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ナイトミュージアム

 大恋愛の末、失恋してしまったG君は、週末の二日間を美術館で過ごした。恋人と行って来なよ、と、チケットを二枚友達から貰っていたからだ。

(本当は彼女と来るつもりだったけど…)そう思いながら土曜日の午後いっぱいを美術館の中をゆっくり巡って孤独な時間を潰した。


翌日の日曜日も、する事が無いG君はまたブラリと美術館を訪れた。

洗濯物や掃除や日用品の買い出し等の家事は、土曜日の午前中に全部終わらせてしまっていたし、自分と恋人用にと貰ったチケットのもう一枚がまだ残っていたから。

 入り口から出口の直前まで、昨日よりものんびりと一巡りし、一度出てしまうと中へ戻れなくなる出口の外へは出てしまわないで、もう一度中程まで戻って来た。

ちょうどそこにベンチがあった。ちょうど老婦人が休憩し終わって立ち上がったところだった。まだ若いG君は、別に脚が疲れていたわけでは無かったが、人生初期の大きすぎる喪失の痛みに心が弱り切っていたため、目の前に空いたベンチに力の抜けた体をどっしりと落とした。そして頭を抱え物思いに耽り始めた。

 (どうするのが正しかったんだろう?・・・彼女は戻って来るのか否か、いや、あのままのワガママさで戻ってこられてもまた同じ事の繰り返しだ、結局また別れることになる…いやいや、僕が悪かったんだろうか、もっと気前の良い男になれれば次こそは…いやいやいや、金が続かないぞ。彼女は1を与えられれば2を求め始める、そして3も4もと望みが限りなく高い、そういう女の子だった…結局僕には高嶺の花だったのかなぁ…でも一度は手が届いたんだ、彼女にだって情くらいあるはず…仲の良い時には本当に気持ちが一つだった…彼女も今頃はもしかするとまた僕とよりを戻したがっていたりなんかして…ないかなぁ・・・)

 テコテコ走ってきた子供が、投げ出されていたG君の脚に躓いてバッタリ倒れた。ハッと彼は顔を上げた。

「大丈夫かい?ボク?ごめんね…お母さんはどこかな?…」

男の子は幸い泣き出さず、G君に人見知りの表情をして後ずさり、ちゃんと母親がどこにいるかを知っている歩みでパタパタと元いた方向へ駆け戻って行った。

腕時計を見てみると、知らぬ間に結構時間が経っていた。

G君はぼんやり辺りを見回してみた。座っていたベンチの目の前に、大理石でできた"湯浴みをする女”の彫像があった。


 翌週の土曜日も、午前中で家事を終わらせてしまったG君の足は何故か勝手に美術館へ向いた。彼女と付き合い出すまではパチンコへ行って酒を飲んで酔っ払って家に帰って来る、というのが彼の週末の行動パターンだったのだが、彼女に「パチンコはお金と時間の無駄遣い。どうせ勝てないんだから」「お酒と煙草はやめて。せめて減らして。体のために」と再三言われ続け、なんとなくまだその言いつけを守っていた。(別に彼女に言われるまでもなくそれは自分でも分かっていた事だったし、いつかは一人でもやめられていた気はする。なんだか彼女に言われてやめたのが悔しいような心地もするが、でもせっかく依存を断ち切れたのだからまた再びすぐに負の習慣を元に戻そうとは思わなかった。)

 付き合いだしてすぐの頃とか、別れるまでは、(もし別れてもまた彼女に出会う前の元通りの自分に戻るだけの事だ、)と思っていたG君だったが、そうでは無いことに今や気付いた。彼女を失った後の彼は、もう彼女と出会う前の彼では無くなってしまったのだ。失った男になったのだ。

(失恋した人に美術館の空気は向いているのかな…)等と彼は考えてみた。

この特有のゆったり流れる時間、大勢の人が居てそれでいてみんなそれぞれの鑑賞に浸りながら静かに過ごす…程よい距離感。これが、この世にたった一人きりにされたわけでは無いのだと、傷心の心の穴に染み入って人の存在やら体温をじんわり感じさせてくれる。

今日も一通り展示されている美術品をなんとなく眺めて一巡し、折り返して来て、またあのベンチが空いていたので座った。目の前にはやはり"湯浴みする美女”像がいた。今日のG君は、台座の上の彼女と目が合っているような錯覚を覚えた。

