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峡谷_帝国兵との闘い

「――マスター、いました。あそこです」


黎明の、人間と見間違うほどにそっくりな指がさす先、ロンダの発言のとおり、確かに峡谷の底に人影が見えた。


ユシュエルには豆粒のようにしか見えず、ここからではこれ以上確かめようがないが、おそらくは帝国兵だろう。


しかし、


「あんなとこまで、どうやって行けば……」


辺りにおりられそうな場所はない。


見渡すかぎり錆びのような色をした赤土と壁が続いている。帝国兵がいるのだから、何処かに底へと続く足場があるはずなのだが。


「マスター、追いかけましょう。見失ってしまえば任務の完遂が困難となってしまいます」


ユシュエルを急かし、今ですら十分遠いのに、いずこかに向かいさらに徐々に遠ざかっていく帝国兵を目で追いながら、黎明は崖の縁ぎりぎりに立つ。


「追いかけるって言われても……まさかとは思うが、ここからおりるなんて言わないよな?」


吹き上げる風に髪があおられる。乾燥した、生暖かい風だった。


今回の任務に際して空力減速機らっかさんはもってきていない。また、懸垂降下は履修済みだが、綱を垂らして降りるには高さがありすぎるように思える。


なのに非情にも、「ここからです」とだけ黎明は言った。それで説明は十分だという言い方だった。


「笑えないぞ。どう考えても無理だろ」


「笑う必要性は皆無です。わたしと同期している現時点で、マスターの身体能力値は173%と元の値を大きく超えています。これは卓抜した数値です。わたしの予測ではさらなる飛躍・・も望めるでしょう」


「つまり、おれに空を飛べ・・・・、と」


「いいえ、違います。マスターには翼がありませんので飛翔は不可能です。改めます。おこなうのは降下です。現在のマスターでしたらじゅうぶん可能の範囲かと言えます。この任務を完遂し基地に戻れば、さらなる昇任は確実でしょう」


冗談も皮肉も通じないことを完全に忘れていた。


無表情で大真面目に丁寧に言い直され、ユシュエルは少々恥ずかしくなった。


「わ、わかった。行けばいいんだろ……本当に行けるんだな?」


覗きこみ、遥かかなたの底面を目にした途端、みぞおちのあたりがヒヤリとし、背中を嫌な汗が流れた。


可能という解を出したのなら、可能なのだとは思う。


黎明の瞳は人とは異なり、倍率照準器や測距装置を備えており、風速や距離などが精密に計算できる。さらにユシュエルの身長や体重、跳躍の幅などその他、ユシュエルも知らないユシュエル自身の諸々の条件までを加味して検討した結果の“可”だとわかっていても、それでもなお、尋ねずにはいられなかった。


「もし、落ちたら……?」


「わたしが拾います」


何て頼りがいのある回答だろうとユシュエルは思った。そしてすぐさま心から言った。


「頼むから、落ちる前に拾ってくれ」


「善処いたします。では、ついてきてください」


黎明は同情の色もなしにただ静かに頷くと、一切の躊躇なく、崖から踏み出した。


落ちる途中で重力に逆らうように壁を蹴り上げ、壁面を飛び移る動きで垂直落下の勢いをそいで徐々に降下していく。


「おれにあれをしろって言ってるのか……」


ユシュエルは信じたくなくて首を振る。やはり笑えない冗談としか思えなかった。


人形にも感情があるように感じたのはユシュエルの気のせいだったのかもしれない。


死の概念がなく恐怖を知らない黎明のように、この状況をためらうことなく実行する度胸はユシュエルにはなかった。躯体に衝撃の緩衝吸収装置がついているわけでもない。


だから、じゅうぶんにためらって、黎明に聞こえないよう小さな声で泣きごとを言って悪態をついて、それから同じく踏み出した。


ときおり、宣言したとおりに、前を行く黎明がユシュエルが落ちてないかどうか気を遣い、ちらちらと背後に視線を送ってくるのもわかってはいたものの、だからと言って安心はできなかった。


