第五十九話 「卑劣」
翌日。
いよいよ継承戦の最終戦の日となった。
その早朝、まだ日も昇り切っていない薄暗い朝に、僕は目を覚ました。
「ふわぁぁ……」
先日も同じ場所で寝たはずなのだが、やはり慣れないベッドでは熟睡ができなかった。
うちのやつよりもふかふかですべすべで、逆に落ち着かない。
おまけに朝は使用人さんが起こしてくれることになっているので、それがわかっているとなると余計深くは眠れなかった。
勇者パーティーで長旅をしていた弊害というやつだろうか。
まだ中庭の芝生で寝転がっていた方が熟睡できそうである。
ともあれ早くに目が覚めてしまい、僕はやることもなしに客室の中を歩き回った。
それから怒られない程度に城内を見て回ることにする。
「やっぱ広いなぁ……」
改めて城の中を見て、僕は感動を覚える。
勇者パーティー時代にも何度か大きな屋敷とかに招かれたことはあるけど、一国の王が住まう王城はやはり一味違った。
王城の中に入れる機会なんてそうないし、継承戦も今日が最後になるので今のうちに目に焼きつけておこう。
重要な部屋にさえ近づかなければ自由にしていいとクレマチス様に言われているので、そこだけは気を付けて散策をしていく。
城内の大廊下、噴水のある園庭、使用人さんたちが住んでいる別邸。
貴族の屋敷に仕える使用人さんたちは、地下室や屋根裏を利用して住んでいると聞いたことがあるけれど、さすがに王城の使用人さんたちになると別邸を設けてもらえるらしい。
専用の個室があるのは、個人に仕える従者だけって話だけど、ここは使用人さんたちの暮らしも充実しているみたいだ。
そろそろ部屋に戻ろうと思い、綺麗になった中庭を通って部屋に向かうと、その道中で一人の女性を見かけた。
「あっ、ネモフィラさん」
「……」
白いネグリジェの姿で廊下に立っていたのは、長身の青髪の女性――ネモフィラさんだった。
彼女は廊下の端の窓際で、外を眺めながらぼんやりとしている。
やがて僕の気配に気が付いたのか、青い瞳をゆっくりとこちらに向けた。
「おはようございますネモフィラさん。ネモフィラさんも早く目が覚めちゃったんですか?」
「…………うん、まあ」
「……?」
気のせい、だろうか。
ネモフィラさんは相変わらずの無表情だった。
しかしその顔が、いつもよりも若干強張っているように見えた。
まるで、何かを思い詰めるみたいに。
「……あ、あの、どうかしました?」
「……別に」
そう言って彼女は再び窓の外に目をやってしまう。
なんだろう、この感じ?
いつも通りと言われたらそう見えるんだけど、なんだか心なしか様子がおかしいように感じる。
何かに悩んでいるというか、怯えているというか、戸惑っているみたいな感じだ。
何かあったのだろうか?
「もしかして、怖い夢でも見ましたか?」
「えっ?」
「いつもよりなんだか、表情が固いような気がしたので」
心配になって問いかけてみると、ネモフィラさんはおもむろにかぶりを振った。
「……なんでも、ないよ。いつもこんな顔だし」
「そ、そうですか」
失礼ながら、確かにいつもと違いがわかりづらいとは思った。
常に無表情だから、表情に固いも柔らかいもないし。
やっぱり僕の気のせいだったのかな?
