょっと面倒だけど仕方がないなぁ・・・)

世の治安を守ってくれているスーパーヒーローのためである。

直接個人的に何かして貰ったというわけではないが、まぁこれからお世話になる事もあるかも知れないし・・・それについこの間恋人と別れてしまって、デートに行く予定も無くなってしまっていた。する事の無い日曜日。ちょうどブラブラ出掛けるついでだ。

I君は拾った洗濯物を手に持ち、玄関へ。靴を履きながら、チラリと横目の自分と視線が合う。靴入れの隣についこの間まで同棲していた彼女の置き土産、全身鏡が有るのだ。靴を履くと立ち上がり、手に持っていたヒーロースーツの両肩のところを抓んで、自分の肩幅と合わせてみる。

(大体同じサイズ。と言うことは、案外ヒーローって中肉中背男なんだなぁ。俺と似て中身もごく平凡などこにでもいる男なのかも知れない・・・)とI君は考える。

(ここのマンションもごくありきたり。超立派というわけでもないし汚すぎるのでも無い。ごくごく中流の中流家庭が住むマンション。そんなもんか、ヒーローも・・・)夢があるんだか無いんだか・・・

(それにもしかしたら、このスーツはよく出来た類似品かも知れないぞ・・・)

燦々と降り注ぐ昼の太陽の真下で見ると煌びやかに見えたヒーローマントも、埃っぽく薄暗い共用廊下で見下ろすと、なんだか安っぽい。

(この頃では精巧な本物ソックリの造りの模造品を蒐集する人も多い。空を飛び誰も真似できない力で人々を助ける正義の味方スーパーヒーローには子供の頃誰もが憧れたもんだ。大人になって家の中でこれを着て子供時代からの夢を叶えてる人がいたっておかしくない・・・)

それにスーパーヒーローなんて本当はこの世の中、本当に本当のことを言えば、きっと居ないんだ・・・

I君は独り頭を振り、「いや居ないだろ」と呟く。


 一階上の階に来た。フロアの全扉を尋ねて回る。

「これ、お宅のお父さんのマントかな?」

小学校高学年くらいの女の子。「いえ、違うと思います」

「そっか・・・」

・・・

「これ、お宅の旦那さんの物でしょうか?」

手を拭きながら出て来た団地妻風中年美女。「いいえ。旦那は海外出張中で」

「そうですか・・・」

「よろしかったら、今ちょうど休憩しようとアップルティを入れたところですの・・・」

「ありがたい。ちょうど喉が渇いてきてたところだったんですよ、僕も・・・」

・・・この部屋でちょっと小休止・・・

・・・

そして一時間後・・・

「これ、落とされました?」

次に出て来たのはI君とよく似た背格好の男「いや僕のじゃ無いですねぇ」

「そうですか・・・」

天気の良い日曜の昼間とあってか、みんなどこかへ遊びに出てるようだ。

このフロアの後の部屋はどこも留守か居留守のようだった。

I君は更に上の階、そのまた更に上の階でもピンポン・ピンポンと呼び鈴を鳴らし出て来た人にヒーローマントとスーツを見せて回ったが、成果は同じようなもの。誰も、知らない、と首を横に振るばかり。腕にかけた温かい生地が肌にしっとり密着し、地味に歩き回って汗をかき、そのうち生温かいマントが熱く思えだしてきた。しっとりでは無くI君の汗も吸ってジットリベッタリ肌に吸い付いてくる。

「この部屋で最後だ・・・」

ピンポン・ピンポン。

出て来たのは腰の曲がった老人だった。「何の用?」いやに眼光鋭い。そこはかとなく迫力がある。

「あの、これ・・・」

「勧誘・セールスはお断りだよ」

「ああ、はい、違います・・・」このお爺さんがスーツに腕を通せば急に背筋がすっくと伸びた筋肉モリモリのスーパーヒーローになるなら面白いな・・・と妄想しながら、I君は繰り返す。これで十回目以上の台詞を。

