前編
「リリィ、私は真実の愛を見つけたわ」
そう言って、姉のステラルードは私の前から姿を消した。
公爵家での生活も、第一王子の婚約者としての立場も、父も母も六つ年下の妹も、何もかもを置き去って、姉は真実の愛たる商人の男の手を取った。
「大丈夫よ、真実の愛は無敵なのよ。どんなことがあったって、私は大丈夫よ」
晴れやかに笑って、泣き縋る私の手を振り払った。
「真実の愛なんてない! ステラ姉様は大馬鹿者だわ!」
泣き叫ぶ私に、姉は困ったように眉を下げた。
「——いいえ、あるわ。リリィもきっと見つけられるはずよ」
表情とは裏腹に、声音には確信が満ちていた。
私の額にキスを落として、姉は公爵邸の裏門から身一つで出ていった。六年前、私が十歳になる春の日のことだった。
それが生きている姉を見た最後。
それから三年後、姉は首なし死体になって帰ってきたのだ。
■ ■ ■
「リリィ、僕は真実の愛を見つけたんだ!」
宮殿の大広間。この国の王太子であり、私の婚約者であるところのエリック・グランドリスに告げられた言葉に、私はふっと過去を思い出していた。
天井から吊り下げられたいくつもの水晶のシャンデリアが、目の前に立つエリックを煌々と照らしている。輝く金髪に、晴れた空みたいな青い瞳。今夜はエリックの十八歳の誕生日パーティーということもあって、礼服をすらりと着こなしている。見た目だけは、まるきり御伽噺から抜け出てきた王子様だ。見た目だけは。
そんなエリックは、王国の主だった貴族たちが居並ぶ中で、キラキラと瞳を輝かせて宣言した。
「だから君との婚約は、破棄させてもらう!」
私たちを囲む貴族たちが一斉にどよめく。その気持ちは分かる。私も一緒になって、「気が狂われましたか⁉︎」とかなんとか言いたかった。
この国では、男性は十八歳で結婚が可能になる。女性は十六歳で結婚可能なところ、私は今年の春にその誕生日を迎えていた。
だからエリックが十八歳になった今日、王や貴族たちの前で婚約披露を行い、私たちの婚約は確定する予定だったのだ。エリックから結婚指輪を贈ってもらい、ミュラー公爵家の次姫であるこの私、リリアーナ・ミュラーは王太子妃になるはずだった。
それが一体どうしたことか。
私は深く息を吸い、できるだけ優雅に扇を開いてみせた。
「……まあ殿下。あなたの見つけた真実の愛とは、いったいどこの御令嬢を指すのです?」
「わ、わたしですっ」
貴族の群れの中から高い声があがって、一人の少女がポンと飛び出してきた。ピンク色のフリルとリボンのドレスを着た、可愛らしい少女だった。くるくる巻かれたストロベリーブロンドの髪を弾ませて、エリックの隣まで駆けていく。丸い頬が上気して、林檎みたいだった。
エリックは少女を抱きとめるとその肩を抱き、私に向き直る。少女はエリックにぴったりと身を寄せた。ほとんど胸を押し付けるようにしている。華奢な体つきの割に豊かな胸がふに、と形を変えていた。
エリックが満更でもなさそうに鼻の下を伸ばすのを、私は見逃さなかった。分かるわ、私より胸が大きいものね、彼女。
——で。
「可愛らしい方ね。紹介してくださる?」
「彼女はアンナ・マロウ。僕が唯一愛する女性だ!」
「マロウ男爵家の三女の方ね。確か、最近社交界にデビューしたばかりだったかしら。ふぅん? どういうことか、ご説明くださる?」
ちらりと視線を向けると、アンナがびくりと身を震わせた。
「エリックさま、怖いですっ」
「こら、リリィ! 僕のアンナを怯えさせるな! いいか、アンナと僕は、五ヶ月前の舞踏会で出会ったんだ。アンナを見た瞬間、僕の体に電撃が走ったよ。今までどんな女性にも感じたことのなかったときめき……それで分かったんだ。僕の運命の人は、アンナしかいない。そこから逢瀬を重ね、ますます愛は募るばかりだったよ。これこそが真実の愛だと確信を得るのに、そう時間はかからなかった」
「え、エリックさまぁ……わたしも同じ気持ちですわっ」
五ヶ月前の舞踏会というと、ちょうどアンナが社交界デビューした頃だ。当然その時期だって、エリックと私は婚約中だった。それなのに逢瀬を重ねたって言った? 堂々の浮気宣言?
