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中編

 私とエリックの婚約破棄は陛下にも認められ、公式のものとなった。


 と同時に、エリックとアンナ、エドヴァルドと私の婚約が成立する。それを祝うため、舞踏会が催される運びとなった。


「そのドレスは気に入ったか?」

「ええ、殿下。このような美しい品、私にはもったいないくらいです」


 にこやかな微笑を作って、隣に立つエドヴァルドの腕に慎ましく触れる。コツは指先だけを触れさせることだ。あくまで恭しく、エスコートの範囲を出ない限りで。そうでなければ、はしたない女として社交界では笑いものにされる。


 宮殿の大広間の中央、貴族たちから遠巻きにされるアンナ・マロウのように。


 アンナはエリックの腕を鷲掴みにし、ベッタリと身を寄せていた。「エリックさまぁ、皆が私たちを祝福してくださっているのね」とかなんとか話している。エリックもそんなアンナを宝物でも見るみたいな目で見つめ、「そうだ。今日は僕たちのために開かれた舞踏会だからな」とか答えている。


 周囲の貴族たちの冷たい視線などどこ吹く風。まるきり二人だけの世界、という感じだ。


 うーん、良い。


 しみじみ感じ入っていると、エドヴァルドに軽く肘を引かれてハッと我に返る。見ると、宰相がこちらに近づいてくるところだった。


 白いものの混じり始めた髪を綺麗に撫で付けた、壮年の男性である。柔和な面持ちだが、現王を影に日向に支え続けた立役者で、王太子として認められるには避けては通れない人物だ。


 宰相はゆったりとした足取りで歩いてくると、迷いなくエドヴァルドに話しかけた。


「ご機嫌よう、エドヴァルド殿下。舞踏会は楽しんでおられますかな」


 ざわり、と貴族たちがさざめく。宰相が、第一王子のエリックではなく、第二王子のエドヴァルドに先に声をかけた。その意味が分からぬ者はここにはいない。


 エドヴァルドはそつなく微笑して、胸元に手を当て一礼した。


「宰相殿におかれましてもご機嫌麗しく。今宵は良い夜です。愛する婚約者が隣にいるのですから」


 エドヴァルドがさりげなく私の肩を抱く。私も逆らわずに身を任せた。


 表面上、仲睦まじい婚約者同士のふりをする、というのは二人で決めたことだった。


 第一王子に理不尽に婚約破棄された傷心の公爵令嬢を、第二王子が愛でもって救う、というのは支持を得やすい話だし、私たちが正しければ正しいほどエリックとアンナの立場は悪くなる。最高だ。


 私たちの様子に、宰相はふっと眦を緩める。


「おやおや、一時はどうなるかと思いましたが、この分であれば何の心配もなさそうですね。リリアーナ様はエリック殿下の婚約者として常々苦労されていて、舞踏会を心から楽しむなんて初めてでは?」


 そう言って、ちらりとエリックの方に目を向ける。周囲の様子には気づかず、アンナといちゃついて桃色の空気を醸し出す第一王子を。


 私はほんのわずかに苦笑して、エドヴァルドを差し仰いだ。


「色々ありましたけれど……今夜は楽しく踊ることにいたします」


 エドヴァルドも微笑とともに応じた。


「ああ。そうするといい。もうすぐ楽団がダンスのための演奏を始める。……お楽しみはこれからだからな」


 そのとき美しい弦楽器の調べが聞こえてきて、私たちは手を取り合って大広間の真ん中へ進み出た。


 宮殿の舞踏会で一番初めに踊るのは王族と決まっている。貴族たちの品定めの視線を一身に浴びながら、洗練されたダンスを踊ることが求められるのだ。


 目の端に、エリックとアンナの姿をとらえる。二人とも頬を紅潮させて、けれどどこかぎこちない様子で向かい合っていた。農村の収穫祭の方がまだ見応えがあるだろう。当然だ。エリックはダンスの練習をサボって私のフォローに任せきりだったし、アンナは社交界にデビューしたばかりなのだから。