「これあなたのじゃありませんか?僕の部屋のベランダに落ちて柵に引っかかってたんです」

「ふん」お爺さんは違うともそうだ、とも言わないでジロリとI君を上から下まで睨み回し、黙って部屋に引っ込んでしまった。

なんだか空虚な幕引き。まぁ良いか。

(・・・603号室には素敵なお茶飲み友達も出来た事だし、収穫無しと言うことも無い・・・)甘い部屋でのひとときの夢心地を思い出しながら、帰りはエレベーターでシャッと降りようと、下行きのボタンを押しニヤけ顔になりながら待っていると・・・

「おい、待たんか、小僧」

さっきのお爺さんが手にスイカのような丸い物を持ってこちらに近付いてくる。物騒な物では無いかと手元の重そうな持ち物に注意して見ると、それはバイク乗りのヘルメットのようだ。

「うちには戦士のカブトのようなもんが落ちてきた」

「どこから?」思わず突っ込んでしまうI君。「ここが最上階なのに?」

「わしにも不思議じゃ。隣のビルから誰かが投げ込んだか」

二人は共用廊下の塀の向こう、隣のビルを眺めやった。結構距離が離れている。

「一体何のために?」

「知るか。お前にやる」お爺さんはグイグイヘルメットをI君に押し付けてくる。

「いや要りませんよ。これ以上・・・僕だって・・・困ります・・・!」

「色がそれと揃いの物じゃろ」

「確かに色味はそんな感じですがね・・・」

エレベーターがチンと到着。扉が開くと、乗り込むI君の脚には当たらぬよう、ボーリング球みたいに中へヘルメットを放り込むお爺さん。

「お前が持て」

I君とヘルメットを乗せ、エレベーターのドアが閉じる。初めて不気味な笑みを見せながら閉まりゆくドアの隙間に手を振る萎びた爺。

「知るかよ」地味にくたびれて徒労感の募る腕のマントの重みに、このマントすらもこの場へ投げ捨てて行きたくなるI君だったが、自分の部屋の階に到着すると、元々の拾い物のマントだけは手にぶら下げたまま、ヘルメットは一瞥した後そのままエレベーターに置き去りにして、自分の部屋へ戻った。

「あーあ、疲れた・・・明日からはまた仕事だぁあ・・・あーあ・・・」

自分の部屋に帰って来てソファにゴロンと横になると、急にお腹が空いてきている事に気付く。

「もうこんな時間かぁ・・・」

冷蔵庫を漁ってみたがろくな代物が入ってない。

「そうか。買い物に行くべきだった、何してたんだろ、俺・・・今日一日・・・」

再び玄関へ。靴を履きながら、鏡にヒョイとぶら下げたスーパーマントを横目で睨む。

 廊下に出て今度は下へボタンを押し呼び寄せたエレベーター。乗り込む直前でハッと息を止める。辺りを見回す。さっきこのエレベーターが止まっていた階が一階上のフロアだったことを思い出す。

「クソ、誰だよ・・・!」独りごちながら、ヘルメットとその横に添えられたスーパーヒーローブーツと共に箱に乗り込む。

コンビニで缶ビールと唐揚げ弁当を買ってきたが、部屋に戻るときにもまだエレベーターの隅にフルヘルメットとカッコイイブーツは揃えて置かれたままだった。

(きっとエレベーターでヘルメットを見かけたこのマンションの住人の誰かが色味や質感的にこれとお揃いだと気が付いて自分ちのベランダに投げ込まれてたブーツをここに揃えて置いたんだ・・・一体誰なんだ、ヒーローマントやらヒーローブーツやらをこのマンションのベランダに放り込んだそもそもの人物は?!・・・放り込まれた方は、なかなか質が良くまだ真新しそうだし捨てるのは忍びない、後で自分でも気が咎めると分かるから・・・捨てるに捨てられず対処に困るのに・・・)

自分の部屋のスーパーマンマントと纏めて、管理人室に持って行こうかとも一瞬考えたが、

(いや、もう放っておこう。馬鹿らしい。僕の知ったことじゃない)とI君は思い直した。

 自分の部屋に戻ってテレビを点け、お笑い番組を見ながら弁当を食べ酒を飲む。笑えるところで声を出して笑い、それなりに時間が経過すれば昼間の出来事も印象が薄まってきた。

(さて風呂にでも入るか・・・)

