第六十一話 「覚悟」
継承戦開始まで、あと五時間。
賑わいつつある城内の活気を聞きながら、ネモフィラは自室で窓の外を眺めていた。
この時間になったら、いつもはとっくに従者のキクが、朝食をどうするか聞きにやって来るはず。
しかし今日はそれがない。
ネモフィラの懐に入っている一通の“手紙”が、彼女の不在を如実に伝えてきている。
『次の継承戦において、同封した魔法道具の着用を義務づける。継承戦ののち従者を解放する。また以上のことを口外した場合、従者の安全は保証しないものとする』
早朝。
目が覚めて水を飲みたくなったので、隣の部屋にいるはずのキクに声を掛けようとした。
しかしそこにキクの姿はなく、代わりにこの手紙が置いてあった。
たまに書き置きを残して部屋を留守にしていることがあったが、いつも使っている紙ではなく、見たことがない封筒が置いてあって不思議に思った。
そして中を開いてみると、それは従者のキクからの手紙ではなく、わかりやすい脅迫状だった。
それを見た瞬間、自分の血の気が引くのを感じた。
頭の中が真っ白になった。
自分のせいで、キクを危険な目に巻き込んでしまった。
やがて冷静になった頭でネモフィラは考える。
こんなことをするのは兄のクロッカスくらいだ。
よもやこのような強行策に打って出るとは思わなかった。
明るみに出た瞬間、継承戦で強制失格になりかねない大博打。
策士のクロッカスにしてはあまりにも乱暴な手だと言わざるを得ない。
これは、それほどまでに奴が焦っていることのあらわれでもある。
先日の一回戦にて、自分の強さがかなり衝撃的に映ったのだろう。
そこまで強くなれたことは素直に喜ばしいが、まさかここまで警戒されて巨大な布石を打たれるなんて。
「……ロゼ」
早朝にロゼと顔を合わせた時、心の底から助けを求めたかった。
彼に相談すれば何かしらの解決策を出してくれると思ったから。
しかし他言無用という犯人の指示があったため、ロゼには何も伝えなかった。
ただ、一応自分でもたった一つだけ解決方法を思いついている。
きっとロゼの方が利口な方法を思いつくのだろうが、この方法ならキクを無事に返してもらい、かつ自分が国王になるという目的も果たすことができる。
犯人が要求してきたのはこれだけだ。
『同封した魔法道具の着用を義務づける』
極論、魔法道具を付けたまま自分が勝てばいいのだ。
わざと負けろとは指示されていない。
同封されていたのは飾り気のない“指輪”で、試しに付けてみた感じからすると、体に宿っている恩恵がほとんどなくなるような効果らしい。
だがそれで完全に戦えなくなるというわけでもないようなので、その状態で勝ってしまえばいいだけの話だ。
今の自分の実力なら、この指輪を付けたままでも勝てる可能性はある。
もしそれで勝ったとしても文句を言われる筋合いはないし、自分が王様になることもできる。
無茶かもしれないが、これがネモフィラに考えつける現状の最善策だった。
「……ロゼに、強くしてもらったんだから」
人知れず決意を固めると、ネモフィラは継承戦に向けて腹ごしらえをしておくことにした。
結局ロゼと別れた後は、気持ちが落ち着かなかったのであまり眠ることができなかった。
僅かに寝不足気味な頭で部屋を出て、朝食をとるために食堂へと向かう。
いつもはキクが食堂から部屋に運んで来てくれるのだが、今はいないので致し方ない。
その道中、使用人の一人にキクがどこに行ったか聞かれたけれど、例のことは他言しないように言われているので『自分の命で外出中』だと伝えた。
同じようなことは前々からもあったので、使用人は特に疑問にも思わず頷いてくれた。
使用人の指揮の方も、代理の使用人頭がいるので心配はいらないだろう。
キクが傍にいないという違和感を抱えながら食堂の前まで辿り着くと、ちょうどそこでクレマチスの姿が見えた。
「おはようネモフィラ」
「……おはようございます、クレマチス姉様」
心優しく頼りになる姉を見た瞬間、またもあの衝動に襲われてしまう。
このことをすべて打ち明けてしまいたい。
とても自分一人で抱え切れる問題ではないから。
クレマチスからは先日称賛を受けているけれど、実際のところネモフィラの精神もまだ幼い領域にある。
そのため姉に縋りたい気持ちに駆られるが、ネモフィラは奥歯を噛み締めて堪えた。
やがてクレマチスの方から、声を落として言ってくる。
「今日の継承戦、楽しみにしているよ」
「……うん」
「そういえば、ロゼ君がどこに行ったか知らないか?」
「……ロゼ?」
「私の客室にいなくてね。今朝は書き置きだけが残されていたんだ。『用事があるから外出する』と。何か聞いていないかな?」
「……う、ううん」
そういえばロゼの姿を見ていないと今さらながら気が付く。
そして“書き置き”が残されていたということを聞いて、ネモフィラは悪い方向に予想をしてしまった。
まさかロゼも攫われた?