 初々しいわね、と温かい気持ちになる。だが周りの貴族たちにとってはどうだろう。


「リリアーナ」


 耳元で囁かれて私は目だけを上向ける。私と向かい合うエドヴァルドが、なぜか不満そうに眉間に皺を寄せていた。


「よそ見をしている場合か」


 確かに、私がダンスに失敗したら目も当てられない。

 だが、こっちがどれだけ場数を踏んできたと思っているのだ。エリックと比べたら、赤子と踊る方が容易いくらいだった。

 ふふんと笑って、小さな声で答える。


「お任せくださいな。殿下の足を踏むような真似はしませんわ」

「そうではない」


 背に回った手に力が込められて、エドヴァルドの方に体を近寄せられる。近い。不必要に近い。何?


「俺と踊るのに、リリアーナが他の男ばかり見つめるのは面白くない」

「エリックがどんな調子か確認しないといけないでしょう?」

「見なくても分かる。どうせ操り人形の方がマシなくらいの動きだろう——ほら、始まるぞ」


 指揮棒が振られ、優美な音楽が流れ出す。私はエドヴァルドに導かれるように踊り出した。


 ターン、ステップ、またターン。


 その度に、私のドレスの裾が花びらのように広がって、また足元に寄り添う。周囲から、ほうと感嘆のため息が漏れるのが聞こえた。


 エドヴァルドはとてもダンスが上手かった。リードも確かで非常に踊りやすい。思わず唇が綻ぶ。相手に足を踏まれることを恐れないダンスとはこんなに楽しいのか。


「……そのドレス」

「はい?」


 私にだけ聞こえるくらいの小声で、エドヴァルドがささめいた。


「よく似合っているな。手ずから選んだ甲斐がある」

「そうだったのですか?」


 私は目を瞬かせた。今夜着ているドレス——緋色のシルク生地に、金色のサテンリボンがあしらわれたもの——は、昼間、公爵邸で舞踏会の準備をしている最中に手元に届けられたものだった。


 贈り主は当然エドヴァルド。だが、わざわざ彼自身が選んだものとは思いもよらなかった。普通は使用人にやらせるものだ。少なくともエリックはそうしていた。


「リリアーナが一番美しく見える品を選ぼうとしてずいぶん手間取った。どれも似合うだろうと思ってな。届けるのが遅くなって悪かった」

「いえ、それは構いませんが……」


 鼓動がとくんと跳ねる。エドヴァルドから一心に注がれる視線が気になった。注目を浴びるのなんて慣れているのに、その金の瞳で見つめられると、じわじわと頬に血が集まる。


「その、ありがとうございます。……このドレスを気に入ったというのも、あながち嘘ではありませんから」

「そうなのか?」

「綺麗な赤色で、好きです。……あなたの髪も」


 思わず言葉がこぼれてしまって、ハッと口をつぐむ。余計な一言だった。この国には珍しい赤毛は、彼が異国の血を引く母から受け継いだものだ。私は綺麗だと思っているけれど、それがエドヴァルドをどれほど苦しめているのか、私には分からない。


 流れるような動きに淀みはない。


 けれど繋いだ手を、ダンスにはふさわしくないくらいの力で掴まれた。


「あの、エドヴァルド殿下……?」

「なんだ?」


 エドヴァルドの表情に変化はない。完璧な第二王子の仮面を被って、優しくこちらを見つめている。

 ただ瞳の底に強い決意の光が宿っている気がして、私は身震いした。


「その……」


 何か言わなくては、と口を開けたとき。


「きゃあっ‼︎」


 甲高い悲鳴が響いて、音楽が止まった。


 しんと静まり返る大広間、その真ん中でエリックとアンナが床に転がっている。どうやらダンスの途中で転倒してしまったらしい。アンナのドレスがまくれ上がり、白い足が太腿くらいまで晒されていた。辺りからはくすくすと忍び笑いが漏れる。アンナが気づいて、カッと赤くなって裾を直した。