彼女が居ないので浴槽を洗うのも風呂を溜めるのも全部自分の番。ゆったり浸かっていても、髪を結い上げながら「一緒に入ろう」と艶めかしく誘ってくるあの声もない。目を閉じると思い出してしまい、目を開けても彼女の置いていった女性物の数々のお風呂用品が見える。

溜息を吐きながら風呂から上がる。脱衣場からは玄関口が、鏡にペイと引っかかったスーパーマンマントが見える。

「・・・はぁあ・・・」

 寝る前、布団に入ったものの、気になって、このままじゃ眠れないなとI君には分かったので、

「嗚呼、やれやれ・・・」と自分に呆れながらサンダルを突っ掛け、スーパーマンセットを取りに行く。エレベーターの中にそれはそのままメタリックな輝きを放ちながら彼を待っていた。

 自分の部屋で完成されたスーパーマンセットを眺め下ろす。ブーツ。マントにスーツ。ヘルメット。後はこれを着る生身の肉体が必要なだけ。

「しゃあない、いっぺんだけ着てみるかぁあ!」

幼い頃は彼も正体を隠した正義の味方とか、単四電池2本でカッチョイイ音を発しながら七色に燦めく矢やらライトセーバー等を振り回しバッサバッサと悪をなぎ倒すスーパーヒーローに憧れた少年だった。悪の組織の牙城、高い塔に幽閉された乙女を助け出し、仮面を外して名乗ることもなく宇宙の彼方へ去ってゆく、夢を見て眠った。

小一の頃にお祖母ちゃんにねだったゴレンジャー・レッドの武器ブーメランを、高校受験の頃になって急に「これ欲しかった奴やろ」と言ってプレゼントされ、ニコニコして悪気のないお祖母ちゃんを悲しませないよう、引き攣った笑顔で「わ、わ~い!」と喜んで見せた。(生家が貧乏だとサンタさんに頼んだ品も数年遅れでプレゼントされるのだとその時現実の厳しさを学んだ)。

 今、不思議な巡り合わせで自分の元に揃った正義の戦士の身辺グッズ。

一番明るい居間に姿見を持ってきて、それらを全部一通り身に付けてみた自分の姿を映してみる。

(うん、なかなか・・・)いや、誰が着たって様になるのであろう、もともと造りはしっかりと細部にわたり丁寧に作り込まれた大人のための変身装備。子供の頃叶わなかった夢を金と暇に物を言わせ大人が発注した贅沢なコレクションに違いない。

両手を腰に、脚を肩幅に広げてすっくと立ち胸をグッと張ってみる。お次は

「ヤァアッ!!」と両の拳を突き出し悪と対峙した威嚇のポーズ!!

屈伸、軽いジャンプ、その場ダッシュ。片膝を床につき屈んで、逃げ遅れ倒れているか弱い一般市民を助け起こすポーズ。うん。うん。なかなか、悪くない・・・

一旦後ろを向いてみて、それから素早くサッと振り返り、背後からかかってきた敵をやっつける練習。

「卑怯者めっ!!」声にも出してみる。「ウウウンッ、アアアァッ!!」いがらっぽい喉の調子を整える。「卑怯者めっ!!その女性から汚い手を離すんだッ!!」

続いて、架空の怪物が人質に取っている架空の美女に声を掛ける。

「もう安心だ!!私が来たッ!!」

後方両サイドからは架空の黄色い声援が聞こえるようだ。「キャーッ!!I様―ッ!!」

「とぅッ!!」縦にジャンプ!!崖の端から飛び降りた設定!!からの飛び蹴り!!

ショッカー的な雑魚悪党どもにドッとまわりを取り囲まれるも、難無く3人、4人斬り!!

「バサァァーッ!!」「ギャァアアーッ!!」(効果音、悪党どもの悲鳴もI君の口から漏れる。)

 そして悪党頭領の頼みの腰巾着、圧倒的に大勢いた敵方の2番手に強い中間管理職的ポジションのショッカーもほどほどの時間をかけ、結局はやっつける。アッと言う間にラスボスとの一対一の対決シーンに持ち込んだ!!鮮やかな手並み!!さすが期待のスーパーヒーロー、我らが星、I君~ッッッ!!

