第百六十九話 「日常に走る亀裂」
「――っ⁉」
目の前からメイスが振り下ろされてくる。
相手は華奢で細腕の女性。
とはいえ、夜に家の中で襲われるという状況が恐怖心を増大させ、思わず顔が引き攣ってしまう。
僕は咄嗟に右に飛び、壁に寄ってメイスを回避した。
直後、今しがた立っていた床に、重い銀の棍棒が叩き下ろされる。
ドゴッ‼
「……」
木造りの床が割れ、木くずが激しく飛び散る中、ランさんの冷たい瞳が僕を追いかけてきた。
脅しや見せかけなんかではない。
確実に僕に当てるつもりで振ってきた。
ここにきてようやく僕は、目の前の人物を敵として認識する。
何かの悪ふざけであってほしいと願う気持ちは、いったん心の隅に寄せておき、敵の無力化に全神経を注ぎ込むことにした。
というかこれ以上、大切な育て屋を壊されるわけにはいかない!
「――っ!」
ランさんは再びメイスを握りしめ、横に薙ぐように振るってくる。
僕は恐怖心や躊躇いを振り払ったことで、頭と視界が鮮明になり、メイスのその動きを正確に捉えることができた。
メイスを掻い潜るように素早く屈み、銀の軌跡が頭上を通り過ぎて髪を掠めていく。
直後、閃くような速さで左手を伸ばし、振り切られた後のメイスを『ガッ!』と掴んだ。
「……っ⁉」
ランさんの碧眼が大きく見開かれる。
そのまま僕は力強くメイスを引っ張り、ランさんの体を牽引する。
次いで流れるように脚を出してランさんの脚に引っかけると、彼女の体は引っ張られた勢いのままに床に倒れた。
「うっ――!」
微かな呻き声が聞こえると同時に、ランさんの手からメイスがこぼれる。
ゴロゴロッと木造りの床を転がっていくのを横目に見ながら、すかさず僕はうつ伏せで倒れるランさんの上に乗った。
そして後ろ手に両手首を拘束し、体重をかけて彼女の背中を押し込み、徹底して起き上がれないようにする。
「これで勝負ありだ。下手に抵抗すれば手首を折る。大人しく僕の言うことを聞くんだ」
「……」
ランさんは何も言わずに、床に伏したままだった。
抵抗が無意味だとわかったのか変に暴れることもなく、体にはあまり力が入っていない。
無事に無力化できたようで人知れず安堵する。
単身で襲撃してきたので少しヒヤッとしたが、特に出し抜かれるようなこともなかったな。
何かしら特殊な武術の心得でもあるのかと思ったけど。
ただ、彼女のあの迷いの無さと狙いどころは、一介の見習い治癒師とは思えないものだった。
明らかに、喧嘩慣れしている人の動きである。
素人臭さはあれど、人を殴ることの躊躇の無さと、どこを殴れば致命傷になるかわかっている、妙な手慣れさを感じた。
不意を突かれていたら、こうして床に伏していたのはあるいは僕の方だったかもしれない。
まあ、彼女の天職は変わらず【大聖女】のままで、さすがに恩恵の差があるから真正面からの戦いでは僕に軍配が上がったようだけど。
すぐに衛兵の詰所まで連行して、地下牢に叩き込んでもいいけど、気になっていることを先に尋ねることにした。
「さっきの質問の答えが中途半端だったから、改めて聞くけど、僕の命を取りに来たってどういうことだ? 手放しで褒められるような人生を歩んできたとは、胸を張って言えないけど、人に恨まれるようなことをした覚えはないぞ」
誰かに命を狙われる心当たりがまったくなく、なぜ僕の命を奪おうとしてきたのか理解ができなかった。
知らないところでこの人に恨まれるようなことをしてしまっていたのか?
あるいは別の誰かから指示を受けて僕を殺しに来たのか?
いずれにしても殺されるいわれがなくて、どうか人違いであってほしいと願いながら目的を聞いてみた。
するとランさんは、うつ伏せの状態で僅かに首をこちらに傾けて返してくる。
「襲撃者が簡単に目的を話すと思いますか?」
「この状況でよく強がりを言えるな。その度胸は認めるけど、君はもう完全に拘束されていて……」
「だからこそ強がれるんですよ。わたくしが今この状態で、甲高い声で叫び声を上げて助けを求めたとしたら、いったいどうなると思いますか?」
「そ、それは……」
さすがにちょっと困るなぁ。
襲撃してきたのはランさんの方だけど、絵面的には男性が女性をうつ伏せに寝かせて無理やり押さえつけているようにしか見えないから。
おまけに僕は地味な顔立ちで、ランさんは白魚のような肌の美人である。
よからぬことがこれから行われようとしていたんだろうな、と見た人のほとんどはそう思うことだろう。
ただ……
「自惚れてるわけじゃないけど、僕はこの町での活動がそこそこ長くなってきた。顔だってそれなりに知られている。そんな僕とポッと出の君の言い分じゃ、僕の方がちょっと分があるんじゃないかな」
「なるほど、冷静な判断ですね」
ランさんから抵抗する意思が薄れていくのを感じる。
どうやら声を上げて状況を変えることを諦めてくれたようだ。
まさに冷静な判断ができてよかったと思う。
危うく社会的な死を恐れて、拘束を解いてしまいそうになったから。
「目的を話したくないんだったら無理には聞かないけど、最後に申し開きのひとつくらいはしてみたらどうだ? 理由いかんによっては、被害の申告を殺人未遂から暴行に変えて、刑罰が軽くなるよう計らってあげてもいいけど」
「……」
まあ、地下牢に叩き込む意思を変えるつもりはないけどね。
刑を軽くできるかもしれない可能性をチラつかせて、なんとか口を割らせようとする。
するとランさんはしばし考え込むように唇を結び、いっとき部屋の中が静寂で満たされた。
やがて彼女は小さなため息をこぼして、再び首を巡らせてこちらを見上げてくる。
「……そうですね。こうなった以上はこちらの目的をお話しして、“交渉”という形を取った方が、わたくしの目的を果たせるかもしれませんね」
「交渉?」
僕と何を交渉しようっていうんだ?
いったい彼女の真の目的はなんなのか、言い知れぬ緊張感に冷や汗を滲ませていると……
「育て屋ロゼさん。単刀直入に言います」
ランさんが淡々とした声音で、僕の日常に亀裂を入れてきた。
「育て屋を、やめていただけませんか?」
「……はっ?」