 裸足の彼女は、台座から降りて来たとしても彼と肩を並べそうな高身長。肩幅もあり、堂々たる大柄女性だ。濡れた洗い髪が片側の乳房の先端を隠し、もう片側は露わになっている。G君にジロジロ見られ、恥ずかしそうな顔をして、まだ腰に巻き付けただけの薄布を喉もとまで引っ張り上げたい衝動に駆られながらも、石像だからそれができない、もどかしさの気配を感じだ。だがもちろん、石で出来た彼女がそんな事考えるわけが無い。全てG君の妄想だ。

(やれやれ。)G君は思った。(例え目を奪われ見とれていたのだとしても、生身の女性をこんなにもジロジロ見ていたら睨み返されるか、気持ち悪がられてセクハラになる。でも芸術だけは許してくれる。芸術って救いだ。癒やしだなぁ。穴の空くほど見ても、誰にも怒られないし実際には穴も空かない。閉館まで彼女を見ていよう…)


 翌日は日曜日だった。

休日には珍しく朝早く起きたG君は、今し方見たおかしな夢を反芻した。夢にまであの石像の美女が出て来たのだ。場所は深夜の美術館。クチュン、と可愛いクシャミが薄暗がりの館内に木霊する。湯上がりであんな半裸の薄着のままでいつまでもいるせいで、あの子はついに湯冷めしてしまったのだ…

(そんなアホな)G君は我ながら自分の夢に呆れ、頭をフリフリ、もともとの悪しき習性に久々に立ち戻ってみようかと、起き抜けすぐに煙草に火を付け、今日はパチンコに行くぞと腹に決めた。

 しかし、閉館3時間前の美術館にまた彼の姿はあった。

気になる女の子が風邪を引いてしまった夢を見て、やっぱり気になり、また来てしまったのだ。

(しかしやっぱり彫刻だからってのもあるだろうけど、均整がとれた肉体美、豊満と繊細の絶妙な掛け合わせ、無いようで有る有るようでやはり無い可愛らしい筋肉、参りましたの一言だなぁ…)と、惚れ惚れと台座の上の片想いの相手を見上げた。

(幾つくらいの人がモデルになったんだろう、もしかして人妻とか…?)

彼は彼女の足指の近くの台座に書かれた説明書きも読んでみた。すると彼女は、火山の噴火により厚く積もった灰の下に埋もれていた街から出土したもので、もとは街の中心広場の水汲み場を飾っていた女神だったらしいと分かった。

「とにかく風邪ひいて無くて良かったよ…」美術館の(もう帰って下さいよ)の無言の圧力である蛍の光が流れ出した帰り際、G君は女神の目を見て呟いた。

その時、驚いたことに、石で出来ているはずの彼女の硬い口元がニコリと微笑んだように見えた。ハッと一瞬息を飲んだG君だったが、そこまでまだ正気を失ってはいない。

(僕に笑いかけてくれたように思いたかったからそう見えただけだ。モナリザの視線がずっと追いかけてくるように見える錯覚に近い。ほら、今はもう無表情だぞ。危ない、ちょっと僕、病んでるのかも知れない…)


 翌週の週末から、G君の街の美術館は館内整理をして、外国の美術館から借りて来た美術品を展示し始めた。ガラスの小鉢や香水瓶等、大量生産大量消費の現代では採算が合わなくてもう作られなくなった手仕事の品々。"湯浴みする女”とはまた別の国、別の時代の、近代美術。

 G君も美術館の前まで来て、チケットやポスターの違いにすぐ気付き、何だか中身が変わったようだとは分かったが、ガッカリ半分、それでもきっとまた心惹かれる次の一品に巡り会えるだろうと期待し、中に入った。しかし、どうしても目が勝手にあの湯浴みする女神を探してしまう。今展示されている品に全然集中することが出来ない。癒やされない。

 空虚な気持ちで、あのベンチに腰掛け、今は目の前の台座に設置されているしょうもない壺を睨み付けた。結局一時間足らずで美術館の外へ出て来た彼は、検索して今はあの女神が関東の美術館に飾られている事を知った。すぐ家に帰り、荷造りし、空港へ。飛行機に乗って彼女を一目見るため、急な旅行に出掛けた。奇しくも、そこは前に付き合っていた元カノと別れる口論の原因になった、東京ディズニーランドのすぐ近くだった。

(あの子にはああ言ってしまったけど…)彼は元カノには、『東京へなんてそうそう簡単に連れて行ってあげられないよ、半年は待ってよ。休みも取らなきゃいけないし、お金だって貯めないとダメなんだから…』と言っていたのだが…


