前編
その少女は《天国への階段》(エンジェル・ラダー)を登っていた。
エンジェル・ラダーといえば、和訳すれば天使の梯子で、一般的には、薄明光線と呼ばれる。
薄明光線とか言われても、なんのこっちゃだ。
まだしもスペシウム光線の方がわかる。
薄明光線というのは要するに、雲の隙間から差し込んでくる太陽光のことを言うのだ。
放射状に差し込む光が神々しく美しいその光景を、写真でなら見た人も多いことだろう。
ちなみに、薄明光線はレンブラント光線とも呼ばれる。
レンブラント光線と天使の梯子ね。
何だか、受けるイメージが大きく違うなあ。
レンブラント光線と聞くと、俺はどっちかっていうと、響きとして『レントゲン』に近いというか、外科手術に関係する単語なんじゃないか、と思えるのだけれど。
皆さんは、なぜ薄明光線がレンブラント光線と呼ばれるのか、知っているだろうか。
俺は架空の脳内観客に語り掛けながら考え続ける(ちなみにこれは友達がいない人間には必須のスキル)。
『レンブラント』と『レントゲン』が似ていると思ったのも当然だ――どっちも由来が同じだから。
どちらも人名なのだ。
レンブラント光線の方は、レンブラント・ファン・レインという、なんかカッコいい名前の画家が由来になっているそうだ。
レンブラントは、この光を、絵画上の表現として、創作に取り込んだというワケだ。
ちなみに、単純に『光芒』とも言うらしい。
なんかそれはそれで、スゴいカッコいいよなぁ――『光芒の魔術師』とか、カードゲームとかでいそう。
ちなみに、以上の知識はウィキペディアにすべて書いてある。
ウィキペディアで検索――これもぼっちには必須のスキルである。
知識が豊富な友人がいる気分になれるぞ!
ついつい思考が脱線してしまうが、俺はその少女を、もう数時間もぶっ続けで眺め続けているので、それはとても重要な存在なんだけれど、半ば背景と化しているような、そんな現象が起きていた。
外にいる時に、音楽を掛けっぱなしにしているみたいなものかもしれない。
俺はもう一度、少女に目を戻した。意識を集中した。
《天国の階段》は、ここでは実際の薄明光線とは違うカタチとして、造形されていた。
それは本当に階段なのだ。
支柱のない螺旋階段。一段一段が宙に浮いているという、非現実的な建築。
白くて薄くて透けているそれらは、何だかピアノの鍵盤のようにも見えて――それを少女が駆け上る中で、ステキな音楽が響き渡りそうな気がする。
それはどんな音楽なんだろう。
うっとりと、俺はそれを想像する。
雑念を排除して、幻想的な世界に浸る。
少女のいる世界は、あまりにも儚げで、美しく――現実から乖離している、切り取られたモノのように見えた。
美しく雪が舞い散り、白銀に彩られた世界。緑と赤と電飾で飾られた街並み。
少女の背中からは、白い翼が生えている。
しかし、その服装は純白のマフラー、真紅のセーター、漆黒のスカート、黒ストッキングと、完全に現実世界のシロモノである。
なので、少女は今まさに、現実とか天上に飛び立とうとしているように見える。
彼女は天国に行くのだろうか? それは今から死ぬことの比喩なのか?
それともかぐや姫のように、元々天上の世界の存在であり――元天使であり、今は帰路を行っているのだろうか。
なぜ、彼女は帰るのだろう?
それは彼女にとって、嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのか……。
俺は、少女を見ているだけで、自分の頭の中から、無限の想像が湧き上がってくる気がした。
少女との出逢いが――俺を変えたのだ。
彼女を見ているだけで、俺は主人公になれる。
彼女を見ているだけで、俺はこれまで一度も書いたことのない、小説が書ける気がした。
その時、俺と彼女の時間を掻き乱す、無粋な音声がこの部屋にも飛び込んできた。
「ジングルベール、ジングルベール、鈴が鳴る~」
世が世なら、そして俺が引っ込み思案な引きこもりでなければ、『鈴なんか鳴らしてんじゃねぇええええええ!!』と大声で叫び返しても致し方ないような、そんな歌声である。
歌っているのは無邪気な子供かなんかだろう。
雪が降っているから浮かれているんだろうか……雪ではしゃぐとか、犬かよ! 庭を駆けまわっているんじゃねぇよ……現実の厳しさをお前は知らないだろうな……俺が教えてやろうか!!
