第六十五話 「王」
届いたと思った。
勝てたと思った。
意地だけでも奇跡を手繰り寄せることができるのだと思った。
でも、違った。
「よく今の魔法を突破してきたものだ。さすがにヒイラギに勝っただけのことはあるな」
すべては目の前にいる男の手の平の上。
奴の思い通りに踊らされているだけだったのだ。
こちらがいくら骨身を削って立ち向かっても、奴に逆らうことはできない。
ネモフィラは中庭の芝生に倒れながら、絶望感に打ちひしがれた。
それでも彼女は、懸命に体を起こす。
「くっ……うぅ!」
傷付いた体を無理矢理に動かして、覚束ない足取りながらも立ち上がった。
その姿を見た見物人たちは、静かに感嘆の声を漏らしている。
同じくクロッカスも感心したように頷き、心ない拍手を送ってきた。
「素晴らしいよネモフィラ。その傷でなお立ち向かってくる意思が残っているなんて。君の継承戦にかける思いは、どうやら本物のようだな」
まるで感情のこもっていない拍手を聞きながら、ネモフィラは改めて闘志を迸らせる。
無駄かもしれない。無理かもしれない。
この状況を打開する術なんてないのかもしれない。
どうにかして奴の懐に入り込めたとしても、またキクを楯にされて止められてしまう。
でも、諦めるわけにはいかないのだ。
(…………考え、なきゃ)
今の自分にできることは、ただ耐え忍ぶことのみ。
一秒でも長くこの戦場に立ち続けて、最悪のこの状況から抜け出せる手段を“考える”のだ。
何かあるかもしれない。キクを助けて、かつ王様になれる手段が。
輝かしい未来に繋がっている道が。
ネモフィラは朧げな希望にすべてを賭けて、剣と盾を構えた。
「そうだな。せっかくの継承戦なんだ。負けを認めるなんて無様な真似はせず、どちらかが完全に倒れるまで……存分に力をぶつけ合おうじゃないか!」
クロッカスは歓喜の声を響かせて、右手の水色の指輪を光らせた。
「【氷雨】!」
奴の周囲に魔法陣が展開される。
そこから細く鋭い氷製の針が、勢いよく飛び出してきた。
「――っ!」
氷の針は雨のようにこちらに襲いかかってくる。
それらはすべてキクにもらった大盾で防げているけれど、次第に表面が凍結してきた。
やがて盾の持ち手まで凍りついてくる。
「くっ……!」
仕方なく盾を捨てたネモフィラは、いよいよ剣一本でクロッカスと対峙することになった。
奴は続け様に魔法を放ってくる。
身を守る術がないネモフィラは、傷だらけの体を動かして魔法から逃れ続けた。
「これが私の『触媒師』の力だ! 魔力を消費せずとも高位の魔法を放ち続けることができ、並列発動や合成魔法なども自在に扱うことができる!」
奴はこの状況を、力を示す場として最大限に活用するつもりらしい。
見栄えのいい魔法を乱発してきて、こちらへの攻撃の手を休めることをしなかった。
二階の席から戦いを見守っている貴族たちは、鮮やかな魔法の数々に目を奪われている。
「と、父様、もうこの辺りにしておいた方が……」
しかしただ一人、この状況をよく思っていない人物がいた。
あまりにも一方的な光景を前に、クレマチスは思わず国王のカプシーヌに一声かける。
この継承戦の勝敗の行方は、どちらかが敗北を認めるか、審判のカプシーヌが続行不可能と判断した場合に決する。
ゆえにクレマチスは、この状況をすでに続行不可能なものであると、遠回しにカプシーヌに伝えた。
本音はネモフィラに勝ってほしいと思っている。
だが実力の差は歴然となっており、これ以上続ければ大事故に繋がりかねない。
何より不審な点が多々あるため、今回は引き下がるのが利口だと思った。
カプシーヌも今の戦況を鑑みて、勝負は決したものと判断したのか、会場に声を響かせた。
「此度の継承戦、勝者は……!」
「まだ!」
それを、ネモフィラの叫び声が遮る。
彼女はクロッカスの魔法から逃れながら、滅多に出さない大声でカプシーヌに言った。
「まだ、私は…………負けてない!」
「……」
ネモフィラの叫びに、カプシーヌは言葉を詰まらせる。
彼女の身を案じての提案だったのだが、当の本人にそう言われてしまってはとても中断はできなかった。
ネモフィラはいまだに消えていない闘志を迸らせて、戦場の中庭を駆ける。
だが……
(…………眠い)
ネモフィラはすでに、意識を保っているのが精一杯だった。
体が重たい。足元も覚束ない。全身の傷が絶え間なく痛む。
