第六十六話 「陰の功労者」
ゆらゆらゆら。
鋭い風に頬を撫でられながら、僕は馬の背中に揺られていた。
頼もしい男性の背中に張り付いて、急く気持ちを抑えながら到着を待つ。
やがて遠方に大きな街の姿が見えてきて、活気あふれる喧騒も届いて来た。
王都チェルノーゼム。
その西門の前まで辿り着くと、前に座る男性が眠そうな顔を向けて来た。
「着いたぜ兄ちゃん」
「おぉ、本当に夕暮れ前に帰って来られた……」
僕は感嘆の声を漏らしながら馬から下りて、感慨深く町を見渡す。
まさか日没前に王都まで帰って来られるとは思わなかった。
さすがは手紙配達を生業としている飛脚さんだ。
偶然この人が通りかかって、馬に乗せてくれたからよかったけれど、もし誰にも会えていなかったらと思うと背筋が凍える。
そうなっていたら今頃、僕はいまだに草原のド真ん中で汗水を滴らせながら、地獄のマラソンをしていたことだろう。
「じゃあ、ジブンは門の前で手続きがあるから、兄ちゃんはもう行っていいぞ」
「あっ、えっと、ちょっと待ってください……」
馬を引いて立ち去ろうとするお兄さんを見て、僕は急いで懐に手を入れる。
そこから財布を取り出そうとすると、それを察したように彼は右手を開いて見せてきた。
「あぁ、金ならいらねえって。出されてもジブンは受け取らねえって言ったろ」
「で、でも、ここまで運んでもらって悪いので……」
「とにかく大事な用があんだろ。さっさと行きな」
「……あ、ありがとうございます!」
僕は飛脚のお兄さんに改めて頭を下げて、王都チェルノーゼムへと足を進めた。
道端で困っているところをあの人に見つけてもらえて、本当によかった。
「キクさん、間に合ったかな……」
不安げにそんなことを呟きながら、僕は町の中へと入ろうとする。
するとちょうどその時、門の端に立っていた“一人の少女”が、こちらに気付いたように右手を上げた。
それをぶんぶんと振りながら、燃えるように“赤い長髪”を靡かせて駆け寄って来る。
「ロゼさーん! おかえりなさーい!」
「…………ははっ、元気すぎるでしょ」
萎びた花のようにくたくたになっている僕とは違って、溢れんばかりの元気を振り撒く赤髪の少女。
僕よりも遥かに疲れていなければおかしいはずなのに、少女は羽のような身軽さで目の前まで走って来た。
彼女はつぶらな赤い瞳でこちらを見上げながら、両拳をぐっと握って報告してくる。
「私、ちゃんとキクさんを王城までお届けしましたよ!」
まるで幼い子供が、初めておつかいを成功させたかのように……
戦乙女ローズは、自信満々に言った。
一時間ほど前になるだろうか。
西の森の地下遺跡で、僕はキクさんを背負いながら犯罪者集団と戦っていた。
一刻も早くそこから抜け出して、キクさんの身の安全を確保しなければならない状況。
しかしそれは叶わず、僕はまったく包囲を抜けることができなかった。
体も傷だらけになり、体力と魔力も限界まで削られていた。
キクさんがなけなしの魔力で聖歌魔法を使ってくれて、傷を癒やしてくれていたけれど、それもできなくなっていよいよ窮地に追い込まれてしまった。
その時、地下遺跡に一人の少女が降り立った。
『お待たせしました、ロゼさん』
僕がキクさんに言った台詞を、まるで真似るようにして登場したのは、戦乙女ローズだった。
彼女は、その絶対的な力による威圧感だけで、その場にいる者をすべて畏怖させた。
直後、一瞬にして数十人の敵を蹴散らしてしまい、気が付けば犯罪者集団を撃退していた。
正直全員を捕縛して、然るべき刑を与えてやりたいところではあったが、そんな暇もなかったため追いかけることはしなかった。
ともあれこうして僕たちは、奴らの囲いから生還したのだった。
『間に合ってよかったです』
ではなぜ、ローズが地下遺跡まで駆けつけて来てくれたのか。
その理由は今朝、僕がキクさんにお願いをしていたからだ。
『魔力に余裕があったらでいいんですけど、ヒューマスの町にいるローズに応援を頼んでもらえませんか?』
誘拐犯の素性も規模もまるでわからなかった僕は、一人だけでキクさんを助けられる自信がなかった。
だから一応、僕が頼れる中で最も強く、朝早くに起きていて、時間内に駆けつけることができるだろうローズに声を掛けることにしたのだ。
本当にそうしておいてよかったと思う。
ローズが来てくれていなかったら、僕は今頃、あの連中に殺されていたに違いないから。
でも正直、本当にたった数時間であの地下遺跡まで来てくれるとは思わなかったな。
相変わらず足が速すぎる。
『お嬢様に、早くこのことを……!』
そんなこんなあって無事に地下遺跡から脱出した僕たちは、いち早くネモフィラさんにこのことを伝えようと思った。