と、激情に駆られてしまい、そして俺は自分のしょっぱい現実に引き戻されてしまった。
「クリスマス、ホント死んでください……」
俺が実際に口にしたのは、そんなボソボソとした、病人のような息遣いの言葉に過ぎなかった。
クリスマスは恋人と性の聖夜とかホント都市伝説ですよね……お願いですよ、お願いしますから、俺が恋人がいないのは仕方ないにしても、俺以外の人類がその幸せを享受するのは我慢なりません、どうか、どうかなにとぞ神様、そいつら全員に神の炎を降らせてください……ホント、やっちゃっていいんで。
まぁ、ただでさえ少子化とかなんとか言われているのに、クリスマスにイチャイチャするようなリア充を全員やっちゃったら、今度こそ日本が滅ぶかもしれないけれどな……。
俺の知ったことかよ。
偽悪的に思考してから、いやいや、と俺は気を取り直す。
三次元のことなんてどうでもいいじゃないか……、二次元こそ至高なんだよ。
俺はもう一度、純銀の世界で《天国への階段》を登る、美少女イラストポスターに目を移し、なむなむと拝み始めた。
「ありがてぇ……ありがてえよ……」
宗教的にはなにか色々混ざっている気がするけれど、日本って元々そんな感じだし。
惜しむらくは、このポスターがクリスマス仕様だっていうことだよな……いや、だからこそいいのか。
俺はこの娘とクリスマスを過ごしているんだ! そう思い込め……。
いや、ムリだ……明らかに彼女は天上に帰ろうとしているしさ! もっとこう、イチャイチャしている雰囲気を醸し出せなかったのかな、クリスマスイベントポスターなら! なんかこう、画面に顔を寄せているように見える構図とかさあ! シロハネ先生、ホントにお願いしますよ――まぁ、シロハネ先生には、そんな媚びたモノを描いてもらいたくはないという思いもあり、若干ファン心は複雑ですけどね、先生……。
ちなみにそうだよ! 遅ればせながら俺の脳内の観客にも解説をするとすれば、俺が冒頭から見ていたのはこの美少女イラストだよ! 萌え萌えっていうよりは美麗系だよ!!
『現実から乖離した、切り取られたモノに見える』っていうよりはそのモノだよ! 実際に三次元から乖離した二次元だし、ちゃんと切り取られて端があるよ! A2サイズだよ!!
それにしても、やっぱり三次元より二次元だよな……しかし、俺は一般的に言われるような理由で、二次元の方が良いと言っているワケではないのだ!!
彼女が永遠に老いず、美しいから、可愛いから好きなんじゃないんだ……。
それは重要な要素の一つかもしれないけれど、現実でもアイドルとかにそんなに興味を持てないし――もし何かの間違いで、俺に彼女ができたとしても、俺はその基準を『顔の可愛さ』ではなく『話が合うか』に置くだろうと思う。
二次元の美少女が、素晴らしいのは、『現実ではありえない物語を伴った存在だから』というのが大きいと思う。
しかし、必ずしもライトノベルや、アニメや、マンガのように原作が付随していなくたっていいのだ。
シロハネ先生のこの作品は、オリジナル作品だけれど、そのシチュエーションによって、俺に凄まじい創造欲を掻き立ててくれる。
いや、ただ妄想しているだけなんだけれどね……。
俺、この作品をネタに、小説を書いてみたかったな。
残念なことに、小さな頃から、あまり文才というモノには恵まれなかった。
もちろん、それはイイワケなのかもしれないが……。
いつか、ライトノベルの大賞に選ばれ、シロハネ先生の挿絵と共に物語を綴れたら――それが俺の夢だった。
だけど、それは見果てぬ夢になった。
でも、それはしょうがないことなのだ――俺は、シロハネ先生のイラストから、とうとう目を離すと、机に向き合って座った。
部屋の中央にある、小さな低い丸テーブルだ。
ただ、ぼうっとして、手を動かす。
作業内容について、あまり深く考えないようにした。
手を動かせば終わるし、それだけの話だ。
しばらく時間が経過すると、それは完成した。
俺は特に読み直すことはしなかった。
さて、そろそろ出かけるとしよう。
俺は――シロハネ先生に会いに行くんだ。
アポイントは取っていなかったし、多分、当然のように会えることはないんだろう。
もしかしたら、建物の前でウロウロしているところを通報されて、警察に捕まってしまうかもしれない。
それでもまぁ……いいや。
俺は多分、頭がおかしくなっているんだろう。
それでも、俺は今日この日に、シロハネ先生の仕事場まで行くことを決めていた。
そして、この聖夜に――俺はシロハネ先生に告白するのだ!
あんな美少女イラストを描く先生が、美少女ではないはずがないだろうが?!