まあいい。
私はぱちんと扇を閉じた。にっこりと淑女の笑みを浮かべ、扇の先を突きつける。
「殿下、アンナ嬢を正式な王太子妃にするつもりですか? 側妃ではなく?」
エリックの頬に血がのぼる。
「アンナを側妃にするわけないだろう! アンナこそが王太子妃にふさわしいんだ!」
「王太子妃というのは、存外大変なものですわよ? 求められる教養は、歴史、地理、言語、数学、話術、その他諸々と幅広く。もちろん、自国だけでなく周辺諸国の知識も持っていて当たり前。ダンスも乗馬も刺繍も絵画もできて当然で、テーブルマナーの失敗なんて許されません。社交界では一挙手一投足を皆に値踏みされ、もちろん国民への奉仕活動も行います。それを、アンナ嬢がこなせると?」
「できるに決まっている!」
エリックは鼻息荒く叫んだ。アンナも丸い瞳を潤ませて頷いている。
「僕たちの間には、真実の愛があるんだ! 真実の愛の前には、どんな障害だって打ち倒される!」
「まあ、そうなのね」
私は扇を引っ込めた。うふふ、と笑いがこぼれる。
エリックを支えるために、私は過酷な妃教育を課された。六年前、いなくなった姉の代わりにエリックの婚約者となってから、ずっと。
ご覧の通り、エリックは直情的で後先考えないところがある。玉座に就くには致命的な欠点だ。だから現王であるエリックの父は、将来の妃になるだろう私に、エリックの補佐をさせるつもりだったのだ。
私は耐えた。エリックが他の女にうつつを抜かしているときも勉学に励み、舞踏会で足を踏みまくるエリックをなんとかフォローし、晩餐会でエリックがこぼした失言を、話術でどうにかごまかした。
私の生家、ミュラー公爵家の栄達は、私の両肩にかかっていたからだ。
それを、エリックとアンナは真実の愛で乗り越えるつもりらしい。
軋むほど強く扇を握りしめる。ドクン、と心臓が波打った。体温が上がる。頬が紅潮するのが自分でも分かる。
今この場で、心の底から湧き上がってきたのは、紛れもない——。
喜びだった。
「なるほど、『真実の愛は無敵』というわけですわね」
喜色の滲む私の声に、エリックはパッと顔を輝かせる。大きく首を振り、
「そうだ。リリィ、分かってくれるか。僕たちの結婚を祝ってくれるか?」
頬が緩むのを抑えられなかった。婚約を破棄されて、今までの努力は無に帰して、この先どうなるかなんて分からなくて。それでも嬉しくて仕方がなかった。
だって今、目の前に、私が求めてやまなかったものがある。
——真実の愛が。
姉が見つけたというそれ。それさえあれば、姉は大丈夫だという魔法の杖。
エリックとアンナをじっと見つめる。二人とも無垢に目を輝かせて、まるで自分たちの愛を疑っていないようだ。薄寒くなるほどの盲信ぶり。
だがそれでこそ、真実の愛にふさわしい。
私はこの二人を利用する。この二人の前に、世界で一番悪い魔女となって立ち塞がる。ありとあらゆる苦難を与え、二人を引き裂く舞台を整えて差し上げる。
そうして最後、二人が愛によって結ばれる幸福な結末を見てやるのだ。
それこそが、真実の愛の存在証明だから。
この手で必ず、真実の愛はこの世に存在すると証明する。
固唾を呑んでこちらを見守る貴族たちを見やり、私は高らかに告げた。
「お二人は真実の愛で結ばれているのですね? 素敵なことですわ。私は大人しく身を引きます。ええ、喜んで婚約破棄を受け入れましょう!」
貴族たちの驚きの声が大広間の空気をどよめかせる。高鳴る胸を押さえ、私は頭の隅でこれからのことを考えた。家族に説明して、陛下に婚約破棄を承認してもらって、そのあとは——。
そのとき、低い声がその場を圧した。
「ならば、リリアーナ嬢は俺が貰い受けても構わないな?」
コツ、と靴の踵が大理石の床を鳴らす音が響く。その足音に呼応するように、貴族の群れがサッと二つに割れる。
海を割って民を導いた聖人のごとく現れた人影に、私は小さく呻いた。
「エドヴァルド殿下……」
世にも美しい男だった。彫刻よりも整った顔立ちの中、切れ長の金の瞳が鋭く私をとらえる。シャンデリアの光の下、真紅の髪は燃えるようだった。長駆を夜会服に包んだ姿は思わず目を奪われるほど存在感があって、周囲のご令嬢がぽうっと頬を染めている。
