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1万光年先から見た異常な愛情  作者: マリア・ラ・コーズ
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老人たちが消えた


 曇りガラスは、青い空や新緑の森を拒絶するように、薄白く、弱々しい光しか通さない。主をなくした蜘蛛の巣が、天井の隅や幾つかの窓枠に張り付いている。ジョン・モーデンはハンカチを持参し忘れたことを後悔し始めていた。

 五組の粗末な簡易ベッドには黒ずんだシーツや寝具が、無造作に放置されている。窓際のナイトテーブルには、色とりどりの薬剤や酒瓶が散乱し、乾ききった灰皿には無数の黒ずんだタバコが突き刺さっている。手前のベッドのサイドテーブルには、写真が立てかけられている。暖炉手前でたたずみながら、誰もが笑顔を浮かべる家族写真。右側にはクリスマスツリー、そして包装されたプレゼントの山。さしずめ、中央に座る初老の男がこのベッドの主だろう。結婚し、子供ができ、子供が結婚し、孫ができ、みんな笑顔で写真に納まり、そして遂に彼は汚物にまみれる生活を手に入れたのだ。

 写真の隣には黒ずんだ入れ歯や薬剤が散乱し、ベッドの下を覗くと、汚物にまみれた簡易トイレが放置されていた。床という床には、ぼろ布と化した下着やガウン、黒くくすんだスリッパやくたびれた杖、汚物が付着するオムツなどが散乱していた。

 彼は室内隅の黒ずんだトイレに目線を向け、さらにシモーヌ・コカールに視線を向けた。そして「彼らはそこまで行く必要はなかったはずだ。彼らは汚物にまみれて、寝ていたのさ」と言った。彼女はそれには答えず、寝室の壁にもたれるように静止する清掃アンドロイドを調べている。それはかなり以前に本来の活動をやめたことは明らかだった。手前には、つい最近まで稼動していたと思われる調理配膳専用ロイドが横たわっている。ブロンドの分け目から端正な顔と額に刻み込まれた銃創が見て取れた。室内には消毒液と、汚物の入り混じった臭気が満ちていた。

 ジョンはブロンドの頭部を持ち上げ、銃創を覗き込んだ。そして「軍用だな」と言った。

「しかも、古風な二十五口径」とシモーヌが言った。

「差し当たり、ここの入所者の誰かが退役軍人かなにかだったのだろうよ」

「残念ながら記録上は該当者なしよ」

「祖父さんとかが―軍人だったとか」

「でも、なぜ調理ロイドを?」

「食い物ばかり運んできたらここはどうなる?」

「―――」

「糞だらけになってしまう」

「だから、ブロンドを? ばかばかしい」

 シモーヌは肩をすくめ、ホルダーからセンサー感知器を取り出し、室内に赤外線を照射しはじめた。彼は「何も出てこないさ。捜査員がすでにいじくり回した後だもの」と言ったが、彼女はそれを無視して、作業を続けた。そして、「この有様を見た親族の誰かが、逆上したとかは?」と言った。

「それはないさ」

「なぜ?」

「そもそも家族に見放されていなかったら、こういう状態になるかね。しかも、そうだとしたらこんな施設には入れないよ」

 彼女は肩をすくめて、隣接するコミュニティールームに消えていった。

 彼は室内の窓際に歩み寄り、窓を開けようと、開閉式の取手に手をかけたが、シモーヌが何度か試みようとして、むせ返りながらも思いとどまった姿を思い出し、手を離した。

 ここの入所者以外にも、この臭気を好むものたちは、森の中に五万といるはずだ。彼らは子孫を残そうと、この部屋に大挙して侵入してくるだろう。正常な人間ですら、ここに閉じ込められたら、この臭気を好きにならずにいられない。