「おや、兄上。ご無事ですか」


 ゆっくりと私の手を離して、エドヴァルドがエリックの元まで歩いていく。私もその後ろからついていった。エリックはよく磨かれた大理石の床に両手をついて、よろよろと立ち上がるところだった。夜会服の襟がよれている。


「やあエド。うん、僕は大丈夫だよ。少しね、アンナが躓いてしまって。ほら、アンナはこんなに大きな舞踏会は初めてだから。でも誰にだって初めてはある。そうだろう?」


 そう言って、まだ足元に転がっているアンナに手を差し伸べる。アンナは「ふぇ」と一声鳴いてエリックの手を取って立ち上がった。


 そしてどうしてか、私を睨みつける。


「リリアーナ様、わたしに意地悪しないでくださいませっ」

「……はい?」

「王族が初めにダンスをするって、どうして教えてくださらなかったんですか? そしたらわたしはもっと練習したのにっ。いくらわたしがエリックさまに愛されていることが妬ましいからって、そういうのは良くないと思いますっ」


 えぇ……。


 大っぴらに顔をしかめなくて済んだのは、長年の妃教育の賜物だろう。私は優雅な微笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。けれど唇がひきつるのは堪えられなかった。


 そんなことを私に言われても困る。妃になるのだから、それくらいの情報は自分から調べるのが当然だ。宮殿の使用人に聞けば教えてくれただろう。それこそ私に聞く手もある。与えられるのを待っているのは愚者の振る舞いだ。


 どう反論してやろうかと首を捻ったとき、私とアンナの間にエドヴァルドが立ち塞がった。


「……今の言葉は全て取り消してもらおうか」

 

 背筋の産毛が逆立つほど、冷え冷えとした響きだった。


 アンナがヒッと悲鳴をあげる。オロオロと辺りを見回し、どこからも救いの手が伸べられないと知ると、かたわらのエリックにすがりついた。そのエリックも顔を青ざめさせている。


 エドヴァルドが、冴え凍る声音で続ける。


「俺の婚約者を侮辱することは許さない。道化の芸も、過ぎれば笑い事では済まなくなるぞ」


 それからエリックの方に顔を向け、


「兄上。あなたの道化は、舞台に上がるにはまだ早いのではありませんか」


 エリックの顔が凍りつく。アンナが「ひどいっ」と泣き声をあげた。


 彼の表情はこちらからは窺えない。けれど私は後ろから近づいて、そっと袖口を引っ張った。


「エドヴァルド殿下、私は平気ですから、どうか……」


 いくら仲睦まじい婚約者同士を演じるとはいえ、これはやり過ぎではないだろうか。一応相手は王太子とその婚約者なのだ。あまり言い過ぎるとこちらが不敬にあたる。


 そんなことは彼だって分かっているはずなのに、どうしてこんなに怒っているのだろうか。


 ……私を守るため?


 一瞬頭をかすめた思考を振り払う。エドヴァルドが、袖を引く私の指をなだめるように撫でた。


「わ、分かったから。すまないな、エド。彼女にはよく言って聞かせておくから」


 エリックがアンナを連れて大広間を逃げ出した。アンナはまだ何かわめいており、大広間の分厚い扉が閉まっても、甲高い残響が白々とした空気を震わせた。

 


 ■ ■ ■


 

