第百四話 「水やりの失敗」
「本当に、もういいのか?」
「あぁ、二週間だけの約束だったからね」
約束の期間が過ぎて、最後の特訓の日。
夜遅くまで東区の公園で武術訓練をすると、その日の修行を終えて僕たちは解散することにした。
初めてスイセンと出会った、育て屋の玄関前にて、僕たちは改まった様子で向き合う。
「僕は別に、もっと特訓に付き合ってもいいって思ってるけど……」
「それは俺の方が申し訳が立たなくなるから遠慮させてもらうよ。これ以上、育て屋ロゼの貴重な時間を、“こんな俺”が奪ってしまうのは忍びないんだ」
「……」
スイセンは申し訳なさそうに瞼を伏せる。
この二週間で、地力は確実に身に付いた。
筋力はもちろん、武術や経験も以前とは比べ物にならないほどその身に宿っている。
しかし、スイセンの自信は依然として芽生えることはなかった。
同じく、天職の産声も、聞こえてくる気配はまったくない。
そのことをスイセンは申し訳なく思っているみたいで、二週間きっかりで僕の手伝いを受けるのをやめることにしたみたいだ。
「元から、可能性の低い賭けだったことに違いはないんだ。天職を持たない俺が、改めて天職を目覚めさせるなんて現実味のない話だったし、これ以上君を付き合わせて危険な目に遭わせるわけにもいかない」
この二週間、シオンの愛好家たちからの接触は特になかった。
しかしまたいつ襲われるような状況になるかわからない。
このままスイセンの修行の手助けを続けていれば、ほぼ確実にその機会がやってくるのは想像に難くない。
そんなのは百も承知でスイセンの手助けをしているのだが、彼にとっては心苦しいことだったようだ。
「それに、君に見てもらったこの二週間、天職が覚醒することはなかったが、何よりとても楽しかったんだ」
「楽しかった……?」
「今まで友人と呼べるような人物もいたことがなかったから、誰かとこうして目的に向かってひた走るのは初めての経験だったんだよ。こんな貴重な体験までさせてもらえて、俺は本当に満足している」
「……」
そう言われてしまっては、こちらからは何も返す言葉が見つからなかった。
僕の方が納得していないとしても、依頼人のスイセンが満足したと言う以上はそれに従うしかない。
自分の力不足を申し訳なく思って黙り込んでいると、その気配を察してスイセンが調子づいた声を上げた。
「なーに! 別にこれでアリウム氏への想いが完全に途絶えたわけではないよ! 俺はこれからも鍛錬を積み重ねていって、いつか自分の力だけでアリウム氏を超えてみせる。どんな敵からも守ってあげられるくらい強くなって、その時こそ、この純情な想いを告げてアリウム氏と結ばれることになるんだ」
なんだか久しく聞いた気がする、スイセンの自信に溢れた台詞。
僕は思わず笑みをこぼして頷いた。
「……やっぱスイセンはそうじゃなきゃね。いつも自信満々な感じで、胸張って堂々としてる方が似合ってるよ」
「似合っている? “かっこよくて美しい”、と言い間違えていないかい?」
僕とスイセンは目を合わせて、吹き出すように一緒に笑い声を漏らした。
ひとしきり二人して笑うと、やがてスイセンは懐から財布を取り出しながら問いかけてくる。
「ところで、そっちこそいいのかい? 本当に報酬を受け取らなくても」
「僕の育て屋の料金設定は、『レベルを一つ上げる度に300フローラ』だからね。報酬金を受け取れる道理はないよ」
「でも、君にはレベルを上げること以上に、尽くしてもらったように感じている。だから気持ちとして報酬を受け取ってほしいのだが……」
「いいって別に。ただでさえ駆け出し冒険者は実入りが少ないし、それは自分のために使ってくれ。まあ、今度何かご飯でも奢ってくれたらそれでチャラってことにしよう」
言うと、スイセンは躊躇いつつも財布を収めてくれた。
次いで彼は改まった様子で頭を下げてくる。
「本当にありがとう、ロゼ。俺の特訓にここまで付き合ってくれて。ロゼに相談して、本当によかったって思っている」
「こっちこそ、力になってやれなくてごめんな。他にも困ったこととかあったら、いつでも相談に乗るから、また育て屋に来てほしい」
「あぁ、またいずれね」
そう言ってスイセンは、僕に背中を向けた。
そのまま通りの奥まで歩いて行き、曲がり角のところでおもむろにこちらを振り返る。
最後に彼は別れの手を振ると、角を曲がって住宅区の奥に姿を消した。
その後ろ姿を、とても複雑な思いで見送った僕は、しばし玄関前で立ち尽くして夜空を見上げる。
やがて背筋を撫でられるように夜風に当てられて、僕は逃げるようにして家の中に入った。
直後、言い知れぬ無力感と罪悪感に襲われる。
「はぁ……」
種に水はやった。
しかしそこから芽が出ることはついぞなかった。
いや、これは僕の水のやり方が悪かったとしか思えない。
そもそも天職を覚醒させるという話が荒唐無稽で、もっと別の方向でスイセンを強くしてあげることだってできたんじゃないのか?
