第五十二話 「姫騎士」
「棄権して逃げ出さなかったのは褒めてやるが、本当にてめえ強くなったのか? 城で俺とすれ違う度にビクビク震えてた、あの時の臆病者と何も変わってねえように見えるけどな」
ネモフィラは、そんな挑発にも反応を示さない。
人形のように佇んでいるだけだった。
前はからかう度に怯えた様子を見せていたけれど、あれから一ヶ月を経て心境に変化があったらしい。
こちらとしては、完全にからかい甲斐がなくなってしまってつまらないが。
(……んっ?)
ヒイラギは目の前に立つネモフィラを見て、改めて違和感を覚える。
これから王位継承権をかけた決闘を、自分と執り行うはず。
だというのに、彼女は持っているべきはずの“物”を、何一つ持っていなかった。
「てめえ、丸腰で俺とやるつもりか?」
「……」
「剣も槍も持たねえで、どうやって俺と戦うっていうんだよ? それと、あのお守りみてえに大事にしてたでけぇ盾も、どこかに忘れでもしてきたのか?」
継承戦のルールとして、武器道具の持ち込みはあり。
そしてネモフィラの天職は魔法を使って攻撃するタイプではない。
そうなると必然的に武器や道具に頼ることになるはずだが、ネモフィラは身軽そうなドレスを着ているだけだった。
これでどうやってこちらと戦うというのだろう?
防具すら付けていないのはさすがに違和感が満載だ。盾の一つでも持っているならまだ納得できるけれど。
単純な疑問としてそう問いかけると、ネモフィラはようやく口を開いた。
「剣は、いらない。それとあの盾は、キクにもらった大切な物だから、今は部屋に飾ってる」
「……バカにしてんのかてめえ」
どうやら本気で、丸腰で自分と戦うつもりらしい。
いったい何を考えているのか定かではないが、そちらがその気なら別に構わない。
準備不足で後悔することになるのは向こうの方なのだから。
「ま、なんでもいいけどよ。いざ戦いが始まって怯えちまうような寒い展開だけは勘弁しろよな。それと、もしつまらねえ模擬戦にしやがったら……」
ヒイラギは懐から小さな箱を取り出し、それを構えながら言い放った。
「言った通り、てめえとあの育て屋とかいうボロ屋も、容赦なく叩き潰してやるからな」
これは上流階級の連中に力を示すための貴重な空間。
丸腰でもなんでもいいが、貴重な機会を台無しにされるのだけは容認できなかった。
脅しを掛けるようにそう言うと、そこでようやくネモフィラも動き出す。
何も持っていないため、彼女は空っぽの右手を広げてそれを正面に構えた。
両者の準備が整ったことを確認したカプシーヌが、中庭に響き渡る声で叫ぶ。
「それでは……始めっ!」
王位継承戦一回戦、第一試合。
ヒイラギ対ネモフィラの戦いが、今始まった。
瞬間、ヒイラギが始動する。
「【顕現】――【砂鎧】!」
箱の中から砂でできた甲冑騎士が飛び出してくる。
使役している魔獣の一体を取り出すと、周囲から感嘆の声が上がった。
「あれが箱庭師の使役魔獣!」
「ハハッ! これを見られただけでも来た甲斐があった!」
そう観客が喜んでいるのを耳にしながら、ヒイラギは笑い声を響かせる。
「てめえなんかこいつ一体で充分だ!」
主人のその声に感応して、砂鎧がネモフィラに襲いかかった。
砂の鎧に包まれた体で、全力で体当たりをする。
砂鎧の重量は、馬車一台分と変わりはない。
そんな魔獣に凄まじい勢いで接触されたら、大怪我は必至だ。
ただでさえネモフィラは、盾も防具も持っておらず、レベルだってろくに育っていないはずだから。
(病弱で臆病者なくせに、何の準備もせずにやって来たことを後悔しやがれ……!)
この一撃で勝負が決まる。
そう、思ったのだが……
「【障壁】」
ネモフィラは、右手を構えたまま静かに唱えた。
瞬間、彼女の周りに“半透明の膜”のようなものが展開される。
それは球体のように形を変えて、ネモフィラの周囲を完全に覆った。
刹那、砂鎧の肉体がその半透明の障壁と激しくぶつかる。
凄まじい衝撃が地面を伝って、こちらの足元にまで流れてくるけれど……
ネモフィラは、その場から一歩も動くことなく、障壁によって砂鎧を止めていた。
「……」
予想外の光景にヒイラギは絶句する。
あれは、姫騎士の天職が使える『障壁魔法』だ。
対象者に魔力の障壁を纏わせて、あらゆる害意から身を守る防壁の魔法。
確かにあれなら盾や防具を使わずとも、魔獣の攻撃を防ぐことができるかもしれないが……
(ど、どうなってやがる……? 俺の記憶違いじゃなけりゃ、あの障壁の“耐久性”は使用者の“頑強値”によって決まるはずじゃ……)
病弱なあまり、幼い頃から親族に期待されず、ろくに魔獣討伐をしてこなかった臆病者のネモフィラ。
天職のレベルはずっと“1”のままで、障壁魔法もまったく使い物にならない代物だった。
それなのにどうして砂鎧の突進を、まるで微動だにせずに受け止めることができたのだ?