「私、本当に平気でしたよ?」

「だから何だ? あのくだらない女に、リリアーナが侮られるのを黙って見ていろと?」


 あの白けきった空気をなんとか収めた後、私は宮殿の庭園をエドヴァルドとそぞろ歩いていた。


 四囲には銀の月光が降り注ぎ、スノードロップやサイネリアといった花々が色とりどりに咲いている。冷たく張り詰めた空気の中、吐く息が白く凝った。


「そうではなくて……程度があるでしょう。あそこまで怒りを見せなくても、エドヴァルドであればもっと上手く対応できたのでは?」

「そうだな。で?」

「で?」


 私は片眉を上げて、鸚鵡返しに答える。エドヴァルドが大きくため息をついた。


「……頭に血が上ったことは認める。あの女の物言いの何もかもが不愉快だった」

「エドヴァルドらしくもないですね? 王族であればあれくらいの言いがかりは慣れているでしょう。もっと酷いことを言われたことだってあるはずです」

「そうだな、異国の売女の血を引く第二王子とかな」

「そこまでの記憶を掘り起こしてほしいわけではございません」


 エドヴァルドが軽く言ったので私も軽く応じるが、胸に引っ掻かれたような痛みが走った。エリック派の貴族が、そんなふうに彼を称しているのを聞いたことがある。そんなときでも、エドヴァルドは涼しい顔でやり過ごしていたのに。


 エドヴァルドはほのかに笑って、私の頬を片手で撫でた。


「がっかりさせたか」

「……いえ?」


 エドヴァルドの手のひらは温かかった。凍てつく夜の空気に心地良い。私はちょっと首を傾けて、頬を擦り付けるようにしながら目を閉じる。


 よくよく考えると、あの二人にもたらされる苦難は大きければ大きいほど良い。エリックはあんな状況でもアンナを置いていかなかった。やはり愛は偉大なのだ。


「私の目的からすれば、あなたの行動は満足いくものでした。これから先もどんどん二人を苦境に陥れてください」


 瞼を上げると、思いのほか近くにエドヴァルドの顔があって驚く。とっさに息を止めた。


「……何です?」

「口づけしてもよいのかと」

「良くありませんが⁉︎」


 どこをどう切り取ったらそうなるのだ。私はぐいぐいとエドヴァルドの肩を押して距離を取る。高鳴る鼓動の音は努めて無視した。


 エドヴァルドは大人しく身を引き、探るような色を含ませて私を見つめた。


「——婚約者だった頃、エリックとはどこまで?」

「少なくとも、この庭園には来ましたね」

「リリアーナ」


 そこにあるのは、まるで冗談を許さない気配。私は内心頭を抱えた。なんで急にそんなこと気にし始めたのか。どうしてエドヴァルドにこんなことを話さなくてはならないのだ。私がどこまで兄のものか確認したいと? つまらないことを気にしないで欲しい。私にとっては世界で一番興味ない話題だ。


「……口づけはしました」


 ぼんやり遠くを見つめる。そういえば、エリックとキスしたのもこんな冬の庭園だった。こんなものか、と思ったことを覚えている。唇が冷たくて、寒くて、早く終わらないかと心ここに在らずだった。それが伝わったのか、エリックは二度と私にそういうことは求めなかったし、私もエリックとそうしたいとは思わなかった。


 そんなに心躍るものではなかった、と続けようとして、強くかき抱かれる。何がと思っているうちに、唇を熱いもので塞がれた。


「……んんっ」


 エドヴァルドにキスされている、という事実を把握するのに少しかかった。どうして? なんで? そういう雰囲気だったの?


 疑問が渦巻くのに、頭が痺れたようになって上手く思考が回らない。ふにゃりと体から力が抜けた。その場に崩れ落ちそうなところを、エドヴァルドにしっかりと抱えられる。


 何度も何度も口づけられて、私は完全に思考停止状態だった。エドヴァルドに全てを委ね、ただ与えられる熱に翻弄される。彼がどんな顔で私にキスしているのかなんて確かめる余裕もなかった。


 どれくらい時間が経ったのか。一瞬だった気もするし、ずいぶん長い時間だったような気もする。

 名残惜しげに唇が離れていった。


「え……? あ……?」


 呆然としたまま、私はゆっくり瞬く。目に涙が浮かんで、視界はぼんやりしていた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、やっとエドヴァルドを見留めることができた。