そんなことを言い出したらキリがないし、正解なんて簡単に見つかるはずもないけれど……
『育て屋ロゼの貴重な時間を、“こんな俺”が奪ってしまうのは忍びないんだ』
せめて、スイセンのあの自信のなさだけでも取り払ってあげられたらよかったな。
天職が覚醒するかしないかにかかわらず、スイセンがずっとあの調子なのは、さすがに似合わないと思うから。
「…………僕でも、強くしてあげられない人がいるんだな」
僕は倒れ込むように椅子に腰を落として、天井を仰いでため息を漏らした。
ふつふつと湧いてくる悔しさに、僕は人知れず歯を食いしばる。
僕は、育て屋として、初めての“挫折”を味わったのだった。
ロゼには申し訳ないことをしたと思っている。
あそこまで献身的に手を貸してくれたというのに、まったく成果を残すことができなかったのだから。
あの優しい気持ちに応えられなかったのが、ひどく悔しい。
「……っ!」
スイセンは悔しさを抱えながら、育て屋を立ち去ったその足でギルドに向かっていた。
特に深い理由はない。
ただ、なんとなくそうしたいと思っただけだ。
今はただ、想い人であるアリウムの顔を見たいと、そう思っただけ。
『育て屋のロゼに成長を手助けしてもらって、アリウム氏よりも強くなりたいんだよ』
その思いで、勇気を振り絞って育て屋を訪ねてみたけれど、結局自分の才能がないせいで願いは叶わなかった。
噂に聞く育て屋ならば、なんとかしてくれると思ったのが“甘え”だったのかもしれない。
実際、育て屋ロゼは冒険者育成の達人だった。
豊富な知識、育成に適した能力、何より困っている人に手を差し伸べる思いやり。
あれほどの人物に見てもらったのにもかかわらず、ほとんど成長することができなかったのは疑いの余地なく自分のせいである。
せめてこれが原因で、ロゼが自信を喪失していないといいなと願うばかりだ。
「……いいや、俺じゃあるまいしな」
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか西区のギルド前まで辿り着いていた。
入ろうとした時、少しだけスイセンは気後れしてしまうが、夜間で人気もあまりないため改めて進んでいく。
特に依頼を受ける気もないのに、窓口の周りをしばらく歩き回って視線を泳がせた。
「……何をしているんだろうな、俺は」
アリウムの顔を見たいと思ったが、これに大した意味なんてない。
胸中でそう思った直後に、すぐに人知れずかぶりを振る。
もしかしたら自分は、これできっちりと“諦め”をつけようとしているのかもしれない。
アリウムへの告白を諦めるために、最後に彼女を見納めて、気持ちを封じ込めようとしているのだ。
自分はきっとこの先、ほとんど強くなることができないだろう。
ロゼには、鍛錬を続けていつか自分の力でアリウムを超えると宣言はしたが、正直そんな自信は毛頭ない。
あの育て屋に二週間以上も面倒を見てもらって、何一つ変わることができなかったのだから。
だというのに自己鍛錬だけでアリウムよりも強くなるなんて、そんなの非現実的な話だ……
「スイセン・プライドではないか」
「――っ!?」
突如後ろから女性の声が聞こえて、スイセンはハッと振り返る。
するとそこには、受付業務の格好をした、見慣れた青髪の女性が立っていた。
凛とした顔立ちに真っ直ぐとした瞳。自分とは正反対に自信に溢れたような雰囲気を感じる。
「しばらくギルドで顔を見ていなかったが、最近の調子はどうかな?」
「ア、アリウム氏……」
片恋相手のアリウム・グロークが、突然目の前に現れて、スイセンは言葉を失った。