 ジョンは今一度、室内を見回した。陽が傾き、徐々に人類最後のパラダイスが、その全貌をあらわにしようとしていた。北半球の都市ならどこにでもありそうな定番の粗末な高齢者施設の一室。全人類の誰もが少なからず最後にはこういう所に行き着くのだ。ジョンは、ただ一箇所だけ間仕切りで仕切られた窓際のベッドに視線を向けた。この室内でただ一人の女性入所者、ミス・マーガレットのベッドだ。

 西日の中で最初に現れたのはミス・マーガレットだった。

 簡易郵便局の二階の居間で、若いマーガレットは手首にはめた腕時計を見上げている。白く透き通った肌である。当時はまだ。

 クラシックなフレアードのケースフォルムがなぜか彼女の心をくすぐるのだ。

 そっと、ピンクゴールドのケースからワインカラーのベルト―彼女はクロコダイルのベティーロードと推測していたが―を指でなぞる。彼女は思う。この場合の思うとはアラビア数字を移動する指針や機能ではなく、その時計がはめられるべき腕の主、とりわけ、資格、そしてその場所や境遇なのである。

 彼女は考える。この時計にふさわしい場所は―と。洗礼された都市、都市といっても、誕生日やハロウィン、例えばクリスマスなど、呪いめいた節目に家族そろって買物に出向く、十数キロ先の街ではなく、この島のどんな都市でもない。

 この太古のパテックフィリップにふさわしいのは、決まって、1930年代にこの時計が製作された国の隣国、取り分け、ちょっとした機会に映画などで何度か見かけたことがある、欧州の首都、しかも、当時としては自分の同級生や島に住む多くのティーンエージャーにとって、憧れや羨望ですら回避してしまいそうなアパルトメンが立ち並ぶ、石畳―そして古風なモニュメントが立ち並ぶ―そのような町並みなのである。

 少なくとも、当時のマーガレットはそうした羨望の類を、ささやかな自尊心を、さらにはいずれこの荒涼とした土地を出て行く権利みたいなものを、この時計の所有者として独占していた―という気持ちに彼女はなっていたことだろう。

 サイドテーブルには、赤と青を一ひねりしたような花瓶が置かれ、花は朽ち果てていた。その横には古風な腕時計と、大容量のメモリアルホルダーが取り残されていた。彼は腕時計を手に取った。

 彼女のメモリアルによると、この時計の持ち主である女性は、かつてこの島の最北端から海側を少し南下した、住んでいる人間以外ならまったく新しい粗末な未完成の町と表現しそうな寒村に、起業家として移住した男の妻であり、祖父の妻であり、マーガレットの祖母であった。

 祖母の腕時計がマーガレットの所有物になった経緯には、いくつかの幸運が関与している。

 従妹のメリエルが「そんな辛気臭い時計なんかいらないわ」と言って相続権を早々と放棄してしまったことや、「そんなに気に入っているなら、マーガレットに譲るしかないだろう」という祖父の言葉によってである。

 そしてもっとも大きな要因としては、周囲の大人たちを含めて、幸いにもこの時計の価値を知る者がほとんどいなかったことだ。この腕時計を巡っては、相続権を主張できそうな者はマーガレットの実母を含めて何人かいたが、だれもが気にも掛けなかった。それよりも時計そのものを無視していたように感じられた。なにか腫れ物にでも触るように、時計の本来の主のことや、ここにある経緯については誰もが口をつぐんでいるように思えたのだった。権利を主張したのは、時計の第一発見者であるマーガレット、ただ一人であっただけのことだ。

 ジョンは腕時計を見つめ、「さあ、マーガレット―教えてくれ―君の書き残した記憶の最後に登場するクック船長とは何者なのだ」と言った。



                    ◇         



 アヤカ・ラ・コールは相変わらず、斜め上空を見詰めている。

 雲ひとつないコバルトブルーの空には月が浮かんでいる。彼は、彼女のこうしたしぐさをよく目にすることがある。視線の先は決まって星座、例えば、カシオペア座だったり、北極星だったり、白鳥座だったりした。そして、いまは白昼の月なのだ。

 彼女のグリーンの目から侵入した星座の輝き―それは彼女に何を啓示するのだろうか。

 ただそこにあるものとしての情報? 距離? 時間? それとも存在意義? 