聞こえるのは風を切る音と、耳の奥で響く自分の普段より早い鼓動だけ。


下を見るな。下手に何か考えて気を散らせるな。


そう自分に言い聞かせる。


無事に底までたどり着いたとき、ユシュエルは改めて上空を見上げてぞっとし、飛躍した己の身体能力に驚嘆するよりも先に、死なずにすんだ自分の幸運に感謝した。


「さすがです、マスター。落ちませんでしたね」


誉め言葉として、それはどうかと思う。


淡々とした声に何と返すべきかユシュエルは一瞬迷ったが、皮肉を言ったところで通じないだろうと思い直し、ありがとう、とだけ答えた。


「……こんなところに機材を持ち込んでいるのか」


帝国兵を追った先には思ってもいなかった光景が広がっていた。


さきほどまでいた所からでは張り出した崖が邪魔をして見えなかったのだが、辺りには運び込まれたなにがしかの機械が所狭しと並び、動力の稼働音が反響して、少し離れたここまで響いている。


さらにそれらを繋ぐ導線は、壁面にあいた大きな縦穴の中へと続いていた。


天然の洞穴を施設として利用しているらしい。確かにこの場所ならば、嵐の影響を最小限にとどめながら大きなものを隠すには最適だろう。


「あの先に何があるか、だな」


すぐに踏み込むべきか判断に倦ねていると、


「マスター、あれをご覧ください」


黎明の指さす先には、見覚えのある後ろ姿があった。


「……ステー?」


複数の見覚えのある男たちがやはり物陰に隠れ、ユシュエルたちと同じように帝国兵の様子をうかがっている。


「あんなところでいったい何を……」


ここで疑問に思っているより訊いたほうが早い。


小石を投げ、彼らたちの気を惹き、自分の存在を知らせる。ユシュエルに気が付いたステーたちは驚きつつも体をかがめたまま駆け寄ってきた。


「ユシュエル、よかった!!」


「ラウルが穴の中を見に行ったまま、出てこないんだ!」


「ラウルが?」


確かに言われてみれば、あの明るく爽やかで、どこか胡散臭い青年の姿がどこにも見当たらない。


「だからユシュエルを待ったほうがいいと言ったんだ。それなのにラウルのやつ、ひとりで行くって……」


「おれを待つ……? いったい何のことだ」


ステーたちは口を滑らせた言葉に気まずそうに顔を見合わせる。


さらに問いかけようとしたそのとき、ひとりが洞穴を指さし叫んだ。


「ラウルが出てきたぞ!」


言葉の通り、指の先でラウルが導線を踏み越えながら駆け出てきた。周囲に安堵の空気が満ちるも、すぐに様子がおかしいと皆が気がつく。


慌てたラウルの後ろから、帝国兵と、そして悠然とひとりの男が出てくる。


上等な衣服を身に纏った、背の高い精悍な青年だ。


しかし目を惹くのは、その姿よりも何よりも、男が手に持つ立派な槍斧だった。己の身体よりも大きなそれを男はいともたやすく振り回している。


槍斧の刃が背後からラウルを襲う。


ラウルは気配を感じとり、とっさに驚くべき柔軟さで地面を蹴り、足を跳ね上げ、体を回転させる。そのまま男の背後を取ろうとしたところを、首を掴まれ、投げ飛ばされた。強かに腰を打ち付け、ラウルが呻く。


「っ、英傑が守ってるってことは……どうやら、当たり・・・らしいな」


風に乗って届いたラウルの言葉をユシュエルたちの耳がひろう。


“当たり”とは、いったいどういう意味だ。


言葉のさすところを問いたかったが、今はそのような時ではない。


このまま見守っていれば、ラウルは確実にあの男に殺されるだろう。民間人の殺害は戦争法によってかたく禁じられているが、説いたところで槍斧の青年が聞き入れるとはとうてい思えなかった。


