第五十三話 「姫君への不敬」
顔を青くしたヒイラギは、心が折れたことで脱力していく。
覚束ない足取りでよろよろと後ずさると、ネモフィラを見据えながら立ち尽くした。
(どうして、俺の『魔装』で、傷一つ付いてねえんだよ……)
箱庭師の配合によって生まれた特別種の魔獣。
その魔獣を武器として変換したことで、ヒイラギの身体能力は桁違いに上昇している。
武器自体も破格の性能を宿しているというのに、ネモフィラはその一撃を細腕一本で受け止めた。
まったく微動だにせず、涼しい顔をして。
そんなネモフィラが、驚愕しているこちらをじっと見つめていた。
「……み、見下してんじゃねえ!」
ヒイラギは絶望感を無理矢理に振り払うように、憤りを迸らせる。
『八狼の黒剣』を背中まで振りかぶり、憐れみの目を向けてくるネモフィラに斬りかかった。
「う……らあっ!」
ガンッ!
先刻に味わった感触が再び手に走る。
ネモフィラはまたも白魚のような細腕で黒剣を防ぎ、その肌には傷の一つも付いていなかった。
「く……そがァ!」
ヒイラギは立て続けに剣を振る。
上段から斬り下ろし、手首を返してすかさず斬り上げて、その勢いのまま剣を引いて突きを放つ。
加えて正面からだけではなく横や背後にも回り込んで、力の限り剣を振り続けた。
そのすべてを腕で防ぐことはできなかったようで、ネモフィラのドレスは鋭い刃によって裂かれていく。
だが……
「傷が、付いていない……?」
観客たちが唖然とした様子でそう呟いて、遅れてこちらも気が付かされる。
彼女が着ている身軽そうなドレスは、黒剣によって至る所が裂けて破けていた。
だが、その下のネモフィラの体には、まったく傷が付いていない。
ゆえに戦場には、ヒイラギの汗とドレスの切れ端だけが、虚しく宙を舞っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
ひとしきり剣を振ったヒイラギは、やがて激しく息を切らして後ずさる。
無傷のまま無表情で佇むネモフィラを見て、強く奥歯を噛み締めた。
まるで頼りない木の棒切れで、鋼鉄の塊を叩いているような気分だ。
言い知れぬ絶望感と劣等感に脳内を満たされてしまう。
それに、憤りと焦りのせいだろうか……
とてつもなく、息苦しかった。
「降参した方が、いいと思う」
「な……にぃ……!?」
「でないと、ヒイラギ兄様は……“衰弱”して死んでしまう」
「――っ!?」
死ぬ? 衰弱して死ぬ?
いったい誰が死ぬというのだ?
いくら剣を振り続けたところで、疲れ果てて衰弱死してしまうことなんてあり得ない。
こちらを退かせるための出まかせに決まっている。
そう、向こうは耐久力は凄まじいけれど、こちらを攻撃する手段がないので“降参させる”しか勝つ方法がないのだ。
だからそんな虚言を吐いたのだろう、という考えとは裏腹に、ヒイラギはますます息を切らしていった。
(なん、でだ……? 胸が苦しい……! 体が重い……! 頭もぼんやりとしてきやがる……!)
まるで高熱を出して苦しめられているかのようだ。
剣を振って疲れただけで、こんな状態には絶対にならない。
自分の体は、いったいどうなってしまったのだろうか。
ふらふらになりながら困惑するヒイラギを見て、ネモフィラは説得をするように明かした。
「これが、私のスキル。『判決』――『不敬罪』」
「ジャッジ……メント?」
「私に“攻撃をしてきた人”に、呪いを掛けることができるスキル。兄様はこのスキルの効果で、今は衰弱の呪いに冒されている」
「……」
呪い。
この体を蝕んでいるのは、“衰弱の呪い”が原因だったのか。
確かにそれならばこの思いがけない不調も、すべて説明がつく。
衰弱効果の呪いは、対象者の肉体を徐々に蝕んでいき、やがて命を奪っていく。
ヒイラギの体は今、その呪いの効果によって緩やかに死に近づいているというわけだ。
(いつの間に、そんなスキルを覚えやがったんだ……!)
向こうから攻撃されることはないと思っていた。
だからいくらこちらの攻撃が効かなくても、敗北だけはないと高を括っていたのに。
まさかこんな厄介なスキルを覚醒させていたなんて。
奴の恐ろしいところは、驚異的な頑強値だけではなかった。
むしろ本命はこっち。
こちらから攻撃をしたその時点で、発動条件を満たしてしまう呪いのスキル。
そして奴は人外的な耐久力で身を守りながら、相手が衰弱していくのを高みから見下ろすだけ。
姫騎士には、触れることすら許されないのだ。
(こんなの、どうやって勝てばいいんだ……!)
偽りのない本音が、心の中でこぼれた。
周りの人間たちも、改めてネモフィラの異質さに気が付いたようで、見るからに戸惑っていた。
目の前にいるのは、もうこちらが知っているネモフィラではない。
どうしてあのネモフィラが……
レベル1のままだったはずの雑魚が……
病弱で臆病だった泣き虫の愚図が……
この一ヶ月で、いったい何があったというのだ……!
「降参……して。そうしたら呪いは解くから」
「ふざ、けんな……! 俺は、こんなところで……!」
覚束ない足を踏み締めながら、なんとか前に進んでいく。
鉛を括りつけられたかのように重く感じる腕を上げて、弱々しくも剣を振った。
当然、ネモフィラの体には傷一つ付かない。
やがて衰弱したあまりか、剣になっていた八狼が元の姿に戻った。
直後、光の玉になってヒイラギの箱庭の中に強制帰還させられる。
武器を失くしたヒイラギは、それでも拳を握ってネモフィラに殴りかかった。
そんなもの、圧倒的な頑強値を持つ姫騎士に、効くはずがないとわかっていながら。
「ぐっ……あっ……!」
程なくして、ヒイラギは地面に倒れた。
呼吸もままならなくなり、地面で悶えながら浅い呼吸を繰り返す。
なんとか視線を持ち上げてネモフィラを睨みつけようとすると、彼女の後方に継承戦の見物人たちが見えた。
「――っ!?」
その観客たちの中に、“一人の青年”の姿を見つける。
飾り気のない黒いコートと白いシャツを着た、銀色の髪の青年。
一ヶ月前に見たばかりの、“育て屋”と名乗っていたあの男。
「てめえ、か……!」
薄れ行く意識の中、ヒイラギは育て屋を睨みつけて唇を噛み締める。
自信を持ってネモフィラを強くすると宣言していた、あの男の言葉を思い出しながら、ヒイラギは胸中で叫び声を響かせた。
(てめえがこいつに、何かしやがったのかァ……!)
姫君に不敬を働いた箱庭師は、呪いによって意識を失った。