 いずれにしても、そんなことはどうでもいいことなのだ。ばかげたことだ。彼女が星座から啓示を受けるなどということは―。

 ただ、そうした時の彼女に話しかけることは、なぜかはばかれた。たとえ話しかけたところで、その美しい口元からは、愛などという方面からすると好ましくはない情報、精巧な言語が発せられるだけなのだ。

 星座に注視する彼女の動機―それ自体になにか神秘的なものを感じはしたが、彼にとって、星々と会話する彼女の姿、それこそがただ単純に神秘的な現象に思えるのだ。何か秘密が隠されているような―捉えがたいものとして。

 アリストテレスA26は低い電子音を唸らせて、古代の街道を北上した。メガロポリスの居住区を出て、既に三時間が過ぎようとしていた。彼は彼女から視線を外し、操縦を手動に切り替えると、さらに速度を上げ、フロントガラスに流れる風景に集中した。月は視界から消え、彼女は何の変哲もない前方に向き直った。

 アヤカ・ラ・コールは当初、サーベルホークの使用を提案した。1000㌔の距離など、一時間の飛行でことが足りる。しかも、巨大低気圧が過ぎ去った後の地上はリスクが高いとも主張した。しかし、彼はパルスモーターでの移動を譲らなかったのだ。

 二人を乗せたパルスモーターは広大な樹海ロードを抜け、今は荒涼とした積雪寒冷地の草原道を疾走していた。街道沿いに点在する幾つかの粗末な居住区が車窓に流れていく。地平線上には、忘却の彼方に置き去りにされた幾つかの地方都市が蜃気楼のように浮かび上がっている。

 車内には古風なオペラが流れている。救世主の母親に関する音階が、今世紀が生んだ偉大なテノール歌手の声帯を通して、車外の荒涼とした原野と忘却に溶け合い、語られていた。彼は南半球で起こった出来事や北半球の国々で起きているいくつかの身の毛もよだつような出来事―、さらには、異常気象や地殻変動といった反人類的なことでもいいのだが、そうした出来事についてのパロディーには飽き飽きしていた。だからいつもオペラなのだ。ただし、今の彼を悩ませていたのは、そうした人類的なことではなく、彼女の、アヤカ・ラ・コールの非難めいた雰囲気だった。

「まだ、モーターで来たことを怒っているのかい」

「800ヘストパスカルの低気圧が過ぎた直後の地上よ」

「たまにはいいよな。こんなドライブも」

「気は確か? 時速300キロで倒木に激突なんて勘弁願いたいわね。テロリストだってどこにいるか分かったものじゃない」

「君でも恐怖を感じることがあるんだ」

「ベルナール・アヴェナリウス―あなたが運転しているのよ。私ではなくて―」

「君に操縦を任せたいのは山々だが、こうしたスリルも楽しまないとね。時間は有り余っていることだし」

「理解できないわね。そのわけの分からない音楽も―」

 ベルナールは操縦を自動に戻し、肩をすくめると、「はいはい、ラ・コール嬢の仰せのとおりに」と言った。

 遥か上空には白銀の糸のようにコンテナトレインの連なりが輝いている。

 二度と宇宙に舞い戻ることがない資源の供給トレイン。月や幾つかの惑星の資源は僕たちの価値観を紙くずのようにしてしまったのだ。あるものたちにとっては有り余る自由と権利として。さらに、ある者たちにとっては、取り返しのつかない貧困の連鎖として―。

 彼は、遥か過去に意味をなくした原野や、貧困者の居住区の連なりに目線を戻し、さらには「君は時々、星々を見詰めていることがあるよね?」と言った。

 彼女はそれについては何も答えなかった。代わりにこう言ったのだ。「後方から急接近する車両確認」と。彼は車内のホログラムに視線を落とした。

「僕たち以外にもリスクを味わいたい人間がいるということさ」と言って、リアルな地形図上を移動する点を見つめ、ラ・コールの顔を覗き込んだ。彼女のグリーンの瞳は前方に向けられたままだ。彼女は変化したのだ。好ましくない情報、警告、確率、その先に想定される現実を捉える者に。