それに、ラウルのさきほどのあの身のこなし。ただの島民であるはずがない。訓練を重ねたものの動きだった。見逃してもらえる確率は限りなく低い。


「ラウル、今、英傑って言ったよな?」


「じ、じゃあ、あいつがジュリウス皇子か!?」


ラウルの吐いた言葉にステーたちが動揺している。


「あいつが……?」


ユシュエルもその名を耳にしたことはあったが、実際の彼を目にしたのは初めてだった。身に纏っているものも、雰囲気も、周囲の帝国兵とは一線を画しているはずだ。


皇帝の2番目の子であり“帝国の猛るほこ”と呼ばれている、ジュリウス皇子。


英傑の名にふさわしい実力の持ち主で、帝国だけがもつもうひとつの古代技術、≪義体≫によって体の一部を機械化し、とてつもない力を手に入れたと言われている。噂によれば、臓器すらも一部人工のものととりかえられているとか。


好戦的な性格で、皇子でありながら自ら率先して戦場を駆り、しかしあるとき瀕死の重傷を負った彼は腐り果てた体の代わりに機械を充てることを選び、強靭な精神で肉体の拒絶反応を乗り越え、今まで一度も成功しなかった機械の移植に光明をもたらした。


だが、その光に続く輝きは今のところ打ちあがっていないらしい。


そんな大物が、なぜ辺境の島のこんな辺鄙な場所にいるのか。


ユシュエルが疑問に思っているところへ、峡谷に低く、身分を象徴するような尊大で冷ややかなジュリウスの声が響き渡る。


「どうせ、仲間がどこかにいるのだろう? 出てこい! さもなくば、この男の首が今すぐ飛ぶことになるぞ? 全員でかかってくれば、俺の髪一本くらいは刈れるかもしれんしな」


「ジュリウスがここにいるだなんて聞いてないぞ!」


「ど、どうする!? ラウルが死んじまう!!」


ステーたちも、さすがに英傑相手にユシュエルに何とかしてくれと泣きつくことは考えられなかったようだ。


挑発におろおろとするだけのステーらをしり目に、マスター、と黎明がユシュエルのそばに来て囁く。


「マスター、お話があります」


ユシュエルは黎明の言いたいことが分かっていた。


今、ラウルを見殺しにするのは共和国にとっても得策ではない。少なくともラウルは共和国が掴んでいない何かを知っている可能性が高い。上層部が欲しがっている情報を引き出すためにも、あの男には生きていてもらわねばならない。


ユシュエル自身も、ただの民間人ではなかったとしても兵士ではない者が殺されるのをただ黙って見守る気はなかった。自分を善人だと気取るつもりは毛頭ないが、最低限の行動規範くらいはユシュエルにだってある。


とはいえ、英傑相手にユシュエルで歯が立つのか。


ユシュエルの視線に黎明はうなずき、


「ジュリウス・ファン・デ・ルーラン・マクナマラハン。ひとたび戦場に出れば辺りは灰になり塵一つ残らないと言われています。目撃者も残らず、流布されているもの以外でこちらが掴んでいる情報はほとんどありません」