(何か種があるな……)
常人なら今の一撃で中庭の場外まで吹き飛び、重傷を負っていなければおかしい。
その一撃をあのネモフィラごときに止められるはずがない。
そう訝しんだヒイラギは、細めた目でネモフィラを睨みつけた。
「箱庭師の魔獣の攻撃を、凌いだのか……?」
「話に聞いていた王女と、だいぶ違うようだが……」
こちらの攻撃を防いだことで、観客たちもネモフィラに違和感を覚えたようだった。
同時に、彼らの視線が徐々に彼女に集まっていく。
まずいと思ったヒイラギは、すぐにその空気を断ち切るために言った。
「ハッ! この一ヶ月で少しは戦えるようになったみてえだな。だが、たった一度攻撃を凌いだくらいで図に乗るんじゃねえ」
直後、彼は再び箱を構える。
砂鎧はあくまで小手調べの魔獣。
本番はここからだ。
「【顕現】――【目熊】――【雷鴉】!」
今度は一つ目玉の大熊と、雷を宿すカラスが箱から飛び出した。
箱庭師が一度に顕現させられる魔獣は、合計で三体。
ヒイラギは砂鎧に加えて、さらに強力な魔獣を戦場に追加した。
瞬間、周囲から驚きの声が上がる。
「あれは、討伐難易度が一級の魔獣たちだぞ!」
「あんな魔獣たちまで使役していたのか!?」
彼らの言う通りで、今出した魔獣たちは討伐推奨階級が一級の怪物たちだ。
当然捕らえるのに相当苦労した魔獣であり、ここぞという時にしか呼び出さないようにしている。
いったいどんな手品を使って砂鎧の初撃を防いだのか、それを暴き出してやる。
「行け! ネモフィラを攻撃しろ!」
少々過剰のようにも思えたが。
周囲の関心がネモフィラに移りつつもあったので、こうするのが一番だと思った。
事実、二階から継承戦を見守っている多くの貴族たちは、ヒイラギの呼び出した魔獣に興味津々だった。
三体の魔獣が、一斉にネモフィラに飛びかかっていき、観客たちは大いに盛り上がる。
だが……
「……」
ネモフィラに、その魔獣たちの攻撃が届くことはなかった。
ヒイラギが呼び出した自慢の魔獣たちの攻撃は、すべて障壁によって防がれていた。
一つ目玉の大熊が、丸太のような腕を振って殴っても、魔力の障壁にはヒビ一つ入らない。
雷鴉が空から雷を降り注いでも、すべて障壁魔法によって阻まれる。
才能が乏しいという噂が流れていた第三王女が、討伐推奨一級の魔獣たちの猛攻を、涼しい顔で棒立ちしながらすべて無効化している。
その凄まじい光景に、周囲の観客たちは呆然としていた。
同様にヒイラギも唖然とする。
(あ、あれが本当に、あのネモフィラなのか? 目熊と雷鴉の攻撃がまるで効いてねえ……)
砂鎧の攻撃だけならまだしも、この二体は一級冒険者が相手にするほどの魔獣だ。
いよいよ何らかの種があると、ヒイラギはこの瞬間に確信した。
そして彼は一度心を落ち着かせて、冷静に分析する。
奴の天職は姫騎士。レベルはずっと1のままだった。
本格的に修行を始めたのはつい二ヶ月ほど前から。
そんな絶望的に短い期間で、大幅に成長できるはずがない。
ゆえに障壁魔法もまったく使い物にならないはずだが、奴が纏っている障壁は凄まじい耐久性を誇っている。
(……丸腰かと思ったが、なるほどそういうことか)
ヒイラギは一つの結論に辿り着く。
たとえレベルを上げて頑強値を高めなくても、障壁魔法の効果を底上げする方法はある。
おそらく何らかの“魔法道具”を懐にでも隠しているのだろう。
職人関係の天職持ちが手掛けた至極の一品ならば、特殊な“魔法効果”によって障壁魔法の効果を底上げすることもできるに違いない。
……いや、そうでなければもはやおかしいのだ!