 しかし彼は翌週末も更にそのまた翌週末も、飛行機に乗り女神に会いに行ってしまった。

女神が彼の街の美術館に展示されていた間なら、平日でもなんとか仕事を早く終わらせて会おうと思えば会えたものを、なぜもっと会えるうちに会っておかなかったのかと考えれば考えるほど思いは募り、次の週末にも、またしても東京へ出掛けてしまった。

(もうこうなってくると遠距離恋愛も同じだ。ホテル代だって飛行機代だって馬鹿にならない…)

G君は自分の住む街で女神に見とれていた頃は、こんな風に内心で考えていた。

(下手に人間の女の子に恋してるよりも、石像に片想いしてる方がよっぽど平和だ。入場料以外とられないし、余分な物をねだられたり、心移りを心配したりしなくて済む…)

ところがどうだろう、今や元カノよりもこの石の女神は金のかかる女だ。

 そしてもっと恐ろしいことに、彼は女神の次に展示される美術館を先に調べて息が詰まった。

なんと彼女が次に展示されるのは、地球の裏側、行くのに一日以上かかってしまう、もともとの彼女の常設美術館に決まっていたのである。残された時間は少ない。もう来年には女神は出土した生まれ故郷へ帰ってしまう…

(何とか手を打たなければ…僕はもう彼女無しじゃ居られないって言うのに…)


 もともと中学、高校と美術部員だったG君は平日退社後はニトリに行って板や石膏や鉄板や溶接器具を買って来て深夜までせっせと作業し、週末は

「しばらくは会いに行けなくなるけど、心配しないで。これも後々ずっと一緒に居るための長い人生から見たら短いお別れなだけだから…」

と思い人に伝えに行き、最後の三ヶ月は会社を辞め、日夜作業を続けて、自分で下絵から描いた通りの等身大・"悩める青年像”を完成させた。

我ながら上手い出来映え。彼の女神に倣い腰から下に一枚薄布を巻いただけで台座に座り、握った片手の拳を額に当てて恋煩いに頭を俯かせる石膏像はどことなくG君本人に面影が似ていた。肩幅・胸囲・身長は、どこもかしこも本物のG君より一回り大柄に作られていた。そして、この像は中身が空洞だった。

 そう、この中には彼自身が潜り込む予定なのだ。そして石像に潜むG君ごと、女神と同じ美術館に潜り込めれば彼の企みは大成功となる。

女神と同じ美術館に上手く迎え入れられれば、美術館が閉館の時間を迎える度に、夜毎、見物人達が皆帰ってしまった誰も居ない館内で、彼は自分の思い人を窓から差し込んでくる月明かりでではあるが、いつまででも見詰めていることが出来るだろう。

(もしかしてもしかすると、これまで開館中はアルバイトの監視員が睨みを利かせていてとても出来なかったが、ソッと彼女の頬や腕に触れることさえ出来るかも知れない。それを彼自身の良心が許しさえすれば・・・)


 さて、準備は全て整い、G君の思い人"湯浴みする女”像は翌年、無事にブラジルの彼女の本来の常設美術館に戻された。その同じ日、翌日からの通常開館に向けて派遣やら日雇いアルバイトやら館長やら美術館員やら入り乱れての古美術品の搬入・設置作業が慌ただしいドサクサに紛れ、台座に【"湯浴みする女”にインスピレーションを受けた、彼女と対となるよう作成された近代美術家の手になる"悩める青年像”。作者不詳】との説明書きを付された石膏像も運び込まれた。

(言うまでもなくG君にはハッキングの才能もあったので、現物と設置品場所管理目録に行き違いが生じないよう、事前に自分の入った石像が設置されるべき場所も、当日現場監督が手にする指示書に組み込んでおいたのである。)

美術館は展示品を盗まれる心配は大いにしているが、展示品を増やされる想定はしていない。美術に興味の無い現場監督はただ目録の番号通りにしかるべき像が設置されているのを見て回って「よし。」と言い、作業員達を引き連れ、帰っていった。その後に己の目での最終確認に展示品を見て回った館長も、G君の入ったG君作の石膏像の前でちょっと足を止め、まるで(近代芸術はわしは好かんが)と言う風に「ふん」と一度鼻を鳴らしただけで、歩み去った。難関は突破した!