「強いことはおれも知ってる。とりあえず、生き残ることを考えよう」


「わたしとマスターのふたりでかかれば何とか時間は稼げるでしょう。その間に彼らには逃げてもらい、しかる後にわたしたちも離れるのが適当かと思われます」


「……それしかなさそうだな。黎明はまずラウルを。準備はいいか」


「はい、マスター。いつでもどうぞ」


剣を抜き、合図と同時にユシュエルと黎明が弾丸のごとく飛び出す。


後方から慌てたようなステーたちの驚きの声だけが追いかけてきた。


鈍い、金属同士のぶつかり合う音が辺りにこだまする。ラウルの頭上に振り下ろされた戦斧から、ユシュエルが剣で庇ったのだ。


目の前に立つユシュエルの姿にラウルが驚愕の声をあげる。


「ユシュエル!? どうし――」


全て言い終わる前に、同じく走り出していた黎明がラウルの襟首をつかみ、体をひねってステーたちのほうに放り投げる。


首が詰まったのか、ぐえっとカエルがひしゃげたような声をあげて、ラウルは飛んでいった。


直前まで獲物であった空を舞う男には見向きもせず、突然飛び出し、刃を受け止めたユシュエルをジュリウスは見つめる。その唇が愉快そうに歪んだ。


「その格好、貴様、セアーガスの人形使いか……いいだろう。くだらんおりに飽きていたところだ。憂さ晴らしにはちょうどいい」


言うと同時に槍斧の柄にもう片方の手が添えられ、ユシュエルの身体が重さに沈む。慌てて両足で踏ん張るものの、滑るように後ろに少しずつ押しやられていく。


合金は丈夫ゆえに剣が折れることは心配していないが、ユシュエルの身体はあくまで身体能力が上昇しているだけで造りはいたって一般と変わりない。避けることはできても、弾が当たってしまえば普通に体に穴があくし、斬られれば普通に血が出る。


力押しでは負ける。


そう判断し、剣を傾けることで戦斧を流す。その隙にユシュエルは一旦英傑と距離をとった。


右手がびりびりと痺れている。


たった一撃受け止めただけでこれか、とユシュエルは痺れを払うように軽く手を振り、改めて剣を握り直す。


果たしてこの男を相手にして逃げられるのだろうかと今さらながら不安になってきた。不安になったところでもう飛び出してしまった以上やるしかないのだから、今ユシュエルにできることは機会を伺い、それがどんなにわずかなものであっても見逃してはならず、利用するしかないということだった。真っ向勝負では、負けが見えている。


ユシュエルのわずかに怖気づいた心を読み取ったかのように、ジュリウスは槍斧の柄で地を鳴らし、高らかに宣言する。合わせるように風にマントが翻った。


「おいおい、少しは楽しませてくれ。ずいぶんと退屈していたのだからな」


さらにユシュエルが周りの帝国兵にちらと目をやったのを察して、


「安心しろ。やつらには手を出すなと命じてある。俺と貴様の戦いだ。だからこそ――」


ジュリウスは身を転じて、見守っていた帝国兵の腰から剣を抜くとユシュエルの後方に向かって投げつけた。


こちらの意図を理解し、少しずつ距離を取り始めていたステーたちの眼前をふさぐように刃が突き刺さる。


「言ったはずだ。楽しませてくれ、とな。どちらか一方が逃げれば、残りは全員殺す。少なくともどちらかが俺を楽しませてくれたなら、もう片方は見逃してやろう」


くつくつと低く笑ってユシュエルを見やる。


ジュリウスの視線を受けてうなじの毛が逆立つような感覚を覚える。肌がぞわぞわする。最悪の展開にユシュエルの本能が危険信号を発していた。ただ逃げろ、と。


しかし、逃げることなどできるべくもなく、ラウルたちの援護も期待できそうにない。そもそもラウルたちが手を出してきた時点で、あちらの兵も動き出すことになりそうだが。


「やるしかない、か」


黎明がそっと主人公に並んで剣を構える。英傑の強さがどれほどのものかは分からないが、ふたりでかかれば、傷くらいなら負わせられるかもしれない。


示し合わせたわけではなくとも、息を合わせるように同じタイミングでユシュエルと黎明は動いた。


両側から同時に斬りかかる。ジュリウスの槍斧が弧を描き、刃と柄で双方からの攻撃を薙ぎ払う。黎明は身軽に躱したが、ユシュエルは戦斧の端をわずかにかすめてしまった。


着ているものの腹の部分がかぎ裂きに開く。ごく薄い金属製の着込みを纏っているとはいえ、体が当たっていればひとたまりもなかっただろう。


着地した足場をさらうように、刃がユシュエルを襲う。


ジュリウスは人形の存在を気にもかけず、ユシュエルにのみ向かってくる。つづけざまに足元を狙われ、ユシュエルはひたすら避けるしかなかった。


重く、空気を裂く音がいやに耳に響く。相手は身長が高く、得物も長い分、攻撃範囲が広い。戦斧と穂先からは今のところ逃れられてはいるが、動きは防戦一方で、攻撃に転ずる暇すら与えられない。


何とかかわし、あるいは剣で受け流しつづけるがそれも長くはもたず、やがてユシュエルは体勢を崩した。


ジュリウスはそれを見逃さず鋭く突きを入れてくる。後方に反り返るような姿勢になったままの不安定な足取りではすべてをよけきれず、返す柄の部分で腕を打擲されてしまう。骨折は免れたが、ユシュエルには骨の悲鳴が聞こえたように思えた。


