第百三十一話 「森の王」
幼い頃、一度だけ本物の“恐怖”というものを感じたことがある。
生まれながらにして絶大な力を持っていたガルゥは、森の王としてあらゆる魔獣を付き従えてきた。
すべての魔獣は自分の手下になるために生まれてきた。
そして自分は魔王になるために生まれてきた。
自らの力を信じて疑わないガルゥは、自分が魔王になる未来だけしか見えていなかった。
そんなガルゥの前に、最古にして最恐の魔王と謳われている竜王ドランが現れて、ガルゥの常識は一変した。
『森の王、か。期待して来てみれば、ただの“獣風情”ではないか』
ドランと初めて対峙した時、ガルゥはその瞬間に“恐怖”という感情を覚えた。
あまりの存在感と威圧感。見ただけで痛感させられる圧倒的な実力の差。
まさに暴力の権化と言えるような、魔獣の枠組みを超えた規格外の生物。
自分は魔王になるために生まれてきたなど無礼も甚だしい。
傍若無人なガルゥにそこまで思わせるほどの絶対的な力が、竜王ドランには宿されていた。
『自らの小さな箱庭で吠えるくらいなら許してやろう。森の王も好きに名乗るがいい。ただ、つまらぬことをすれば即刻その首を刎ねる。肝に銘じておくことだな』
そんな竜王ドランに、ガルゥは驚くほど圧倒された。
恥ずかしながら萎縮もした。そして屈辱的なことに、憧れすらも抱いてしまった。
自分もドランのように、他者に畏怖と絶望を与えられる存在になりたい。
魔獣の域を超えて、生物の頂点として君臨したい。
恐怖の象徴とも言えるような、圧倒的な存在になりたい。
あの日から、竜王ドランに魅了された森王ガルゥは、体に刻み込まれた恐怖と一つの信念を胸に、森王軍を率いて戦いを続けてきた。
『必ず俺が、恐怖の象徴として名を刻んでやる……!』
懐かしい夢を見ながら、そんなことを思い出していたガルゥは、外部からの声によって強制的に覚醒させられた。
「ガルゥ様! 各所に植えた呪葬樹の苗木が、次々と切り倒されております!」
「んあっ?」
遺跡の祭壇の上で眠っていたガルゥは、部下の慌てた声を聞いて目を覚ます。
体を起こして声のした方を見ると、遺跡広場の出入り口に幹部の猫人種の女性魔獣が立っていた。
何やら慌てた様子をしていたが、それに反してガルゥは呑気に欠伸を漏らしながら、女性魔獣に問いかける。
「わりぃ、寝ぼけてよく聞こえなかった。もっかい言って」
「各所に植えた呪葬樹の苗木が、次々と“切り倒されて”おります!」
「呪葬樹……?」
じわじわと寝ぼけた頭が晴れていき、女性魔獣の言葉が脳に染み込んでいく。
そして遅れて事態の緊急性について理解した。
「えっ? 呪葬樹切り倒されてんの? それホント?」
「はい! すでに複数の地点で呪葬樹の破壊が確認されております。守備を行っていた森王軍、霊王軍の魔獣はそれぞれ討伐されていたとのことです」
「……へぇ、随分と手が早いじゃねえか」
呪葬樹の苗木への呪力注入が完了したのがつい三日前のこと。
そして苗木を各地に設置し終えたのがつい先日で、森王軍と霊王軍はようやく一息を入れることができるようになった。
だというのに、もう人間側が呪葬樹の設置を察知して破壊に取り掛かって来るとは……
各地へ苗木を設置している最中、王国軍の兵士と何度か接触したので、苗木の設置自体は知られているだろうが、いくらなんでも対応が早すぎる気がする。
接触の際、王国軍の兵士をいくらか削りはしたので、あちら側の軍に余力はないはずだ。
「仕掛けて来たのは軍の兵士なのか?」
「いえ。それが、呪葬樹の守備をしていた者の報告によりますと……たった四名の冒険者だったそうです」
「ハハッ! たった四人かよ! しかも冒険者とは、なかなかに勇敢な連中もいたもんだな!」
ガルゥは思わず吹き出すような笑い声を漏らしてしまう。
王国軍の兵ではなく、軍から命令を授かった使者……しかも根なし草の冒険者ときたものだ。
他国からの救援軍という可能性を疑ったけれど、よもや冒険者の中にこちら側の魔獣たちを制圧できるほどの実力者が隠れていたとは。