 悪党ながら、やられた仲間達を見渡し、怒りを露わにする一番醜悪で強くて悪いラスボス!!!!

「おのれIめぇぇぇッ!!小賢しき奴ッ!!」

「そこまでだ!!覚悟を決めろ!!私が成敗してやるッッ!!」

飛びかかっていくI!!

「テャッ!!」「ぬおぅッ」「セャァッ!!」「ぐぬぬッ・・・!!」敵の触角を1本切り落としたIッッ!!やられた箇所から緑色の自分の血がドクドク流れ出すのを見て不利を悟った敵頭領!!

「・・・くそぅ、こうなったら・・・」何か良からぬ小瓶をどこからともなくスッと取り出し暗い呪文を唱えながら蓋を取る敵。それをググッとあおる。明らかなドーピングである。ムクムク体が巨大化し見る間に大怪獣に変身!!一歩足を踏みならせば街全体がグラリと揺れる!!

「くッッ・・・!!」大怪獣のふもとでさすがに怯む正義の騎士Iッッ!!絶体絶命・空前絶後の大ピンチ!!(何故悪党がゆっくりと小瓶を取り出したりしてる間に必殺技チョップをかましてやっつけておかなかったのか?!あんなゆっくりはっきりドーピングしてたのにその間よそ見でもしてたの?!と言う疑問はさておき・・・)

「これに飛び乗れ!!I!!」ここでジャムおじさん的仲間達が登場ッッ!!

怪獣と同じくらいデカい戦闘メカの操縦席に飛び乗るIッッ!!!!

「よぉしこれで一万馬力だぜぇぇぇッッッ・・・!!!!」

・・・

・・・

 その夜、I君はだいぶ夜更けまで居間で1人楽しく運動し、最近ポテポテと持て余し気味だった脇腹やお腹の肉に鞭打って、快い疲労感に包まれぐっすりと深い眠りに落ちた。その寝顔は少年期にしか見られないような純真な笑顔に満ち満ちていた。朝起きてからも、夢の内容は一つも覚えてないのに、物凄く楽しい気分の良い夢を見たに違いないという爽やかな心地がした。

「スーパーマン衣装を着たまま寝ちゃったな・・・」

彼はシャワーをサッと浴びて汗を流してから出社した。早くスーパーマンスーツに着替えてまた悪を滅ぼす特訓をしたくて満員電車を待つ間も惜しみ駆け足で帰って来た。


「・・・なんだか近頃、体が引き締まってきたみたいだ・・・どうせならと食べ物にも気を遣うようになって、ブロッコリーやプロテイン、鶏ささみ、スーパースプラウトなどを好んで摂取するようにもし初めた・・・その成果か・・・あるいは・・・」

チラリと洗濯して干したベランダのスーパーマンスーツを窓ガラス越しに見やるI君。

「あれを着て眠った日からどうも、普段使ってなかった筋肉が活性化し、ピリピリ痛い・・・これはただの筋肉痛なのか?・・・ワガママボディに眠っていた一つ一つの細胞が目覚め、我覚醒した!!と雄叫びを上げているこの感じ!!これはただの筋肉痛か?!もしかしたらあの全身スーツ・・・」

もしや未知の科学を凝集した、秘密結社の博士が隠密に開発してきたスーパースーツをどういうわけだか手に入れてしまったのやも知れぬ。あれを着て眠ることにより今よりもなお早くこの肉体は強靱により活性化されるのではあるまいか!?

 I君は家に居る間は片時も怠らず寝るときもスーツを着用するようになった。日々の鍛錬も怠らず、いつ何時どこから悪の集団が攻めてきても戦えるよう油断なく世界を睨み付けていた。誰か困っている人はいないか、助けを求めている人はいないか、本人が助けを求めていなくったって、助けられそうな相手はいないか・・・?・・・せっかく鍛え上げた肉体、そうでもしなければ使いどころのない筋肉をピクピクさせ、油断なく周囲を見回しながら通勤・退社した。

I君のご近所の老人達は皆I君と顔見知りになった。タイミング良くエントランスに居合わせれば、階段を荷物ごとおんぶして駆け上がったり駆け下りたりして目的地や部屋の前まで送って貰えるようになったからだ。