剣を取り落とさなかったのだけが幸いだった。そうでなければ、次の一撃でユシュエルの首が飛んでいたからだ。


刃先で力を逃がそうとした動きを読まれ、刃がかち合う。


張りつめた神経に汗がどっと噴き出る。


今やユシュエルの全身が死が間近にあることを確信していた。たぶん、次かその次か、その次の次の次の攻撃、どんなに遅くとも数分以内に自分はもう息をしていないだろう。


そこに影がかかる。


「マスター!!」


黎明が驚くべき跳躍力と素早さで背後からジュリウスに飛び掛かったのだ。普通の人間には黎明が瞬間移動したように見えたことだろう。


首を取った。


その場にいた、ひとりをのぞく誰もがそう思ったことだろう。ジュリウスが人形を気にかけている様子はなかった。


しかし、ジュリウスは上に目をやることもなく戦斧を左に持ち替え、右腕を突き出し自らの手でもって斬撃をはねのけた。そのまま、虫を振り払うように頭を掴んで黎明を地面に叩き落とし、槍斧を薙いでユシュエルをも壁際まで飛ばす。波状の地層をみせる壁にしたたか体を打ち付け、ユシュエルの息が一瞬つまる。


一方の黎明も地面に激しく身を打ち据え、体を震わせていた。その腹をジュリウスは蹴り上げ、金属の黎明の身体が、まるでゴム毬のように跳ねる。追って槍斧が振りかざされる。


「邪魔をするな。屑鉄は屑鉄らしく、おとなしくゴミになっていろ!!」


あれを叩きつけられればさすがに頑丈なオートマータでもひとたまりもない。コギト機関ごと破壊されて終わるだろう。


「黎明、起きろ!!」


言われるまでもなく黎明はのろのろとした動きでなんとか立ち上がろうとするも、今の衝撃でどこかに一時的な不具合が起こったらしい。


その口から普段とは異なる音声が漏れる。「再構築中」と信号音のような言葉を発し、膝立ちのまま反射的に同じ行動を繰り返す。その頭上に影が差す。


瞬間、黎明の腕がジュリウスからは見えない角度でわずかに動いた。


その動きで、ユシュエルは黎明がジュリウスを誘い込んだのだと察した。自分たちでは勝てないと判断し、わざと攻撃に当たって重大な損壊をしたように見せかけ、その次の攻撃で黎明は己の全損と引き換えに、ユシュエルを生かすために英傑と刺し違えるつもりなのだ、と。


人形はあらゆる危険から人形使いを守るようにできている。献身は、いわば刷り込まれた人形の本能でもある。


振り下ろされる刃がコマ送りのようにユシュエルの目に映って見えた。


この頃は自分以外の誰かがそばにいるのにも慣れてきて、思考をまとめるのにひとりごとではなく会話で行うようになっていた。食堂で料理を選ぶ際、あまりにも栄養のことをうるさく説かれ続けたために、自然と黎明が選びそうなものをかならず1品は加えるようになっていた。


背中の心配をしなくていいこと。


誰かがそばにいるのに警戒しなくていいということ。


物心ついてから今までユシュエルは孤独というものを感じたことがなかった。ひとりでも全く平気だった。だから、黎明がいなくなっても孤独にさいなまれることはないと言えるが、ただ、今後は夜を長く感じることはあるかもしれないと、そう思った。


思った瞬間、ユシュエルの身体の中を何かが走り抜けた。走ったものが何なのかわからないまま、衝動のままに、ユシュエルは駆けだした。


「黎明!!」


自分の名を呼ぶあまりにも切迫した声に首をひねり、英傑にとどめを刺すタイミングをはかろうと剣を構えるのではなく自分に向かって駆けてきているあるじの姿を認めた途端、人形は悲鳴にも似た驚愕の声をあげた。


