第百二十二話 「悪」
中央大陸、最東端に広がる巨大な森――ストーム大樹海。
勇者パーティーが敗北したレイン大森林のさらに奥に、その樹海は存在する。
森王軍の侵域の中枢であり、彼らの縄張りとも言える場所。
そこには森魔族の魔獣たちが数多く住み着いており、森王軍の長である森王ガルゥによって統治されている。
そのストーム大樹海の最深部には、過去人間が造ったものとされる巨大遺跡が残されている。
長年自然の中に放置されたことで草木に覆われてはいるが、遺跡としての形はぎりぎり保たれた状態だ。
そこは今では森王軍の基地となっており、幹部たちが暮らす住処にもなっている。
「ふわぁぁ……!」
そんな場所で一人、大きな欠伸を漏らしている魔獣がいた。
白い獣耳と尻尾を生やして、肘と膝の先を獣毛に覆われている半人半獣の魔獣。
ボサッとした白い長髪と鋭い黒目、やや筋肉質な体つきが特徴的となっている。
服装は、上裸に黒いジャケットと黒パンツ、首元に同色のチョーカー。
傍から見たらお調子者の若男のような格好で、とても威厳のある魔獣には見えないが、この者が森王軍を統括している魔王の一人――森王ガルゥである。
「やべぇ、なーんもすることねぇ……」
ガルゥは退屈そうに二度目の欠伸を漏らしながら、遺跡の台座に寝そべって天井の溝を目で追う遊びをしている。
軍の配下たちが出払っている中、彼は何もやることがなく暇を持て余していた。
そんなガルゥの耳に、不意に紙をめくるような音が聞こえてくる。
部屋の隅に視線をやると、そこには遺跡の壁に背を預けながら、静かに本を読んでいる“小さな少年”がいた。
「……おいヴァンプぅ。なんかおもろい話してくれよぉ」
「……」
ガルゥに気怠げな声を掛けられた少年は、反応を示さずに本に目を落とし続ける。
現在この遺跡の大部屋には彼ら二人しかいないため、ガルゥの声がよく響くようになっている。
そのため聞き逃しなどではなく、明らかな無視だった。
それでもガルゥが気分を害さなかったのは、二人が“対等な立場”だからこそである。
「せっかくオレら同盟組んだんだからよぉ。もうちっと仲良くしてくれてもいいんじゃねえか?」
「…………馴れ合うために同盟を組んだわけではない」
そこでようやく少年は、本に目を向けたままだが声を返してくれた。
一見すれば、黒髪赤目の十歳前後の少年にしか見えない人物。
しかし背中にはコウモリのような羽を生やしており、長く尖った耳も持っている。
おまけに肌は病的なまでに青白く、人間離れした魔獣らしい特徴が随所に垣間見えていた。
黒を基調とした貴族風衣服に身を包んでいる、怪しげなこの少年は、霊王軍を統括する霊王ヴァンプだ。
普段は森王軍の基地となっているこの遺跡だが、新たに霊王軍と結託したことで両軍の共有基地のような扱いになっている。
現在はとある作戦の進行中なため、霊王軍を取り仕切るヴァンプも、この遺跡内にて待機している最中だった。
「お互いの配下には干渉しないこと。お互いの侵域は荒らさないこと。オレらはただ呪葬樹の復活と生物圏の獲得のために手を組む。そういう約束だってのは当然覚えてるけどよぉ」
ガルゥは台座の上に腰掛け直して、やや不服そうな声を上げた。
「せっかくこうして対等な魔獣と知り合えたんだぜ? 退屈しのぎの話くらいにゃ乗ってくれてもいいじゃねえかよぉ。それに本当はヴァンプだって暇してんじゃねえのか? そんなつまんねえ人間の書き物なんか読んでるしよぉ」
「……」
ヴァンプは僅かに赤目を上げてガルゥを一瞥したが、すぐに本の方に視線を戻す。
そして再び大部屋には静寂が訪れた。
少し揶揄うようなことを言っても、相手にされることはない。