男は私のそばに跪いたかと思うと、そっと私の左手を取った。そのまま流れるように薬指に口付ける。本来ならば、エリックの結婚指輪が嵌められるはずだった指に。
唖然とする私を見上げ、男は不敵に微笑んだ。
「リリアーナ殿、俺の婚約者になってくれるか? 俺はしがない第二王子だが、誰よりも貴方を愛すると誓おう」
「えっ⁉︎」
御令嬢方からキャーッとはしゃいだ悲鳴が上がる。私は真っ白な頭のままエドヴァルドを見下ろした。彼の唇の触れた薬指が、ジリジリと熱を持つ。
エドヴァルドは無言で返事を待っていた。けれどこちらに向けられる瞳の奥には強い光が宿っていて、くらりと目眩がする。その場に立っているのがやっとだった。
それでもう、ただ気圧されるように頷いた。
「は、はい……」
エドヴァルドの唇が綻ぶ。最前までの不遜な気配の消えた、どこか子どもみたいな笑みだった。
■ ■ ■
「——いや、『はい』ではなかったですよね⁉︎」
「なんだ。もう後悔しているのか、婚約者殿?」
かしましく囀る貴族と状況についていけないエリックたちを置いて、エドヴァルドに攫われるように連れて行かれた離宮の一室にて。
私は頭を抱えていた。
赤々と燃える暖炉のそばの長椅子に、エドヴァルドはゆったりと腰かけていた。室内を落ち着きなくうろつく私を見て、つまらなそうに高い鼻を鳴らす。
「俺の婚約者では不満か? 王妃になれるはずだったのに、ただの第二王子の妻ではな」
「それはどうでもいいのですが」
エドヴァルドはこの国の第二王子。公式にはエリックの弟ということになっているものの、実際にはエリックよりもひと月ほど早く生まれた。ただ、産褥で亡くなった彼の母は異国の血を引く女中で、今は亡き正妃から生まれたエリックよりも血が劣るという理由から第二王子に甘んじていた。
とはいえ、エリックよりもずっと聡明で、彼を王太子にと望む貴族も多い。
跡目争いで国が荒れることを憂いた陛下の判断により、エドヴァルドは隣国へ遊学していたはずだ。
成人とともに遊学も終わるとは聞いていたが、なぜここに。
「兄の誕生日くらい、弟が祝いに駆けつけてもいいだろう? それに、かつての婚約者であるリリアーナが幸せか確認しないとな」
「見え透いた嘘をつきますね」
意味深に視線を投げてくるエドヴァルドを、私は睨み返した。
かつて私はエドヴァルドの婚約者だった。
六年前、エリックの婚約者であった姉が、隣国の商人と駆け落ちする形で失踪した。
実はこれには裏がある。当時、父が新しい事業に手を出して失敗し、公爵家に莫大な借金が降りかかってきていたのだ。そんなとき、商人が姉を娶ることを条件に、公爵家を援助すると申し出た。父は大変迷ったが、結局姉の「真実の愛を見つけたわ」の一声で、姉は商人に嫁ぐことになった。
だが、公爵家が借金まみれになって娘を手放すのも外聞が悪い。
そこでエドヴァルドの婚約者だった私が、姉の代わりにエリックの婚約者になるという荒業で、どうにか始末をつけたのだ。
父がどんな手段を使ったのかは知らない。彼は一年前に亡くなり、すでに公爵家は兄が継いでいる。
エドヴァルドの婚約者だった時代のことはあまり記憶にない。ただ、この国には珍しい、綺麗な赤色の髪が好きだったことだけを覚えている。王族である彼になんとなく砕けた態度を取ってしまうのは、そのときの名残だ。
私は大きくため息をついた。
「エリックの誕生日を祝うような男ではないでしょう。本当の目的は何です」
「お前を娶りに来た」
「もう一度聞きますね。本当の目的は何」
「誓って本当だよ。俺はリリアーナが欲しい」
「あのですねえ」
じ、とエドヴァルドを見据える。こちらを仰ぐエドヴァルドの、思いのほか真面目な視線とぶつかって息を呑んだ。彼の顔つきは真面目で、確かにどこにも冗談の気配は見られない。
その理由に思い当たって、私の顔から血の気が引いた。
「……まさか、王太子になるつもりですか」
エドヴァルドがニヤリと唇を吊り上げる。
「その通り。俺はリリアーナが欲しい。妃教育を施され、王室の秘密もエリックの醜聞も、全て把握しているリリアーナがな」
そういうことか。
目の眩むような頭痛を覚え、私はそばにあった一人掛けの椅子に腰を下ろした。