 彼は恐ろしいほどの無表情で私を見下ろしていた。完全に表情が欠落しており、その内心は窺えない。何か激情を抑え込んでいるようにも見えるし、この世の全てを軽蔑しているようにも見えた。


 形の良い唇が、うっすら開かれる。


「……これではダメか」

「え……?」


 エドヴァルドの長い指が、私の唇の縁をなぞっていく。そのかすかな感覚にさえ、体が震えそうになって息を呑んだ。


 エドヴァルドが、私の顔を覗き込む。


「俺では、リリアーナに真実の愛を与えることはできないのか」

「な……」


 私は思わず呼吸を止めた。喉の辺りで、ヒュッと呼気が押し潰された。


 エドヴァルドの表情は真に迫っていて、惜しみなく降る月光の下、金の瞳に名状し難い輝きが宿っている。とっさに顔を背けようとして、顎を掴まれた。痛くはないが、拒否を許さない強さだった。


「どうしてあの馬鹿王子と馬鹿女にこだわる?」

「ふ、不敬ですよ、そんな言い方」

「なぜ俺ではいけないんだ。何も考えられないくらい愛してやる。婚約破棄のこともステラルードのことも、何もかも忘れるくらいに」

「あら、あなたは私が好きなんですか?」

「答えろ、リリアーナ」


 とても笑い飛ばせる雰囲気ではない。いつの間にかエドヴァルドの腕に抱きすくめられていて、背骨が軋みそうだった。


「な、なぜって……」


 口ごもる私の声は震えていた。冷たい風が吹いて、ドレスの裾を揺らしていく。


「私は別に、自分が愛されたいわけではないのです」


 私がやりたいのは真実の愛の証明で、それ以外は心底どうでも良かった。


「だから……私に愛を向けられても……、私は興味を持てません。ごめんなさい」


 エドヴァルドの視線は私を射抜くようで、逃げ出すなんてとても叶いそうにない。だから私は彼の腕の中でわなないて、哀れっぽく見上げるしかできなかった。


 辺りを囲む木々が、ため息をこぼすように葉を擦れ合わさせる。


 エドヴァルドの唇の端が一瞬震えて、それからぎゅっと引き結ばれた。


「……そうか」


 噛み締めた歯の隙間から漏れ出たのは、呻くような声だった。今しも心臓を短剣で突き刺されたのかと疑いたいくらい、苦しげな響きだった。


 この上なく慎重な仕草で、腕がほどかれる。恭しく地面の上に下ろされて、私は自分がほとんど爪先立ちになっていたことを知った。


 おそるおそる、エドヴァルドを見上げる。エドヴァルドは私から顔を背けていた。彼は私よりもずっと身長が高くて、そうされると表情は見えなかった。


「……俺はリリアーナを傷つけたくはない」


 声音は夜気に溶けそうだった。


「だから今は……遠くに逃げてくれ」


 私は何も言えずに頷いて、くるりと踵を返した。こみ上げるものを呑み下し、庭園の小径を走り出す。

 言われた通り、逃げ出したのだ。


 

 ■ ■ ■

 


 気づけば、城の湖畔に来ていた。湖面にはうっすら氷が張り、鏡のように月を映している。


「……はは」


 口からこぼれたのは乾いた笑い声。

 どうしたらいいのかまるで分からなかった。子供みたいだ。親に放り出されて迷子になってしまった子供。


 だいたい、と先ほどまでの会話を思い返す。


 エドヴァルドはあたかも私を愛しているかのような発言をしていなかったか? そうなのか? 謎すぎる。私は八歳でエリックの婚約者になって、以降恋とか愛とかに無縁で生きてきたから。


 私は誰のことも好きにならなかったから、誰も私を好きにならないと思っていた。だってそうだろう。自分を好きにならない人間を、どうやって愛せる? そうではないのか? エドヴァルドが私を好きだとして、でもなんで?


