第百七十四話 「頼りがいのある存在」
ローズはいつも通りだった。
周りの景色が明るくなったと錯覚するくらい爽やかな笑顔。
まるで遊び盛りな子犬みたいに弾むような足取り。
あまりにも見慣れたその光景を前に、手放そうとしていた“日常”が最後に姿をあらわしてくれたように僕は感じる。
感極まる気持ちを表には出さず、こちらに駆け寄ってきたローズに僕は笑みを浮かべた。
「……おはようローズ。朝早いのに元気だね」
「はい! いつも通りのことなのでもう慣れちゃいました。それに早く依頼を受けに行きたいので、寝ている時間も惜しいんです」
寝ている時間も惜しい、か。
それくらい皆の助けになれているのが嬉しくて、冒険者活動に熱中しているようだ。
そう言える強さがあることが、今はどうしようもなく羨ましい。
「やる気があるのはいいことだけど、しっかり睡眠も取らなきゃダメだよ。君がどれだけ強くなっても、人間の体であることに変わりはないんだから」
「そ、そうですよね。今日からはちゃんと寝るように心がけます」
軽く注意を促すと、ローズは反省したように赤髪をしゅんと垂れさせる。
次いですぐにハッと我に返ると、腕をバタバタと振って言い返してきた。
「で、でもでも、ロゼさんだってこんなに朝早くに起きているじゃないですか……! ロゼさんの体も人間の体なんですから、きちんと寝ないといけないと思います!」
「僕はいいんだよ。いつも一般の人以上にだらしなく寝てるし……今日はちょっと早く目が覚めちゃっただけだから」
「あっ、そうなんですか」
それで朝の空気でも吸おうかと思って外に出ていたのだと説明する。
するとローズはけろっと笑顔を咲かせ直して、「たまには早起きもいいですよね」とこくこく頷いてくれた。
いつも通りのやり取り。他愛のない会話。変わらない日常の一幕。
この時間が終わってほしくなくて、ずっと続いてほしくて、つい僕は話を引き伸ばすようにローズに問いかけた。
「ところでローズはどうしてこの道を歩いてたの? 町の外に行くんだったら門は逆側じゃない?」
「あっ、えっと、それはそうなんですけど……」
なぜかローズは目を伏せて言い淀んでしまう。
何か都合の悪いことでも聞いてしまっただろうかと思っていると、彼女はおもむろに顔を上げてたどたどしく答えた。
「し、知り合いの方とよくお会いできる道なので、最近はよくここを通っているんですよ。誰かしらと会えたらいいなぁ、なんて思って……」
「へぇ、そうなんだ。でもこの先って、育て屋と民家しかないような……」
「えっ⁉ あ、あぁ、そうでしたっけ……? 結構色んな人とお会いできる場所だと思ったんですけどぉ……」
ローズは気まずそうに額に冷や汗を滲ませる。
不思議に思って彼女の顔を見つめると、それに気付いたローズは心なしか頬を染め、次いで何かを誤魔化すように「えへへ」とぎこちない笑みを浮かべた。
まあ確かに、ローズはこの町で今や有名人。
親しくしている人たちはたくさんいるだろうから、こっちの住宅区の方でも多くの知り合いとすれ違えるだろう。
おかげで僕も大切なこの日にローズの顔を見ることができて、少し元気を分けてもらうことができた。
改めて覚悟が決まって、密かに拳を握りしめていると……
ローズの無垢な問いかけが僕の耳を打つ。
「ロゼさんは、今日も育て屋のお仕事ですか?」
「……」
前を見ると、ローズの無邪気な笑顔が目に映る。
見習い戦士から覚醒を遂げて、見違えるほどに強くなった戦乙女ローズ。
コスモスの兄に追われている時に助けてくれて……
ネモフィラさんの従者のキクさんを一緒に救い出してくれて……
フランの競売会用の武器製作のために飛竜を討伐してくれて……
勇者パーティーの代わりに森王軍と霊王軍とまで戦ってくれた。
そんなローズ・ベルミヨンが、いま僕の目の前に立って、優しげに微笑んでいる。