この男、どうやら私を利用して玉座に至ろうというらしい。とても実利的な理由だ。愛とかよりも、ずっと信じやすいかもしれない。
ぼそりとエドヴァルドが呟く。
「リリアーナにとっても悪い話ではないと思う。一度妃候補として教育を受けた人間を、王国は放っておけない。秘密をばら撒かれてはたまったものではないからな。待つのは幽閉か、死だ。エリックがリリアーナにしたのは、そういう仕打ちだ。あの男がそれを理解できていたとは思えないがな」
その口調に憤りが滲んでいるように思えて、私はのろのろと頭を上げた。
エドヴァルドは肘掛けに肘をついて、暖炉の方を向いている。双眸に炎が揺らめき、地獄の業火を覗き込んでいるようだった。
「いいでしょう。あなたと私の目的はほとんど一致しています」
エドヴァルドが横目に私を見る。
「あなたはエリックを王太子の座から引きずり下ろしたい。私はエリックに苦難を与えたい」
「愛する男に捨てられた復讐か?」
「いいえ、全然」
私はきっぱり首を横に振った。エリックを好きだったことなんて一度もない。ずっと苦労をかけられ通しで、彼の失態の尻拭いに必死で、愛する暇もなかったのだ。
「けれど、あなたを玉座には座らせません」
まっすぐにエドヴァルドを見据える。エドヴァルドはわずかに眉をひそめて、私を見返している。
「あまねく苦難を乗り越えて、エリックとアンナが冠を被る。それで初めて、真実の愛の存在が分かるでしょう」
暖炉の薪が爆ぜて、パチンと弾けるような音が鳴る。風が吹いたのか、窓がガタリと震える。けれどエドヴァルドは私から目を逸さなかった。
金の瞳に私を映し、低い声で囁いた。
「……ステラルードの死を、まだ認めていないのか」
私は拳を握りしめる。手のひらに爪が食い込んで、鈍い痛みが走った。
■ ■ ■
三年前、公爵家にステラルード・ミュラーのものと思われる遺体が届けられた。
見つかったのは隣国の娼館だという。私が見たのは、派手な薄いドレスに包まれた首なし死体だった。
父も母も兄も、これが姉の成れの果てだと大いに嘆いた。商人に騙されて、娼館に売られて、死んだのだと。
けれど、私は違うと思った。
『こんなのステラ姉様ではないわ!』
だって首がない。それでは姉とは分からない。確かに背格好はよく似ているし、年齢だって同じくらい。
だけど、でも。
どうしても、認めるわけにはいかなかった。目の前の物言わぬ死体が姉だなんて認めたくなかった。
だって彼女は言ったのだ。
真実の愛は無敵なのだと。
どんなことがあったって、大丈夫だと。
それなのに、死んでしまうなんて、あんまりだ。
妃教育がどれだけ辛くても、エリックが私を愛さなくても、ステラ姉様がどこかで笑っていると思えば頑張れたのに。
私の訴えは無視して、首なし死体は公爵家の墓地に埋葬された。か細い糸雨の降る日だった。白亜の棺が墓穴の底に下ろされて、土をかけられるのを眺めながら、私は決めた。
真実の愛を見つけ出すと。
それがあると証明できれば、ステラ姉様がどこかで生きていると、信じられる気がするから。
■ ■ ■
「……だとしても、エドヴァルドには関係のない話です」
私は知らず知らずのうちに立ち上がっていたらしい。長椅子に座るエドヴァルドに詰め寄って、その腕を掴んでいた。
「私はエリックとアンナに試練を与える。容赦なく、躊躇なく、無慈悲に」
「なるほど、それは俺も望むところだ」
エドヴァルドが薄く笑って、私の腕を引く。彼の膝の上に横抱きにされて、逃れようとしたところを強く抱きしめられた。
美しい顔が間近に寄せられる。私はぎゅっと口元を引き結んだ。口づけでも求められるようで落ち着かない。思わず視線を揺らすと、エドヴァルドが低く笑声を漏らした。吐息が唇にかかる。
「可愛い婚約者に、誓いのキスでもしてやろうか」
「不要です。私たちは目的が一緒なだけでしょう。形ばかりの婚約者に、わざわざ情けをかけなくても構いません」
「今夜、俺は一つも嘘をついていないんだがな」
「はあ……?」
エドヴァルドの長い指がついと伸びて、私の頬をひと撫でする。皮膚のかすめる感触にぞくりと背筋が震えた。
互いのまつ毛の数えられる距離で、金色の瞳が甘く細められる。
「よろしく頼むぞ、リリアーナ。お前の妄執に期待している」