「パルスモーターかな?」

「確認中。時速512キロ」

「なんだって!」

「あと23秒で遭遇」

「ばかな! この古代の街道を―そんなスピードで」

「来たわ」

 ベルナールはバックモニターやホログラムではなく、自ら後方を振り返った。

 移動物体は減速しながら急速に接近してくる。そして、それは威圧するように背後にぴたりとつけた。フロントガラスは黒いシールドで覆われ、操縦者は確認できない。ホログラムが示す車間距離は50㌢で止まっている。それは併走というよりも、牽制だった。

 アヤカ・ラ・コールは自分に操縦を任せるか、上空への回避を提案したが、ベルナールはいずれも拒否した。そして彼は自ら操縦かんを握った。「それは正しい選択ではないわ」と言う彼女の言葉を無視して電子音を唸らせた。

 道路は線と化した。

 車内は警戒音と空気の摩擦音に支配され、モーターは直進、蛇行を繰り返した。例え障害物があったとしても上空への回避モードは限界に達しようとしていた。

 ラ・コールは「時速600㌔」と告げた。金属音のように冷たい、冷静な声だった。

 彼は奇声を上げてさらに出力を上げた。追跡物体を振り切ろうとする彼の顔は笑っていた。ただ、追尾車は車間距離50㌢を保ったまま、併走し続けた。そして、追尾車は後方モニターから消えた。

「横に来るわよ」と言って彼女はガントリー銃を取り出した。

「一体、何を?」

「破壊するわ」

「待てよ。これはゲームだ。ただの遊びだよ」

「ゲームである確率は?」

 アヤカ・ラ・コールは側面のシールドをオフにする。そして、並走する車両に銃口を向けた。安全装置を解除する金属音が車内に響く。並走車は既に側面シールドを下ろしていた。彼はサイドレバーに手をかけた。赤毛、ブルーの網膜、若い女―そうした情報とともに、彼はモーターを一気に上昇させた。ラ・コールには何の躊躇もなかった。彼女の放ったエネルギーの集束体は空中に拡散していった。追尾車はいまや遥かかなたを走行している。ホログラムは時速700㌔を示していた。空中に上がったモーターなど、それに比べたらロバ同然だった。

 彼は操縦を自動に戻し、彼女の顔を見詰めながら「気は確かかい?」と言った。

 ラ・コールはガントリー銃をサイドボードに納めると、地上に視線を落として「人間の操縦の限界に近づいていたわ」と囁いた。

「だからって、撃つなんて」

「彼女の操縦は人間のものではないわ。そして、言わせてもらえば、あなたの咄嗟の上昇も織り込み済みよ」

「操縦者はレプリカント?」

「いえ。網膜は人間のもの。ただ、メガロポリスの居住者ではないし、その他のものでもない。どこにもデータはないわ。モーターの情報も―」

「どこのだれかも分からない若い女が、あんな高級車を、しかも、人間業とは思えないような能力で、乗り回しているとでも?」

「どうでもいいわ。地上に戻りましょう。目的地まで後五分よ。私が操縦すればという話だけど」

 ベルナールがモーターを地上に戻すと、彼女はかすかに失笑し、操縦かんを握った。そして「さて、時速七百キロで行こうかしら」と言って、草原に侵入した。

 彼はそれには答えずに、ホログラムに目線を落とす。点滅は既にどこにもなかった。赤毛、青い目、確かに白人の若い女だった。目は、目はどうだったのか。赤い口元は。青い目は僕の目をのぞきこんでいなかったのか。なぜ、あのような無謀なことを。ただの偶然? 遊び? それとも―。