 退屈なほど平和な地方都市堺市。そうそう重大犯罪は日常的には起きない。世界的有名人バッドマンが統治する犯罪都市ゴッサムシティとは違う。そこがここSシティの良いところなのだが、I君だけはどうにもジリジリする思いで悪の出現を待っていた。

 そんなある日。ついにその時は訪れる。

「キャアア!マー君!!」

「アアーン!ママァァー!!」

「ハッ!!ついに僕の出番かッ!?」窓の外から聞こえて来た叫び声に、I君はハッとスクワットの姿勢から飛び起き、ベランダに出て下の公園を覗いて見た。

「あれはッ・・・僕の出番・・・か・・・?」

幼児が木の下で上を指差し泣いている。転んで手を離してしまったのか、赤い風船の糸が枝に引っ掛かり、風にゆらゆら。母親にもギリギリ手が届かない高さだ。

ハッキリ言って大した事件ではない。

むしろのどかな日常の一場面。しかし、ここで助けに出なければいつになったら活躍できると言うのか。もう十分すぎるほど待った。アクセルは全開。これ以上ブレーキをかけ続けたら八百長悪を自らの手で生み出してしまいかねない。

「坊やッ!!そこで待っていろ、ヒーローが今ゆくぞッ!!・・・トゥッ!!」

一旦部屋の奥に戻り、そこから助走をつけて走り出し、ベランダの柵に片手を付いて、ヒョイッと柵を横っ飛びで跳び越え、ベランダから飛び降りる。大丈夫。ここは一階。

母親はあっけにとられ、とっさに子供を庇うような態度を取る。しかたがない。全身タイツの変態が全速力で突進して来たのだから。まだ知名度のない孤独な戦士I君。参上ッッ!!

一旦木の幹の下で急停止。

「なるほど・・・こんなことだろうと思った・・・!急がなければ・・・!」グズグズしていては風に飛ばされて風船は枝からも離れてしまう。そうなったらもうどうすることも出来ない。坊やに新しく風船を買ってやることくらいしか出来ない。ゆっくりでも良さそうであるなら、こんなことに使いたくない真新しい戦闘服を家で脱ぎ、普段着に着替えて何食わぬ顔で表から外へ出て来て、落ち着いて、坊やのために一肌脱いでやったのだが、・・・この状況では致し方ない。

「お母さん、坊やを連れて離れていてください」

「は・・・はい・・・」

いつの間にか坊やは泣き止み、目をまん丸くしてスーパーヒーローI君をジッと見詰めている。

I君は枝を揺すらないよう、ソッと幹に取り付き、鍛え上げた逞しい二頭筋を盛り上げ、ズリズリと木を登り、あわや風船の糸が枝からスルリと離れてしまう最後の瞬間に、パッと手を伸ばし、掴み取った!!お見事!!

「おお~」いつの間にかパラパラと足を止め途中からの一部始終を見ていた犬の散歩中の有閑マダム達、杖をついた老夫婦などから歓声と一応の拍手が上がる。パチパチ・・・

「これだろう、坊や。どうぞ」

「ありがとうございます・・・」母親が子供のかわりに礼を言う。「マー君も、ありがとうってお兄さんに言いなさい」

見張った目をキラキラ輝かせ少年は食い入るようにI君を見詰めている。突如現実界に現れ自分のピンチを救ってくれた正真正銘本物のヒーローに言葉も出ないようだ。ソーッと手を伸ばし、I君の深紅のベルトの中央、輝くゴールドのバックルに触れようとする。

「やめなさい!人の物を触らないの!」

「良いんですよ。お母さん」

I君はしばらく、憧れそのままの汚れなき瞳で彼を見詰めペタペタ小さい手で触ってくる少年に笑って決めポーズの立ち姿勢を保ちつつ、子供の頭を優しく撫でてやり、それから屈んで少年の目の高さに自分の顔を持ってきて、長手袋をはめた手で握手した。