キクさんの聖歌魔法が使えたら一瞬で無事を伝えられたのだが、彼女は度重なる聖歌魔法の使用により魔力を枯渇させていた。
体調を整えてぐっすり休めば魔力は回復するけれど、その時すでに継承戦開始予定の十分前になっていた。
今から魔力の回復を待っていては継承戦に間に合わない。直接王都に向かうのなんてもっと時間が掛かってしまう。
このままではネモフィラさんは、弱体化の魔法道具を付けさせられたまま、クロッカスにやられてしまうかも……
『でしたら、私が走りましょうか?』
そこでローズが、キクさんを背負って運ぶことを提案してくれたのだ。
確かに彼女の速力ならば、キクさんを背負ったままでも高速で王都まで走り抜けることができる。
残された手段はそれしかないと思い、僕はキクさんの身をローズに託すことにした。
何より、ちゃんと顔を見せて安心させてあげた方がいいと思い、僕は二人の背中を見送ったのだった。
その結果、果たして継承戦に間に合ったのかどうか、それはまだわからない。
「私は王城へは入れなさそうでしたので、こうして門の前でロゼさんを待っていたんですけど……」
「うん、遅くなってごめんね。僕から事情を説明して、ローズも王城に入れてもらえるように頼んでみるから。急いで城に向かおう」
継承戦の行方がどうなったのか気になっている僕は、ローズと共に足早に王城に向かうことにした。
間に合ってくれていたらいいのだが……
その道中、隣を走るローズに改めて伝える。
「さっきはゴタゴタしてて、ちゃんと言えてなかったんだけど、助けに来てくれて本当にありがとね。ローズがいなかったら今頃、僕は殺されてたかもしれないし」
「いえいえ、お役に立てたのならよかったです。それに私もちょうど、王都観光をしてみたいと思っていましたから」
ローズは気を遣うようにそう言ってくれる。
しかし僕の胸中にある罪悪感は拭えなかった。
さすがにヒューマスの町にいるローズに、王都の近くまで応援を頼むなんて無茶振りにも程があった。
遅まきながらそれを申し訳なく思っていると、その気持ちを察したかのようにローズが続けた。
「ちょうど今朝、ヒューマスからパーライトに向かっている途中に、キクさんから連絡がありました。王都の西にある地下遺跡に来てほしいと。方向的には少し進路を変更するだけでしたので、別に不便はありませんでしたよ」
「で、でもさすがに、パーライトと王都じゃ距離が全然違うでしょ。ヒューマスからだと馬車で四日くらい掛かる道のりだし……」
自分で言った後で、とんでもない無茶をお願いしたもんだと思い知る。
たとえローズの実力を知っていたとしても、早朝にいきなり『ヒューマスから王都まで来てくれ』なんて常識外れもいいところだ。
だがローズはそのことを何とも思っていなさそうに、むしろ申し訳なさそうに言った。
「まあ、確かに少しだけ遠かったですね。全力で走っても八時間くらい掛かってしまいましたから」
「……」
八時間。
その圧倒的な速力に、僕は思わず言葉を失った。
絶対に以前より素早くなっている。
毎日ヒューマスとパーライトを走って行き来しているので、莫大な恩恵が体に馴染みつつあるのだ。
何より驚きなのは、すでにここまで町を行ったり来たりしているのに、まるで息切れもせず汗一つも滲ませていない無尽蔵のスタミナである。
さすがは身体能力の怪物――戦乙女だ。
「……そんなに申し訳なさそうな顔しないでください」
「えっ?」
「ロゼさんの頼みでしたら、たとえヒューマスから王都に駆けつけるのだってお安い御用なんですよ。何より私のこの力は、ロゼさんのものでもあるんですから」
「僕の……?」
その意味がいまいち理解できず、僕は首を傾げた。
ローズの力はローズのものでしょ?
「この力を目覚めさせてくれたのは、他でもないロゼさんです。ですからこの力をどのように使ってもらっても、私はまったく気にしませんよ。むしろ光栄に思います」
「……光栄って」
「それだけではなく、ロゼさんは他にも私のために色々と手を尽くしてくださいました。一生をかけても返し切れない恩が、ロゼさんにはあるんです。ですからまた困ったことがありましたら、いつでも私を頼ってくださいね。微力ながらお助けしますから」
「……」
頼もしすぎるその宣言に、僕は思わず心を打たれてしまった。
ローズの力が僕のものでもあるという感覚は、まったく掴むことができなかったけれど。
これが恩返しの一環なのだと言われて、僕の心は少しだけ軽くなった気がした。
……僕も同じようにして、ローズに今回の件の恩返しをすることにしよう。
差し当たっては王都観光の付き添いでもして、美味しいものをたくさんご馳走させてもらおうかな。
そんな話をしているうちに、僕たちは城の前まで辿り着いていた。
王城からは、妙に騒がしい様子が伝わってきて、僕とローズは自ずと緊張感を滲ませた。