加えて数はたったの四人。
ガルゥはにやつく笑みを抑え切れない。
実力のほどは王国軍の兵士より格段に上だと判断して、ガルゥは祭壇に預けていた腰を軽快に起こした。
「どちらへ行かれるのでしょうか?」
「決まってんだろ。そいつらに挨拶しに行くんだよ。退屈で仕方がなかったからな」
これ以上、呪葬樹を破壊されるのはこちら側としても面白くはない。
人間領域への侵攻の計画も大幅に狂わされることになる。
……ということがあるのもそうだが、何よりもガルゥは高鳴る鼓動と純粋な闘争心に従って、刺客たちの元に向かうことにした。
退屈によって封じ込められていた力が、ふつふつと内側から湧き上がってくる。
衝動のままに遺跡から飛び出そうとすると、その寸前にガルゥは気が付いた。
「んっ? ところでヴァンプは? あいつどこ行ったの?」
「呪葬樹の苗木があと一つ残っておりましたので、そちらの呪注作業の方に行かれました」
「えっ、あいつが……?」
ガルゥは一瞬、訝しむように眉を寄せる。
呪注作業は基本的に部下の魔獣たちにやらせていたはず。
雑用にも思えるような些細な仕事を、ヴァンプは嫌う傾向にあり、何よりも自分の時間を優先するような性格なのだ。
だというのに自らが率先して呪注作業?
「……ふぅーん、まあ、別にいっか。他の奴より、あいつが呪力注いでくれる方が確実だろうしな」
霊王軍の他の魔獣たちも、つい三日前まで休みなく呪注作業をしていたので、万全の状態で作業に入れるのはヴァンプしかいない。
それを見越しての判断だろうとガルゥは自己完結させる。
そしてその確認を終えると、今度こそガルゥは遺跡を飛び出して行った。
次いで遺跡基地の背後に立つ巨大樹を、獣の手足を使って駆け上り始める。
「よっ! ほっ!」
百メートルを優に超える大木の頂上まで、瞬く間に上り詰めると、一面に広がる真っ青な快晴と森の緑がガルゥのことを出迎えた。
爽やかな風に全身を撫でられながら、ガルゥは大きく息を吸い込んで、舌先をペロッと唇に這わせる。
「ハハッ! どうなってんだよこりゃ」
聞いた話では、呪葬樹の破壊活動をしているのは四人の冒険者だったはず。
しかしどういうわけか、“そこかしこ”から人間の臭いが漂って来ていた。
臭いの痕跡があまりにも多すぎる。とても四人だけの仕業だとは思えない。
少なくとも“十人近く”は、侵域の中に侵入していると考えられる。
ガルゥは再び鼻を動かして、今度はより精密に侵域の臭いを嗅ぎ取った。
「……四人組の気配は“二箇所”か。さあ、どっちが当たりだぁ?」
レイン大森林の“東部”に一つ、“中央部”に一つ。
四人組の気配はこの二箇所から感じる。
おそらくどちらかが呪葬樹の破壊活動をしている、“当たり”の冒険者パーティーだろう。
二つのパーティーで分担して行っている可能性もあるが、部下からの報告では四人の冒険者と聞いた。
ということは片方は、別の目的で侵域に侵入して来た、“外れ”の冒険者パーティー。
「……よしっ、こっちだなッ!」
先にガルゥは、東部の冒険者パーティーに狙いを定めて、ぐっと身を縮めた。
脚全体に絶大な力を込めて、ぐぐっと血管が浮き上がってくる。
直後、巨大樹が危うく折れるほどの勢いで、思い切り木の先端を蹴り飛ばした。
溜めていた爆発的な力が推進力となって、ガルゥを弾丸のように飛翔させる。
「ハハッ!」
ストーム大樹海の上空を高速で横切り、一瞬にしてレイン大森林の領域に入り込む。
その勢いのまま東側の方に流れて行き、臭いの発生元に一直線で突っ込んで行った。
ズンッ!!! と凄まじい音と衝撃、土煙を上げながら、ガルゥは目標地点に着地する。
そこは、森の中に流れている川の近くだった。
ガルゥはその場で辺りを見渡し、近くに四人の人間がいることを視認する。
その四人の人間と視線がぶつかったガルゥは、見た目の雰囲気や気迫を感じ取って、堪らずため息を漏らした。
「チッ、外れか」
その冒険者パーティーのリーダーと思しき人物――焼けた肌の灰色髪の女性が、敵意を示すようにガルゥのことを睨みつけていた。