俺はムリヤリに気分を盛り上げると、支度を済ませて、玄関から外に出た。
外に出る際に、『そういえば、今日は家族、戻ってきてないな……家族皆で、外で飯でも食ってんのか?』というような発想がつい浮かんでしまい、虚しくなった。
そうして、俺は1kの部屋が並ぶアパートを出た。
雪は全ての視界を薄っすらと白く染めていた。
東京では、雪が積もることは珍しい。今回も積もるまではいかないだろう。
俺はあまり情緒的な人間ではないから、イラストではない現実で、雪が散らつき積もる風景を見ても、そこまで感動することはない。
ただ単に『寒くてイヤだ』と思うだけである。
しかし、それでも今日は、少しだけ雪が積もっているといい。
そして、明日にも俺の足音が、地面に残っているといいな。
そんな感傷的な思いを抱きながらも、俺は歩を進める。
残念ながら、電車賃がないので、シロハネ先生の仕事場までは徒歩だ。数時間くらいは掛かるだろう。
でも、大丈夫――きっと、深夜になるまでには着くから。
時刻はまだ夕方。
残念ながら、天使の梯子は拝めそうにない。
空に、あのイラストの中の《天国への階段》が掛かっていたらいいのに、と少しだけ思った。
それを駆け上がるというのも、それはそれで素晴らしい最期だ。
健康のためによく歩くようになったため、経験則として思うのだが、スマートフォンのナビは、電車等を乗り継ぐカタチの、最短距離の検索ならば威力を発揮するが、表示画面の大きさに限界があるために、単純に地図として、徒歩する道先を調べるにはわかりづらい面がある。
俺が方向音痴だからそう思うだけかもしれないが。
だから、今回は俺はシロハネ先生の仕事場への道筋を、パソコンで調べた上で何回も確認し、頭に叩き込んできた。
大体の方角や地理関係は頭に入っているので、多少、道を間違えても修正が効くだろう。
ただ、やっぱり雪の中、傘も差さずに歩いていたからか、歩き出してから二時間も経つと、頭が朦朧としてきた。
俺は、シロハネ先生の仕事場まで、きちんと辿り着けるんだろうか?
思考がうまく定められなくなり、とにかく方角だけは間違えないようにしながら、ただただ足を前に出す。
その単調なリズムの中で、俺はこれまでも何回も思い返してきた『あの場面』を思い出す。
「……時限爆弾式心臓病ですね」
「――はい?」
白を基調とした内装に、無機質な匂いが漂う――そんな病院の一室で、俺は医師にそんな宣告を受けた。
「だから、あなたが今回倒れたのは、時限爆弾式心臓病が大本の原因ということです」
「え……というか、まずなんなんですか? そのナントカ心臓病……? ですか? っていうのは」
「最近増えているんですけれどねぇ……例えば、アレですアレ。例えばドラマなんかで最後の方に登場する、時限爆弾、あるじゃないですか」
「あ、ありますね……?」
「赤を切るか、青を切るのか。あなたならどちらを切りますか?」
「え……? あれ、答えなきゃいけないんですかね、コレ……じゃ、じゃあ青で」
「ドッカーン!!」
「……っぅぇ」
丸い小さな縁なし眼鏡の、どこか可愛らしい印象のある背の低い男性医師は、大げさな身振りでスツールから飛び上がりながら爆発を表現した。
――心臓が止まったらどうする。
いや、というかその表現が、もうシャレにはならない状態に、俺はなってしまっているということなのか?
「実は赤青のコードの下に、白いコードが隠れていたんですね~。残念でした!!」
「…………」
今ならこの医師を殴っても罪に問われない気がしたが、多分気のせいなのでやめておこう。
「だから、時限爆弾なんですよ」
「ええと、ですから、それはなんなんですか……?」
「最近、というかここ数年ですね……めちゃくちゃ、もう爆発的に増えている心臓病なんです」
「いや、一回も聞いたことがないんですが……」
「発症の理由があまりにもバカバカしいのと、誰でも発症するリスクがある病気であるというのが理由で、医師・政府・報道機関等で戒厳令が敷かれていまして。実際に罹患した患者さんにしかこの病気については教えないことになっているんです。あなたにも、後で機密保護のための書類にサインしていただくことになると思うので、そのつもりで」
「は、はあ……」
「では、ザックリとこの心臓病について説明しますね。突然ですが、あなたは12月24日の深夜に死にます」
「――はぁ!?」
「深夜と言うとわかりにくいかもしれませんが、12月24日と12月25日の日付の境目としての深夜0:00ですね。その時刻にあなたは死にます」
「ど、どうしてですか……!?」
「あなた、リア充爆発しろ、とか思ったことはありませんか?」
「うーん……そうですね。恋人もいませんし、普通に思いますよ。恥ずかしながら、よく思う方だと」
「その負のエネルギーが、クリスマス・イブに極限値に達し、リア充ではなくて自分の心臓を爆発させてしまう、と。それが時限爆弾式心臓病です」
「……本気で言っているんですか?」
「そういう説もあるということです。まったくバカバカしい理由だが、説得力はある。それにしても――なんて皮肉なんでしょうね。リア充よ爆発しろと願っておきながら――願っているがために、自らを破裂させてしまうとは。
何たる皮肉!