まだ負けていないと力強く宣言はしたが、正直勝てる見込みもまるでないと思っていた。
その心中に反して、体は勝手に動いていく。
するとクロッカスが、懸命に戦うネモフィラを見て、不意に魔法を放つ手を止めた。
そして心を打たれたような表情を浮かべる。
「ネモフィラ。先ほどは『王の器がない』だなんて言って悪かった。君には充分にその素質が宿されているよ」
「……」
こちらの力強い宣言を聞いて、心を打たれたと言わんばかりに頷いている。
頬が微かに緩んでいることから、そんな気持ちはまったくないことが伝わってきた。
「たった一人の従者のためにそこに立ち、体を傷だらけにしながらも剣を振るう。なんとも健気で涙ぐましい限りだ」
クロッカスは憎らしい身振り手振りを交えながら熱弁する。
直後、二階にいる見物人たちに聞こえるくらいの声量で、唐突に宣言した。
「だから改めて、ここに約束しよう! 君の従者の願いというやつは、私が代わりに叶えてみせる! 国王になった最初の責務として、それを果たしてみせようではないか!」
「……」
事情を知らない者が見ていたら、おそらくこう思うことだろう。
ネモフィラの献身さに心を打たれたクロッカスが、彼女の思いを引き継いだ場面だと。
たとえネモフィラがここで敗北したとしても、クロッカスの慈悲によって願いは叶えられる。
感動的な話だ。麗しい兄妹愛だ。
クロッカスが裏で何をやっているのか知らなければ、そう映るに違いない。
「だからもう、終わりにしようネモフィラ」
クロッカスはそう締め括ると、おもむろに懐に右手を入れた。
奴はそこから漆黒の小杖を取り出す。
見物人たちの興味も、自然とそちらに集中した。
「過去、コンポスト王国に絶大なる被害をもたらし、史上最悪の魔獣として恐れられた『邪竜』。これはその死骸から作った魔法触媒だ」
確かに、禍々しい気配がこちらまで漂ってくる。
奴が持つどの触媒よりも、凶悪な力を感じた。
「魔法の名前は【邪炎】。大地を焼き尽くし、空気を焦がす黒炎の魔法。私が扱える中で最高位の魔法だ。これで、君を倒す。無論、手心は加えるつもりだよ」
「……」
クロッカスは真っ黒な小杖の先端を、ゆっくりとこちらに向けてきた。
もう、魔法を避けられる力も残っていない。
受け切れるだけの体力ももちろんなかった。
ネモフィラは力なく剣を下ろす。
(……ごめんね、キク)
悔しさを噛み締めながら、心の中で深く謝罪をする。
頑張れば何とかなると思っていた。
たとえ弱らされていたとしても、意地さえあれば勝てるのではないかと。
でも……
「わたし…………勝てなかったよ」
ネモフィラの瞳に涙が滲む。
己の弱さを痛感させられて、彼女は深く俯いた。
それを嘲笑うかのように、クロッカスが不気味な笑みをたたえる。
「私の勝ちだ、ネモフィラァ!!!」
儚げな涙が流れて、彼女の頬からこぼれ落ちた。
「お嬢様ぁぁぁぁぁぁ!!!」
「……っ!」
涙が落ちた、その瞬間――
聞こえるはずのない声が、中庭の全体に響き渡った。
ネモフィラは俯けていた顔を咄嗟に上げて、声のした方を振り返る。
幻聴かと思った。気のせいかと思った。頭が勝手に都合のいい声を聞かせているのかと思った。
でも、違う。
城の二階にあたる場所に、見物人たちを押しのけるようにして身を乗り出す、小さな人影を見つけた。
「キ……ク?」
幻覚……ではない。
自分がキクの姿を見間違うはずもない。
確かにそこには、クロッカスの策略によって連れ去られてしまった、従者のキクがいた。
周囲の目もそちらに集まる。
またしても奴の悪巧みだろうかと思って、クロッカスの方を見ると……
奴は、心の底から驚愕するように、目を限界まで見開いていた。
「な、なぜあの使用人がここにいるんだ!? まだ解放の指示は……!」
「お嬢様、キクは無事でございます! ロゼ様に! ロゼ様に助けていただきました!」
「……」
今朝から姿を見せていなかったロゼ。
用事があって城外へ出掛けていると聞いていたが、まさか彼はキクを助けるために……
「ですからお嬢様! 何もお気になさらず、全力で戦ってくださいませ!」
キクは珍しく声を張り上げる。
そして喉をガラガラに掠れさせながらも、二階から力強い声援を送ってくれた。
「この国の王に相応しいのは、誰が何と言おうとも…………ネモフィラお嬢様でございます!!!」