 ブルーの瞳が脳裏をよぎる。コンマ数秒のブルー。車窓は草原や森林地帯の連なりを映し出している。遥か過去の古戦場は静まり返り、非効率な武器の残骸がいたるところで復活の時を待つかのように、原野に哀れみの影を投げかけている。真紅の唇―放射線で保存された忘却の台地に浮かび上がる肩までの赤毛。彼女の顔の造型は、いや、造型どころか、確かに僕を見つめて笑みを浮かべていたはずだ。

 そんなベルナールの疑念を見透かして、アヤカが口を開く。「あれは遊びなんかではないわ。意図的なものよ」と。

「意図的?」

「そう」

「なぜ、君はそんなことが言えるんだい?」

 モーターがゆっくりと減速する。しばらくするとモーターは街道から逸れ、ゆっくりと森林に覆われた前方の丘陵地に向かう。「座標43・756661、142・397116。サウスリバーの目的地よ」。そう言うと彼女は手前のホログラムに手を差し伸べる。同時にモーター内には重い空気圧音が響き渡った。ベルナールは上空に放たれたアウスランダーを見上げながら「アヤカ、はぐらかさないでくれよ」と言った。彼女はアウスランダーから送られるデーターを見つめる。

「彼女もこちらに照射したのよ」

「何を?」

「レーザー」

「なんだって。なぜ、僕らの情報を―」

「さあ。反社会勢力かもね」

「そうであったとしても、とんだ的外れだ。僕らの情報など、この世界のどこにも存在していないからね。照合しようがない」

「いいえ、彼女は貴重な情報を得たのよ。私たちの情報がないという。そんなどこの誰とも知れぬ男女が、あなたの言葉を借りれば、高級車を乗り回し、軍用のガントリー銃をぶっ放した―とかいう風に―」

 



                      ◇



 マーガレットの枕元にクック船長が初めて現れたのは、満月に至る前日―サウスヒール郊外のアール研究所が跡形もなく蒸発した夜だ。爆発現場に向かう車内でシモーヌが「明日は満月ね」とつぶやいたのをジョンは覚えている。

 扉を開けると地下室へ向かう階段が現れた。ジョンはサーチライトを片手に階段を下っていく。地下室にはボイラー設備があるはずだが、いまは静まり返り、暗闇に油の臭いが漂っている。彼は慎重な足取りで暗闇の中に進入して行った。

 「遥か過去―東洋のどこかの国では、満月の夜に枯れたススキと穀物の粉を丸めたものをお供えにしたのよ」。シモーヌの言葉が脳裏をかすめる。――確かそのようなことを言っていたはずだ――あの惨状を目前にして―ただ、どういう経緯でそのような話になったのかは定かではない。ジョンはボイラー室や機械室をやり過ごして地下通路を奥に進む。そして、ある扉の前で立ち止まった。サーチライトで扉を照らす。古い木製のプレートがかけられた重層なドア。

それは「ハロー、夢の大航海に」と語っていた。

 「―すごい―光景ね」とシモーヌがつぶやく。爆発現場は溶鉱炉さながらだった。巨大な施設の残骸に青白い炎が覆いかぶさり、さらに、溶解を繰り返していた。マイクロ波を受信する増殖炉が暴走し、あらゆるものを焼き尽くしたのだ。

 エネルギーの供給を遮断しない限り、半径二㌔の以内に立ち入る生物は全て内側から沸騰し、破裂し、蒸発することは明らかだった。

「施設には何人が?」とジョンが言った。当局の男は「そんなこと、知ったことか!」と言ったが、「今日は七面鳥を食う日だ。みんな自宅でこの光景を見ているだろうよ」ときびすを返した。遠くで当局の一人が「早く電力を遮断しろ」と叫んでいた。