「ユシュエル、諦めろ! 間に合わない!」


押しとどめようとする周囲の声を振り切る。


ラウルと黎明、両方からとくに鋭い制止の声がかかるが、ユシュエルはとまらなかった。


ユシュエルは全身の力を脚に込め、己に出しうる限界の速さで黎明に駆け寄った。走りながら彼を回収した。頭上を振り仰ぎ、槍斧がどこまで迫っているかと確認する余裕もない。黎明の体は小柄な見た目に反して、部品がぎっしりと詰まっているだけあって重い。ユシュエルのスピードが落ちる。それでも、掠めた刃の存在を後頭部で感じるほどにぎりぎりの距離でなんとか回避した。


斧が切り裂いた空気が圧縮された塊となって背後から襲い掛かる。風圧でユシュエルの身体が傾く。重い荷物を抱えているユシュエルはバランスを崩し、そのまま頭から突っ込む形で地面に倒れ込んだ。


最後までしっかりと、黎明を抱え込んだまま。


「黎明、大丈夫か!?」


「マスター……なぜ……?」


呆然と、混乱にも似た目で黎明はユシュエルを見つめていた。


駆け寄ってきたラウルに腕の中のオートマータを預け、ユシュエルはすぐさま立ち上がる。彼らを背に庇うようにして。


黎明はもう戦えない。今動けるのはユシュエルだけになってしまった。


そしてその黎明が動けなくなったのは、ユシュエルを生かそうとしたからだ。


「黎明、ナーズ陣地に狭域信号を送れるか?」


「……残念ながら、今のわたしの躯体では出力不足です」


「出力なら、あるだろう」


暗に含めて、ユシュエルは辺りを見回す。それを正しく読み取った黎明は、


「少々お時間をいただけますか。機構を乗っ取る必要があります」


「ああ、あの男の相手はおれがする」


ラウルの声が加わる。


「通信なら俺も手伝おう。仲間にも少し機械がいじれる奴がいる。……ユシュエル、ひとりで本当に大丈夫か?」


当然、大丈夫とは言い難い。力の差は歴然だった。


だが今ここで時間を稼がなければ、ユシュエルはもちろん黎明もラウルたちも終わる。


狭域信号を受信し、味方が来てくれれば勝てる。ここは谷底だ。上から弾を撃ち込まれれば、下にいる人間になすすべはない。英傑と言えども、半身は生身。そこに当たればひとたまりもないはず。


とはいえ、それが間に合うとはユシュエルも思っていない。


ただ、ユシュエルは帝国を退かせればよいのだ。信号が送られれば、帝国もまもなく共和国軍がやってくると嫌でも気が付く。そうすれば、ユシュエルと同じ考えにいたり撤退せざるを得ない。


それを待つしかない。


ジュリウスは目だけを動かし、動き出した黎明たちを追う。


あの男、自らも半分機械でありながら、機械そのものであるオートマータにはいい感情を持っていないらしい。


黎明から注意をそらさなければ。


動きに違和感はなく、またあの男が身に着けている服や籠手は全身を覆っていてどちらが機械の身体か見分けがつかない。だが、踏み出すとき、踏み込むとき、戦斧を片手で振り回すとき、そして何よりも黎明の攻撃を受けとめた動きで、ユシュエルは右がそうであるとあたりをつけていた。


ならば、狙うは左の生身の身体。


速さならユシュエルのほうが上だ。避けて、あるいは受け流し、左に叩き込む。それしか対抗手段はない。


ユシュエルは身を低くし、剣を構える。爪先に力を込め、一気に距離を詰めた。


ジュリウスの視線がユシュエルに戻り、その目が細まる。


びょう、と風を裂き突き出された槍の穂先が、かわしたユシュエルの脇をかすめる。それを片手で滑るようにつかみ、利用してさらに身をよじり、懐に潜り込む。左の半身に剣を刺し入れる。貫くと思われた直後、剣は虚しく空を突く。


ジュリウスがうしろへと一歩下がったのだ。


くそっ。と毒づく。


だが、ジュリウスが攻撃に後退したのはこの戦闘で初めてのこと。


やはり、左か。


ユシュエルは確信を得る。本番はこれからだ。ジュリウスは今の一撃で、ユシュエルが左の生身を狙っているのに気がついた。今後はそうたやすく左を取らせてはくれないだろう。