 確かにかつて婚約者で、ときどき手紙のやり取りなんかはしていたけれど、でもそれだけだ。内容だって、色めいたものは何もなかった。隣国で勉学に励む彼を、頑張って、と応援するくらい。私もエリックの婚約者として妃教育に耐えている。今日はこんな尻拭いをした、と面白おかしく書いたこともある。


 でも、好かれる要素は見当たらない。


 混乱の極地で頭を抱えていると、背後の茂みがガサリと鳴った。猫か何かかと振り向いて、「は?」と間抜けな声をあげる。


 そこに立っていたのは、肩を怒らせたアンナだった。可愛い顔立ちを険しくして、こちらを睨めつけている。


「見つけました、リリアーナ様」

「……ええと?」

「わたし、どうしても許せませんの」

「何を?」


 今、彼女の相手ができる気分ではない。返事がぞんざいになるのを自覚しながら、私は眉をひそめた。


「あの後、エリックさまに叱られましたわ。どうしてリリアーナ様と同じようにできないのかと」

「まあ、それはひどいですね」


 今までエリックの不始末は、全て私が対処してきたのだ。だがそれは長年の慣れと諦念によるもの。アンナに同じことを求めるのは酷だろう。


 けれど、私の心底から同情した答えに、アンナはますます眉を吊り上げた。


「ひどいのはあなたですわ、リリアーナ様! わたしに恥をかかせようとお考えなのね! あなたは公爵家出身だから、男爵家のわたしを馬鹿にしておいでなのだわ!」

「ええ?」

「わたしが失敗すれば、エリックさまが手元に戻ると思っているのでしょう⁉︎ 自分でなければエリックさまを支えられないと思い上がっていらっしゃるから!」


 何が何だか……。


 私は片手で額を押さえて、深々とため息をついた。


「どうお考えか分かりませんが、私ほどあなたを応援している人間もおりませんよ。ありとあらゆる困難を、お二人の愛で乗り越えるところを見せてください」


 だいたい、私はエリックの婚約者になんて戻りたくない。絶対に嫌だ。面倒くさすぎる。それになにより私はエドヴァルドの婚約者だから、今さら他の男のものになんてなりたくない。もう他の誰からもキスなんてされたくないのだ。


 ——ん?


 何かが胸にちらついたところで、アンナのわめき声が耳に突き刺さった。


「ふざけないで!」


 アンナが勢いよく両腕を突き出す。ドン、と衝撃が走った。視界いっぱいに夜空が広がる。


「——あ」


 私の体は傾いで、真っ逆さまに湖に転落した。

 


 ■ ■ ■

 


 何も感じない、と思ったのは一瞬で、すぐに刺すような冷気が体を包んだ。


 もはや寒さというよりは痛みだ。水に沈んだ首から下、氷の刃で斬り付けられるような痛みが襲う。


 岸辺は遠い。もがいてみても、ドレスが体に張り付いて上手く手足を動かせない。そんな私をアンナは高笑いして眺めている。


 ——死ぬのかしら。


 ぼんやり思った。だんだん体が重くなる。意識が遠のいていく。走馬灯なんてたいそうなものはなかった。ただ真っ暗な闇に引き摺り込まれるだけ。


 後悔とか未練とか、そういうものは一切思い付かなかった。死って、思ったよりも劇的ではないのかも。旧友みたいな顔をして、ある日ふらっと訪れるのかも。


 それなら、ステラ姉様もそうだったのかなあ。


 思いかけて否定する。姉は死んでない。だから関係がない。


 けれど、と思う。もう足は動かなくて、湖の底にゆっくりと体が沈んでいく。口元まで水に浸かった。


 もしも死後の世界とか、そういうものがあるとして。

 きっとそこは夢幻の花の咲く美しい楽園。

 そんな場所でステラ姉様に会えるのなら——死ぬのも怖くはないのに。


 ごぶり、と冷たい水が喉に流れ込む。ほとんど氷水だ。体の内側をまた痛みが刺して、湖水が肺にも入って、呼吸もできなくなる。


 息苦しくなって涙が流れる。握りつぶされたみたいに心臓が悲鳴をあげた。視界は霞んで、もう何も見えない。


 ——怖い!