改めてそれがわかり、ヴァンプはまたも盛大なため息を吐き出した。
「……にしても、なんで急にオレたちに協力する気になったんだよ?」
不意にガルゥは、ヴァンプに対してそんな問いかけをする。
話をしてくれと誘っても乗ってはくれない。しかし問いかけならば答えてくれるかもと思い、密かに気になっていたことを尋ねてみた。
「各地の魔王軍が、人間との陣地取り合戦に手詰まってるのは確かだけどよぉ、なんでわざわざオレらに同盟の話を持ちかけてきたんだよ? 他にも候補はいくらでもあっただろ?」
竜王軍、海王軍、岩王軍。
森王軍の他にも名高い魔王軍は複数ある。
中でも竜王軍は最古の魔王軍にして、最大勢力を誇ると言われている魔獣集団だ。
だというのに、中でも新参者の森王軍に同盟を持ちかけてきたのはなぜなのか。
ガルゥは少し訝しい目をして、霊王ヴァンプを見据えた。
「あれあれもしかしてぇ、なーにか企んじゃってる感じかなぁ? 霊王ヴァンプくん」
「……言ったはずだ。我が欲しているのは死霊族のための生物圏だけだとな。そのためには人間どもから領地を奪う必要がある。そこで呪葬樹の苗木を抱えている貴様らと同盟を組むのが、最善策だと思っただけだ」
「ふぅーん……」
ヴァンプの返答を受けて、ガルゥは不敵な笑みを浮かべた。
だが、それ以上は特に言及することはなく、ガルゥは肩をすくめる。
「ま、人間どもをぶっ倒して領地を奪うってのはうちも賛成だからな。そこだけ意思が統一できてりゃ、何を企んでても問題はねえよ」
そう言ってガルゥは、再び天井を見上げて溝をなぞる遊びに戻ろうとした。
しかし、その寸前――
「ガルゥ様」
「んっ?」
大部屋に猫人種の女性魔獣がやって来た。
森王軍の幹部の一人である彼女は、ガルゥの前まで歩いて行くと、一も二もなく連絡事項だけを伝えてくる。
「霊王軍から報告を受けました。苗木の呪注作業が、五割のところまで進行したとのことです」
「えぇ! まだ五割かよぉー!」
大部屋に不満そうな声を響かせるガルゥとは反対に、猫人種の魔獣は冷静に報告を続ける。
「呪注小隊の話によりますと、全苗木への呪力注入が完了するのが、おそらく二週間後になると」
「なげぇ……。もっと早くできないか聞いて来てくんない?」
猫人種の魔獣はかぶりを振って、ガルゥの無茶振りを一蹴する。
するとガルゥは何度目とも知らぬため息を漏らして、致し方なく諦めた。
呪葬樹の苗木は現在、霊王軍の魔獣たちによって呪いの力を注ぎ込まれている。
それが成長の糧となり、かつて人類に牙を剥いた完璧な呪葬樹が完成するようになるのだ。
森王軍――ひいては森魔族の中に呪いの力を扱える者はおらず、長らく呪葬樹の苗木はガルゥの懐で埃を被ったままだった。
しかし霊王軍の協力があれば呪葬樹の復活が望めて、人間領域への進軍の足掛かりにすることができる。
両軍が手を組んだのは、それが一番の理由だった。
ただ、呪力注入作業には時間が掛かるとのことで、ガルゥは大きく肩を落とした。
「待ってるだけってのは、やっぱ退屈だよなぁ。さっさと終わってくれりゃ、人間どもを根絶やしにできんのによぉ」
そう言って暇を憎むガルゥに対して、猫人が二つ目の報告をする。
「それと、レイン大森林に潜伏していた冒険者を捕らえて参りました」
「えっ?」
その声と共に、熊にも似た別の魔獣が大部屋に入って来る。
その者の手には一本の鎖が握られていて、鎖の先には人間の女性が繋がれていた。
ずるずると地面を引き摺られながら連れて来られた人間を見て、ガルゥは見る間に笑みを取り戻す。