「もう無くすんじゃないぞ、少年。大事な物はギュッとしっかり持って。では、さらば。ママの言いつけを守ってね。」

「また、会える・・・?」少年がヒソヒソ声で聞いてくる。

「良い子にしてたらまた会えるよ」

「ぼく、良い子にしてるっっ・・・!!」

「あ、あの、この辺りにお住まいなんですか・・・?」有閑マダムの一人が立ち去ろうとするI君の腕にちょっと触れながら話しかけてくる。

「あ、ええ、まぁ・・・」話しかけられたものは立ち止まって挨拶しなければならないI君。

着飾った犬の散歩仲間のもう一人と目を見合わせ、マダム達がクスクス。

「良かったら一緒にお写真、一枚だけ・・・?」

もっと他のマダム達との笑いのタネに証拠を残しておこうと言うつもりか。携帯のレンズを向けてくる。

「ま、まぁ・・・良いですが・・・」本当はスッとこの場から消え去りたいのだが・・・

「あら、マスクをちょっと上げて下さらない?」

「い・・・いえ・・・これは・・・」今こそ、何故ヒーローが真の姿を人に晒さず名も語らないのか身に染みて知る。恥ずかしいのだ。

「お顔が見たいなぁ」もう一人のマダムも上目遣いで盛んにパチパチ目を瞬き彼の顔の方へソロリと手を伸ばしてくる。

I君はジワッと後退り、それからクルッと踵を返し、マントをはためかせダッシュで逃げ去る。

走り去る後ろ姿は撮影されている気がした。そのくらいなら良いだろう・・・


 一度登場してしまったが最後、こういったヒーロー物はシリーズ化しがちである。

幼稚園保育園の子供達の間、老人会の間、犬の散歩仲間、有閑マダム連中にママ友の会、等々の間で謎の覆面ヒーローIの噂は噂を呼び、人々は困ったことがあったらI君の部屋のベランダ前の公園に来て大声で助けを求める習慣が付いた。

まず団地の情報チラシにI君の活躍が掲載されるコーナーが設けられた。わざわざ別の団地から助けを求めに来る者、叫んだら本当にヒーローが現れるのか確かめに来る輩、真面目・おふざけどっちのYouTuberも来て、スーパーヒーローIは知名度を飛躍的に上げ、活躍の場は一気に範囲を広げた。頼まれ事のピンチ度合いも重みを増していく。

「学校で虐められている、助けて下さい」

「今度抗争があります。加勢して下さい」

「夫が出張から帰ってきません。どうでしょう、またうちでゆっくりアップルティでも・・・」

「子供が誘拐されました。警察には連絡するなと言われ・・・秘密裏にどうか我が子を救い出して下さい・・・」

やがて場数を踏み、数々の輝かしい実績を積み上げ、ヒーローIの軌跡は確かな物となっていく。

実在する真のスーパーマン!!握手も出来ればサインにも応じてくれ、はにかみ屋で顔写真だけは無理のようだが誰もが実は彼がどこに住んでいる何者なのかを知っている!!

「どうぞ、パトロールにうちの社のロゴ入りバイクを使って下さい。最新モデルです、このボタンを押せば翼が出て空も飛べます」

「是非、うちの社のプロテインのCMの契約を結びましょう!どこの社よりもギャラは弾みますよ!一生分に余るプロテインも贈呈します。定期便でお届け。今なら、シェイカーとスプーンもお付けして!なんと!このお値段!!!!」

一緒にバッタを捕ってくれと言う近所の子供達からのお礼の泥団子ならピュアな心で受け取れたが・・・

「いや僕は・・・ボランティアで始めた人助けで・・・」

「良いじゃないですかぁあ!!我々も本社から、あなたのサインを得るまでは帰ってくるなと脅され、クビがかかって困っておるのです。家では今年受験を迎える双子の娘と、その下にもまだ食べ盛りの双子の男の子達が控えています。どうぞ、これもれっきとした人助けと思って、サインして下さいよぉおおおお!!」

泣き出さんばかりの営業担当。もともと人が良くて人助けなどしたがる性格のI君。無情に断れるわけがない。

「・・・まぁ、・・・そんな泣かないで下さいよ・・・弱りました、そこまで言われたら・・・」

ヒーロー業だけで充分生活出来るようになってきて、また寝る暇もなく持ち込まれる相談事に多忙過ぎもし、花屋の集荷の仕事は惜しまれながら辞める。


 そんなある朝、誰かが無遠慮にも玄関のインターホンを鳴らす。(お困り事は公園で叫んでと暗黙のルールは周知のはずなのに・・・)