何たる悲劇!!
非リア充とは悲しい存在なのですね……!!」
と言いつつ、目の前の医師は込み上げる嘲笑的な笑いを止める為に、口を手で抑えているようにしか見えない。
「ちなみにお医者さん、あなたには家族がいますか?」
「いますよ!! 医者は高給取りですからね! ……あ、可愛い娘の写真があるんだけれど、見ます?? 君には縁のない世界だろうからさぁ……」
今ならこの医師を殺しても罪に問われない気がしたので、実行に移そうとしたが、俺はギリギリでそれを踏み留まった。
ああ、何度思い返しても、腸が煮えくり返る――あの医師もふざけているし、病名もふざけている――しかし、一番ふざけているのは、そんなふざけた病気で今、死のうとしている、俺のふざけた人生そのものだ。
俺の朦朧としていた頭が、怒りでスッと晴れた。
身体はとても重たくなってしまっているが、案外目的地までの距離は既に縮まっていた。
時計を見ると家を出てから、四時間以上が経過していた。
そりゃ、これだけ進むワケだよ、と俺は思う。
細かいルート訂正をしながら、一歩一歩、踏み締めるように進む。
もう、三十分以内で、シロハネ先生の仕事場に着く。
そろそろ着くだろうというそんな頃になって、俺の中で、『なんでこんなバカなことをやったんだ』という思いが込み上げてくる。
いっそ、ここら辺でもう倒れて死んでしまおうか。
そうすれば、少なくともシロハネ先生には迷惑が掛からない。
ただ単に、頭のおかしい若者が、道端で凍死しただけで終わる。
それでも、俺は自らのエゴのために、シロハネ先生の仕事場を目指し続けた。
そして、シロハネ先生の仕事場が目に入った時、何回か見たこともあるその建物を見た瞬間に、気が抜けてしまって、俺はその場に倒れ込んだ。
立ち上がろうとするが、もうムリだ。
這いずろうとして、諦めた。
ここが、俺の限界だったってことだ。それは俺に相応しい、人生のオチのように思える。
何で、俺はこんなバカバカしいことをしたのか?
ムリを言ってでも、シロハネ先生にアポイントでも取ればよかったのかもしれない。
倒れて医者に運ばれて、辛うじて残っていた預金もその医療費の支払いですべて尽き、体調の悪化からロクに働けず、もう死を待つだけになった俺。
そんな境遇に、同情や憐憫を抱かせて、特別扱いしてもらえばよかったのかもしれない。
そもそも、徒歩で行く合理的な理由がない。死にかけでそんなことをしたら死ぬだろう。借金でもして、公共交通機関にでも乗ってくればよかった。そのルートだって、頭にはちゃんと入っている。
でも、俺は多分、最後に物語の主人公のように『報われるかどうかすらもわからないギリギリの努力』というモノを、『一世一代の勝負』というモノを、やりたくなってしまったのだろう。
現実で、天上からの女の子と出会うこともない。
創作で、小説を書けるというのでもない。
そんな俺が、何がしかの特別として、現実に爪痕を残そうというのは、やはりただの傲慢だったらしい。
次第に、意識が揺らいでいく。
そして、最期に頭の中が真っ白になって、俺という人間は終わった。
□
シロハネの名で知られるイラストレーターである、大葉揺人が雪に埋もれたその青年に気付いたのは、彼がこの寒空の下、コンビニへの買い出しを済ませた、その帰りであった。
揺人は、はじめそれが信じられなかった。何かマネキンのような人形が転がっているのではないか、と思った。
しかし、そうではない。
ウドの大木に喩えられる、朴訥とした印象の、大柄な男性である彼が、その大きな手を差し伸べると、それは体温がまったく感じられないものの、確かに人間だった。
揺人が脈を取ってみると、脈拍はまったく感じられない。
青年は死んでいた。
揺人は混乱しながらも、人生で初めて、救急車を呼んだ。
受付の相手に、だいぶしどろもどろになりながらも、自宅兼仕事場の住所を告げる。
そして、それを待っている間、揺人は青年の顔を見て、何かに気付いたようだ。
彼は何を考えたのか、ショルダーポーチからミニ色紙を取り出すと、それに絵を描き始めた。
そのイラストは、白いマフラーに真紅のセーターのあの少女が、雪の中で微笑み、手を振っているというモノだった。
彼は自分のサインを入れ、青年の名前も描き入れようとしたが――名前がわからない。
だから、代わりに彼はこんなメッセージを入れた。
それは彼なりの、餞の言葉だった。
流暢な英語の筆記体で、それはサインと共に右端に書かれている――
――『Merry Christmas!』
(終)