それでもよかった。ユシュエルがジュリウスに勝つ必要はない。左を警戒する分、動きはわずかでも鈍る。ユシュエルは倒れずにいられればそれでいい。最後まで立っていれば、それでいいのだ。


刃がかち合って、火花が散る。金属がこすれ合う、甲高い嫌な音が谷に鳴り響く。


受け止めるな、受け流せ。剣身を傾げ、圧倒的な力を流し、逃がす。


斧刃が耳をかすめ、ぴりっとした痛みが走る。ほほと耳たぶが切れたのがわかった。


あともう少しずれていれば、切れたのはユシュエルの首だっただろう。そのさまを想像するのはたやすかった。皮膚に冷たい刃が食い込み、小枝を折るよりもあっさりと切り離される。


なんとか抑え込んでいた恐怖が喉元までせりあがってこようとしていた。


気を逸らすな。生き延びることに集中しろ!


恐怖は心を弱らせ、判断力を鈍らせる。


ともすれば安全のために距離を取ってしまいそうになる足を踏みとどまらせる。


身を引くな。長さがある分、相手のほうが有利だ。


前へ、一歩前へ。


血が視界に飛ぶ。またどこかが斬られたのだろうが、もはやユシュエルには痛みを感じる余裕すらなかった。


突きをかわし、振り下ろされる刃を避け、転身し、鉤のようにひっかけようと引き戻す動きを読む。


左を狙うと見せかけ、足を鞭のごとくしならせ膝で唯一覆われていない顔を狙う。かわされ、体勢を崩したところへ刃が降りてくる。それを回転して避けた。


力が強い分、重く遅い。目は攻撃をとらえられている。ユシュエルの生存本能が訴える危険を予知する信号に、体もついてきている。ユシュエルは段々と研ぎ澄まされ、自分の動きが鋭くなってきているのを感じていた。


見えるのはジュリウスのみ。耳が拾うのはもはや互いの刃が放つ風を切る音だけ。


いけるかもしれない。


そう思った瞬間だった。


手足が震えだし、覚えのある頭痛と吐き気がユシュエルを襲った。思わず剣を取り落とし、膝をつく。目の奥がひどく痛んで、涙がにじんだ。こみあげ、咳き込んで吐いたつばは赤く染まっていた。


急性負荷限度障害――通称、負荷酔いコールドバーン


負荷に慣れ、麻痺し、負荷を負荷と思わなくなる前の、耐性が進んだために自覚症状のないままに長時間さらされ、じわじわと許容範囲に蓄積された結果引き起こす一時的な神経の障害。酔いと言えば軽く感じるが、中毒症状には変わりなく軽視はできない。この先に、やはり超えてはならない限界があるからだ。


「マスター!!」


「ユシュエル!?」


ユシュエルの異変にすぐに黎明が気づき、次いでラウルが声をあげた。


ユシュエルは振り返ることなく横に片腕を突き出し、2人に大丈夫だという仕草をした。


歯を食いしばって苦痛に抗う。剣を手に取り、柄頭に手を当て杖代わりにし、無様に倒れそうになるのを大地を踏みしめ両足でしっかりと立つ。今度こそ取り落とさないよう剣をきつく握り直す。舌で口の中をぐるりと嘗め回し、かなくさい唾を吐き出した。


英傑はユシュエルのその様子に動きを止めた。それから目を興味深そうにすがめ、


「貴様、同期してどの程度だ」


「……に、2か月」


突然の質問に疑問を持ったものの、ユシュエルは正直に答えた。とりあえず少しでも時間が稼げるのなら何であってもありがたい。


唐突にジュリウスの顔に微笑めいたものが浮かんだ。


ユシュエルの返答に、今初めて、戦っている相手がどういう人間だか分かったかのように口元がほころんでいた。歪んだものではなく、喜びで浮かんで来たような自然な笑みだった。