 ジョンがドアを開けると同時に赤い室内灯が灯った。彼はセンサー感知機を覗き込む。モニターには150平方メートルという数値が刻まれている。

 彼は再びサーチライトで周囲を照らす。部屋の奥に古風な自働発電機、中央には一卓の机が設置されている。壁という壁には棚が回され、幾つものダンボールが積み上げられている。彼はゆっくりと壁伝いに歩く。サーチライトはダンボール内の穀物や小麦粉、調味料の数々を照らし出す。全てがカビだらけだ。別の棚には真新しいシーツ、リネン類が並ぶ。彼はその幾つかを手に取り、また、別の棚に移る。やがて彼は机の前で立ち止まる。

 机の上には、古く痛んだ書籍と、サーチライトを反射する金属片が浮かび上がる。それが四千年前に貼り付けにされた男の顔だと分かった、そのとき、背後で「全灯!」という声が響き渡り、室内が一斉に輝き出した

 彼は慌てて後方を振り向く。「貯蔵倉庫ね。室温21度、湿度41パーセント。管理センサーは故障中」。シモーヌはそう言うと、ジョンの傍らをすり抜けて室内を見回す。ジョンなど、ここに存在していないとでもいうように。

「脅かすなよ」

「あら、ごめんなさい。明るいほうが健康的じゃない――」

 彼女はバックから感知器を取り出し、棚にレーザーを照射し始める。ジョンは彼女の背中を見つめる。シモーヌはジョンがこれまで見たこともなかったベージュの麻のワンピースを着ていた。肩には最先端のテクノロジーが詰め込まれた黒いショルダーバックがかけられている。

「君もそのような格好をするんだね」

「例えば?」

「いつもならシルクのジャケットに黒いスラックス―懐には超高速ハンドガンというのが定番と思ってね。ところで今日、デート?」

「おあにいくさまね―ジョン。今後も予定はないわ」

「もったいない」

「それ、社交辞令のつもり?」

「―――」

 グリーンの髪は、いつもなら、ひとまとめに結んでいるのに、今日は肩までたらしている。

「やっぱりデートなんだ」

「ジョン。あなたとではないことは確かよ」

 八十代の女性にしてみたら、引き締まった上品な体つきだ。二人はプライベートでの付き合いはなかったが、ジョンは彼女から漂うパヒュームの香りが好きだった。

 彼女がレーザー感知器や当局にあらかじめ登録している香りの正体は「アルケミラモリス」であることをジョンは密かに、その筋から聞き及んでいた。「今では砂漠になってしまった国々の言語では『錬金術』を意味するのさ。あの女は僕たちにさまざまなことを想像させるが、まさに、錬金術みたいな女だと思わないかい? 想像する産物ときたら、まるで糞みたいなものばかりだ」。ジョンは同僚のロバート・モディアノの言葉を思い描きながら、シモーヌの見事な腰のくびれ、さらにはグリーンのカールから見え隠れする首筋を見つめ、「銃ホルダーは太ももかい?」と言った。

 シモーヌは肩をすくめ、彼のほうを振り向くと「ジョン」とトーンを上げて言った。ただ、彼の大方の予想に反して―いい加減にして―とは言わなかった。シモーヌはこう言ったのだ。「この部屋―なにか変よ」と。月面のような、ブルーの眼球が彼を捉える。彼は彼女の次の言葉を待った。予期せぬ期待―不都合な情報を。

「空調ダクトの吸排気口がないのよ。貯蔵庫だというのに―」

「設計者が付け忘れた?」

「そんな馬鹿な―だとしたら、食料品は全てカビだらけよ」

「道理でダンボールの中身はカビだらけのはずだ」と、十字架の男を見つめながらジョンがシモーヌの次の言葉を待つ。彼女はモニターの数値を見つめる。そして、ジョンのほうに振り向く。ある結論に達したような目がジョンの目を捉える。赤い口元は「他のものと比べて、こっち側の壁の劣化が五十年新しいわ」と言った。