と一瞬だけ不安になるが、すぐに考えを改める。
クレマチスの客人として招かれている彼が標的になるはずがない。
それはいくらなんでも自殺行為だ。些細な証拠が残ってでもいれば、必ずクレマチスはそれに気が付いてクロッカスに辿り着く。
だからロゼは本当に用事があって席を外しているのだろう。
「一緒にネモフィラの勇姿を見届けられたらと思っていたのだがな。それにネモフィラも、彼が見ていてくれた方が何かと安心だろう」
「そう、だね……」
一応、彼は師匠みたいな立場になるので、戦うところを見ていてくれた方が安心できる。
しかし用事があるというのなら仕方がない。
王都でどんな用事があるというのかは定かではないが。
それに継承戦まではまだ時間があるので、それまでには戻って来てくれるかもしれないし。
キクも同じように、何かの間違いでふらっと帰って来てくれないだろうか。そんなことを思っていると、不安げな表情を悟られたのかクレマチスが顔を覗き込んできた。
「……どうかしたか?」
「えっ? う、ううん……何でも、ない」
頼りになる姉に、このことをすべて打ち明けてしまいたい。
ネモフィラは最終戦の開始まで、そんな衝動を抑え込み続けた。
王都チェルノーゼムから、馬車を使って三時間ほどの場所。
密度の高い森の一角に、木々に隠れるようにして入口を開いている地下遺跡があった。
中はかなり広大で、壁や天井には魔法道具が掛けられていて青い光を放っている。
地下に広がる遺跡は三つの階層に分かれており、下の階層に進むほど内部も広くなっている。
その地下遺跡の最下層の小部屋に、キクは縛られた状態で捕らわれていた。
「……」
この部屋に来るまでに、遺跡の中で多くの兵たちとすれ違った。
その誰もがあまり整っていない格好をしていたので、おそらく騎士団などに所属している一般兵ではないと思われる。
金で雇われた傭兵だろうか。
いや、この誘拐事件の犯人と思われるクロッカスは、確か裏で多くの人物たちと繋がりがあるはず。
噂では犯罪者集団との繋がりもあるのではと言われていたが、まさかその連中だろうか。
確かに自分を誘拐してネモフィラを脅すなら、後々足がつかない裏の人物たちに任せるのが無難だろう。
ただ、そんな連中も王城に忍び込むことはできなかったようで、自分を城から連れ出したのは上等な衣服を着た黒マスクの男だった。
あれはおそらくクロッカスの従者だろう。
そして自分を城から連れ出したのち、この物騒な連中に身柄を任されたといったところか。
そのリーダーらしき青年が、たった今自分の目の前で静かに本を読んでいる。
「……こうして待っているだけというのは、なかなかに退屈ですね」
やがて青年はおもむろに顔を上げて、控えめに欠伸を漏らした。
他の者たちとは違って、それなりに小綺麗な白コートに身を包んだ男。
緑色の髪と白い肌も艶があり、肉付きも悪くない。
さらには上等な眼鏡と磨かれたブーツを身につけていることからも、程々にいい暮らしを送っている人物のようだ。
上流階級の関係者だろうか? それともクロッカスと金銭的な契約を結んでいる人物か?
見覚えのない人物だったので、キクは思わず疑問を口にしていた。
「……あなたはいったい誰なのですか?」
「おや、お喋りに付き合ってくれるというのですか?」
先ほどの退屈発言を気遣っての台詞ではなかったのだが、なぜかそう捉えられてしまった。
とても接しづらい人物だ、などと思っていると、緑髪の男は眼鏡を直しながら肩をすくめた。
「しかし残念ながら素性は明かせないことになっていますので、その質問にお答えすることはできません。別のご質問でしたら受け付けますが?」
「……では、この場所はいったいなんなのですか?」
突然連れてこられた地下遺跡。
それにしては妙に生活感が漂っていて、小綺麗に整頓されている。
だからそれが気になって尋ねてみると、青年はまたも玉虫色の返答をしてきた。
「さあ? 私たちはただ依頼主から、あなたを『本日の夕刻までここに捕らえておけ』と言われただけですから」