「……」
その一言だけで、折れかけていた心が嘘のように元通りになった。
キクが、ちゃんと戻って来てくれた。
ロゼが、助けに行ってくれたのだ。
今度は別の意味で瞳の奥を熱くさせる。
感謝の言葉を今すぐに伝えたい気持ちになりながら、彼の姿が見えないことに遅まきながら気が付いた。
それについては気になったが、今はそれよりもやるべきことがある。
「……っ!」
駆けつけて来てくれたキクは、全身がボロボロになっていた。
泥だらけの衣服。傷だらけの手足。腫れ上がった頬。
連中に何をされたのかは一目瞭然だった。
ネモフィラの頭の中で、何かがプツリと切れる。
追い詰められた最後まで外すことがなかった指輪を、彼女は投げ捨てた。
体が軽くなっていく。胸の苦しさが消えていく。反対に頭はカッと熱くなっていく。
「……ま、待てネモフィラ。少し話し合おう」
「……」
ネモフィラから溢れんばかりの憤りを感じたのか、クロッカスが激しく動揺した。
ネモフィラは細めた瞳でクロッカスを睨めつける。
「わ、私じゃない! あの使用人を傷付けろだなんて指示は出していない! 奴らが勝手に暴走しただけだ!」
こちらは何も言っていないのに、自ら言い訳をこぼしていく。
自分は悪くないのだと。悪いのは命令を無視した連中だと。
「本当だ! 私は何も言っていない! 私が出した指示は使用人の拉致監禁だけだ! 頼む信じてくれ!」
ネモフィラはゆっくりと歩み寄っていく。
その迫力に気圧されたように、クロッカスが深く頭を下げた。
「わ、悪かった! ほんの出来心だったんだ! まさかお前がここまで強くなってるなんて思わずに、つい魔が差してあんな命令を……!」
瞬間――
奴はバッと顔を上げて、漆黒の杖を構えた。
「【邪炎】ッッ!!!」
杖の先端から黒々とした業火が迸る。
人に向けて撃つような大きさではない殺戮の魔法。
こちらを油断させて不意打ちを狙った一撃だ。
その魔法の強大さに、周囲の観客たちが悲鳴を上げていた。
「……もういいよ」
刹那――
ネモフィラが片手を振り、埃を払うように黒炎を消した。
「…………はっ?」
クロッカスの手持ちの中で、最高位の破壊魔法。
史上最悪と言われた魔獣を媒体にして作った、最高傑作の魔法触媒。
そこから放たれた最たる一撃を、ネモフィラは羽虫を払うようにして掻き消した。
傷どころか、砂埃一つすら付けることができていない。
本来の力を取り戻したネモフィラに、クロッカスの魔法はまるで通用しなかった。
「……もういい。もう顔も見たくない。言い訳も聞きたくない。何も喋らないで」
ネモフィラは右手を開いて、そこに全霊の力を込める。
「【判定】……」
このスキルは、相手の“罪の重さ”に応じて発動効果が変わる。
一定距離に近づいてきた者を僅かに弱体化させる『侵入罪』。
攻撃をしてきた者に衰弱の呪いを掛ける『不敬罪』。
さらにその上、攻撃によって傷を負わせてきた者に、頑強値を基準にした“魔力の一撃”を叩き込む……
「【反逆罪】」
強烈な魔力の光が、ネモフィラの右手に宿った。
圧倒的な力を目前にして、クロッカスは底知れない恐怖を覚える。
咄嗟にその場から逃げ出そうとしたが、クロッカスは急激な倦怠感に襲われて片膝をついた。
「こ、れは……! ヒイラギがやられた……!」
衰弱の呪いを掛ける『不敬罪』により、クロッカスの体はすでに蝕まれていた。
力を失くして膝をつくクロッカスに、ネモフィラは静かに歩み寄る。
冷え切った視線で奴を見下ろしながら、おもむろに右手を振りかぶった。
「や、やめてくれ……! 体が、動かないんだ……!」
「……」
絶望感で瞳に涙が滲んでいる。
クロッカスは声を震わせながら、目の前のネモフィラに懇願した。
「わ、私はもう継承戦を降りる! 罪もすべて告白する! だから――」
「もう……喋らないでッ!!!」
パンッ!!!
強烈な張り手が、クロッカスの左頬を襲った。
ネモフィラの右手に宿った魔力が爆発して、クロッカスの肉体がその場から消え去るように激しく吹き飛ぶ。
手心を加えていたが、クロッカスは歯の折れた顔面を押さえながら、痛みで悶え苦しんだ。
「がっ……ああっ……あああぁぁぁぁぁ!!!」
「キクの痛み、少しはわかりましたか。クロッカス兄様」
直後、クロッカスの全身に呪いが巡り、奴は意識を失った。