「つまり?」

「この壁の向うに、別の部屋があるわ」

 ジョンはもう一度、「つまり」と言った。「僕たちは壁の向うの部屋である物を発見して、この退屈な失踪事件から解放されるわけだ」

 彼女はジョンの言葉を無視して、壁伝いにレーザーを照射する。そしてある一点に目線がとまる。

「みんなあちらのことで、てんやわんやだというのに、なぜ、僕らだけ老人たちの失踪事件なんだい」

 シモーヌの頬が壁に接近する。

 直径一㌢の穴の向うに暗闇が広がる。

 穴から漂う微風が彼女の頬をなでる。

「大方、クック船長と名乗る気のふれた野郎が、老人たちの望みをかなえにやってきた―といったことだろう。十字架を手に、汝らをこの苦難から解放してあげようといった具合に」

 シモーヌはバックからボアスコープを取り出す。

「シモーヌ、やめようぜ。ここからは鑑識の仕事だ」

 彼女はかまわずにチューブを感知器に接続し、暗闇に差し込んでいく。シモーヌはひどく横柄になるときがある。こうしたときの彼女はまったくジョンの声に耳を貸さなかった。

 ジョンは机の上の十字架を手に取ろうとしたが、思いとどまった。彼女の探索の結果如何では、重要な証拠になる可能性も捨てきれない。

――ハロー、夢の大航海に――

「とんだ、天国への大航海だ」というジョンの独り言に、シモーヌの背中は微動だにしない。

 ただ、ジョンは自分の推察に自信が持てずにいた。手際がよいばかりか、非常に手が込みすぎている。

 船長はある日、この施設を訪れ、警備ロイドや清掃、調理配膳ロイドを瞬間的に始末し、あらゆるセンサーやデーター、通信の類を無効化したのだ。ようするに、世界から施設を孤立させたのだが、その上でコントロールセンターや監視センターには、偽の情報を流し続ける手の込んだアプローチを行っていた。

 何のために? 

 しかも、地下貯蔵庫に大掛かりな壁を―

「壁の向うの匂いは嗅ぎたくないものだな。僕なら森に埋めてしまうか、放置するがね―」

 このときばかりは、シモーヌも彼の方に振り向いた。

 ジョンは「効率の話だよ―例えばの―」と言いつくろったが、彼女は「そうではないの、ジョン。これを見て」と言った。彼女はディスプレイをジョンに差し出す。三日前まで彼女の指にはめられていた指輪はどこにもなかった。ジョンは彼女の指、胸元、ブルーの目元へと視線を移し、何だそこにあったのか―とでもいった表情でディスプレイを覗き込む。

「これはいったい?」

「納骨堂でないことは確かね」

「ここで何を?」

「工作班が必要ね」

 彼女と彼はしばらくの間、お互いの目元を見つめた。シモーヌはそのまま、穴からチューブを抜き取った。先端の光源が彼らの顔を青白く光らせる。彼らの背後では、停止しているはずの監視センサーの一つが一瞬、赤い目を光らせた。

 物質の振動は全て止まったというのに、いたるところで炎が勢いを増していた。ジョンは幾つもの巨大な電波塔に支えられている受波盤を見上げる。幾つかの中継地を経由して、地球の反対側から送られてくる巨大なマイクロ波の供給は既に止まっているように見えた。救護班や消化班があわただしく行き交う。「生存者は期待できないわね」とシモーヌが言った。それがあまりにも冷静な声だったので、ジョンは幾分、驚いたが、上空を飛び交うホーバークラフトのサーチライトを見つめ、「ということは、長引くということさ」と言った。

 シモーヌはジョンの目元を見つめる。「生体モニター、それも、血中パルスメータやデフィブリメーター、脳波トレンドプログラムも内蔵されているわ。ちょっとしたICUね」。シモーヌはそう言うと、机の十字架を見つめる。「脳波分析装置に電位検査装置、超音波診断装置、いずれも最新。ここで病院経営を?」

 ジョンは肩をすくめ、十字架を拾い上げる。「さすがに医学の博士号を持つだけあるね」とシモーヌの背中を見つめる。

 監視センサーの赤が消えた。

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