「ハハッ! 道具に救われたなネモフィラ! 一ヶ月で考えたにしてはなかなか面白い作戦じゃねえか!」
魔法道具に助けられていると決めつけたヒイラギは、執拗にネモフィラを非難する。
そして不敵な笑みを浮かべて、鋭い睨みを利かせた。
「だが、そんな抵抗もここまでだ!」
すべてを見抜いたヒイラギは、「【回帰】」と言って三体の魔獣を箱庭に戻した。
その後、再び力強く箱を構える。
確かにあの障壁魔法は厄介だが、打ち破る術はこちらにもある。
それにいくら強固な障壁を張ったとしても、向こうから攻められることがないのなら負けることはまずあり得ない。
これは、自分の全力を示せる、またとない機会とでも捉えることにしよう。
「こいつは俺の特別製だ」
クロッカスの目がある以上、なるべく手の内は晒したくなかったけれど。
自分こそが、この箱庭の王に相応しいと周囲にわからせるために、ヒイラギは全力を出すことに決めた。
「【顕現】――【八狼】!」
ヒイラギのその声に反応して、箱の中から新たな魔獣が顕現した。
それは、八つの頭を持つ、世にも恐ろしい姿をした黒い狼だった。
「な、なんだあの魔獣は!?」
こちらの狙い通り、周囲が一斉にどよめく。
それも当然で、これはまだ公には出していない魔獣の一体だからだ。
いや、それだけではなく、この中で同種の魔獣を見たことがある者は、絶対にいるはずがない。
誰も見たことがない未知の種の魔獣。
なぜそんな魔獣をヒイラギが所有していたのかと言うと、それを可能にしたのは彼が持つ特殊な“スキル”のおかげだ。
(『八蛇』と『獄狼』の配合種。これを公に晒せる機会はそうそうねえ)
使役している魔獣が死亡した場合、その魂の一部は『魂片』として箱庭に収納される。
そして二つの魂片を掛け合わせることで、二体の魔獣の特徴を継いだ唯一無二の魔獣を生み出すことができるのだ。
それが箱庭師だけに許されている非人道的な特異能力――『配合』。
この配合によって生み出した魔獣は、強力すぎるゆえか別の魔獣との並列顕現ができない。
だからヒイラギは一度呼び出した三体の魔獣を引っ込めて、改めて『八狼』を呼び出したのだ。
そこからさらに……
「【魔装】!」
ヒイラギがそう叫ぶと、八つの頭を持つ黒狼は遠吠えをして光を放った。
瞬間、光の塊となった黒狼はヒイラギの手元に向かい、そこで徐々に形を変えていく。
やがてヒイラギの手元に、“真っ黒な長剣”が現れた。
使役魔法の最終奥義――『魔装』。
使役している魔獣を己の“武器”として変換することができる。
それによって装備者のヒイラギの肉体には、その魔獣のスキルや身体能力が宿るようになっている。
八狼の剣を構える彼の全身からは、凄まじい気迫が迸り、周囲の観客たちが小さな悲鳴すら上げていた。
「一撃で、終わらせてやるよ……!」
八狼の能力をその身に宿したヒイラギが、不気味な笑みをたたえる。
ネモフィラが展開している障壁を破壊するべく、八狼の黒剣を振り上げて斬りかかった。
鬱陶しい障壁ごと、ネモフィラの肉体を斬り裂いてやる!
「泣き叫べ、ネモフィラッ!」
瞬く間にネモフィラに肉薄すると、振り上げた黒剣を勢いのままに振り下ろした。
――入る!
そう確信した、その瞬間……
目を疑う光景が、ヒイラギの視界に飛び込んでくる。
目の前に佇むネモフィラが、誠に信じがたいことに…………展開していた障壁を解除した。
「――っ!?」
代わりに彼女は、自身の“左腕”を盾のようにして構える。
刹那――
ガンッ!
「…………はっ?」
およそ、人間を斬りつけたとは思えない感触が、ヒイラギの両手に伝ってきた。
彼が全力で振ったはずの、現状において最強の一撃。
それはあろうことか、ネモフィラの生身の“左腕”によって、完全に止められていた。
「な……なんだよ……それ…………?」
固い。ただひたすらに……固い。
まるでビクともしなかった。
時間が止まってしまったかのように、剣は先に進んでくれない。
これが、障壁魔法で防がれたのだったら、少なくともまだ理解できる。
しかし、こちらの全霊の一撃をせき止めたのは、何の変哲もない女性の細腕だった。
なぜネモフィラは、寸前になって障壁魔法を解いたのだろうか。
「……」
その理由をすぐに察して、ヒイラギは顔を真っ青に染める。
ネモフィラは、圧倒的な実力差をわからせるために、あえて障壁を解除したのだ。
こちらの最強の一撃を防ぐのに、障壁魔法すら必要ないとわからせるために。
魔法道具の力なんか借りておらず、これまでのはすべて自分の力――驚異的なまでの“頑強値”によるものだとわからせるために。
事実、ヒイラギは両手に伝わってくる感触に、心の底から絶望した。
樹齢数千年を超える大木を叩いたと錯覚するくらい、こいつはあまりにも……固すぎる。
「もう、よろしいのではないですか。ヒイラギ兄様」
「……」
あの病弱で、臆病で、自分を見る度に肩を震わせていたネモフィラが……
自分が王になるまでの、ただの踏み台としか考えていなかった愚妹が……
憐れむような目で、こちらを見下ろしていた。