「おいおいなんだよ! それを最初に言ってくれよな! めっちゃいいタイミングじゃん!」
まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいにはしゃぎながら、ガルゥは女性冒険者の前にやって来た。
すでに傷だらけになっている彼女を覗き込むように屈んで、笑みをさらに輝かせる。
「この冒険者、いかがいたしますか?」
「あぁ、あとはオレがやっとくからもういいぞ。捕らえた魔獣にはテキトーに褒美やっといてくれ」
「かしこまりました」
猫人の魔獣はそう言って、熊の魔獣と共に部屋を去っていった。
部屋に残されたのはガルゥとヴァンプ、そして怒りの様子を見せる女性冒険者だけである。
「さーてと、ヴァンプがオレに構ってくれねえから、代わりにお前に退屈しのぎに付き合ってもらうぜ。恨むならヴァンプを恨めよなぁ」
ガルゥは地面に倒れる女性冒険者の顎を掴み、ぐっと顔を持ち上げた。
鎖で縛られ、敵陣の中枢まで連れて来られてなお、いまだに彼女は闘志を燃やすかのように鋭い睨みを利かせている。
「にしても、よく一人で森王軍の侵域に入って来ようと思ったな。その度胸だけは認めてやんよ」
素直な称賛を送ると、女性冒険者はようやく口を開いて恨み言を吐いた。
「お前たちは、絶対に許さない……! 私の仲間たちを、目の前で殺した森王軍だけは、必ず私が……!」
冒険者仲間の敵討ちのために森王軍の侵域を訪れた彼女は、軍の長を目前にして怒りを抑え切れていなかった。
魔獣たちとの戦いですでに消耗しているはずの体を、懸命に動かしながら、なんとか鎖を解こうとしている。
しかし一向に拘束が解ける様子はなく、それを笑いながら見ていたガルゥが、いよいよ女性冒険者に手を伸ばした。
「な、何を、するつもりだ……」
ガルゥの不気味な笑みを見て、女性冒険者は顔をしかめる。
不意に不穏な空気を感じ取った彼女は、さらに急いで鎖を解こうともがいた。
だが、無情にもその努力が報われることはなく、代わりに魔王軍の洗礼が彼女に襲いかかる。
ブチッ! そんなささやかな音と共に…………爪を剥がされた。
「――ッ!?」
電流のように迸る強烈な痛み。
「ぐ、あああああぁぁぁぁぁ!!!」
「ハハハッ! すげぇ顔してんな!」
右手の小指から鮮血が滴り、激痛が脳を直撃する。
あまりに突然の痛みに、女性冒険者は思わず涙を浮かべていた。
「うっ……ぐっ……!」
「おいおい、まだ序の口じゃねえか! お前冒険者なんだろ? こんなんで根ぇ上げてんじゃねえ……ぞっ!」
ブチッ! 再び一枚が剥がされる。
「う、ぐあああぁぁぁぁぁ!!!」
彼女は文字通り、ガルゥのおもちゃにされていた。
右手の爪を順に剥がされていき、爪が無くなれば次は指を折り始める。
そうして右手が終われば、続いて左手にも同じことを繰り返し、ガルゥは人間の苦しむ姿を見て愉悦を感じていた。
しばし冒険者の叫び声とガルゥの笑い声だけが、大部屋に鳴り響き続ける。
そんな耳障りな騒音の中で、ずっと静かに本を読んでいたヴァンプは、いよいよ呆れて本を閉じた。
「…………貴様といると、ろくに読書が進まんな」
「退屈しないって言ってくれよなぁ。それに人間の書いたそんなもん読むより、こうして遊んだ方がぜってぇ楽しいって。ヴァンプも一緒にどうだ?」
ヴァンプはガルゥの方を見向きもせずに、彼に背を向けて部屋を出て行った。
それを見送ったガルゥは、女性冒険者から引き剥がした爪を放り捨てながら、乾いた笑い声を漏らす。
「……ちぇ、つれねえなぁ」
その後も、ガルゥによる暴行の数々は続き、遺跡内部には肉体的苦痛を味わう女性冒険者の痛ましい悲鳴が、残酷にも木霊し続けた。