「あの、こちらに引っ越したと聞いて・・・」出てみると元カノだ。

「今更何?」

「・・・まだ置いてあった荷物があったかと・・・」

「さすがにもう捨てちゃったよ・・・引っ越すときに・・・」

「あの、最近活躍が凄いよね。・・・陰ながらずっと応援していて・・・」

チラッと上目遣い。一生懸命エステに通って魅力を最大限に引き出しまつげパーマにも力を注ぎぷっくり唇メイクで女を上げてこの再会の場に臨んだようだが・・・

「ごめん・・・今は奥の部屋で女性が休んでるんだ・・・」

「あ・・・」女物のブーツに初めて気付く元カノ。ずっと一生懸命に元彼の顔ばかり潤んだ瞳で見上げていたので今初めて俯き、気が付いたのだ。

「ごめんなさい、じゃあ・・・」しおらしく帰りかける元カノ。その肩の辺りに早くも哀愁が漂い始める。

「・・・後で電話しようか?・・・体が空いたら・・・」思わず呼び止めてしまうその点でもヒーローな漢・I君。

見詰め合う二人。

「・・・うん。」女の望みをかけ決死の覚悟で頷く元カノ。戦う女戦士達には彼女らの勝負の土俵が有るのである!!

「分かった。じゃあ、後で・・・」

「うん・・・」

他の人をあなたより好きになっちゃった、と言って身勝手に出て行ってしまったかつての恋人だったが、これからはまた前とは違った温度差で違った関係性を結び直せそうだ。今や女性に持ち込まれる相談件数が最も高いスーパーヒーローI君である。しかしながら、そっち方面(主に寝室での相談事)は一日に四件までと数を決めて対処している。それでも予約待ち10年超え。しかしながら昔のよしみで、内緒で順番を割り込ませてあげてもいい・・・

これについてはI君のさじ加減一つなのだ。


 話が横道に逸れてしまった。

例のスーパーマンスーツは度重なる洗濯で擦り切れ、ついに肘や膝が破れて、今は最寄り駅の小さい博物館のガラスケースの中で地域縁の品として展示されている。

「是非ともうちのメーカーに洗い替えを仕立て直させて下さい」と各所から頼み込まれ、研究のためと懇願されたが、初めのうちI君は変身後に纏うスーツ・マント一式をなかなか自分の元から離し人の手に委ねるのには勇気が要った。

(これが僕の潜在能力を引き出してくれているのかも知れない・・・スーツがなければ僕は手も足も出ない、うだつの上がらない男のままかも・・・スーツを研究されてそんなことが明るみに出たら嫌だ・・・)

しかし、人知れず悩みあぐねる彼が、昔そのスーツを拾った、昔住んでいたマンションの近くを考え事をしながら駆け足でパトロールしていたとき、一人の老人が声を掛けてきた。

「わしを覚えとる?」

はて、引っ越す前このマンションに住んでいたとき荷物でも持ってやった老人のうちの一人かな、と相手を見詰めるI君。

「あんたにヘルメットを進呈した老いぼれじゃ」

「あぁーっ!!あの時の!!」

「その節はどうも、な」

「いえいえ、あれがあって今の僕が居ます!」いつまでも謙虚さ、初心を忘れない見上げた好青年I君は、お爺さんにペコリと頭を下げる。

「何か悩みでもあるんか。あんたそんな顔して歩いてたよ。若い癖して眉間に深い皺刻んで。言ってごらん?たまにはあんたが人に頼ってみても面白い」

「実は・・・」

不思議に、かつては偏屈爺と見えたお爺さんは聞き上手だった。公園の木陰のベンチに誘われ、そこで横並びに座って語り合う二人。

「この頃、洗濯する度、怖いんです・・・今度の洗濯でついに取り返しの付かないような破れ方するんじゃないかと。あのスーツが着られなくなってしまったら、僕は・・・」

「別にもうみんなあんたがヒーローの正体だって知ってるんだし、ジャージでええじゃない?」

「いやそれでは力が入らない。あのマントとスーツじゃ無ければ・・・あれは・・・実は科学の粋を集めた特殊なマントかも知れないんです・・・誰が着ても着た人の100万倍の力が出せる・・・」