 恐怖が背中に取り憑いた。溺れ死にする苦しみが、死ぬ寸前の甘美な麻痺を貫通する。


 嫌だ、やだ、こわい!


 無我夢中で手を動かす。しっかり動いているのかも分からない。はたから見たら、私はもう死体になって湖にぷかぷか浮いているのかもしれない。


 瞼の裏に蘇るのは、娼婦らしいドレスに身を包んだ首なし死体に、地中に埋められる白亜の棺。


 紛れもない死の気配。


 これに対抗できるものが存在すると、私は証明したかったのだ。


 そのとき、私の近くで水しぶきが高く上がった。


「リリィ!」


 知っている声、さっき別れたばかりの声。だけどその声が私を愛称で呼んでいたのは、もう六年も前のことだ。


「しっかりしろ! 息をしろ!」


 強い力で湖面に引き上げられる。新鮮な空気が肺に通って、私は勢いよく咳き込んだ。


 湖に飛び込んだ誰かが、私を抱えて岸辺に連れて行こうとしているようだった。私はされるがままになりながら、呆然とその人の名前を呟く。


「え、エド……」


 そんなふうに誰かを愛称で呼ぶのは、何年ぶりのことだろう。

 


 ■ ■ ■

 


 冬に冷たい湖に落っこちれば、風邪を引くのは自明の理だった。


「……なのに、なぜリリィは無事なんだ……」

「まあ……王太子妃は体力勝負みたいなところがありましたから……?」


 私を助けるために湖に飛び込んだエドヴァルドは、見事に高熱を出して倒れていた。


 あの夜、離宮に担ぎ込まれて以降ベッドから離れられず、私は公爵邸に戻らずに離宮に泊まり込んでエドヴァルドの看病をしている。


 額に浮いた汗を清潔な布で拭いていると、エドヴァルドが眉間に皺を刻んだ。


「恰好がつかない……」


 私の方は一晩眠ったらバッチリ回復したので、エドヴァルドがそう思うのも仕方ないのかもしれない。


 だが。


「私はそう思いませんけれど」


 氷嚢を額に置いてやりながら、私はきっぱり言った。


「誰が何と言おうと、私を助けてくださったあなたは恰好よかったですよ」


 ベッドに横たわったエドヴァルドが、ぱたりと目を瞬かせる。切れ長の瞳が嬉しそうに緩んだ。


「そうか、愛するリリィが言うなら悪くない」

「……」


 たぶん、ここで告げられる全ては、熱に浮かされた譫言なのだと思う。だから私は、彼の発言をあまり真面目に受け止めないように気を付けていた。


 でないと、なんで愛称で呼ぶのかとか、私が好きなのかとか、あらぬことを口走ってしまいそうだからだ。


 エドヴァルドが、そうっと私の方に手を伸ばしてくる。


「……本当は、リリィが寝込まなくて済むなら何よりだと思っているんだ」

「ええ、まあ、はい。ありがとうございます」


 その手が何かを探すように宙空をさまよっているので、私はぎゅっと握ってみた。エドヴァルドの笑みがますます深くなる。


「リリィ」

「はい、ここに」

「あのときみたいに呼んでくれ」


 あのとき、とは。

 すっとぼけても、エドヴァルドの期待に満ちた瞳が私の罪悪感をちくちく刺激する。無視できない。そんなことしたら何か悪い気がする。命の恩人ではあるのだし。


 私は手を繋いだまま、ぽつりと言った。


「……エド?」


 満足そうにエドヴァルドが笑う。結んだ手が、確かに強く握り返された。


「愛してる、リリィ。お前にとっては路傍の石より価値がないだろうがな」


 エドヴァルドはそのままスコンと眠りに落ちた。妙に確信めいた響きだけを残して。


 うーん、なるほど……。


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