しかし程なく夜が明けてしまった。

 そして忍耐の開館時間が訪れた。

地元に帰還した"湯浴みする女”像を見に詰めかけた入館者たちをG君は石膏像の中からジッと観察した。愚かなことに、悩める自分を表現したくて石膏像の首を俯かせてしまった事で、昼間は女神を拝めない。だがしかし、逆に、女神がいかに崇拝者の多い姫か、また彼ら信奉者達のマナーの良さを見るにつけ、自分の審美眼に狂いは無かった、とお墨付きを得ている気分にはなれた。

 そしていよいよ、閉館時間がやって来た。

美術館の最後の客が帰り、売店の店員もレジを閉めて帰っていき、館員達も皆が帰宅した、灯りも消え、ひとけのない館内。雛が卵の殻を内側から破るような密やかな音の後、G君がいそいそと石膏像の背中の秘密のドアから外へ出て来た。まず伸びと深呼吸をし、それから愛してやまない"湯浴みする女"像に近付いた。

「おはよう・・・いや、今晩は、か・・・。・・・やっと逢えた・・・」

大きな窓から射す月明かりに輝くばかりの白い艶やかな肌を晒す石像の女神は、目に焼き付けていた以上に、実物の方が綺麗だった。

(これで一晩中彼女を見ていられる・・・)

ここまではG君の思惑通りに全て事は運んでいた。台座の余った空間に水と食料は数日分詰めてあり、彼は心置きなく誰にも邪魔される心配無しに片想いの人との時間を独り占めできる、はずだった。

だがここへ来て、予期せぬ微かな物音が響いた。パリパリ、と言うような・・・まるでもう一羽の雛が卵の殻を破って今しも孵ろうとしているかのような・・・

決してG君の立てる物音ではない。思わず彼は身を固くして、音の正体を突き止めようと目だけをギョロギョロ泳がせた。音の出所は女神像の台座の裏側みたいだった。やがて音はやみ、かわりに、石像の後ろから可憐な乙女がヒョッコリ、恥ずかしそうに姿を表した。

「あなたも、美術館が好き過ぎて・・・?」

さすがのG君もこんな事態は予想も期待もしていなかった。恋い焦がれた"湯浴みの女”よりも一回り小柄だが、彼女は面影も自分の彫った石像にどこか似ている、現実に生きている女の子であり、実はこちらの方が実物だったのだ。

「いや。・・・僕はキミのことが好き過ぎるだけ・・・」

乙女は(一応、断っておくが上も下も現代的な服を身につけていた。)クスッと笑い、「そうじゃないかな、そうだったら良いな、と思ってた・・・」

TPOをわきまえた囁き声。彼女のそんなところもますますG君の気に入った。

無言で差し伸べられた手を無言で取ると、

「案内するよ。ここは私の一番大好きな美術館だから」と彼女。

「最初は私、人間嫌いで、人と話さなくて良い美術館に逃げ込み、更に人が居なくなる深夜はもっと良いだろうと、あの石像に隠れたの。」

非常灯と月明かりだけの夜の館内を案内してくれながら乙女が囁いた。

「まさか真似する人が現れるとはね」

「真似ではないよ、だけどキミを追いかけては来た」

「私を?私の作品を?」

G君は恋の胸騒ぎにざわめく心を必死に鎮め、しばらく真剣に自分に問い合わせてから、答えた。

「両方だな」

「こうして人と手を繋ぐのは私、久しぶり。久しぶりついでに、美術館の外へも出てみたくなってきちゃった。どうしよう?」

「どうしようか。キミに任せるよ」

「朝までには戻ってこよう?食料を調達しなきゃ」

「手を離さないでね。この街のことは何一つ知らないんだ。迷子になったら嫌だ・・・やっぱり、僕はここで待っていようかな、自分の台座に座ってるよ。キミの帰りを待ってる・・・」

「一緒に行こうよ。私だってあなたが一緒じゃないと行きたくなくなっちゃう」

二人は非常ベルの鳴らない窓を一つ見付け、外に抜け出した。

夜の美術館には彼らの抜け殻が残された。


 五分後、完全に人が居なくなったはずの館内に足音が響く。窓の鍵をカチャンと閉める音。回廊を歩いて闇の中から現れたのは、帰ったはずの館長だ。

満足げに顎を撫で摩りながら、石像と石膏像の台座の回りを一巡り。それから、それぞれの像の背中にある細い線を眺め、呟く。

「明日の朝一番でこのヒビ割れを修復させよう・・・」

こうして美術館の収蔵品がまた一つ増えていくのだった。





おしまい!

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