そして、ユシュエルの後方の人形に目をやる。


「よく見れば、その玩具、汎用だな。まさか、汎用と同期をおこなう阿呆がいたとは……ふた月か。なるほど、面白い」


ひとり納得するその声の調子は実際、好奇に満ちていた。


ふいに周囲を圧倒していた闘争の雰囲気がかき消え、ジュリウスは槍斧を持つ手をおろした。そして、なぜかマントをひるがえして踵を返した。急な、戦いは終わったとでも言いたげなその突然の行動に、敵も味方も唖然となる。


ジュリウスは戦うのをやめ、今やどう見てもここを去ろうとしていた。ユシュエルはなぜ英傑がそのような行動に出たのか理解できなかった。


それは帝国側も同じだったのだろう。ややあって我に返ったひとりの兵士が、引き留めようと前に出、ジュリウスが足を止める。


「殿下、まだ巨人兵の運び出しが終わっていません!!」


「放っておけ」


「しかし……!」


「どうせ壊れている。奴らにもどうにもできん」


「しかし、皇帝陛下からは必ずとご指示――」


「ならば、貴様が残って運ぶがいい」


胸ぐらをつかんで言い放つと、突きとばし、今度こそ立ち止まりもせずに去っていった。


残された帝国兵は互いに顔を見合わせ、それからユシュエルを見た。対等とは言えないが、それでもなんとかぎりぎり英傑の斬撃に耐えていたユシュエルを。


皇帝の命とは言え、皇子がいなくなった今、ユシュエルと戦おうという気概のある者はいなかったらしい。ユシュエルを視界にとらえながら彼らは徐々に後退していき、しっかりと距離をとったところで一斉にジュリウスに続く。


続々と小さくなっていく帝国兵の後姿を目にして、


「たす……かった……のか?」


ステーの間の抜けたつぶやきが風に舞う。


その声に一気に力が抜け、ユシュエルはへなへなと地面に座り込んだ。


「大丈夫か、ユシュエル!?」


ラウルやステー、周囲の男たちが慌てて駆け寄ってくる。


「ああ、なんとか……」


「大丈夫じゃないだろ! 頭、すごい血が出てるぞ!!」


「額が切れてるんだ。動くな」


目に入らないようユシュエルの顎を掴んで上を向かせ、ラウルが懐から取り出した綿布で血をぬぐう。


白い布が見る間に真っ赤に染まっていくのがわかって、結構切れてたんだなとそんなことを思った。


痛む箇所に触れられ思わず小さく声を漏らすと、察したラウルの手つきが一層優しくなる。


「ユシュエル、お前が来てくれて助かったよ」


称えるような口ぶりのラウルと目が合う。その目は申し訳なさで溢れていた。


ユシュエルはラウルの外見を素早く観察したが、擦り傷くらいでほかに大きな外傷は見当たらない。


「そっちも怪我がないようでなによりだ」


緊張が切れた今、波のように疲労が一気に押しよせたせいで、おのずと応じるユシュエルの声は力がなく、心の底から心配していたかのごとく穏やかになっていた。


ラウルが恥じ入るような表情を見せる。


そこに後方から声がかかる。


「マスター、信号が送れました」


「ああ、お疲れ、黎明。よくやってくれた」


「マスターも、お疲れさまでした……」


顔が動かせないため、背後からの黎明の声にユシュエルはその姿勢のまま労いの言葉をかける。


黎明も動力を使い切り、余力がないのかもしれない。ユシュエル同様、声が少し力ないように感じた。


だが今はそれよりも確かめるべきことがある。


ラウル、と呼びかけ、ユシュエルはわずかな表情の変化も見逃さないよう心持ち身を乗り出して、装備の携行医薬品から取り出した応急の創傷被膜材を貼ってくれている青年の目を覗き込んだ。


「“当たり”とは何だ? わざわざ本国から遠く離れたこの島に英傑を送り込んでまで、奴らは何を守っていた?」


そして、あんたは何を知っている?


ラウルはユシュエルの視線を真っ向から受け止めようとしたかに思えたが、顔を曇らせ、結局は背後の縦穴を振り返る仕草でもって逃れた。


そして、言った。


「多分、行けば分かる」

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