――打ち明けてしまいたかった。
この人ならなんとかしてくれるんじゃないかと思った。
いつもみたいに力強く頷いてくれて、予想以上に派手な活躍を見せてくれて……
絶望的だって思える今の状況も、その身と剣一本で全部を解決してくれて……
僕の日常を取り戻してくれるんじゃないかと。
でも……
『アロゼ君、君のお父さんとお母さんは……!』
『竜王軍との戦いで、竜王ドランに命を奪われたんだ……!』
今回に関しては、まるで話が違う。
ローズの力を疑っているわけじゃない。むしろ誰よりも彼女の強さを知っている。
けどそれ以上に、竜王軍の脅威も知っている。
竜王軍に大切なものを奪われる怖さを、僕は知ってしまっているんだ。
何より、いま竜王軍に命が狙われているのは僕ひとり。
そんな僕ひとりのために彼女が傷付いて、手足の一本、目玉のひとつ、あるいは命そのものを失うようなことでもあったら……
きっと僕は、自分自身を許せない。
自分ひとりのためにローズや他の仲間たちを危険に晒すことなんてできるはずがなく、僕は吐き出しかけた言葉を飲み込む。
そしてローズの問いかけに対して、いつも通りの笑みを浮かべて答えた。
「……そっ、今日も育て屋の仕事があるよ。最近は双子姉妹の駆け出し冒険者の手伝いをしてるんだ。このふたりがまた結構やんちゃでさ」
「二人同時に成長の手助けをしているんですか! さすがロゼさんですね!」
動揺は悟られていないようで、ローズは変わらない笑顔のまま頷きながら話を聞いてくれている。
なんとか平静を装うことができて安堵しながら、僕は今の仕事の調子をローズに話した。
それからローズの近況の方も軽く聞いて、立ち話に小花を咲かせると、彼女はそろそろ依頼に向かうからと話を終わらせる。
そしてローズは通りを歩き出し、少し進んだところでこちらを振り返って、名残惜しそうに手を振ってきた。
「それではロゼさん、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃいローズ」
彼女は真っ赤な長髪を靡かせながら、先ほどよりもさらに弾んだ足取りで育て屋の前を後にする。
次第にローズの背中が遠ざかっていき、やがて通りの角を曲がるところで、またこちらを振り返って最後に小さく手を振ってくれた。
声が出そうになるのをなんとか堪えた僕は、最後に見たローズの笑顔を脳裏に焼きつけて、ひとり呟く。
「……ここにいちゃダメだ」
あの笑顔を、彼女を取り巻く平穏を、壊させるわけにはいかない。
もうこれ以上、奴らに大切なものを奪われてたまるか。
そして脅かされた育て屋の日常を、僕は自分自身の手で取り返してみせる。
日が僅かに昇って明るさが増した通りを、僕は確かな足取りで歩き始める。
やがて人気の少ない早朝の門前に辿り着くと、そこで待っていたラン・ラヴィに冷たい視線を向けられた。
「怖気づいて来ないかと思いました」
「馬鹿言うなよ。ここに残る方が何倍も怖いことだ」
怖気づいているからこそ、僕はこの町から離れようとしている。
だからこうしてランの前にやって来たのは、僕がいつも通りの臆病者で心が落ち着いている証拠だ。
「ではさっそく参りましょうか。わたくしとしては、打ち首になった罪人を処刑台に連れて行く、執行人にでもなったような気持ちですが」
「あんたからしたらそうだろうな。でも僕は、殺されるつもりも育て屋の日常を諦めるつもりもない」
冷めた目を向け続けてくるランに、僕は強い意志を込めた視線を返した。
「こう見えても、普通の人よりかは死線を潜り抜けてきたつもりだからな」
そして僕らは歩き出す。
竜王軍の待つ侵域に向けて。
かつて赴いたどの戦場よりも過酷で凶悪な戦地を目指して。
こうして僕は、育て屋としての穏やかな日々を取り戻すために、はじまりの町に一時の別れを告げたのだった。