「そんなこと無いよ。わしが保証する」

老人はニヤッと笑って立ち上がると、I君が初めてヒーローとして活躍を開始した懐かしいドングリの木まで意外な身軽さで走って行き、幹に取り付き、ずいずい登ってあの風船の糸が絡んでいた枝にタッチした。飛び降りるときは用心深く、しかしやはり意外な身軽さで、膝を屈伸してショックを最小限に抑え、ちょっとだけ片手の指先を土に付いて着地。

思わずI君は立ち上がって拍手した。

「お見事!ブラボー!!凄いです!!」

「わしを見ろ。全身スーツなんか着とらんだろ」

「確かに!」

老人はいかにもそこらの老人が着てるような、近所の商店街で売り出し時期に買ったらしい、いたって普通のシャツとパンツに、ユニクロのズボン吊りを吊っていた。

「昔は敵無しやったが、歳には敵わん。いざという時には走れるし勝負となったらあんたにだって負ける気はせんけど、毎朝ベッドからよっこらしょっと起き上がるだけで全身節々が痛む。助けてーとわしを呼ぶ叫びも年々聞き取り辛く、終いには補聴器を付けるまで聞こんようになってしまった・・・」

「では・・・やっぱりあなたが・・・」

「そうだよ。先代のヒーローさ。しかし後継者が必要だった。」

「補聴器をしたまま眠るという作戦は・・・」

「うるさくて眠れないんだよ。隣にただでさえ鼾のうるさい家内が寝てるものでね」

「なるほど・・・」

「で、あんなスーツを作ったのだ・・・」

「あなたが?!」

「そうだよ。家内も手伝ってくれた。あれはなかなか骨の折れる仕事やった」

「そうでしょうね・・・」でも・・・I君は首を傾げる「でも何故だろう、回りくどいような気が・・・道場でも開いて直接弟子を募ったら良かったんじゃ・・・」

「そんなん求めてない。わしが欲しかったのは、なんと言うのかの、同じ信念を持つ者。最近の若いのはその心構えを持つ男をヒーローと呼ぶようだが、わしはサムライと呼んでおった。清らかな、下心の無い人助け精神。こればっかりは教師からどうせぃこうせぃとクドクド言われて形成される魂ではないし、そうであってはならん。自ら生み出されなくては・・・」

「じゃあ、人の家のベランダにマントを投げ込んで試してみてたんですか?」

「そうだよ。暇だからね。わし等夫婦には子供が授からなかった。二人とも現役時代はバリバリ働いて今や悠々自適の年金暮らし。体を鍛える暇もマンションの戸数分のマントをせっせとこさえる時間もタップリ。」

「あのマントから全ては始まったのになぁ・・・」

「まぁ型から入るとか道具を揃えて心身整いその気になるというのはあるね」

「僕があのマントをゴミ袋に入れて捨てちゃってたらどうしてましたか?もしもの話・・・」

「さぁ。別のマンションでまた同じ事を繰り返してみてたか、ダメだこりゃと諦めてたか。でも、・・・」

老人は顎で今も自分が住んでいる棟を指し示した。

「結局あんたが、このマンション内では一番の正義感の持ち主だったという事さ。自分の休みの一日を潰して人の洗濯物を持ち主の元に戻してやろうと探し回ったのはあんただけ。それがヒーローの第一歩。わしは残りの道具でハッパをかけた。しかし、一つ一つ選択肢を選び取り一歩ずつこの道を究めたのはやはりきみ自身だ。ヒーローなんて結構そんなもん。みんな成れるんだ。なろうと心がけさえすれば。きみのように、弛まぬ努力を続けさえすれば・・・」

 その時、どこかでキャーと叫ぶ声がして、スッとI君は立ち上がる。ベンチのお爺さんにウン、と頷かれ、漲る熱い思いを新たに、今日もスーパーヒーローI君はゆく!!!!





おしまい!


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