「今日が、継承戦の最終戦だから、緊張して落ち着かなかっただけ。別になんでもないよ」
「……」
緊張。
それはまあ、次期国王になれるかどうかが今日で決まるわけだからね。
気持ちが落ち着かなくて当然だ。
ただでさえネモフィラさんはキクさんの故郷を救うという目的があって、姉のクレマチス様の想いも引き継いでいるわけだし。
しかし緊張していると語った彼女の言葉が、僕の気のせいだろうか…………まるでとってつけたような“言い訳”に聞こえてしまった。
「じゃあ、私はもう少し休むから」
「は、はい。おやすみなさい」
足早に立ち去っていくネモフィラさんを見届けながら、僕はその場で立ち尽くしてしまった。
やっぱり様子がおかしいように見える。
いつも通りの無表情だからわかりづらかったけれど、明らかに落ち着きがないように感じた。
でも、本人が『なんでもない』って言っているから、変に心配する必要はないか。
そう割り切った僕は、思い出したように仄かな眠気に襲われて、我知らず部屋の方へと足が進んでいく。
継承戦の本番は本日の十四時から。
今からおよそ九時間後なので、僕ももう一眠り行っておこうかな。
どうせ程なくして使用人さんが起こしに来てくれると思うけど、それまで睡魔に身を任せることにしよう。
部屋に辿り着くなり、ふかふかすべすべのベッドが目に入り、僕はそこに飛び込もうとした。
瞬間――
『ロゼ様』
「うおっ!?」
聞き覚えのある声が、突如としてどこからか聞こえてきた。
突然のことに驚いて、僕はベッドの上にブサイクな格好で落ちてしまう。
その後すぐに顔を上げて、思わず辺りを見回してしまった。
しかし周囲には誰もいない。
それも当然で、聞こえてきた声は明らかに頭の中に直接流し込まれたものだったからだ。
これは、キクさんの『聖歌魔法』による遠隔念話。
「キ、キクさんですか? どうしたんですかこんな朝早くに……?」
『突然のご連絡で申し訳ございません。早朝にご無礼かとは思ったのですが、早急にロゼ様にお伝えしたいことがございまして、聖歌魔法にてわたくしの声を繋げさせていただきました』
僕に伝えたいこと?
聖歌魔法まで使うほどの急ぎの連絡ってなんだろう?
ていうかネモフィラさんにではなくて、僕に対して聖歌魔法を使ってくるなんて本当に珍しい。
加えて、キクさんの声音にどことなく焦燥感が滲んでいるように感じて、僕は眠気を振り払って耳を傾けることにした。
『今、お近くにネモフィラお嬢様はいらっしゃいますか?』
「ネモフィラさん? さっきまで一緒にいましたけど、今は部屋に戻られてお休みになっていると思いますよ」
『そ、そうですか』
心なしか安心している様子が声から伝わってくる。
ネモフィラさんが近くにいたらまずい話なのだろうか?
『お嬢様は、どこかおかしな様子などございませんでしたか?』
「んっ? ど、どういう意味ですかそれ? おかしな様子なんて特に……」
そう言いかけた僕は、ネモフィラさんから受けた違和感を思い出してハッとする。
「そういえば、なんだか少しそわそわしていたような気がします。落ち着きがなかったと言いますか……」
『……』
ネモフィラさんの強張った表情を思い出していると、キクさんの弱々しい声が耳を打った。
『でしたらもう、このことは……』
「……?」
『ロゼ様、恐れながらもお願いがございます。お嬢様に“キクのことは心配無用”とお伝えしていただけませんか』
「えっ……」
キクさんからの思いがけない申し出に、僕は言葉を失った。
心配無用?
ネモフィラさんに、『キクさんのことは心配いらない』と伝えればいいのか?
それじゃあまるで、キクさんはたった今、何かよからぬ事態に陥っていると言っているようなものではないか。
「な、何かあったんですかキクさん?」
『…………別に、大したことではございません。ですのでお嬢様には、“心配無用”とだけお伝えくださいませ』
「い、いや、無茶言わないでくださいよ」
キクさんに何があったのかも知らずに、ネモフィラさんに『心配いらない』と伝えられるはずがない。
それにキクさんが変に言い淀んでいる様子からも、ただならない事態に陥っていることが伝わって来た。
『これは、ロゼ様にしかお願いができないことなのです。ですからどうか、これ以上は何も聞かずに、ネモフィラ様への伝言をお願いいたします……!』
「それで、『はいわかりました』って言えるはずないじゃないですか。キクさんの身に何かあったんですよね? 状況だけでも教えてくれませんか?」
念話の向こうで、キクさんが逡巡する気配を感じる。
なんでキクさんは何も教えてくれないんだ。
ネモフィラさんに『心配無用』とだけ伝えてくれなんて、余計に心配になってくる。
こっちに何も伝えられない状況なのだろうか?
後ろで誰かに脅されている? それとも状況を伝えてしまうとさらに不都合なことがあるとか?
いったい彼女に何が起きているんだよ。
こちらも自ずと焦りを覚えさせられて、キクさんからの返答をひたすらに待ち続けていると……
やがて彼女の、申し訳なさそうな弱々しい声が、頭の中に響いた。
『……わたくしは現在、何者かの手によって城の外へと連れ出されております』